イチョウ科 GINKGOACEAE (勝山輝男・武智憲治)
落葉高木.葉は偏平に広がり,葉脈は葉柄付け根から二叉分岐を繰り返し,平行脈となり上部葉縁に達する.雌雄異株.雄花は細い軸に多数の葯をつける.雌花は花柄の先に多くは 2 個の胚珠を上向きにつけるが,胚珠の数やつき方には変化があり,1~7個までの変化が観察されている(川名 1991 野草57:19-20,山本 1992 野草58:66-69).受精は精子による.種子は球形,外種皮は肉質,内種皮は硬い.胚乳には葉緑体を含む.化石では世界に17属と多数の種が報告されているが,現世のものは1 属 1 種のみ.
→1.イチョウ属 Ginkgo L.
現生のものは中国中部にイチョウ1種のみがある.日本には自生種はない.
→(1)イチョウ Ginkgo biloba L.
樹皮は灰色を帯びた褐色で割れ目が目立つ.ときに太い枝から気根(俗に乳という)を下ろす.長枝と短枝があり,長枝の葉は螺旋状に互生し,短枝の葉は数個が互生する.葉は普通扇形で,秋には黄葉する.花は4~5月.種子の外種皮は黄褐色肉質で悪臭があり,これを除くと白色で硬く2~3の稜がある内種皮があらわれる.中国原産で日本には室町時代に渡来したと推定され,神社,公園,街路に多く植栽される.圏内でも各地に植栽され,ときに平地に逸出したものがみられる.植栽されたものには大木となっているものも多く,県の名木百選には鎌倉市鶴岡八幡宮(樹高20m,胸高周囲6.8m,推定樹齢800年)や茅ヶ崎鶴嶺八幡(樹高29m,胸高周囲9m,推定樹齢950年)のものなど10本が選ばれている.神奈川県の県の木に指定されている.
G003 イチョウ科 GINKGOACEAE (勝山輝男・武智憲治)
落葉高木.葉は偏平に広がり,葉脈は葉柄付け根から二叉分岐を繰り返し,平行脈となり上部葉縁に達する.雌雄異株.雄花は細い軸に多数の葯をつける.雌花は花柄の先に多くは 2 個の胚珠を上向きにつける.受精は精子による.種子は球形,外種皮は肉質,内種皮は硬い.1 属 1 種のみ.
→1.イチョウ属 Ginkgo L.
イチョウ 1 種からなる.
→(1)イチョウ Ginkgo biloba L.
落葉高木.雌雄別株.中国原産で,鎌倉時代に渡来し室町時代から栽培され始めたといわれている.神社や公園,街路に多く植栽され,県内では,ときに丘陵地や平地で逸出したと思われる幼木が見られる.また,街路樹として植栽されたイチョウの樹下には初夏に多数発芽していることがあり,ほとんどは消滅してしまうが,ごく稀に幼木に育っているものがある.逸出していると思われるが,確実に世代更新をしているといえるものはまだ確認できていない.県の木になっている.
イチョウが日本に渡来した正確な時期は不明ですが、一般的には鎌倉時代(13世紀頃)に中国から仏教とともに伝わったと考えられています。Wikipediaのイチョウの分布と伝播には、
複数の文献や研究によると、以下のような説があります。
平安時代以降:遅くとも平安時代(794年-1185年)には既に日本に渡来していたとする見解もあります。
鎌倉時代:中国の宋の時代に薬用や食用として栽培されるようになったイチョウが、仏教伝来とともに日本に持ち込まれたという説が有力です。
室町時代:日本に残る最も古いイチョウ関連の文字資料は、1370年頃に成立した『異制庭訓往来』であるとされており、この頃までには渡来していたことが確実視されています。
これらのことから、13世紀から14世紀頃には日本に広く知られるようになっていたと考えられます。
分布と伝播
耐寒耐暑性があり、強健で抵抗力も強いので、日本では北海道から沖縄県まで広く植栽されている[79]。北半球ではメキシコシティからアンカレッジ、南半球ではプレトリアからダニーデンの中・高緯度地方に分布し、極地方や赤道地帯には栽植されない。年平均気温が0–20℃の降水量500–2000 mmの地域に分布している[23][66]。IUCNレッドリスト1997年版で希少種 (Rare) に、1998年版で絶滅危惧(絶滅危惧II類)に評価された[1]。
自生地は確認されていないが中国原産とされる[3][79]。中国でも10世紀以前に記録はなく[30]、古い記録としては、欧陽脩が『欧陽文忠公集』(1054年)に書き記した珍しい果実のエピソードが確実性の高いものとして知られる[15][30][87]。それに先立ち、現在の中国安徽省宣城市付近に自生していたものが、11世紀初めに当時の北宋王朝の都があった開封に植栽されたという李和文による記録があり、中国でイチョウが広くみられるようになったのは、それ以降であるという説が有力である[87]。中国の安徽省および浙江省には野生状のものがあり、他の針葉樹・広葉樹と混生して森林を作っている[7]。
その後、仏教寺院などに盛んに植えられ、日本にも薬種などとして伝来したとみられるが、年代には古墳・飛鳥時代説、奈良・平安時代説、鎌倉時代説、室町時代説など諸説あるものの、臆測や風説でしかないものも混じっている[15][29]。六国史や平安時代の王朝文学にも記載がなく、鶴岡八幡宮の大銀杏(「隠れイチョウ」)を根拠とする説も根拠性には乏しいため、1200年代までにはイチョウは日本に伝来していなかったと考えられている[29][30]。行誉により1445年頃に書かれた問答式の辞書『壒嚢鈔』には深根輔仁『本草和名』(914年)にも記述がないとある[30]。
1323年(至治3年)に当時の元の寧波から日本の博多への航行中に沈没した貿易船[註 16]の海底遺物のなかからイチョウが発見されている[15][30][87]。1370年頃に成立したとみられる『異制庭訓往来』が文字資料としては最古と考えられる[30][87]。そのため、1300年代に貿易船により輸入品としてギンナンが伝来したと考えられる[30]。南北朝時代の近衛道嗣の日記『愚管記』(1381年)には銀杏の木について[87]、室町時代の国語辞書『下学集』(1444年)にも樹木として記載がある[30]。また、15世紀の『新撰類聚往来』[89] には、果実・種子としての銀杏(イチャウ)が記載されている。室町中期にはイチョウの木はかなり一般化し、1500年代には種子としても樹木としても人々の日常生活に深く入り込んでいったと考えられる[30]。……以下略…… [ ]内は出典番号
・堀輝三 (2001). “イチョウの伝来は何時か…古典資料からの考察…”. Plant Morphology 13 (1): 31–40、日本植物形態学会。.
日本へのイチョウの伝来時期は、従来の通説であった鎌倉時代説を否定し、室町時代の前期、およそ15世紀初頭が妥当であると結論づけられています。論文の主な論点は以下の通りです:従来の諸説: これまでイチョウの伝来時期については、飛鳥時代(7世紀)から室町時代(16世紀)まで900年にもわたる幅広い説があり、具体的な根拠や出典が不明確な場合が多かった。
古典資料の再検討: 堀氏は、源実朝の暗殺時に公暁が鶴岡八幡宮の大銀杏の陰に隠れていたという伝説(鎌倉時代)などの古典資料を詳細に検討した結果、これらの逸話が後世の創作である可能性が高いことを指摘した。
結論: 日本の古典文学や記録におけるイチョウの出現時期、およびギンナンの結実に関する記述の特徴から、伝来時期は室町時代前期(15世紀初頭)とするのが最も合理的であると結論づけている。
この論文により、イチョウの日本への伝来時期に関する学説は大きく見直されることとなりました。
























































































































































































































































