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田んぼの草取り

農業は草との闘い(東北農業) 7月16日

酒井惇一(東北大学名誉教授)さんが、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、本人が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録した『随想・東北農業の七十五年-戦前から現在に至るまでの東北農業・農村の変化を語る-』HPから。

  貧しい食と厳しい労働(6)☆足踏み脱穀機止まりの機械化(2010年12月11日)
 農業は草との闘いだった。ちょっとでも放置しておくと作物よりも草丈の方が高くなる。大学院時代、西欧などとは違ってわが国はモンスーン地帯であり、褥耕(中耕)的風土であるということを教わったが、まったくその通りだった。水田の三回にわたる除草、何回かのヒエ抜き、畦畔の草刈り、そして畑の草取りと春から秋まで絶え間がなかった。明治中期から水田用の手押しの人力除草機が普及し、かなり省力化されたとはいえ、ぬかるんだ田んぼを何百回となく往復する労働はきつかった。しかもそれは一度だけであり、後はやはり腰を曲げて除草しなければならなかった。
 もちろん闘わなければならないほど草が生えるということは、それだけ自然条件に恵まれていること、農業生産力が高いことを示すものであり、本来からいうと喜ばしいことである。しかし実際に草取りをする身になれば喜ぶに喜べなかった。
 こうして、せっかく草を取り、田畑をきれいにしても、虫と病気にやられる。しかしこれとは闘うすべがない。草とは過重労働という武器で闘うことができても虫と病気に対してはすべがない。虫などに対する憎しみは激しく、殺しても殺したりないほどの思いだった。
 土壌養分維持のための闘いもあった。農家はわら等の副産物、林野の落ち葉、草葉、家畜の糞尿、生ゴミを始めあらゆるものを肥料にして土地に帰した。
 人糞尿などは最高の肥料だった。自分の家のものでは足りないので都市の人糞尿を求めた。ただし、求めたからといってすべての農家が得られるわけではない。山形市の場合で言えば、牛車で早朝一ないし二時間で往復できる範囲内の農家しか利用できなかった。肥え汲み(山形ではこれを「ダラ汲み」といった)で本来の農作業に差し支えるようでは何にもならないし、汲み取り先の迷惑にもなるので朝飯前に汲み取りを終わらさなければならなかったからである。したがって肥え汲みは都市近郊農家の特権とでもいってよかった。肥桶に汲んできた人糞尿はダラ桶(肥だめ)に容れられ、そこで腐熟させ、田畑に直接もしくは堆肥に混ぜて散布する。それが都市近郊の米の単収の高さと野菜生産を支えた。かつて名著といわれた鎌形勲『山形県稲作史』では戦前の山形市の単収の高さを人糞尿とのかかわりで述べている。また市内はもちろん東京や仙台にも出荷された野菜にとってもダラ(下肥)は不可欠であった。だから農家は争って手に入れようとした。そして汲み取り先の確保のために、米何升かを対価として払うことを汲み取り先と契約して手に入れた。人糞尿は労働の成果物でもないのに価格をもったのである。つまり農家は他人の尻の始末をしてやって、汚い仕事をしてやって、カネを受け取るどころか払う。こんな矛盾した話はない。しかも臭い、汚いと軽蔑され、ダラ汲み百姓と馬鹿にされてだ。
 決まった日になれば、雨の日であれ雪の日であれ、朝まだ暗いうちに起きて牛車、冬は牛そりに肥桶をつけて父が出かける。たまたま目を覚ましていてその音を聞くのがとってもいやだった。父に申し訳なかったからである。
 こうして土壌を豊かにすると、雑草はもっと生えやすくなる。とくに畑がそうだ。草との闘い、腰を曲げた労働はまた厳しくなる。
 田んぼの三回にもわたる除草も大変だ。なかでも三番草は辛いものだった。田んぼを這いずりまわりながら両手で泥をかき回して草を取り、土の中に押し込んだ。夏の暑い日差しは容赦なく背中に照りつけ、目の中に汗が流れ込み、伸びた稲の葉先が目をつつき、目はウサギのように赤くなった。
 除草ばかりではない。田植え、稲刈りなど一日中腰を曲げていなければならなかった。畜力や人力作業機が農業に導入されつつあったとしても、基本的には手労働であり、農業労働は苦役的ともいえるものだったのである。
 子どももこうした農作業の手伝いをさせられた。農家の子どもが働くのは当時は当たり前だった。
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  「続々・わびしい日々是好日(4)☆「草取り」に思うこと」(2017年3月13日)

 前回も述べたように、農家のお年寄りは、身体があまりいうことをきかなくなってくると、縄ない、草取り、屋敷畑の管理や庭仕事等々、本当に軽い手伝い仕事だけに従事するようになる。
 ただし、田んぼの草取りは別である。これは重労働であり、本当に高齢化した場合の年寄り仕事とはいえない。田んぼの場合は、ぬかるみに足をとられながら腰を曲げて這いずり回るきつい労働であり(註1)、高齢者には無理だからだ。
 これに対し、畑の草取りは重労働ではない。手で草をむしる場合が多く、だから腰を曲げなければならないが、耕した畑の土は柔らかいので草を取りやすい。畝間を鍬でおこして草を除去したり、鍬などで深く張った根を掘り起こしたり、畑のあぜ道の草を鎌で刈ったりしなければならないこともあるが、年寄りでも十分にできる。ただし、単品目・大面積の生産なら草取りの時期が集中して長時間の苦役的労働となる。しかし、多くの農家は多品目・小面積栽培だったので草取り時期が分散し、それぞれ短かい時間ですみ、最初の時つまり草が小さいうちにていねいに取れば次回の草取りは楽になるということもあり、年寄りでもやれる。
 このように畑の草取りはあまり体力を使わない軽い仕事、精神的にもあまり負担のかからないだれにでもできる簡単な仕事である。他の年寄り仕事も大体同じだ。こうしたことから、年寄り仕事はすべて大して重要でない仕事と考えられてしまう。
 しかし、畑の草取りは「大して重要でない仕事」ではない。田んぼの草取りと同じできわめて重要な仕事であり、家族全員が取り組まなければならない作業である。
 何しろわが国はアジアモンスーン地帯で雑草の発生、繁茂は激しく、ましてや耕した畑は土が柔らかくて肥えていて日光が当たっているので雑草の発芽、生長、繁殖の条件は最高である。しかも畑には水田のように水の雑草防除機能(註2)が働かない。だから、ちょっとでも手を抜いたら、ましてや放置などしておいたら、作物の生育が阻害されるどころか畑地として利用できなくなる危険性すらある(註3)。だから、それぞれの畑の作付け時期、収穫時期、何も作付けしていない休閑の時期等を考えて草取りの時期を考え、また実際の草の出方を見ながら、今日はこちらの畑、明日はあちらの畑と、生えたら取り、生えたら取りしていなければならず、家族全員で除草にあたらなければならないのである。しかし、青壮年には重労働の基幹的な仕事が多々あり、それにも従事しなければならない。それで畑の草取りは年寄りの重要な仕事となるのである。
 私の生家の場合は畑が大きな位置を占めていたので、ましてやそうだった。野菜など多種多様な畑作物をつくっており、それぞれの畑に雑草が生える時期が異なるので、春から秋にかけて草取りをしなければならない畑はいつでもあった。草取りをしなくともいいように耕したり、敷き藁をしたりいろいろ方策を講じるのだが、やはり限界があり、生えてきた草を取らなければならないのである。だから祖父などは暇さえあれば草取りをしており、それは脳卒中で倒れる前の年の秋まで続いた。年老いた父は、家の前に残ったわずかな畑で、したたり落ちる汗をぬぐいもせず、下を向いてあるかなしかの草を取っていた。ボケても、習性となって頭に残っていたのだろう、草取りだけは毎日の日課だった(註4)。
[中略]
  「草取りは年寄りの仕事」と言ったが、正確にいえばこれは逆、「年寄りの仕事は草取り」ということで、草取りは家族全員の労働であり、その中心はやはり青壮年労働力だった。耕起で腰を曲げ、種まき、収穫で、そして草取りで腰を曲げて働く、だから五十歳も過ぎればみんな腰が曲がってしまった。私の祖母などはその典型だった。
 それでも生家の場合などはまだよかったと思っている、何しろ多品目の小面積栽培、草取りにも変化があり、また小区画つまり一枚の田畑が小さく、その上不整形だったからだ。前にも述べたが、ちょっと行っては畦にぶつかるので、そこで腰を伸ばして一息入れることができし、いろいろと変化があるのであきないのである。ところが小品目の大面積栽培となるとそうはいかない。前にそれを山形内陸と庄内を対比させて述べたが(註6)、北海道などはもっとすごい。小品目・大面積で除草の期間が長い上に大区画だからだ。
 一枚の畑の区画が1haか2ha、100mとか200mの延々と続く畝間の草を腰を曲げて取っていく。行けども行けども終わらない。何とか終わるとまたその繰り返しだ。何度も何度も繰り返す。なかなか終わらない、達成感がない。変化のないところでの単純作業の単調な繰り返しは労働の疲労度を高める。しかも面積が多いから、それが何日も続くことになる。これはつらい。
[中略]
 こうした苦役的ともいえる労働に対する正当な報酬はなかった。あれだけ働きながら農家は貧しかった。それも一因となってガッツ石松のようにみんな都市に流出していった。そこに除草剤の売り込みである、農家は喜んで導入した。ところが消費者の側から農薬・除草剤の使用への反対運動が起きた。これは正論ではあったが、もし反除草剤を言うなら厳しい除草労働に対する正当な報酬を支払うことを前提とすべきだった。ところがその逆に多くの消費者は農薬・除草剤漬けの安いアメリカ農産物を食べて国産農産物の価格を引き下げ、農業労働に対する正当な評価はますますなされなくなった。かくしてさらに農業労働力は流出し、過疎化、高齢化、耕作放棄が進み、農業は衰退の道をたどることになった(註9)。
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1.10年12月11日掲載・本稿第一部「☆足踏み脱穀機止まりの機械化」(4、6段落)参照
2.13年4月5日掲載・本稿第五部「☆水稲連作」(5段落)参照
3.13年4月1日掲載・本稿第五部「☆農業と土地、地力」(3段落)参照
4.12年9月26日掲載・本稿第四部「☆『帰らんちゃよか』」(3段落)参照
6.11年6月22日掲載・本稿第二部「☆零細分散耕地制と耕地整理」(2段落)参照
9.もちろん今は中耕除草の機械化、マルチング等でかつてのような辛い人力除草はなくなっている。それでもたまたま取り残した草を人力で取る必要が出てくる場合があるが、腰を曲げることはあまりない。しかし、何しろ大面積・大区画であり、草取りのために畑の畝間を歩く距離は大変なものである。


岩殿田んぼの手取り除草(2019年7月16日記事)
  

田ころがしで除草(2020年6月8日記事)
  

田畑の除草用具(茨城県下妻市・長野県伊奈地方) 7月15日

①『館所蔵民俗資料目録第7集 籠・管理・害虫除去・儀礼用具』(下妻市ふるさと博物館、2002年3月)に収録されている田畑の除草用具です。

  刊行にあたって(2頁から)
 除草用具は豊富な種類と数があるのが目立ちます。特に水田の回転除草機の多様さに驚かされます。
また、最初は柄に刃が付いているという単純な形のものから時代とともに畜力用にまで改良されていく流れが、はっきりとみることができます。……
 また、農耕用具は現地の呼び名が個性的なものが多いのも特長の一つです。

田畑の除草の用具として〈クサカリガマ〉〈ナガエガマ〉〈タチガマ〉〈カマカケ〉〈ガンヅメ〉〈カメノコ〉〈コロガシ〉〈クマデ〉〈ジョレン〉があります。
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②「信州大学農学部附属農場における人力・畜力農具の収集と保存」(有馬博・北原英一・信州大学農学部附属農場)
 伊那は長野県南部に位置し、中央アルプスと南アルプスの問に伸びている細長い谷型の地域である。この谷の底部には天竜川が流れていて水田が連なり、その両岸には河岸段丘が形成されている。さらにその背後には山間農業地が続き、これら相互の標高差は500m以上に及ぶ。一般に伊那谷と呼ばれているこの地方は上伊那郡辰野町付近を北端とし、それから南南西に位置する飯田市の南方まで直線距離で約80kmにわたっている。そのうち北部は寒冷地に、南部は温暖地に属しているうえ、凹凸の多い山岳地形が多いため気象には地域差が大きい。
 このような立地条件のもとで伊那においては様々な種類の農作物が栽培され、他に養蚕や馬匹生産も盛んであった。そのため農家では古来、多種の人力・畜力農具を使用してきた。
 しかし昭和30年代後半からの経済発展、農業構造と生産手段の変化及び農村住宅と納屋の建て替えによって、昭和40年代には人力・畜力農具が急速に廃棄されるようになった。そこで著者ら農場職員は当時の農場長故高橋敏明教授の指導のもとに.伊那の農家に呼びかけて昭和42年[1967]からそれらの農具の収集を開始した。しかし学内には適当な収納場所がなかったため整理もしないまま収納舎の一角へ収容しておいた。
平成7年[1995]に至って、ようやく農場の木造鶏舎を農具展示場として使用できる状況になったため農具を整理・展示し、同年4月1日に農具資料舎と名付けて公開した。また人力・畜力農具以外にも発動横、トラクタなど歴史的意義のある機材も若干数展示した。[25頁]
  〇田車(たぐるま)、代車(しろぐるま)(伊那林屋式:畜力用)
 長野県から山梨県にかけて、水田の代かきに用いていた畜力砕土車で、轅木(えんぼく:舵とり腕木)と馭者席[ぎょしゃせき]を備えた1軸の車輪列型のものと、形式の異なる2軸の車輪列を長方形の馭者台でつないだものがあった。1軸型は土塊を縦方向に、2軸型は縦横方向に土塊を切った。資料舎にはその2形式がある。馭者は土塊の状態を見ながら歩いたり乗ったりした。忙しい時には5~6歳の子供さえ馭者とされ、居眠りで転落しないように席へ荒縄でくくりつけられた。牛馬に体力があれば作業能率の良い車であった。[27頁]

  〇八反取(はったんどり:人力用)
 水田専用の人力除草用具で、一般に2番除草以後に使われた。柄を持って前後に押したり引いたりしながら前進し、表土を浅くかきまわして除草した。10a当たりの歩行距敵は3.5~4㎞に及び疲労がひどかった。少しでも軽くするため柄に竹を用いたものが多い。その後、回転除草機に代替されたが昭和40年代以後は除草剤の普及によってそれも使われなくなった。1条用のほか2条用もあった。[以下28頁]

  〇回転除草機(各種:人力用)
 八反取と同様に2番除草以後に使用する水田専用の手押しのうね間除草機で、通常は爪状の回転刃をもつ2本の軸と鳥居型の柄で構成されている。昭和初期から昭和30年ころまで全国的に使用され、その後は株聞除草機や除草剤に代替された。株間除草ができない欠点があったものの八反取に比べて軽快で能率も良く、中耕もできた。舳先[へさき]の高さと柄の角度が調節できるようになっていて、回転刃の食い込み深さが調節できたが水が深いと浮き上がった。1足ごとに腕を伸縮しながら断続的に押した。カがいるので子供にはいやな仕事であった。

  〇株間除草機(各種:人力用)
 2~4個の縦軸で回転する針金又は薄い鉄板製のローターで稲株をはさみ、柄を押すと土の抵抗でローターが回転して株ぎわの雑草を土とともに外側へかき出して除草が行われる。商品名を「カブマトリー」と称したものもあった。昭和30年(1955年)から数年間に各農家へ普及したが除草剤の出現によって急速に消滅した。実用期問が短かったし小型なので良好な保存状態のものが多く現存している。

  〇畜力3連型回転除草機(畜力用)
 2番除草以後に使用する水田専用の畜カうね間除草機で、昭和30年ころまで大規模農家で使用され、その後は除草剤に代替された。株間除草ができないことと、機体が重くて回転が困難な欠点があったものの能率が良く、中耕もできた。舳先の高さと柄の角度が調節できるようになっていて回転刃の食い込み深さが調節できた。訓練された牛馬はこれを引きながらうね間を上手に歩いたが、田のはしで回転するときには稲を踏みつけたので、小さな田では使いにくかった。

除草(埼玉県鳩ヶ谷市) 7月14日

『鳩ヶ谷市史 民俗編』(1988年8月)の記述です。現在、鳩ヶ谷市は埼玉県川口市に編入されています。下線、[ ]は引用者。

 除草(『鳩ヶ谷市史 民俗編』) 
  『鳩ヶ谷市史 民俗編』 1988年8月
   第2章 生産・生業
   第2節 農業 1 稲作 (1)摘田
 田の草取りは通常2回、丁寧な家は3回行い、1回目を一番草、2回目を二番草、3番目を三番草と称している。
 一番草は田植えが終わって10日から2週間ぐらいたったころに行うことが多かった。田植えの時期や田の農作業との関係で若干の前後はあるが、7月上・中旬に行い、土用の入りまでに一番草を終えた。この一番草は中耕を兼ね、カッパナシネボグシモトユルメなどともいって稲株の周りを手でかき、根を切るようにして稲の分けつを促した。
 田に水があり、土が軟らかければ手で除草できたが、場所によっては土が堅いところもあったので、このようなところではタコスリコスリマンガ)などと呼ばれる道具で株間をこすり、土を軟らかくしてから除草した。この一番草のときには、除草と共に稲の根付きが悪いところに、余分に植えておいた苗を補植したりもした。
 二番草は一番草を取ってから1週間から10日ぐらい後に取った。田の草取りは20日ごとに行えば良いといわれていたが、この時期は畑の草取りなど他の仕事も多く、仕事の手順が思うようにいかなかった。
 三番草を取れば収量が1反当り1俵は違うといわれたが、なかなか三番草までは手が回らない家が多かった。三番草を取る場合は、月遅れの8月7日の七夕のころまでに行った。
 田の草取りの道具としては、ハッタンコロガシタコスリマンガなどが用いられた。ハッタンコロガシは回転式の歯のついたもので、株間を1人で押しながら除草する。タコスリマンガは万能の一種で、歯の先端が内側に曲がっていて、株間を1人で引いたり押したりして用いた。大正時代ごろまではツメマンガもしようされたという。
 田の草取りも、昭和30年代ごろから次第に除草剤が使われるようになると、労働がきつかったので、手で取ることは行われなくなっていった。[30~32頁]

東温市文化財・収蔵資料データベース(愛媛県東温市教育委員会)
  大分類:[生産・生業]、中分類:[農耕(果樹・園芸などを含む)]、小分類:[管理用具/除草]
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稲の病害虫(越路町③) 7月13日

新潟県三島郡越路町[こしじまち](現・長岡市)の『越路町史 別編2 民俗』(2001年3月)の記述③です。下線、[ ]は引用者。

  稲の病害虫(『越路町史 別編2 民俗』) 
  『越路町史 別編2 民俗』 2001年3月
   第1部 戦前の暮らし
   第1章 暮らしの様相
   第3節 人ともの 1 季節と生産活動 (1)田圃と畑の仕事 d 田植えと田の草取り
 以前は、稲の病害虫には手の施しようがなかった。稲の病害虫による発育不全を「ナン(難)が来た」といい、葉が赤くなって立ち枯れの状態を「アケがついた」といった。稲がいもち病(稲熟病)にかかり、稲が枯れて田圃の中に穴があいたり、アケがついて1反に2俵しかとれないという話もあった。こうした稲の害虫は、二化螟虫[にかめいちゅう]とツトムシイナゴなどであった。
 螟虫は、年2回発生する害虫でエムシ(柄虫)といわれ、春に羽化するのが一化螟虫、夏に羽化するのが二化螟虫であり、一化螟虫は、春の田植え後に発生した蛾[が]が稲の葉に産卵し、この幼虫(一化螟虫)が稲の茎に入って稲を枯らした。7月上旬から8月初旬に孵化した二化螟虫は、稲の茎の深部に食い入って稲穂を枯らしてしまった。浦では、毎年、水押[みずおし]・浦谷地[うらやち]辺りが螟虫の害が多く、五百島[ごひゃくじま]・下河原[しもがわら]辺りは比較的に害のなかったところといわれていた。
 螟虫の駆除法は、春、蛾が出ないうちに、わらにおの周囲にいる蛹[さなぎ]を搔き落として撲滅し、夏の二化螟虫退治法は、もっぱら誘蛾灯[ゆうがとう]により蛾を集めて殺す方法であった。誘蛾灯は、竹の3本コウジ(3本の竹の上部を結び、下を開いて立てたもの)を立て、その中央に油土瓶[あぶらどびん]を吊したもので、毎晩当番が油瓶を持って点火に回った。
 田圃に稲の葉を巻くようにして巣を作り、涼しい朝夕に巣から出て葉を食べる、ツトムシ[イイモンジセセリの幼虫名]という害虫がいた。ツトムシは、つぎつぎと葉を巻き付けて、巣が田圃一面に連なり、稲の葉を全部食い尽くす虫であった。そのため、稲の茎だけが残って、秋の稲りは穂のみということになった。ツトムシの駆除は、まだ発生したばかりの頃は、竹の2本股で巣をはねて虫を田の中に落とし、巣を葉から取り除いて、虫の頭を手で潰[つぶ]して、腰に下げた空缶か竹筒に入れた。しかし、この被害が田一面に広がると、これでは効果がないので、トカシグシ(梳かし串)で稲を横に撫[な]でて梳[す]き、巣を壊して虫を落した。トカシグシは、軽い桐の木の棒を、長さ1.2mくらいに切り、両手で棒を握る部分だけを残し、他の部分のすべてに、竹製の鉛筆の両端を削ったような形のものを、横に並べて差し込んだものであった。稲をこの道具で梳くのみでは、巣は壊れても虫は落ちて生きていた。つまり、虫は這[は]い上がってまた巣を作り、結局は毎日虫梳きを繰り返すのみで、盆も休まれないほどであった。
 イナゴも害虫であった。秋のうちに稲株や草の根元に生んだ卵は、春先、雪水に洗い出されて水面に浮かび、塵と一緒に畦端に風で寄せられた。これをざるで掬[すく]って殺した。それでも田植えが終わる頃に孵化[ふか]した幼虫は、食い頃の稲を食べて秋には成虫になった。こうなると葉はもちろん、茎や稲穂まで食べて被害甚大となった。
 駆除方法は、まず、田植え直後にエンゲン豆大の卵を拾い、焼き払うことであった。また、成虫になったら、朝夕の露のある時に飛べないイナゴを捕まえることであった。戦時中は学校の生徒たちが、大きな3升、5升の袋にいっぱい捕えたが、それでも被害は減らなかった。[156~157頁]


(1)年1回発生し卵で越冬する。卵は普通30〜40個ほどの卵塊で産卵される。
(2)6月中〜下旬頃からふ化し始め、幼虫ははじめ畦畔などのイネ科雑草の葉を食べ、次第に水田に侵入しイネの葉を食害する。
(3)幼虫は6令を経て、7月末頃から成虫が出現し始める。幼虫の体色は緑色で、形態の変化はほとんどなく成長し、翅(はね)が生え褐色味を帯びて成虫となる。
(4)水田内の分布は、若令幼虫時は畦畔沿いに多く、4〜5令頃から中央部にも多くなる。
(5)産卵は9月上旬頃から始まり最盛期は9月中〜下旬となる。卵は主に雑草の多い農道や畦畔の地際部に産まれるが、イネの株内にも産む。

※蝗の巣拾い(イナゴの卵とり)→『イナゴの一生 ~つくろうぼくらのイナゴふりかけ~
  長野県学校科学教育奨励金 2003年度交付No1 飯山市立戸狩小学校 1年2組

田の草取り(越路町②) 7月13日

新潟県三島郡越路町[こしじまち](現・長岡市)の『越路町史 別編2 民俗』(2001年3月)の記述②です。下線、[ ]は引用者。

  田の草取り(『越路町史 別編2 民俗』) 
  『越路町史 別編2 民俗』 2001年3月
   第2部 変貌する暮らし
   第1章 家族の生活誌
   第2節 M家の場合 3 農業専一
 田植えが終わると田の草取りをした。戦前からあった一つ押しのゴロと呼ばれた除草機を用いる以前は、除草はもっぱら手作業であった。田の草取りは、7月の土用五番(夏土用から5日目)頃までで、3、4回、雑草の小さいうちは青田に四つんばいになって取り、泥土を掻き回しながら埋め、4回目頃になると稲の成長も盛んになり、茎先が顔を突くようになるので面をかぶって田に入った。除草にゴロが用いられるようになってからは、真夏の太陽の下で腰をかがめることもなくなり、草取りの能率は向上した。その後、除草に農薬が用いられるようになった。農薬にホリドールを使ったこともあったが、ホリドールは稲が大きくならないと使用できず、農薬散布後は、1週間程度田圃に入ることができなかった。しかし、疲労の激しかった田の草取りが解消され、しかも農薬散布後の1週間は田に入らずに済んだので、身体を休められ喜ばれた。この頃には、Rさんは子どもの頃、蝗の巣拾いを[『越路町史 別編2 民俗』156~157頁の「稲の病害虫」]をし、1升いくらで買い取ってもらったことがあったという。雨の日などには、古川の土手に生えているニオイ菖蒲を採ったり、ヨモギやドクダミを取ったりして、手拭[てぬぐい]で作った袋に詰め、風呂に入れて菖蒲湯をたて、この時ばかりは、女も子どももゆったりと浸かって、身体を伸ばして疲労を取った。
 一つ押しのゴロは明治末期から大正初期に普及し、田の草取りが楽になった。昭和20年後半には土地改良が始まり、それまでの手取り中心の田の草取りは、除草機を何度も用いるようになり、その上に薬剤散布が行われ始め、二化螟虫駆除を目的としたホリドール散布を行った。こうした農薬散布が行われるまでは、稲の病虫害が多く、二化螟虫や稲虫[いなむし。稲の害虫の総称。ウンカ、ヨコバイ、バッタなど]、蝗[いなご]などの駆除に、藁にお掻きや誘蛾燈の設置、蝗の巣拾いなどをしていた。戦時中には、学校が中心になり、蝗の供出をしていた。もっとも現在は、農薬の自然破壊が問題になっている。
 田の草取りの時期は、肥え草刈りの季節でもあった。肥え草刈りをしたり、田の草取りをしたり、農家の仕事は休む暇がなかった。附近の土手に出掛けて朝早くから刈り取った草は、屋敷うちの堆肥場[たいひば]まで運び、牛舎や豚舎の敷きわらや米糠[こぬか]と交互に混ぜ合わせ、高く積み上げ、ある程度積み上げるとまた草を刈ってくるという要領で堆肥とした。肥え草は、田圃の元肥[もとごえ]として農家にとっては大切な肥料であった。そのためもあって、堆肥の品質向上を主旨に毎年堆肥品評会が行われていた。[545~546頁]
※農林水産研究に関する国内の論文・情報が探せるデータベース(アグリナレッジ)

除草用具の地域呼称国際常民文化研究叢書9 民具の名称に関する基礎的研究神奈川大学国際常民文化研究機構、2015年3月)392頁・河野通明さん担当の「農耕用具」から
除草具名称(河野通明)


田の草取り(新潟県越路町①) 7月13日

新潟県三島郡越路町[こしじまち](現・長岡市)の『越路町史 別編2 民俗』(2001年3月)の記述①です。下線、[ ]は引用者。

  汗みどろの田の草取り(『越路町史 別編2 民俗』) 
  『越路町史 別編2 民俗』 2001年3月
   第1部 戦前の暮らし
   第1章 暮らしの様相
   第3節 人ともの 1 季節と生産活動 (1)田圃と畑の仕事 d 田植えと田の草取り
 かつて田植えが終わると、2週間くらいは田を構わずにそのままにして置いた。その理由は、稲の根付きを心配したからであったが、その結果、田圃は堅くなり、生えた草は取りにくく、縦横2回、手で雑草を抜き取るほかなかった。その後、田の草取りは、田植え後、ただちに始まり、8月の盆前までに一番草二番草四番草まで取った。なお、雑草は、ヒエ・ゴヨ[クログワイ]・ナギ[コナギ・ミズアオイ]・ウシコウゲ[マツバイ?]などで、小さいうちは手でむしり取って泥の中に埋めたが、大きくなるとそれも出来ず、かごに取って道ばたに捨てた。
 イチバクサ(一番草)は、田圃が堅くて手では容易に雑草が取れず、まず、中打ち[なかうち]と称し、小さな三本鍬で株と株の間を打ち起こし、その上で草を取った。それでも草はなかなか取れず、指先を痛め、中打ちで腰を痛める重労働であった。明治42年頃[1909]に中打ちゴロが導入された。この初めてのゴロは一株押しで、梯子状[はしごじょう]の先にゴロが一つついているだけであったが、堅いところは刃が立たず、十文字押しをしても土が起きなかった。昭和10年頃[1935]から二つゴロの二行押しになったが、代掻きの良否がゴロの成果に大いに関係した。ニバグサ(二番草)になると、夏の暑さが厳しく、笠を被り、ヒデルゴザ(日照りござ)を着て作業を行い、朝夕はブヨ(ブト)が襲い、ブヨ除けにわら束の松明[たいまつ]を腰に付けたものの、刺されて痒[かゆ]くて仕方なかった。サンバグサ(三番草)の頃になると草(稲)丈[くさたけ]が伸び、葉で顔を擦[こす]り目を突くので、顔に網の面をかぶった。また、相変らずブヨの攻撃が強烈で、稲が伸びているので、松明を使うと葉を焼く恐れがあった。そこで空缶[あきかん]の中にボロ切れを固めて入れ、これを燻[くゆ]らし、股の下にぶらさげて草取りをした。なお、鉄製の網の面は錆[さ]び易く、2、3年もするとナイロンの面に変わった。
 アゲタノクサといわれた四番草は、大体最後の草取りであったが、中には丁寧に五番草まで取る人もいた。アゲタノクサは、耕地面積の大小にもよったが、7月23、4日頃の夏土用五番(土用入りを太郎といい、5日目を五番という)を目安とし、遅い人は8月初旬になった。アゲタノクサ頃は、すっかり稲も伸びているので、腰をかがめて草取りをしていると何も見えず、朝夕の露で身体は濡れ、午前9時頃からは強烈な太陽の熱に焼かれ、少し涼しいと思うとブヨが襲うという具合で大変な辛い仕事であった。
 昭和20年代後半[1950]から土地改良が始まり除草機が普及し、さらには薬剤除草が行われるようになった。そのため、それまで手で取っていた田の雑草はほとんどなくなった。[155~156頁]
※『広報こしじ』1号(1965年)~480号(2005年)(PDF

田の草取り(群馬県沼田市) 7月11日

群馬県の『沼田市史 民俗編』(1998年3月)「第2章 生産・生業」の「第2節 稲作 6 稲作管理」の小項目です。

  田の草取り(『沼田市史 民俗編』) 下線、[ ]は引用者
 普通は3回であった。柔らかい田はほとんど手で行った。八反取り(生えている草を沈める器具)は普通使わない地区が多かった。硬い田には昔はガンヅメ(片手用の小さな熊手)を使い、田を柔らかくしながらの除草だった。次に開発されたのが前述の八反取りであるが、使ってみて具合が余り良くないので、硬い田を柔らかくするのに使われた。草取りは一番ゴ(最初の草取り)から三番ゴ(3回目の草取り)まであり、八反取りはその都度作間[畝間]に合わせて使い分けるのだが、硬い田は便利であった。また、藻が湧く田にも藻を埋めるのによく使われた。藻が湧くと田が冷えて稲の成長を妨げるので、その駆除に使われたのである。
 現在は藻が湧くと硫酸銅を布袋に入れ、水口に置くと藻が消滅する。また、田の草取りも除草剤で済ませる。稲の葉を丸めて虫が巣を作り卵を産んだり、イモチ病等を防ぐために消毒は2回行う。
 稲が穂孕[はら]むと、昔は鳥害除けにカカシを立てた。単なる人間に似せた鳥追いではない。鳥がつかないように祈願を行って立てたものだという。これが十日夜[とうかんや]の終農祝いに通じるものであると言っている。他にカガシオドシ等があり、カラスの死骸などを吊して雀を追いやったものである。これは佐山出身の戸部素行の聞き取りだが、農業経験は少なかったが、有識者であった。現在は防鳥網を張る家が多くなっている。[202~203頁]

※戸部素行[とべそこう]:利根沼田短歌会初代会長。沼田市材木町の長寿院常福寺(天台宗)に歌碑がある。「老ふたりとなりし古家に春立つと 追儺の豆をこゑはりて撒く」

田の草取り(群馬県伊勢崎市) 7月11日

群馬県の『伊勢崎市史 民俗編』(1989年2月)「第1章 環境と民俗」の「第2節 耕地の広がりとムラの景観」、「田の草取り」項目です。

  田の草取り(『伊勢崎市史 民俗編』) 下線、[ ]は引用者
 田の中も放っておけば、さまざまな植物が生えるが、田は稲だけを栽培するための土地であるので、それ以外の植物の繁茂は好ましいものではない。田を田として管理するためには、田の草と呼ばれる稲以外の雑草を取り除かねばならない。除草剤が使われるまでは、それらは手作業だったから多くの労力を要した。春先に苗代に種籾が蒔かれて少し芽が出ると、水苗代の場合は芽干しとか実干しといって、一昼夜ほど水を落したが、完全に水を切ってしまうと雑草が生えやすかったので、浅く水を残した。また、このときに雑草を抜いた。苗代は田植えまでに2回ほど草むしりを行った。田植えが終わると本田の田の草取りが行われた。通常、3回行われ、一番草二番草三番草、あるいは一番ゴ二番ゴ三番ゴ、または一番田の草二番田の草三番田の草といった。
 養蚕を大きくやっている家では、労力の問題で2回しかできないこともあった。一番草は田植え後10日から15日ほどして行われ、二番草はそれからさらに10日から15日ほど、三番草二番草から10日後くらいになった。田植えが6月下旬だった上植木の堤原では、三番草は7月下旬になるが、八斗島[やったじま]では田植えが7月中旬なので、三番草は8月20日ころになってしまった。大正末ごろ、八反コロガシとか八反取りと呼ばれる手押しの除草器が入ってきたが、それまでは、素手かさもなければ指に田の草ヅメ(爪)あるいは単にクダと呼ぶ円筒形のブリキなどをはめて四つ這いになって稲の根の周りをかき回して草を取った。こうすると土がほぐれて根の張りがよいという。取った草は、土の中に押し込むか、アゼに放り上げた。田の草取りは、暑い最中、四つ這いの姿勢で行う辛い労働であった。特に二番草ころになると、稲も伸びて葉先が顔や目をさすので、手拭いや網を被った。汗も目にしみた。なるべく暑くならない朝早くから始めて、昼休みを長くとるようにした。8月上旬ころ、マワリガリといって、田の周囲の草を刈って、稲の根元まで陽が当たるようにすることもあった。
 二百十日をすぎて、穂が出る前には、田の稗抜きを行った。稗[ひえ]は、まだ青いうちに抜かないと実がこぼれて翌年また生えてしまう。抜いた稗は、道端に置いて乾燥させ、燃やしてしまった。うっかり田の端に置いたり水路に入れたりすると、田の中に入ってしまい、次の年にまた苦労することになるので気をつけた。特に水路に入れるとそこの田だけの問題ではなくなるので、ほかの家から苦情が出た。田植えと稲刈りの間は、田の除草と水掛けが大きな仕事だったのである。[61~62頁]


田んぼの草取り 7月10日

今日も田んぼの草取り。毛塚一反田、終了しました。
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田の草取り(『上田市誌民俗編(2)』上田市、2001年3月)120頁
 上田市誌 第24分冊 衣食住とくらし
 第4章 生産・生業 第1節 稲作 6 田の草取り 下線は引用者
 田の中に出てくる雑草を取るために、また稲の分けつを促すためにと、3回から4回、田の草取りをしました。田の草取は中腰で田の中をはって雑草を取るという大変な重労働です。それぞれの除草の回数ごとに一番取り二番取り三番取りまたは、一番ご二番ご三番ごと言いました。休んで腰を立てるとなお痛くて大変でした。
 大正年間から昭和初年には、ころばし八反取り(田の草取りの農具)が使用されるようになり、手による草取りと併用されるようになりました。また畝間の中耕としてがん爪(熊手状のもので3~5本の曲がった爪をもつ農具)が使われました。
 石神での除草は①ころばしをかける(攪拌する)②はう(株間を除草する)③八反取りヌリツケ(最後の除草で、水を落しておき、塗り付けて固まらせる)の順でしました。ヌリツケは穂ばらみ前の(穂が出る直前)天気の良い日に、稲の葉先が目に入らないように網の面をかぶってやりました。
 東前山では、田植えから20日過ぎてからころばしをかけ、稲が60~70㎝になった7月ごろにがん爪で株の間を起こしました。下郷では、一番ごは、稲のまわりの土をぎゅうっと握って稲株から離し、草は押し込んで埋めて、稲がフラフラするほど、稲株を開くようにしました。稲の分けつを促すためでした。
 小学校尋常科を卒業して高等科になると、大人並みに田の草取りをさせられるようになったということです。
 除草剤の普及で、田の草取りの重労働がなくなったのは画期的なことでした。除草剤を効率良く使うためには、撒く時期や水田の水の調節が大変重要です。なるべく除草剤を使わないためには、今もころばしを使っている人もいます。

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