酒井惇一(東北大学名誉教授)さんが、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、本人が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録した『随想・東北農業の七十五年-戦前から現在に至るまでの東北農業・農村の変化を語る-』HPから。

  貧しい食と厳しい労働(6)☆足踏み脱穀機止まりの機械化(2010年12月11日)
 農業は草との闘いだった。ちょっとでも放置しておくと作物よりも草丈の方が高くなる。大学院時代、西欧などとは違ってわが国はモンスーン地帯であり、褥耕(中耕)的風土であるということを教わったが、まったくその通りだった。水田の三回にわたる除草、何回かのヒエ抜き、畦畔の草刈り、そして畑の草取りと春から秋まで絶え間がなかった。明治中期から水田用の手押しの人力除草機が普及し、かなり省力化されたとはいえ、ぬかるんだ田んぼを何百回となく往復する労働はきつかった。しかもそれは一度だけであり、後はやはり腰を曲げて除草しなければならなかった。
 もちろん闘わなければならないほど草が生えるということは、それだけ自然条件に恵まれていること、農業生産力が高いことを示すものであり、本来からいうと喜ばしいことである。しかし実際に草取りをする身になれば喜ぶに喜べなかった。
 こうして、せっかく草を取り、田畑をきれいにしても、虫と病気にやられる。しかしこれとは闘うすべがない。草とは過重労働という武器で闘うことができても虫と病気に対してはすべがない。虫などに対する憎しみは激しく、殺しても殺したりないほどの思いだった。
 土壌養分維持のための闘いもあった。農家はわら等の副産物、林野の落ち葉、草葉、家畜の糞尿、生ゴミを始めあらゆるものを肥料にして土地に帰した。
 人糞尿などは最高の肥料だった。自分の家のものでは足りないので都市の人糞尿を求めた。ただし、求めたからといってすべての農家が得られるわけではない。山形市の場合で言えば、牛車で早朝一ないし二時間で往復できる範囲内の農家しか利用できなかった。肥え汲み(山形ではこれを「ダラ汲み」といった)で本来の農作業に差し支えるようでは何にもならないし、汲み取り先の迷惑にもなるので朝飯前に汲み取りを終わらさなければならなかったからである。したがって肥え汲みは都市近郊農家の特権とでもいってよかった。肥桶に汲んできた人糞尿はダラ桶(肥だめ)に容れられ、そこで腐熟させ、田畑に直接もしくは堆肥に混ぜて散布する。それが都市近郊の米の単収の高さと野菜生産を支えた。かつて名著といわれた鎌形勲『山形県稲作史』では戦前の山形市の単収の高さを人糞尿とのかかわりで述べている。また市内はもちろん東京や仙台にも出荷された野菜にとってもダラ(下肥)は不可欠であった。だから農家は争って手に入れようとした。そして汲み取り先の確保のために、米何升かを対価として払うことを汲み取り先と契約して手に入れた。人糞尿は労働の成果物でもないのに価格をもったのである。つまり農家は他人の尻の始末をしてやって、汚い仕事をしてやって、カネを受け取るどころか払う。こんな矛盾した話はない。しかも臭い、汚いと軽蔑され、ダラ汲み百姓と馬鹿にされてだ。
 決まった日になれば、雨の日であれ雪の日であれ、朝まだ暗いうちに起きて牛車、冬は牛そりに肥桶をつけて父が出かける。たまたま目を覚ましていてその音を聞くのがとってもいやだった。父に申し訳なかったからである。
 こうして土壌を豊かにすると、雑草はもっと生えやすくなる。とくに畑がそうだ。草との闘い、腰を曲げた労働はまた厳しくなる。
 田んぼの三回にもわたる除草も大変だ。なかでも三番草は辛いものだった。田んぼを這いずりまわりながら両手で泥をかき回して草を取り、土の中に押し込んだ。夏の暑い日差しは容赦なく背中に照りつけ、目の中に汗が流れ込み、伸びた稲の葉先が目をつつき、目はウサギのように赤くなった。
 除草ばかりではない。田植え、稲刈りなど一日中腰を曲げていなければならなかった。畜力や人力作業機が農業に導入されつつあったとしても、基本的には手労働であり、農業労働は苦役的ともいえるものだったのである。
 子どももこうした農作業の手伝いをさせられた。農家の子どもが働くのは当時は当たり前だった。
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  「続々・わびしい日々是好日(4)☆「草取り」に思うこと」(2017年3月13日)

 前回も述べたように、農家のお年寄りは、身体があまりいうことをきかなくなってくると、縄ない、草取り、屋敷畑の管理や庭仕事等々、本当に軽い手伝い仕事だけに従事するようになる。
 ただし、田んぼの草取りは別である。これは重労働であり、本当に高齢化した場合の年寄り仕事とはいえない。田んぼの場合は、ぬかるみに足をとられながら腰を曲げて這いずり回るきつい労働であり(註1)、高齢者には無理だからだ。
 これに対し、畑の草取りは重労働ではない。手で草をむしる場合が多く、だから腰を曲げなければならないが、耕した畑の土は柔らかいので草を取りやすい。畝間を鍬でおこして草を除去したり、鍬などで深く張った根を掘り起こしたり、畑のあぜ道の草を鎌で刈ったりしなければならないこともあるが、年寄りでも十分にできる。ただし、単品目・大面積の生産なら草取りの時期が集中して長時間の苦役的労働となる。しかし、多くの農家は多品目・小面積栽培だったので草取り時期が分散し、それぞれ短かい時間ですみ、最初の時つまり草が小さいうちにていねいに取れば次回の草取りは楽になるということもあり、年寄りでもやれる。
 このように畑の草取りはあまり体力を使わない軽い仕事、精神的にもあまり負担のかからないだれにでもできる簡単な仕事である。他の年寄り仕事も大体同じだ。こうしたことから、年寄り仕事はすべて大して重要でない仕事と考えられてしまう。
 しかし、畑の草取りは「大して重要でない仕事」ではない。田んぼの草取りと同じできわめて重要な仕事であり、家族全員が取り組まなければならない作業である。
 何しろわが国はアジアモンスーン地帯で雑草の発生、繁茂は激しく、ましてや耕した畑は土が柔らかくて肥えていて日光が当たっているので雑草の発芽、生長、繁殖の条件は最高である。しかも畑には水田のように水の雑草防除機能(註2)が働かない。だから、ちょっとでも手を抜いたら、ましてや放置などしておいたら、作物の生育が阻害されるどころか畑地として利用できなくなる危険性すらある(註3)。だから、それぞれの畑の作付け時期、収穫時期、何も作付けしていない休閑の時期等を考えて草取りの時期を考え、また実際の草の出方を見ながら、今日はこちらの畑、明日はあちらの畑と、生えたら取り、生えたら取りしていなければならず、家族全員で除草にあたらなければならないのである。しかし、青壮年には重労働の基幹的な仕事が多々あり、それにも従事しなければならない。それで畑の草取りは年寄りの重要な仕事となるのである。
 私の生家の場合は畑が大きな位置を占めていたので、ましてやそうだった。野菜など多種多様な畑作物をつくっており、それぞれの畑に雑草が生える時期が異なるので、春から秋にかけて草取りをしなければならない畑はいつでもあった。草取りをしなくともいいように耕したり、敷き藁をしたりいろいろ方策を講じるのだが、やはり限界があり、生えてきた草を取らなければならないのである。だから祖父などは暇さえあれば草取りをしており、それは脳卒中で倒れる前の年の秋まで続いた。年老いた父は、家の前に残ったわずかな畑で、したたり落ちる汗をぬぐいもせず、下を向いてあるかなしかの草を取っていた。ボケても、習性となって頭に残っていたのだろう、草取りだけは毎日の日課だった(註4)。
[中略]
  「草取りは年寄りの仕事」と言ったが、正確にいえばこれは逆、「年寄りの仕事は草取り」ということで、草取りは家族全員の労働であり、その中心はやはり青壮年労働力だった。耕起で腰を曲げ、種まき、収穫で、そして草取りで腰を曲げて働く、だから五十歳も過ぎればみんな腰が曲がってしまった。私の祖母などはその典型だった。
 それでも生家の場合などはまだよかったと思っている、何しろ多品目の小面積栽培、草取りにも変化があり、また小区画つまり一枚の田畑が小さく、その上不整形だったからだ。前にも述べたが、ちょっと行っては畦にぶつかるので、そこで腰を伸ばして一息入れることができし、いろいろと変化があるのであきないのである。ところが小品目の大面積栽培となるとそうはいかない。前にそれを山形内陸と庄内を対比させて述べたが(註6)、北海道などはもっとすごい。小品目・大面積で除草の期間が長い上に大区画だからだ。
 一枚の畑の区画が1haか2ha、100mとか200mの延々と続く畝間の草を腰を曲げて取っていく。行けども行けども終わらない。何とか終わるとまたその繰り返しだ。何度も何度も繰り返す。なかなか終わらない、達成感がない。変化のないところでの単純作業の単調な繰り返しは労働の疲労度を高める。しかも面積が多いから、それが何日も続くことになる。これはつらい。
[中略]
 こうした苦役的ともいえる労働に対する正当な報酬はなかった。あれだけ働きながら農家は貧しかった。それも一因となってガッツ石松のようにみんな都市に流出していった。そこに除草剤の売り込みである、農家は喜んで導入した。ところが消費者の側から農薬・除草剤の使用への反対運動が起きた。これは正論ではあったが、もし反除草剤を言うなら厳しい除草労働に対する正当な報酬を支払うことを前提とすべきだった。ところがその逆に多くの消費者は農薬・除草剤漬けの安いアメリカ農産物を食べて国産農産物の価格を引き下げ、農業労働に対する正当な評価はますますなされなくなった。かくしてさらに農業労働力は流出し、過疎化、高齢化、耕作放棄が進み、農業は衰退の道をたどることになった(註9)。
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1.10年12月11日掲載・本稿第一部「☆足踏み脱穀機止まりの機械化」(4、6段落)参照
2.13年4月5日掲載・本稿第五部「☆水稲連作」(5段落)参照
3.13年4月1日掲載・本稿第五部「☆農業と土地、地力」(3段落)参照
4.12年9月26日掲載・本稿第四部「☆『帰らんちゃよか』」(3段落)参照
6.11年6月22日掲載・本稿第二部「☆零細分散耕地制と耕地整理」(2段落)参照
9.もちろん今は中耕除草の機械化、マルチング等でかつてのような辛い人力除草はなくなっている。それでもたまたま取り残した草を人力で取る必要が出てくる場合があるが、腰を曲げることはあまりない。しかし、何しろ大面積・大区画であり、草取りのために畑の畝間を歩く距離は大変なものである。


岩殿田んぼの手取り除草(2019年7月16日記事)
  

田ころがしで除草(2020年6月8日記事)