新潟県三島郡越路町[こしじまち](現・長岡市)の『越路町史 別編2 民俗』(2001年3月)の記述②です。下線、[ ]は引用者。
田の草取り(『越路町史 別編2 民俗』)
『越路町史 別編2 民俗』 2001年3月
第2部 変貌する暮らし
第2部 変貌する暮らし
第1章 家族の生活誌
第2節 M家の場合 3 農業専一
第2節 M家の場合 3 農業専一
田植えが終わると田の草取りをした。戦前からあった一つ押しのゴロと呼ばれた除草機を用いる以前は、除草はもっぱら手作業であった。田の草取りは、7月の土用五番(夏土用から5日目)頃までで、3、4回、雑草の小さいうちは青田に四つんばいになって取り、泥土を掻き回しながら埋め、4回目頃になると稲の成長も盛んになり、茎先が顔を突くようになるので面をかぶって田に入った。除草にゴロが用いられるようになってからは、真夏の太陽の下で腰をかがめることもなくなり、草取りの能率は向上した。その後、除草に農薬が用いられるようになった。農薬にホリドールを使ったこともあったが、ホリドールは稲が大きくならないと使用できず、農薬散布後は、1週間程度田圃に入ることができなかった。しかし、疲労の激しかった田の草取りが解消され、しかも農薬散布後の1週間は田に入らずに済んだので、身体を休められ喜ばれた。この頃には、Rさんは子どもの頃、蝗の巣拾いを[『越路町史 別編2 民俗』156~157頁の「稲の病害虫」]をし、1升いくらで買い取ってもらったことがあったという。雨の日などには、古川の土手に生えているニオイ菖蒲を採ったり、ヨモギやドクダミを取ったりして、手拭[てぬぐい]で作った袋に詰め、風呂に入れて菖蒲湯をたて、この時ばかりは、女も子どももゆったりと浸かって、身体を伸ばして疲労を取った。一つ押しのゴロは明治末期から大正初期に普及し、田の草取りが楽になった。昭和20年後半には土地改良が始まり、それまでの手取り中心の田の草取りは、除草機を何度も用いるようになり、その上に薬剤散布が行われ始め、二化螟虫駆除を目的としたホリドール散布を行った。こうした農薬散布が行われるまでは、稲の病虫害が多く、二化螟虫や稲虫[いなむし。稲の害虫の総称。ウンカ、ヨコバイ、バッタなど]、蝗[いなご]などの駆除に、藁にお掻きや誘蛾燈の設置、蝗の巣拾いなどをしていた。戦時中には、学校が中心になり、蝗の供出をしていた。もっとも現在は、農薬の自然破壊が問題になっている。田の草取りの時期は、肥え草刈りの季節でもあった。肥え草刈りをしたり、田の草取りをしたり、農家の仕事は休む暇がなかった。附近の土手に出掛けて朝早くから刈り取った草は、屋敷うちの堆肥場[たいひば]まで運び、牛舎や豚舎の敷きわらや米糠[こぬか]と交互に混ぜ合わせ、高く積み上げ、ある程度積み上げるとまた草を刈ってくるという要領で堆肥とした。肥え草は、田圃の元肥[もとごえ]として農家にとっては大切な肥料であった。そのためもあって、堆肥の品質向上を主旨に毎年堆肥品評会が行われていた。[545~546頁]
※農林水産研究に関する国内の論文・情報が探せるデータベース(アグリナレッジ)
※除草用具の地域呼称『国際常民文化研究叢書9 民具の名称に関する基礎的研究』神奈川大学国際常民文化研究機構、2015年3月)392頁・河野通明さん担当の「農耕用具」から