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嵐山町

天神講② 1956・58年 1月26日

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 (1956年3月発行)、9号(1958年3月発行)に掲載されている天神講をテーマにした中学生の作文です。
一月四日 三年三組 大野トク
 いつものくせで今日もつい朝寝坊をしてしまった。ふすまの間から射しこんでくる光で目がさめた。床に少し入っていたが、ふと「そうだ、今日は天神講だったっけ」と思いついたので、はね起きた。そして隣りの部屋に行って見ると、川口から来たお客と、小岩と、高坂から来たお客と一緒に妹はもう目をさましたまま、まだ床に入っていた。
 「幸子、今日は天神講だから、早く起きないとおくれるよ、もう七時だよ」といって、急がせて起こしてしまった。
 顔を洗いに行くと、もう太陽は東の空に気持よく上っていた。
 「今日も又、良い天気でありますように」朝日はお祈りしながら、歯をみがいていた。朝飯をすましてから又も妹を急がせた。
 「早く半紙を三枚出して、半分に切ってくれよ」妹に云ったら母が「どうせ幸子が切ったんじゃだめになってしまうから、自分で切った方が早いよ」といわれたので、しかたなく、「じゃあ、すずり箱を出してみ」といったら妹はすぐもって来た。
 「そうだ、母ちゃん重箱は?」
 「母ちゃんは手伝いに行くんだから、忙しいからおばあちゃんに出してもらいな」といって出かけてしまった。
 私はもうおそいと思って気が気でなかった。でもすぐ出してくれたのでよかった。これで大体仕度がそろったので、私と妹は出かけた。宿の家に行くと、もう男の子が五、六人女子が三人で、たき火をしていたので「もう篠は取った?」と聞くと「もうとっくだよ!」と云われたので安心した。
 「たけおさん、もう八時になった?」
 「もう八時はすぎたよ」との答えだったが、まだ幾人も集っていなかった。でも少したったら大体集合した。
 そこで天神様に供える習字を書いて、八幡様に納めにいって来た。それからは遊んだりお茶を飲んだり、トランプなどをしたりして楽しく過した。そして最後に、
 「私達三年生は、もう最後だから『螢の光』を歌おう」といって、全員(三十一名)で歌った。
 このようにして最後の天神講を楽しく、ほがらかにすごしたのである。
   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』7号 1956年(昭和31)3月
天神講 一年 中島敏子
 私たちの一年中で最も楽しい天神講は一月五日だ。待ちに待った天神講の日がやって来た。朝寒い頃から、小さい子供達は、うれしくてしかたがないのか、私の家に、
 「もう行ってもいい。」
とまちどうしいように言って来た。私が、
 「まだ早いよ。」
と言っても、きかずに私をむりやりに宿の家まで連れて来てしまった。私は、半紙を切ったりする。
 千枝子ちゃん達は、すみをすって書く用意をしている。そのうちすみもしだいにこくなったので小さい子から順番に書き始めた。
 全部で人数は二十一人です。やがて書いているうちに全部書き終りました。書き終って、十五分ぐらいで男と女で羽根つきをし、八幡様へ全部で納めに行って来てから、又さっきの続きをした。
 男子がとうとう勝った。もう昼近くなったので、おぜんを並べてぼたもちを配ばったり、とうふ汁を配った。くばり終ってから、小さい子をみんな呼んで昼食を食べた。昼も食べ終ってじゅうばこを取りに行った。帰ってきたら羽根つきをしていたので羽根つきにまじった。
 羽根つきもあきたので、私と正子ちゃんで男子が、べいごまをしているのを見に行った。なかなかおもしろいので見ているうちに、三時ちかくなってしまった。三時のお茶休みには、茶菓子が出る。
 その菓子は、天神講が五日なので四日に買いに行くことになっている。毎年男子が買いに行くのだが、今年だけ女子が買いに行った。菓子を買って来てから千枝子ちゃんの家で分けた。男は、大豆、あずき、米、茶菓子を集めた。
 そのうち、お茶休みも終わり、皆と県道の方へ行った。すると、二人ばかりのイラン人が通りかかった。小学生はイラン人がめずらしいのか、イラン人の後をぞろぞろとついて行った。私たち中学生も、後の方からついていった。ちょうど通りかかったところから、五〇〇メートルぐらい行ったところに井戸をほっていた。イラン人は、立ち止まって、何かしきりにわけのわからない、イラン語【ペルシャ語】で話していたが、やがて井戸を掘っているのを手伝っている人達に、
 「さよなら。」
と言って立ち去った。その時私は、
 「このごろイラン人はなかなか日本語が上手になってきたなあ。」とつくずく感じた。なぜと云えば、ハーモニカで、「お手々つないで」とか、いろいろ童謡を吹いたり、歌ったりしているのを聞いたからです。と思っているうちに皆がもとの天神講の宿の家まで引き返して行ってしまったので、私もいそいで帰った。庭でみんなが集まって何だか話をしている。近づいて行くと、かんけりをする相談をしていた。話がまとまり、かんけりを約三十分位したが、ある人が、こんどは千枝子ちゃんの家の前の坂でやろうと言いだしたので、そこへ行くことになった。でも十分位遊んでいるうちに、あたりは薄暗くなったので中学三年の守ちゃんが、
 「もう帰るか。」
と言ったので帰った。
 帰ってから、すぐトランプをしているうちに夕飯の仕度をした。夕飯も終わったので、こんどは小さい順に歌を歌った。
 審査員は中学二年の栄さんと中学三年の守ちゃんです。かねを四つもらった人はキャラメルを四ついただけることに決めた。私は二個いただいた。キャラメルを四つもらった人は三、四人だった。又トランプをした。そのうちにマラソンを終えて、進さんが帰って来て、こんどは、
 「歌った人には、キャラメルを二つずつくれるよ。」
と言ったので、皆歌って、キャラメルをいただいた。歌い終ると、進さんが、記念写真を撮って下さいました。
 全部で写そうとしたけれど、残念なことに少しの人が入らないので、男女別にしました。最初女の子が写し、その次に男全部で写した。その後で、私と、とみちゃんと正子ちゃんで写していただいた。まだ他に写していただいた人もいた。
 ふと時計を見ると九時近くになるところだった。予定では九時だけれど写真を写していたので少しおそくなってしまった。
 宿の人と別れて五、六人一緒で家へ帰った。夜道は明るく、歩く足音は昼間とちがってとても大きく聞こえた。
 皆寒いのか背中をまるめて、いそいで歩いて行く。
 もう家もすぐ目の前に近づいて来た。
   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』9号 1958年(昭和33)3月
天神講 一年 杉田けい子
 天神様と言うのは菅原道真を祭ってあるのであって、字がじょうずになるように(天満天神宮とか天神様)と字を書く。そし又字がじょうずになるだけでなく、文学、たとえば勉強ができるようになる。だから天神様をすることは結構なことであります。
と校長先生がおっしゃいましたが、私の方でもその天神様を五日にしました。
 宿は私の家です。では前の日からお話しします。
 中学生の女子が四人手伝いに来てくれました。寒いうちに米二合、あづき、さとうなどを集めて来て、ちょうど十時ごろだったので母が、
 「どうもすみませんでした。じゃあお茶を入れますから。」
と言って、まもなく持ってきて、
 「どうぞ。」と言った。けれども皆んな遠慮してなかなか飲まないから私が茶碗を一人、一人わたしてやりました。休みにすこしバトミントンをして遊ぶと二年生のゆき子ちゃんが、
 「けい子ちゃん、芋洗いなんかするんだべ。」と言った。
 「私は知らないから母に聞いてくらあ。」
といって家にかけこんだ。
 「かあちゃん、皆んなが芋洗いなんかするんか、と言ったけれどどうする。」
と言うと母が、
 「皆んながしてくれると言った。」
 「うん。」
と言うと、
 「じゃあ、してもらうか。」
と言った。そして私は「庭へ行ってたるに、こんぶがふやかしてあるんだけれど洗って出してくれる。」と言って、私が野菜かごを持って井戸ばたに行った。たるに入れてあった水はとても冷たいので汲みたての水ととりかえて洗い始めた。
 四人で洗ったからあっと言う間に洗いきってしまった。それが、すむとこんどは芋洗いでしたので、私が芋出しに行き母に、
 「芋はどのくらい出したらいい?」と聞くと母が、
 「バケツ二はいぐらいでたくさんだよ。」と言った。
 皆んな一生懸命仕事をしてもらったので母はおおだすかりと言っておりました。又芋むきまでもしてくれた。これで終ったので皆んなに、
 「ありがとね。」と言った。
 皆んな昼になったので家へ、家へと足を進めた。半日すぎていよいよ夜になると母は煮物でいそがしそうだ。私は風呂に入り八時ごろ寝床につきました。けれども色々なことが考えられて眠れません。習字も書いてないし、作文も書いてない。こんなことを考えると天神様なんかしたくなくなってしまう。
 その二日間のうちに習字と作文くらい書ける。私はついに声を出して、
 「天神様なんかしたくない。」
と言ってしまった。そして、いつの間にか眠ってしまった。朝の明けたのも知らず起きたら七時をすぎていた。
 父に「鼻がつまって風邪をひいちゃった。」と言うと父は、
 「おまえはよわいな。一年に何回風邪をひくのか。」
といわれた。でも起きて御飯を食べて掃除が終ったら、庭でバトミントンをつく音が聞こえたので出て見たら、千代子ちゃんが来ていたので、母にもう遊んでいいと聞いたら、
 「掃除をしたのかい。」
 「うん、掃除はしたよ。」と言うと、
 「じゃ皆んなと遊びな。」と言った。
 皆んなとバトミントンをしたり、うしろむきなどしているうちに十時ごろになってしまったので、私が墨とすずりを出してえんがわですみをすってもらった。そのうちに私が筆を用意して書き始めた。小さい順に書かせた。一、二年生は、「てんじんさま」とひらがなで書き、初めは、大きい人が手を取って書かせた。それから三、四、五年生は「天神様」と漢字で書き、もう三、四、五年生になると自分でざっさと書いてしまう。
 いよいよ私たちの番になったので私は「天満天神宮」と書いた。これで全部書き終ったので、こんどは書いた紙にしのをまきつけて、その上のまん中に穴をあけて糸を通して竹につるす仕事をした。
 これはだいたい大きい子がしのをはりつける。小さい子が竹につるす。こう言うふうにしてからすぐに終ったので、八幡様へ納めに行くのです。その途中ぬまで氷すべりを四、五人の男の子がしていた。ここの氷すべりは私が六年生の時に先生から注意されたのですが、まだしておりますが、氷すべりと言うのは面白いのでしょう。
 こんなことを思っているうちに、お寺の近くになった。男の子がお寺から台を借りて運んで行く所だったので女の子も皆んなして手伝って家まで運んでやった。
 そして又仲よく遊んでいるうちにお昼近くになったので中学生はお膳や皿など洗ってくれたので、早く昼食ができました。皆んなで楽しそうに食べ始めたが、二人こない人があったので、私たち大きい生徒が迎えに行ったら、どこかへ行ったと話を聞いたので、私たちも食べ始めた。千代子ちゃんの母がお給仕をして下さった。皆んな、ぼたもちや色々食べて嬉しそうでした。
 食べ終ると、トランプやすごろくをして遊んでいる時、小さい子がトランプにまぜないとか、悪口をいったりしてけんかをしてしまった。
 だから私が小さい子の面倒をみながらバトミントンをして遊ばせました。その時、私の父は白菜を運んでいたら、歌子ちゃんが、
 「小さい子はトランプにまぜない。」
と言ったら父は、
 「どうして。」
とただひとこと言っただけでした。こんなことをしているうちに三時になったのでお茶にしようとかたづけた。
 昼から男の子は一人残っているだけで、玉川会館に映画を見に行ったから、人数が、少なくなってしまった。私たちは、お茶、お菓子、煮物など食べながら、歌を歌ったりとてもにぎやかだった。まさ子ちゃんなんか勇気があって、
 「おれ歌うよ。」
と言って、じょうずに歌ってくれた。小さい子はふざけることもあるがしんけんに歌うこともある。中学生はただだまっているだけでした。又、
 「菓子七円、みかんが十五円だから二十二円。おらあちは三人だから六十六円。ほれ。」
と、私に百円さつを出した子もいた。だから私は、
 「お金はいいんだよ。」
と言った。
そのうち楽しいお茶休みもすみ、皆んなでかんけりをしていると、男の子が映画を見に行って帰ってきたので、私は、
 「タイム。」
といって、お茶をわかして男の子に出しました。そのころ時刻は四時ごろだったので、まだ羽根つきをして遊んだ。
 ふと県道を見たら、イラン人が通るのに気がついた。皆んなが見に行こうといってかけだした。県道についてすこし待っていたらきて、イラン人に皆んなが、
 「さようなら。」
と言ったら背の高い方の人が手を振って、かた方の人がちょっとアクセントがちがうが、
 「さようなら。」
と言った。イラン人をずっと見ていたら立ちどまってなんとか言っているようすでした。そこへ弟が自転車できて、
 「いまイラン人が人参をさして、『これ人参でしす』と言ったよ。」
と話した。
 そして、又私の家にもどってきて、皆んなが私の母に、
 「ごちそうさまになりました。」
と言ってから、すこし「アウトおに」をして帰りました。
 夜になって私は天神講の反省をしました。
 一、お茶の時などすこしうるさかった。でも小さい子が多かったからやむをえないかとも思った。
 又小さい子の遊びがなかったため、家に帰ってしまった子が二人あった。来年からは小さい子の遊びを考えたいと思います。
   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』9号 1958年(昭和33)3月

天神講① 1月25日

市民の森保全クラブで、休憩時に「天神講」が話題になったことがあるので、『東松山市史 民俗編』(東松山市、1983年発行)を取り出して読んでみました。
天神講 1月25日、上唐子地区は大字の行事として執り行われた。また、これを「天神祭」ともいわれた。その当時は、「奉納天満天神宮」と書いた書き初めを小学生全員で村の鎮守様(天神宮が合祀されている)に数多く奉納された。
 そして子供達は6年生の家(比較的恵まれている農家)に集まり、その家の親が手伝ってくれて、各人の持ち寄った米5合(約0.9リットル)、小豆2合(約0.36リットル)位のもので、にぎやかに食べながらケンチンジルと少しのお菓子などでカルタなどで夜9時頃まで遊んだものである。
 下岡地区では、24日6年生が先になり字の下級生と、米2合、醤油、砂糖、野菜などを集め宿(6年生の家が持ち回る)でご馳走を作ってもらい皆で食べる。この時「奉納天満天神宮威徳御菶殿」と書き方練習をし翌25日に天神様に奉納した。なお明治大正の頃は宿の家におこもりして翌日奉納したという(習字が上手になるようにと旗を書き天神様に上げた)。
 日吉町、本町一丁目、元宿の子供達は、25日書き方練習をして元宿の天神様に奉納した。(習字が上手になるように「奉納天満天神宮」と書いて納める)。
 天神講は子供たちにとって、習字を書いたり御馳走をたべたり、子供たちの信仰と社交と娯楽を兼ねた行事だった。
(『東松山市史 民俗編』1983年、295頁)

東松山市の隣にある嵐山町菅谷の天神講について紹介します。1995年に田幡憲一さんがまとめたものです。1940年代前半、戦時中の天神講体験者の回想で、12月24日・25日に行われています。
菅谷上組の天神講 田幡憲一
 菅谷の子供の楽しみの一つに天神講があった。十二月二十四日、俺たち小学校【菅谷村立菅谷尋常高等小学校。現嵐山町立菅谷小学校】の一年生になった者は、風呂敷に包んできた通信簿を座敷に放りだして、天神講だと言って家を駆け出して行く。今年から天神講に参加できると喜んだものだ。高等二年の上級生、高等一年、小学六年、皆大きくたくましく兄貴のようだった。上級生が学校から帰るのを待ち構えていた。昭ちゃん、良平さん、秀夫さん、みんなが帰ってきた。さあこれから天神講だ。
 高等二年、一年、みんなで米を入れる袋、醤油ビン、油のビン等をもって、天神講に参加する子供の家を廻る。米二合、人参一本、又次の家では米と大根一本、醤油茶飲み茶碗一杯、油茶飲み茶碗一杯、ゴボウ一本……。上級生の後ろについて歩きながら家々を集めて歩き、今年の宿(やど)をしてくれる家につくころには、荷物が一杯集まった。
 そして子供達も大勢集まり、上級生の命令で、これから山に薪を集めに行くものと、笹竹取りに行くものとに別れて出掛けて行く。皆協力して枯木を集めて縄でいわいて運ぶ。夜と朝との自分たちで使う物はみんなで共同で集めて、宿をしてくれる家へもって行き、宿のおばさんに渡した。
 宿をしてくれる家では、二部屋続きの座敷を開放して、子供たちに自由につかわしてくれた。子供たちは共同ではたらき、今晩の天神講の宿での、一同に会しての晩飯を楽しみにしながら、上級生の指示に従い、髪と筆、 硯、紙も小さい子供には初めての唐紙(トウシ)という長い紙でした。その紙に上級生がお手本を
     奉納 天満天神宮
 と書いてみせて、下級生の手をとりながら書いて行く。全員書き終わり墨が乾くまで、座敷いっぱい並べて、うまく書けた子、書けない子、うるさいこと……。
 その間にも、年上の子供たちは先程取ってきた笹竹を適当な長さに切り揃え、長いものと旗の頭につけるものとに分けている。そして乾いた紙の頭に糊をつけて笹竹に丸く張り付けて、竹の両方の端を糸で結び、長い笹竹につるしてできあがり。
 そろそろ先程集めたゴボウ、大根、ニンジン、いろいろのものを宿のおばさんが料理している匂いがしてくると、子供たちはなんのご馳走ができるのかとひそひそ話。その間にも、上級生たちは習字の道具を片付けたり、掃除をしたりして、宿をしてくれる家に迷惑の掛からぬ様にと気を使っている。自分たちの事だから自分たちでするのが当り前だ。
 夕方近くなると上級生の命令で、みんなが家に帰り、ご飯茶碗と箸を持ってくる。上の人たちは、ご飯のちゃぶ台を借り集めて持ってくる。いよいよ待ちに待った夕ご飯。それぞれの絵のついた茶碗に、おいしくできた五目ご飯をよそる。宿のおばさんが一番大変だ。急に子供が十六人。おいしいおいしいとお代わり。もう五杯もたべた。俺は四杯。豆腐のつゆもうまい。食欲旺盛だ。みんなで食べれば何でもうまい。おばさんの作った五目ご飯はすぐになくなる。皆満腹だ。
 いじめなどない、塾もない。皆、上級生の命令に従いついて行く。そして、自分も早く大きくなって下のものの面倒をみるのがたのしみだ。
 またまた、上級生の命令がでる。今夜泊まるものは布団一枚、家からもって来るようにと。小さい子供は母親が布団をもってくる。布団を敷き、これから上級生のこわい話。雨の夜、土葬の墓の上で青い炎が燃える話。これは、亡くなった人のリンがたち昇る、いや死んだ人の身体からでる油だとゆう話……。又小学校の南西二百メートルぐらいの、山の中の焼場のこわい話。昭和十六年(1941)頃まで使用していた伝染病や肺結核で亡くなった人を火葬したところ。薪に油をかけてもやしていた話……。皆布団の中から首をだして先輩たちの話に長い夜を過ごした。そしていつしかいびきが多くなり眠りについた。
 朝六時に起床。顔を洗い、皆寒い寒いと震えている。泊まらなかった子供たちもみんな集まってくる。昨日作った天満天神宮の旗をこれより神社へ奉納しに行くのだ。みんなそろって旗を持ち神社まで行進する。神社には上組・中組・下組、それぞれの子供たちが旗を収め、頭がよくなりますようにと天神様を拝む。
 宿へ帰り、宿のおばさんが作った朝ご飯を食べてから全員で遊び、夕方それぞれ解散。子供たちは一年一回のこの天神講をどれほど楽しみに待っていたかがよく分かる。(1995年8月記)

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