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小鹿野町

天神講⑥ 天神講が教えるもの 1月26日

大舘勝治さんの『民俗からの発想』(幹書房、2000年)の150~152頁です。
(5)お雛粥・天神マチが教えるもの
 秩父郡小鹿野町の赤平川流域の集落には、お雛粥をはじめ天神マチ、十日夜など、子ども組が主宰する行事が行われてきた。天神マチは今でも続けられているが、お雛粥や十日夜の行事は姿を消してしまった。姿を消してしまった行事に対して、これらを経験してきた大人は昔を懐かしく思い、行事が失われたことを残念がっている。
 天神マチなどを行っているときの子どもたちは、生き生きと自由な世界にひたっている。上級生は下級生をいたわり、下級生は上級生の始動に従い、秩序ある行動が取られている。行事の中の重要な難しい部分は上級生の役割であり、下級生には下級生の仕事がある。そして、いつでも上級生の持っている経験を通して得た知識は、仕事として下級生に伝えられる。例えば、お雛粥を煮ているときに「こういうふうにすれば火はよく燃える」などと、火の燃し方を教えている。学校や家庭ではえられない年齢を超えた連帯感が育まれる。
 子ども組のまつりの楽しさは、普段と異なり、大人の指図を受けずに子どもだけで取りしきることだという。大人たちは、子ども組の祭りや行事に無関心かというと、そうではない。従って、祭りや行事の重要な部分については関与しないが、側面からの援助は惜しまない。天神マチの寿司作りには、自分の子どもがいるいないにかかわらず、宿に当たる家の隣組の親たちが手助けをする。また、トーカンヤ(十日夜)の藁鉄炮を作れない子どもには大人が作ってあげる。そして、子どもたちの集団が庭を叩きに来るころには、玄関を開けて待っているなど、非常に協力的である。子のように、地域の大人たちは、子ども組の祭りや行事を暖かく見守っている。
 子ども組の祭りや行事は、子どもが主体的にかかわるが、地域全体から見れば地域共同体の下部組織としての子ども組の祭りや行事である。大人の指図を受けない自由はあっても、組織を逸脱した行為は許されないということを子どもたちはよく理解している。地域社会に密着した子ども組は健全そのものであり、子ども組が担う祭りや行事は決して野卑なものではないのである。そこには、子どもの社会教育の原点がある。今、子どもの教育に求められるものは、地域における教育であり、子どもの祭りや行事がその核となり得る要素を十二分に持っているはずだ。地域が子どもを育てていくことが大切である。
大舘勝治『民俗からの発想』(幹書房、2000年)150~152頁

天神講⑤ 2000年 1月26日

秩父郡小鹿野町三山にある田ノ頭集落の天神マチ(天神講)。大舘勝治さんの『民俗からの発想』(幹書房、2000年)144~147頁です。
平成12年[2000年]の天神マチ
 2000年(平成12年)1月22日(土曜日)、この地の天神マチを訪ねてみた。田ノ頭の耕地の様子は、16年前に見たその時と同じような静かな山間のムラで、長い時の流れもなかったかのように瞬時にタイムスリップしている自分に気付いたのである。
 天神マチの会場は、旧田ノ頭支所(役場旧三田川出張所)の2階である。午後1時過ぎ、会場の支所の2階へ子どもたちが三々五々集まってくる。平成6年[1994年]、会場がここになるまでは、中学3年生のオヤカタと称すリーダーの家を会場に行ってきた伝統がある。
 この日集まった子どもたちは、幼稚園児から中学生までの18名である。戸数18戸の耕地にしては若いお嫁さんが比較的多いこともあって、子どもも他の地区に比べて多いという。中学生5名、小学生11名、幼稚園児2名が正式のメンバーであるが、そのほかに母親と一緒の乳飲み子もいる。
 子どもたちのほかに数人の大人がいるが、大人は天神マチのオヤカタになっている子どもの両親が当番として出席しているほか、小さい子どもが参加している母親が数人出ている。
 2階の会場の広間には、天神様に奉納する習字を書く机が用意され、小さい子から順番で1人3枚ずつ掛け軸風の小さな短冊にそれぞれの願いを書く。中学生の子ども(男子)がつきっきりで面倒を見て、3枚書かせる。
 順番を待つ子どもたちは、会場で思い思い遊んでいる。大きい子から小さい子までがにぎやかに会場を所狭しと遊び回り、あたかも18人兄弟の大家族の家庭にいるかのごとくである。遊びに夢中で「オシッコ」と慌てる子どもには、誰彼となくそこにいる母親がトイレに連れていく。日本の良き伝統的地域社会「地域が子供を育てる」という光景の一こまを見る思いである。
 3枚の小さな短冊が書き終わると、最後に、書き初め用紙3枚をつなぎ合わせた長い短冊に、昔からお手本とされる漢詩を皆で一字ずつ書き、皆の名前を添書きする。
 こうしてすべての習字が終わると、裏山の中腹に祀られている諏訪神社(天神様が合祀されている)に向かう。すでに太陽は山の端に隠れて寒さが身に沁みる時刻である。社殿の前にあらかじめ用意されている大きな笹竹の笹に願い事を書いた短冊をつるし、長い大きな短冊は竹の上の方につるし、立ち木を利用して立てられる。まるで冬の七夕様である。子どもたちはそれぞれ天神様を拝んで会場に戻る。
 皆で夕食をとり、お菓子を食べ、夜遅くまで楽しく遊ぶ。遊びの企画は上級生の中学生によるもので、「肝だめし」などが盛り込まれている。
 秩父郡小鹿野町では、2000年1月現在このような子どもたちの天神マチが田ノ頭の耕地のほかに上飯田、松坂、栗尾、和田耕地で行われている。少子化社会で、各地の貴重な伝統行事の存続が危ぶまれる中で、田ノ頭耕地の天神マチは行事の一部は簡略化されたが15、16年前と同じように続けられ、地域に機能して生きていることに感動した。そこにはかつて地域のどこにでもあった子どもたちの年齢を超えた交流、親と子の交流、地域が子どもを育てた民俗の心がある。天神マチは子どもたちが社会性を身につける地域教育の場であり、また地域文化を創造していく原点でもある。
大舘勝治『民俗からの発想』(幹書房、2000年)147~150頁

天神講④ 1984年 1月26日

秩父郡小鹿野町三山にある田ノ頭集落の天神マチ(天神講)。

大舘勝治さんの『民俗からの発想』(幹書房、2000年)144~147頁です。
昭和59年[1984年]の天神マチ
 昭和39年[1964年]ごろまでお雛粥の行事が行われていた秩父郡小鹿野町三山の田ノ頭の集落は、戸数18戸ほどの小さな村である。この集落には、現在、小学生から中学生までの子どもが十数人いて、子どもの伝統的な行事、天神マチ(天神講)を行っている。
 天神マチは、1月25日に行われるのが一般的であるが、ここでは、現在25日に近い土曜日から日曜日にかけて行われている。土曜日の晩にオコモリといって一泊しても、翌日が日曜日でのんびりできるというのが変更の理由である。
 天神マチを行う子どもたちは、小学校1年生から中学校3年生までの男女である。数年前までは男女別々に行っていたが、子どもが少なくなったために合同で行うようになった。また、昭和58年[1983年]の天神マチから、同じ理由でその年に小学校へ入学する幼稚園児も加入できるようになった。上級性の子どもが「天神マチに入って下さい」とお願いに来るので加入するのである。
 上級性の一人がカシラ(オヤカタ)になって采配を振るい、その他の上級生は補助役となって行事は遂行される。
 天神マチの準備は、天神マチが行われる一週間前の日曜日に、上級生が子どものいる家を回って、寿司を作る米を集めることから始める。以前は前日に集めたという。集める米の量は、1人につき3合であるが、子どもが4人いても2人分出せば良い。古くは、1人につき5合で、一家で子どもが3人参加するとなると1升5合の米を出す習わしであった。
 この米で寿司を作るが、寿司を作るのは上級生の母親たちである。以前は子どもがいるいないにかかわらず、天神マチの宿になる家の隣組5軒の母親が集まって寿司を作るしきたりであった。つまり、地域の行事として行われていたが、子どもがいないのに準備に出てもらうのは頼みにくいということになり、上級生の子どもの母親が出て寿司を作るようになった。天神マチを伝承する基盤が変化を生じたのである。
 天神マチの寿司はたくさん作り、米を出した分だけ子どもの家に届ける。したがって、子ども一人につき5合の米を集めていた時代は、兄弟で何人も参加していると、大量の寿司が届けられたという。今では寿司もそれほど喜ばれなくなり、集める米も少なくしたといわれる。
 母親たちが集まって寿司を作る家は上級生の家で、その家を「天神マチの宿」という。子どもたちは、土曜日の午後からこの宿に全員が集まる。母親たちが夕食に食べる寿司を作っている間、子どもたちは習字を習って天神様にあげる旗を書く。この旗は「書き上げ」といって、一本の竹に全員の習字をつるして天神様へ奉納するのである。
 夕食の準備ができると、母親たちはかえってしまい、後は子どもたちだけの時間となる。楽しく夕食を済ませると、歌を歌ったりトランプなどをして遊ぶ。そしてその晩は、オコモリといって宿の家に泊まるのである。オコモリができるのは2年生から上で、幼稚園児や1年生は夜10時ごろ、上級生に送られて家に帰る。
 この夜は、近隣のどこの集落でも天神マチが行われていて、他地区の子どもたちが御馳走を持って遊びに来る。子どもたちは互いに御馳走を交換して食べたり、トランプなどをして一晩楽しく過ごす。
 田ノ頭地区では、むかしから寿司を作るが、近隣の和田、栗尾地区では餅を作り、この夜、互いに交換して食べる習慣がある。なお、他地区に遊びに出かけられるのは上級生だけである。
 天神マチに必要な経費は、以前は子どもたちが行う夜番(夜警)謝礼金とトーカンヤ(十日夜)の祝金ですべて賄っていた。夜番も十日夜の行事もなくなってからは、地区の大人の新年会の席で寄付を集めて、この金を子どもたちに渡している。
 子どもたちが行ってきた夜番とは、12月1日から2月末までの夕方6時から鉦を鳴らしながら地区内を回る夜警の仕事である。2人1組で交替で行い、謝礼を得ていた。しかし、地区の子どもが減少してから、順番がすぐに回ってくるのでかわいそう、ということで中止になった。同じ夜番でも大人の方は今でも行われている。
 天神マチの経費に使われた十日夜の祝金は、旧暦10月10日の秋の収穫祭である十日夜の行事を行っていただいたものである。
 十日夜の行事は、天神マチに参加する男女の子どもたちが、藁鉄炮を持って地区内の各家々の庭を叩いて回る行事である。「トーカンヤをはたかしてください」といって各家に断り、上級生を先頭に並び、号令を発して藁鉄炮を打つ。
 「トーカンヤ、トーカンヤ、十日の晩はいい晩だ 朝ソバキリに昼団子 ヨーメシ食ったらひっぱたけ 貧乏神をはたき出せ 福の神をはたき込め」と唱和して藁鉄炮を打つ。
 各家では祝い金を子どもたちに出すが、祝い金が多いと最後の文句を2回唱和して志に応える。この祝い金を翌年の天神マチの費用に充てるのである。天神マチを男女別に行っていた当時は、十日夜の祝い金を男女等分にして天神マチの経費に充てたという。
 その十日夜の行事は、昭和40年代前半に[1960年代後半]に学校からの指導により、やむなく中止したといわれる。その理由は、十日夜の行事で子どもたちが藁鉄炮を叩いて祝い金をもらって歩くことが「下卑た振る舞い」との評価からである。
 ムラの人たちは、古くから行われてきた行事が中止になったことに驚いたという。十日夜に子どもたちが訪れて来るのを親たちも楽しみにしていたからで、今でも十日夜の行事がなくなったことを残念に思っている人が多い。
 子どもたちの祭りや行事を調べてみると、学校からの指導により中止になったというものが、思いのほか多いのに気づくのである。
大舘勝治『民俗からの発想』(幹書房、2000年)144~147頁

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