あれこれ






葉や花を昼間に開き、夜に閉じる運動を就眠運動と言います(⇒『植物Q&A』2007年8月21日記事)。『自然観察大学』のブログにはネムノキが昼寝もする(昼間でも葉を閉じる)という記事がありました(「ネムノキの昼寝」、「ネムノキの昼寝続報」)。両掌で葉をやさしく挟んで、“眠れ、眠れ”と呪文を唱えてどうなるか、観察してみましょう。
これを含めて京都大学農学部の四手井研究室と演習林のメンバーによる研究成果をまとめたものが四手井綱英・佐野宗一編『松と人生』(明玄書房、1973年)で、第四章生育第三節マツの樹形(118~134頁)が前掲論文の報告・討論。はじめに:アカマツは主として東北地方から九州地方にかけて天然分布し、その中には生長や形質のよい有名マツも多いが、各地域の生育環境が著しく異なるため、樹形や生長状態にそれぞれ特徴があるものと思われる。これを明らかにするために、1968~9年の文部省科学研究費(総合研究)による「マツ林の造成に関する研究」の中で、各地域の研究分担者が日本におけるマツ林の生育の実態調査を行なった。この報告はそれらの資料を代表者の佐野が集め、そのうちアカマツの樹形に関する部分を赤井がとりまとめたものである。
幹の傾斜:幹形に関係なく、横方向から対象木がほぼ垂直に成立しているか下方に傾斜しているかをみる
幹の曲り:通直なものと曲りに分け、曲りがあるものは著しいもの(大)と少ないもの(小)に分ける
根曲り:根元が曲っているものと曲がっていないものに分ける
二叉:二叉に分れている部分が樹冠内(上)か、幹の中程(中)か、下の方(下)かの3ツに区別する
[叉は「ふたまた」、又は「ふたたび」]ポストホルン(後角・枝がわり):二叉と同様ポストホルンの位置を幹の上、中、下によって示すアカマツ、クロマツは、幼齢期から壮齢期に至る過程において、主軸の先端部分がシンクイムシに食害されたり、あるいは風、低温などの気象害によって、物理的、生理的障害を受けることがある。その場合、その下の枝が背地性(垂直の方向に伸びる性質)を示して新しく主軸にかわる。しかし幹の形はカギ型に曲り、普通にはその形がいつまでも残っている場合があり、これをポストホルン(後角、枝がわり)という。このポストホルンが著しいと用材として利用できなくなり、大きな欠点となる。[124頁]
クリオオアブラムシ:カメムシ目アブラムシ科。全国の山林のクリ、クヌギ、カシ類に集まる昆虫。大きさは4㎜前後の大型のアブラムシで、全身黒色、触角は短く、脚は長い。有翅型の翅も黒色で、白い斑紋がある。翅 のあるものとないものとがある。春・夏はオスのみの単為生殖でメスの幼虫を胎生する。秋になるとオスを生み、有性生殖で卵を産み、卵で越冬する。クリ、クヌギ、カシ類の枝に集団で寄生して樹液を吸う (国営讃岐まんのう公園動植物図鑑HP)。
生態:卵越冬。青枝や小枝に群生する。春から秋の間に繁殖を繰り返し、数世代を経過する。6月頃、有翅の雌成虫が現れ、他の木に移動して繁殖する。晩秋に幹の株元近くに複数の雌成虫が集まって卵をまとめて産む。
※降雪・積雪・降雨・降水量(『違いがわかる事典』による)
降雪量は1時間、2時間などある時間内に降り積もった雪の深さ。積雪量は自然の状態で降り積もったある時点での雪の深さ。1時間前の積雪量と現在の積雪量の差が、1時間で降った雪の量(降雪量)。積雪は重みで沈んだり、解けたりするので累積降雪量と積雪量は一致しない。天気予報の「積雪あり」は観測所の周辺地面の半分が雪で覆われた状態、半分以上覆っていなければ「積雪なし」降雨量は雨だけが降った量。降水量は雨・雪・霰(あられ)・雹(ひょう)・霜など全てを水に換算した量。[2018年1月23日記事「大雪で積雪」から]
※降雪量と降水量の関係(『気象予報士瀬戸信行の「てるてる風雲録」』より)
降雪量と降水量の割合を比較したものを雪水比(ゆきみずひ、降雪量÷降水量)という。気温が比較的高い時に降るぼたん雪と気温の低い時に降る粉雪では、その比率が異なる(粉雪は約2、ぼたん雪は0.6~1.5)地上気温が低いほど密度が小さく乾いた雪(粉雪)となるため降雪量が多くなり、地上気温が高いほど密度が大きく湿った雪(ぼたん雪)となるため降雪量が少なくなる。[2018年1月23日記事「大雪で積雪」から]
降雪量の説明の前に、積雪深の時間変化の特徴を考えねばなりません。雪が降れば積雪深は増えるのですが、積もった雪は融解や昇華で消失したり、雪自身の重みで圧縮されることにより、深さが自然に減るのです。
つまり、雪が弱まると積雪深の差分がマイナスになるため、雨量のように単純に時間ごとの差分で累積計算してしまうと途中で減算され、降った量の統計としては正しいとは言えません。
そこで気象観測では、1時間ごとに積雪深を観測して差分を比較し、増加した分だけを累積計算して「降雪量」として記録するわけです。
このように「降雪量」は降った雪の量の統計を示すのには向いているのですが、数値がそのまま積雪の増加となるわけではないので、一般市民からはイメージが難しいという問題があります。
例えば2020年12月30日現在、気象庁は「1月1日18時までに予想される24時間降雪量は、北陸地方の多い所で80〜120cm」との情報を発表しています。24時間にわたり雪が降り続けて減少に転じなかった場合には「降雪量」がそのまま積雪増加量となります。ただ、雪の降り積もるペースよりも雪の圧縮されるペースが上回った場合には積雪深が減少に転じるため、「降雪量」よりも実際の積雪増加は小幅となります。
積雪深は圧縮されて自然に減る
降雪量は統計に向くが、イメージしづらい
今日12月18日(土)の場合、札幌ではいちども積雪深(雪の厚み)が55cmに達していませんが、24時間降雪量は55cmと記録されています。
(5)お雛粥・天神マチが教えるもの秩父郡小鹿野町の赤平川流域の集落には、お雛粥をはじめ天神マチ、十日夜など、子ども組が主宰する行事が行われてきた。天神マチは今でも続けられているが、お雛粥や十日夜の行事は姿を消してしまった。姿を消してしまった行事に対して、これらを経験してきた大人は昔を懐かしく思い、行事が失われたことを残念がっている。
天神マチなどを行っているときの子どもたちは、生き生きと自由な世界にひたっている。上級生は下級生をいたわり、下級生は上級生の始動に従い、秩序ある行動が取られている。行事の中の重要な難しい部分は上級生の役割であり、下級生には下級生の仕事がある。そして、いつでも上級生の持っている経験を通して得た知識は、仕事として下級生に伝えられる。例えば、お雛粥を煮ているときに「こういうふうにすれば火はよく燃える」などと、火の燃し方を教えている。学校や家庭ではえられない年齢を超えた連帯感が育まれる。
子ども組のまつりの楽しさは、普段と異なり、大人の指図を受けずに子どもだけで取りしきることだという。大人たちは、子ども組の祭りや行事に無関心かというと、そうではない。従って、祭りや行事の重要な部分については関与しないが、側面からの援助は惜しまない。天神マチの寿司作りには、自分の子どもがいるいないにかかわらず、宿に当たる家の隣組の親たちが手助けをする。また、トーカンヤ(十日夜)の藁鉄炮を作れない子どもには大人が作ってあげる。そして、子どもたちの集団が庭を叩きに来るころには、玄関を開けて待っているなど、非常に協力的である。子のように、地域の大人たちは、子ども組の祭りや行事を暖かく見守っている。
子ども組の祭りや行事は、子どもが主体的にかかわるが、地域全体から見れば地域共同体の下部組織としての子ども組の祭りや行事である。大人の指図を受けない自由はあっても、組織を逸脱した行為は許されないということを子どもたちはよく理解している。地域社会に密着した子ども組は健全そのものであり、子ども組が担う祭りや行事は決して野卑なものではないのである。そこには、子どもの社会教育の原点がある。今、子どもの教育に求められるものは、地域における教育であり、子どもの祭りや行事がその核となり得る要素を十二分に持っているはずだ。地域が子どもを育てていくことが大切である。大舘勝治『民俗からの発想』(幹書房、2000年)150~152頁
平成12年[2000年]の天神マチ
2000年(平成12年)1月22日(土曜日)、この地の天神マチを訪ねてみた。田ノ頭の耕地の様子は、16年前に見たその時と同じような静かな山間のムラで、長い時の流れもなかったかのように瞬時にタイムスリップしている自分に気付いたのである。
天神マチの会場は、旧田ノ頭支所(役場旧三田川出張所)の2階である。午後1時過ぎ、会場の支所の2階へ子どもたちが三々五々集まってくる。平成6年[1994年]、会場がここになるまでは、中学3年生のオヤカタと称すリーダーの家を会場に行ってきた伝統がある。
この日集まった子どもたちは、幼稚園児から中学生までの18名である。戸数18戸の耕地にしては若いお嫁さんが比較的多いこともあって、子どもも他の地区に比べて多いという。中学生5名、小学生11名、幼稚園児2名が正式のメンバーであるが、そのほかに母親と一緒の乳飲み子もいる。
子どもたちのほかに数人の大人がいるが、大人は天神マチのオヤカタになっている子どもの両親が当番として出席しているほか、小さい子どもが参加している母親が数人出ている。
2階の会場の広間には、天神様に奉納する習字を書く机が用意され、小さい子から順番で1人3枚ずつ掛け軸風の小さな短冊にそれぞれの願いを書く。中学生の子ども(男子)がつきっきりで面倒を見て、3枚書かせる。
順番を待つ子どもたちは、会場で思い思い遊んでいる。大きい子から小さい子までがにぎやかに会場を所狭しと遊び回り、あたかも18人兄弟の大家族の家庭にいるかのごとくである。遊びに夢中で「オシッコ」と慌てる子どもには、誰彼となくそこにいる母親がトイレに連れていく。日本の良き伝統的地域社会「地域が子供を育てる」という光景の一こまを見る思いである。
3枚の小さな短冊が書き終わると、最後に、書き初め用紙3枚をつなぎ合わせた長い短冊に、昔からお手本とされる漢詩を皆で一字ずつ書き、皆の名前を添書きする。
こうしてすべての習字が終わると、裏山の中腹に祀られている諏訪神社(天神様が合祀されている)に向かう。すでに太陽は山の端に隠れて寒さが身に沁みる時刻である。社殿の前にあらかじめ用意されている大きな笹竹の笹に願い事を書いた短冊をつるし、長い大きな短冊は竹の上の方につるし、立ち木を利用して立てられる。まるで冬の七夕様である。子どもたちはそれぞれ天神様を拝んで会場に戻る。
皆で夕食をとり、お菓子を食べ、夜遅くまで楽しく遊ぶ。遊びの企画は上級生の中学生によるもので、「肝だめし」などが盛り込まれている。
秩父郡小鹿野町では、2000年1月現在このような子どもたちの天神マチが田ノ頭の耕地のほかに上飯田、松坂、栗尾、和田耕地で行われている。少子化社会で、各地の貴重な伝統行事の存続が危ぶまれる中で、田ノ頭耕地の天神マチは行事の一部は簡略化されたが15、16年前と同じように続けられ、地域に機能して生きていることに感動した。そこにはかつて地域のどこにでもあった子どもたちの年齢を超えた交流、親と子の交流、地域が子どもを育てた民俗の心がある。天神マチは子どもたちが社会性を身につける地域教育の場であり、また地域文化を創造していく原点でもある。大舘勝治『民俗からの発想』(幹書房、2000年)147~150頁
昭和59年[1984年]の天神マチ
昭和39年[1964年]ごろまでお雛粥の行事が行われていた秩父郡小鹿野町三山の田ノ頭の集落は、戸数18戸ほどの小さな村である。この集落には、現在、小学生から中学生までの子どもが十数人いて、子どもの伝統的な行事、天神マチ(天神講)を行っている。
天神マチは、1月25日に行われるのが一般的であるが、ここでは、現在25日に近い土曜日から日曜日にかけて行われている。土曜日の晩にオコモリといって一泊しても、翌日が日曜日でのんびりできるというのが変更の理由である。
天神マチを行う子どもたちは、小学校1年生から中学校3年生までの男女である。数年前までは男女別々に行っていたが、子どもが少なくなったために合同で行うようになった。また、昭和58年[1983年]の天神マチから、同じ理由でその年に小学校へ入学する幼稚園児も加入できるようになった。上級性の子どもが「天神マチに入って下さい」とお願いに来るので加入するのである。
上級性の一人がカシラ(オヤカタ)になって采配を振るい、その他の上級生は補助役となって行事は遂行される。
天神マチの準備は、天神マチが行われる一週間前の日曜日に、上級生が子どものいる家を回って、寿司を作る米を集めることから始める。以前は前日に集めたという。集める米の量は、1人につき3合であるが、子どもが4人いても2人分出せば良い。古くは、1人につき5合で、一家で子どもが3人参加するとなると1升5合の米を出す習わしであった。
この米で寿司を作るが、寿司を作るのは上級生の母親たちである。以前は子どもがいるいないにかかわらず、天神マチの宿になる家の隣組5軒の母親が集まって寿司を作るしきたりであった。つまり、地域の行事として行われていたが、子どもがいないのに準備に出てもらうのは頼みにくいということになり、上級生の子どもの母親が出て寿司を作るようになった。天神マチを伝承する基盤が変化を生じたのである。
天神マチの寿司はたくさん作り、米を出した分だけ子どもの家に届ける。したがって、子ども一人につき5合の米を集めていた時代は、兄弟で何人も参加していると、大量の寿司が届けられたという。今では寿司もそれほど喜ばれなくなり、集める米も少なくしたといわれる。
母親たちが集まって寿司を作る家は上級生の家で、その家を「天神マチの宿」という。子どもたちは、土曜日の午後からこの宿に全員が集まる。母親たちが夕食に食べる寿司を作っている間、子どもたちは習字を習って天神様にあげる旗を書く。この旗は「書き上げ」といって、一本の竹に全員の習字をつるして天神様へ奉納するのである。
夕食の準備ができると、母親たちはかえってしまい、後は子どもたちだけの時間となる。楽しく夕食を済ませると、歌を歌ったりトランプなどをして遊ぶ。そしてその晩は、オコモリといって宿の家に泊まるのである。オコモリができるのは2年生から上で、幼稚園児や1年生は夜10時ごろ、上級生に送られて家に帰る。
この夜は、近隣のどこの集落でも天神マチが行われていて、他地区の子どもたちが御馳走を持って遊びに来る。子どもたちは互いに御馳走を交換して食べたり、トランプなどをして一晩楽しく過ごす。
田ノ頭地区では、むかしから寿司を作るが、近隣の和田、栗尾地区では餅を作り、この夜、互いに交換して食べる習慣がある。なお、他地区に遊びに出かけられるのは上級生だけである。
天神マチに必要な経費は、以前は子どもたちが行う夜番(夜警)謝礼金とトーカンヤ(十日夜)の祝金ですべて賄っていた。夜番も十日夜の行事もなくなってからは、地区の大人の新年会の席で寄付を集めて、この金を子どもたちに渡している。
子どもたちが行ってきた夜番とは、12月1日から2月末までの夕方6時から鉦を鳴らしながら地区内を回る夜警の仕事である。2人1組で交替で行い、謝礼を得ていた。しかし、地区の子どもが減少してから、順番がすぐに回ってくるのでかわいそう、ということで中止になった。同じ夜番でも大人の方は今でも行われている。
天神マチの経費に使われた十日夜の祝金は、旧暦10月10日の秋の収穫祭である十日夜の行事を行っていただいたものである。
十日夜の行事は、天神マチに参加する男女の子どもたちが、藁鉄炮を持って地区内の各家々の庭を叩いて回る行事である。「トーカンヤをはたかしてください」といって各家に断り、上級生を先頭に並び、号令を発して藁鉄炮を打つ。
「トーカンヤ、トーカンヤ、十日の晩はいい晩だ 朝ソバキリに昼団子 ヨーメシ食ったらひっぱたけ 貧乏神をはたき出せ 福の神をはたき込め」と唱和して藁鉄炮を打つ。
各家では祝い金を子どもたちに出すが、祝い金が多いと最後の文句を2回唱和して志に応える。この祝い金を翌年の天神マチの費用に充てるのである。天神マチを男女別に行っていた当時は、十日夜の祝い金を男女等分にして天神マチの経費に充てたという。
その十日夜の行事は、昭和40年代前半に[1960年代後半]に学校からの指導により、やむなく中止したといわれる。その理由は、十日夜の行事で子どもたちが藁鉄炮を叩いて祝い金をもらって歩くことが「下卑た振る舞い」との評価からである。
ムラの人たちは、古くから行われてきた行事が中止になったことに驚いたという。十日夜に子どもたちが訪れて来るのを親たちも楽しみにしていたからで、今でも十日夜の行事がなくなったことを残念に思っている人が多い。
子どもたちの祭りや行事を調べてみると、学校からの指導により中止になったというものが、思いのほか多いのに気づくのである。大舘勝治『民俗からの発想』(幹書房、2000年)144~147頁
どきょうだめし 一年B組A・K
いよいよ冬休みだ。ぼくたちは冬休みに、はいるとすぐ天神講をする。宿は三年生の家でし、終ってからどきょうだめしをすることにした。
ぼくたち一、二年生は、おどかされる方で、三年は、おどかす方である。三年でもあんがいおくびょうものがいる。ぼくたちはそれよりこわかったにちがいない。宿の家から出て百メートルばかり右にいき、それから、こんどは五〇メートルぐらい坂を登る。その坂はまわりから大きな木がかぶさりまっ暗である。登りきるとそこにお墓がある。そこには、まだこのあいだ死んだばかりの人の墓がある。三年生は、そこから、ゆうれいが出るとぼくたちをおどかした。ぼくたちはもうこわくてこわくてしかたがない。その墓をすぎるとまた登り坂である。そこを、まっすぐいくとそこに小さなお堂がある。そこにいって、あめをとってくるというわけである。
時計が八時をうつ。三年生はみんなをおどかしにいった。第一にTがいくことになった。Tは、あんがいおくびょうであるが口先では、「なあにおっかなくないさ。」といっていた。いよいよ三年のあいずがあったのでTは出ていった。
あとにのこったY、U、U、Wに僕である。つぎつぎと番はすすむ。いよいよぼくの番である。空には、月がなく星だけがきらきらと光っている。きゅうにUが、「流れ星だ。」と言った。流れ星というのは、なんてきもちのわるいものだなあと思った。ぼくは出発した。まっ暗な道をぐんぐんいくと登り坂にかかった。あたりは、しいんとしてただ遠く犬の鳴く声と、ぼくの歩く足音がするだけである。まっ暗で何も見えない。かんでぐんぐん進む。ときどきほりにおちたり石につまずいたりして、やっと明るい所に出た。そこがお墓である。ぞっと、せなかに水をかぶったようないやな感じがした。そこから、もどろうと思ったが、みんなにわらわれるのが、はづかしいので、しかたなく行った。五〇メートルばかりむこうに、あかるい所が見える。そこにお墓があるのだ。いよいよ墓である。星の光があたって石塔が青白く光って見える。墓所のそばをとおる時からだが、あつくなるのを感じた。そこは、かしの木がおおいかぶさって目がいたいほど暗い。遠くにぼんやりと火の花が見える。お堂の所においてあるちょうちんの光である。そこをめざして歩っていくと、、ぼくは「あっ」と大きな声をだした。なにかぶつかったようにかんじた。よく見ると、三年のはったなわである。声をだすまいと思ったが声を出してしまった。しばらう行くと、お堂についた。そこには、あめがおいてある。ぼくはそれをとるとまた歩き出した。こんどは前よりも暗く、遠くに家のあかりがぼんやりと見えるだけで、なにも見えない。風が葉のないくぬぎの木をならしている。かおがあうとほど寒い。ぼくはめくらめっぽう歩いた。そして大きな松の木の横をまがって、しのやぶへはいった。そこには細い道がでこぼこしていて歩きにくい。きゅうにへっこんでいるので、かくんとする。あっちにつまずき、こっちにつまづいて、やっと家のあかりが見えて来た。
しばらく歩いてやっと家についた。家にはいったら目がきゅうにかるくなった。そして口々にこわさをいいあった。冬の夜は、星が青白く光り北風が木立をならし、寒さをよけいきびしくかんじる。冬の夜はとてもさびしいものである。菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』11号 1960年(昭和35)3月
今年の冬休み 一年D組 長島正美
暮れのうちと、いっても、冬休みに、入ってすぐの頃は、とてもたいくつだったが、三十日の朝、もちをついてからは、本を整理したり、庭の掃除を、したりして、とてもたいくつといって、いられなくなった。
三十一日の夜、兄と弟はとなりの家へテレビを、見にいったが、ラジオの歌の日本シリーズが聞きたかったのでいかないで、ラジオを聞いて、風呂に、入ってすぐねた。十二時少し過ぎた頃目がさめた。そうしたら除夜の鐘がなっていて、兄たちも帰ってきていた。
一日の朝も今年は、祝賀式もないので、朝おそくまで、ねていた。二日間は、なにもなく三日に、親類の人が子供を一人連れてきた。それで急に、にぎやかになった。四日目は、天神講である。朝、九時に始まるので、八時頃から、隣の子と、野球やバトミントンを、して遊んで、九時頃、家を出発して、宿(やど)へいったが少しみぞれがふってきた。八幡様へ行く時も、途中で休んだりして、すっきりしないで、あまり面しろくなかった。昼からは、晴れたが、庭がぬかっていたので外で、遊べないので、しかたなく中で、台つぶれや、トランプ、かるたなどをして、じきに帰った。六日に東京から、大人一人、子供二人が、きた。二人とも男の小学生で、野球をしたり、ゴルフ場へいったりして、次の日の十一時頃、帰った。後の残りの日は、のんびりと、遊んだ。今度の冬休みは小学の時の、冬休みと、たいして、かわりなかったが、しいて、いえば、漢字帳を、書いたことである。いつもだら、何もしないで遊んでしまうものを……。菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』12号 1961年(昭和36)4月
天神講 三年B組 長島睦子
一月四日。これは私達の長い伝統を持つ天神講である。
朝八時頃集まって、皆、手に筆を持って、「天満天神宮」などと書いて、神社へお参りするのである。それが終って昼食、前年までは、「あんこもち」のお昼であったが、今年から私達の要望した「寿司」に変った。これはまあ、私達にとれば前年より変化があり良かったと思う。その次三時になると「お茶」、茶菓子とお茶などが、個人に配られる。飲み、食べ、遊んで六時に開散と、ざっとこんな内容である。小学校時代には、天神講と意味も知らずに、ただ遊ぶだけのおもしろさだった。ところが中学生になると意味が、ちょっと解りかけてきたと同時に、「つまらない、おもしろくない。」というようなよけいな考えが育ってしまった。小さい頃のまちどうしいどころではなく、日が近づくに従っていやになる。こんな始末だ。よくない考えだ。今年は、中学三年生。しかも下級生を指導する立場におかれる親玉となるわけだ。しかし、私は身分ばかりで任務は何一つ果せないのである。下級生に対して、申し訳のない次第だ。
当日「つまらないなあ。」と言いながら出掛けようとすると兄が、「おまえが皆をおもしろくさせなければならないのだ。」と言われたものの、朝は遅刻してしまい、遊び時間は、部屋の片隅で、数人でトランプなどして遊んでという自分勝手な行動。しかし、小さい子はそれなりにふざけあったり、にぎわったりしている。それを見てほっとする。
残念ながら、皆一緒になって楽しく遊ぶことが出来ないうちに短い一日は終ってしまった。
こんなだから、すなわち、自分達で自分をつまらなくしているようなものだ。
今年で天神講というものは、私達三年生にとって最後だった。今考えて見ると、今年はもちろん、九ヶ年間やって来たが思い出深い事はあまりない。来年度からはもっと楽しいものにしていただきたい。菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』12号 1961年(昭和36)4月
一月四日 三年三組 大野トク
いつものくせで今日もつい朝寝坊をしてしまった。ふすまの間から射しこんでくる光で目がさめた。床に少し入っていたが、ふと「そうだ、今日は天神講だったっけ」と思いついたので、はね起きた。そして隣りの部屋に行って見ると、川口から来たお客と、小岩と、高坂から来たお客と一緒に妹はもう目をさましたまま、まだ床に入っていた。
「幸子、今日は天神講だから、早く起きないとおくれるよ、もう七時だよ」といって、急がせて起こしてしまった。
顔を洗いに行くと、もう太陽は東の空に気持よく上っていた。
「今日も又、良い天気でありますように」朝日はお祈りしながら、歯をみがいていた。朝飯をすましてから又も妹を急がせた。
「早く半紙を三枚出して、半分に切ってくれよ」妹に云ったら母が「どうせ幸子が切ったんじゃだめになってしまうから、自分で切った方が早いよ」といわれたので、しかたなく、「じゃあ、すずり箱を出してみ」といったら妹はすぐもって来た。
「そうだ、母ちゃん重箱は?」
「母ちゃんは手伝いに行くんだから、忙しいからおばあちゃんに出してもらいな」といって出かけてしまった。
私はもうおそいと思って気が気でなかった。でもすぐ出してくれたのでよかった。これで大体仕度がそろったので、私と妹は出かけた。宿の家に行くと、もう男の子が五、六人女子が三人で、たき火をしていたので「もう篠は取った?」と聞くと「もうとっくだよ!」と云われたので安心した。
「たけおさん、もう八時になった?」
「もう八時はすぎたよ」との答えだったが、まだ幾人も集っていなかった。でも少したったら大体集合した。
そこで天神様に供える習字を書いて、八幡様に納めにいって来た。それからは遊んだりお茶を飲んだり、トランプなどをしたりして楽しく過した。そして最後に、
「私達三年生は、もう最後だから『螢の光』を歌おう」といって、全員(三十一名)で歌った。
このようにして最後の天神講を楽しく、ほがらかにすごしたのである。菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』7号 1956年(昭和31)3月
天神講 一年 中島敏子
私たちの一年中で最も楽しい天神講は一月五日だ。待ちに待った天神講の日がやって来た。朝寒い頃から、小さい子供達は、うれしくてしかたがないのか、私の家に、
「もう行ってもいい。」
とまちどうしいように言って来た。私が、
「まだ早いよ。」
と言っても、きかずに私をむりやりに宿の家まで連れて来てしまった。私は、半紙を切ったりする。
千枝子ちゃん達は、すみをすって書く用意をしている。そのうちすみもしだいにこくなったので小さい子から順番に書き始めた。
全部で人数は二十一人です。やがて書いているうちに全部書き終りました。書き終って、十五分ぐらいで男と女で羽根つきをし、八幡様へ全部で納めに行って来てから、又さっきの続きをした。
男子がとうとう勝った。もう昼近くなったので、おぜんを並べてぼたもちを配ばったり、とうふ汁を配った。くばり終ってから、小さい子をみんな呼んで昼食を食べた。昼も食べ終ってじゅうばこを取りに行った。帰ってきたら羽根つきをしていたので羽根つきにまじった。
羽根つきもあきたので、私と正子ちゃんで男子が、べいごまをしているのを見に行った。なかなかおもしろいので見ているうちに、三時ちかくなってしまった。三時のお茶休みには、茶菓子が出る。
その菓子は、天神講が五日なので四日に買いに行くことになっている。毎年男子が買いに行くのだが、今年だけ女子が買いに行った。菓子を買って来てから千枝子ちゃんの家で分けた。男は、大豆、あずき、米、茶菓子を集めた。
そのうち、お茶休みも終わり、皆と県道の方へ行った。すると、二人ばかりのイラン人が通りかかった。小学生はイラン人がめずらしいのか、イラン人の後をぞろぞろとついて行った。私たち中学生も、後の方からついていった。ちょうど通りかかったところから、五〇〇メートルぐらい行ったところに井戸をほっていた。イラン人は、立ち止まって、何かしきりにわけのわからない、イラン語【ペルシャ語】で話していたが、やがて井戸を掘っているのを手伝っている人達に、
「さよなら。」
と言って立ち去った。その時私は、
「このごろイラン人はなかなか日本語が上手になってきたなあ。」とつくずく感じた。なぜと云えば、ハーモニカで、「お手々つないで」とか、いろいろ童謡を吹いたり、歌ったりしているのを聞いたからです。と思っているうちに皆がもとの天神講の宿の家まで引き返して行ってしまったので、私もいそいで帰った。庭でみんなが集まって何だか話をしている。近づいて行くと、かんけりをする相談をしていた。話がまとまり、かんけりを約三十分位したが、ある人が、こんどは千枝子ちゃんの家の前の坂でやろうと言いだしたので、そこへ行くことになった。でも十分位遊んでいるうちに、あたりは薄暗くなったので中学三年の守ちゃんが、
「もう帰るか。」
と言ったので帰った。
帰ってから、すぐトランプをしているうちに夕飯の仕度をした。夕飯も終わったので、こんどは小さい順に歌を歌った。
審査員は中学二年の栄さんと中学三年の守ちゃんです。かねを四つもらった人はキャラメルを四ついただけることに決めた。私は二個いただいた。キャラメルを四つもらった人は三、四人だった。又トランプをした。そのうちにマラソンを終えて、進さんが帰って来て、こんどは、
「歌った人には、キャラメルを二つずつくれるよ。」
と言ったので、皆歌って、キャラメルをいただいた。歌い終ると、進さんが、記念写真を撮って下さいました。
全部で写そうとしたけれど、残念なことに少しの人が入らないので、男女別にしました。最初女の子が写し、その次に男全部で写した。その後で、私と、とみちゃんと正子ちゃんで写していただいた。まだ他に写していただいた人もいた。
ふと時計を見ると九時近くになるところだった。予定では九時だけれど写真を写していたので少しおそくなってしまった。
宿の人と別れて五、六人一緒で家へ帰った。夜道は明るく、歩く足音は昼間とちがってとても大きく聞こえた。
皆寒いのか背中をまるめて、いそいで歩いて行く。
もう家もすぐ目の前に近づいて来た。菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』9号 1958年(昭和33)3月
天神講 一年 杉田けい子
天神様と言うのは菅原道真を祭ってあるのであって、字がじょうずになるように(天満天神宮とか天神様)と字を書く。そし又字がじょうずになるだけでなく、文学、たとえば勉強ができるようになる。だから天神様をすることは結構なことであります。
と校長先生がおっしゃいましたが、私の方でもその天神様を五日にしました。
宿は私の家です。では前の日からお話しします。
中学生の女子が四人手伝いに来てくれました。寒いうちに米二合、あづき、さとうなどを集めて来て、ちょうど十時ごろだったので母が、
「どうもすみませんでした。じゃあお茶を入れますから。」
と言って、まもなく持ってきて、
「どうぞ。」と言った。けれども皆んな遠慮してなかなか飲まないから私が茶碗を一人、一人わたしてやりました。休みにすこしバトミントンをして遊ぶと二年生のゆき子ちゃんが、
「けい子ちゃん、芋洗いなんかするんだべ。」と言った。
「私は知らないから母に聞いてくらあ。」
といって家にかけこんだ。
「かあちゃん、皆んなが芋洗いなんかするんか、と言ったけれどどうする。」
と言うと母が、
「皆んながしてくれると言った。」
「うん。」
と言うと、
「じゃあ、してもらうか。」
と言った。そして私は「庭へ行ってたるに、こんぶがふやかしてあるんだけれど洗って出してくれる。」と言って、私が野菜かごを持って井戸ばたに行った。たるに入れてあった水はとても冷たいので汲みたての水ととりかえて洗い始めた。
四人で洗ったからあっと言う間に洗いきってしまった。それが、すむとこんどは芋洗いでしたので、私が芋出しに行き母に、
「芋はどのくらい出したらいい?」と聞くと母が、
「バケツ二はいぐらいでたくさんだよ。」と言った。
皆んな一生懸命仕事をしてもらったので母はおおだすかりと言っておりました。又芋むきまでもしてくれた。これで終ったので皆んなに、
「ありがとね。」と言った。
皆んな昼になったので家へ、家へと足を進めた。半日すぎていよいよ夜になると母は煮物でいそがしそうだ。私は風呂に入り八時ごろ寝床につきました。けれども色々なことが考えられて眠れません。習字も書いてないし、作文も書いてない。こんなことを考えると天神様なんかしたくなくなってしまう。
その二日間のうちに習字と作文くらい書ける。私はついに声を出して、
「天神様なんかしたくない。」
と言ってしまった。そして、いつの間にか眠ってしまった。朝の明けたのも知らず起きたら七時をすぎていた。
父に「鼻がつまって風邪をひいちゃった。」と言うと父は、
「おまえはよわいな。一年に何回風邪をひくのか。」
といわれた。でも起きて御飯を食べて掃除が終ったら、庭でバトミントンをつく音が聞こえたので出て見たら、千代子ちゃんが来ていたので、母にもう遊んでいいと聞いたら、
「掃除をしたのかい。」
「うん、掃除はしたよ。」と言うと、
「じゃ皆んなと遊びな。」と言った。
皆んなとバトミントンをしたり、うしろむきなどしているうちに十時ごろになってしまったので、私が墨とすずりを出してえんがわですみをすってもらった。そのうちに私が筆を用意して書き始めた。小さい順に書かせた。一、二年生は、「てんじんさま」とひらがなで書き、初めは、大きい人が手を取って書かせた。それから三、四、五年生は「天神様」と漢字で書き、もう三、四、五年生になると自分でざっさと書いてしまう。
いよいよ私たちの番になったので私は「天満天神宮」と書いた。これで全部書き終ったので、こんどは書いた紙にしのをまきつけて、その上のまん中に穴をあけて糸を通して竹につるす仕事をした。
これはだいたい大きい子がしのをはりつける。小さい子が竹につるす。こう言うふうにしてからすぐに終ったので、八幡様へ納めに行くのです。その途中ぬまで氷すべりを四、五人の男の子がしていた。ここの氷すべりは私が六年生の時に先生から注意されたのですが、まだしておりますが、氷すべりと言うのは面白いのでしょう。
こんなことを思っているうちに、お寺の近くになった。男の子がお寺から台を借りて運んで行く所だったので女の子も皆んなして手伝って家まで運んでやった。
そして又仲よく遊んでいるうちにお昼近くになったので中学生はお膳や皿など洗ってくれたので、早く昼食ができました。皆んなで楽しそうに食べ始めたが、二人こない人があったので、私たち大きい生徒が迎えに行ったら、どこかへ行ったと話を聞いたので、私たちも食べ始めた。千代子ちゃんの母がお給仕をして下さった。皆んな、ぼたもちや色々食べて嬉しそうでした。
食べ終ると、トランプやすごろくをして遊んでいる時、小さい子がトランプにまぜないとか、悪口をいったりしてけんかをしてしまった。
だから私が小さい子の面倒をみながらバトミントンをして遊ばせました。その時、私の父は白菜を運んでいたら、歌子ちゃんが、
「小さい子はトランプにまぜない。」
と言ったら父は、
「どうして。」
とただひとこと言っただけでした。こんなことをしているうちに三時になったのでお茶にしようとかたづけた。
昼から男の子は一人残っているだけで、玉川会館に映画を見に行ったから、人数が、少なくなってしまった。私たちは、お茶、お菓子、煮物など食べながら、歌を歌ったりとてもにぎやかだった。まさ子ちゃんなんか勇気があって、
「おれ歌うよ。」
と言って、じょうずに歌ってくれた。小さい子はふざけることもあるがしんけんに歌うこともある。中学生はただだまっているだけでした。又、
「菓子七円、みかんが十五円だから二十二円。おらあちは三人だから六十六円。ほれ。」
と、私に百円さつを出した子もいた。だから私は、
「お金はいいんだよ。」
と言った。
そのうち楽しいお茶休みもすみ、皆んなでかんけりをしていると、男の子が映画を見に行って帰ってきたので、私は、
「タイム。」
といって、お茶をわかして男の子に出しました。そのころ時刻は四時ごろだったので、まだ羽根つきをして遊んだ。
ふと県道を見たら、イラン人が通るのに気がついた。皆んなが見に行こうといってかけだした。県道についてすこし待っていたらきて、イラン人に皆んなが、
「さようなら。」
と言ったら背の高い方の人が手を振って、かた方の人がちょっとアクセントがちがうが、
「さようなら。」
と言った。イラン人をずっと見ていたら立ちどまってなんとか言っているようすでした。そこへ弟が自転車できて、
「いまイラン人が人参をさして、『これ人参でしす』と言ったよ。」
と話した。
そして、又私の家にもどってきて、皆んなが私の母に、
「ごちそうさまになりました。」
と言ってから、すこし「アウトおに」をして帰りました。
夜になって私は天神講の反省をしました。
一、お茶の時などすこしうるさかった。でも小さい子が多かったからやむをえないかとも思った。
又小さい子の遊びがなかったため、家に帰ってしまった子が二人あった。来年からは小さい子の遊びを考えたいと思います。菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』9号 1958年(昭和33)3月
天神講 1月25日、上唐子地区は大字の行事として執り行われた。また、これを「天神祭」ともいわれた。その当時は、「奉納天満天神宮」と書いた書き初めを小学生全員で村の鎮守様(天神宮が合祀されている)に数多く奉納された。そして子供達は6年生の家(比較的恵まれている農家)に集まり、その家の親が手伝ってくれて、各人の持ち寄った米5合(約0.9リットル)、小豆2合(約0.36リットル)位のもので、にぎやかに食べながらケンチンジルと少しのお菓子などでカルタなどで夜9時頃まで遊んだものである。下岡地区では、24日6年生が先になり字の下級生と、米2合、醤油、砂糖、野菜などを集め宿(6年生の家が持ち回る)でご馳走を作ってもらい皆で食べる。この時「奉納天満天神宮威徳御菶殿」と書き方練習をし翌25日に天神様に奉納した。なお明治大正の頃は宿の家におこもりして翌日奉納したという(習字が上手になるようにと旗を書き天神様に上げた)。日吉町、本町一丁目、元宿の子供達は、25日書き方練習をして元宿の天神様に奉納した。(習字が上手になるように「奉納天満天神宮」と書いて納める)。天神講は子供たちにとって、習字を書いたり御馳走をたべたり、子供たちの信仰と社交と娯楽を兼ねた行事だった。(『東松山市史 民俗編』1983年、295頁)
菅谷上組の天神講 田幡憲一
菅谷の子供の楽しみの一つに天神講があった。十二月二十四日、俺たち小学校【菅谷村立菅谷尋常高等小学校。現嵐山町立菅谷小学校】の一年生になった者は、風呂敷に包んできた通信簿を座敷に放りだして、天神講だと言って家を駆け出して行く。今年から天神講に参加できると喜んだものだ。高等二年の上級生、高等一年、小学六年、皆大きくたくましく兄貴のようだった。上級生が学校から帰るのを待ち構えていた。昭ちゃん、良平さん、秀夫さん、みんなが帰ってきた。さあこれから天神講だ。
高等二年、一年、みんなで米を入れる袋、醤油ビン、油のビン等をもって、天神講に参加する子供の家を廻る。米二合、人参一本、又次の家では米と大根一本、醤油茶飲み茶碗一杯、油茶飲み茶碗一杯、ゴボウ一本……。上級生の後ろについて歩きながら家々を集めて歩き、今年の宿(やど)をしてくれる家につくころには、荷物が一杯集まった。
そして子供達も大勢集まり、上級生の命令で、これから山に薪を集めに行くものと、笹竹取りに行くものとに別れて出掛けて行く。皆協力して枯木を集めて縄でいわいて運ぶ。夜と朝との自分たちで使う物はみんなで共同で集めて、宿をしてくれる家へもって行き、宿のおばさんに渡した。
宿をしてくれる家では、二部屋続きの座敷を開放して、子供たちに自由につかわしてくれた。子供たちは共同ではたらき、今晩の天神講の宿での、一同に会しての晩飯を楽しみにしながら、上級生の指示に従い、髪と筆、 硯、紙も小さい子供には初めての唐紙(トウシ)という長い紙でした。その紙に上級生がお手本を
奉納 天満天神宮
と書いてみせて、下級生の手をとりながら書いて行く。全員書き終わり墨が乾くまで、座敷いっぱい並べて、うまく書けた子、書けない子、うるさいこと……。
その間にも、年上の子供たちは先程取ってきた笹竹を適当な長さに切り揃え、長いものと旗の頭につけるものとに分けている。そして乾いた紙の頭に糊をつけて笹竹に丸く張り付けて、竹の両方の端を糸で結び、長い笹竹につるしてできあがり。
そろそろ先程集めたゴボウ、大根、ニンジン、いろいろのものを宿のおばさんが料理している匂いがしてくると、子供たちはなんのご馳走ができるのかとひそひそ話。その間にも、上級生たちは習字の道具を片付けたり、掃除をしたりして、宿をしてくれる家に迷惑の掛からぬ様にと気を使っている。自分たちの事だから自分たちでするのが当り前だ。
夕方近くなると上級生の命令で、みんなが家に帰り、ご飯茶碗と箸を持ってくる。上の人たちは、ご飯のちゃぶ台を借り集めて持ってくる。いよいよ待ちに待った夕ご飯。それぞれの絵のついた茶碗に、おいしくできた五目ご飯をよそる。宿のおばさんが一番大変だ。急に子供が十六人。おいしいおいしいとお代わり。もう五杯もたべた。俺は四杯。豆腐のつゆもうまい。食欲旺盛だ。みんなで食べれば何でもうまい。おばさんの作った五目ご飯はすぐになくなる。皆満腹だ。
いじめなどない、塾もない。皆、上級生の命令に従いついて行く。そして、自分も早く大きくなって下のものの面倒をみるのがたのしみだ。
またまた、上級生の命令がでる。今夜泊まるものは布団一枚、家からもって来るようにと。小さい子供は母親が布団をもってくる。布団を敷き、これから上級生のこわい話。雨の夜、土葬の墓の上で青い炎が燃える話。これは、亡くなった人のリンがたち昇る、いや死んだ人の身体からでる油だとゆう話……。又小学校の南西二百メートルぐらいの、山の中の焼場のこわい話。昭和十六年(1941)頃まで使用していた伝染病や肺結核で亡くなった人を火葬したところ。薪に油をかけてもやしていた話……。皆布団の中から首をだして先輩たちの話に長い夜を過ごした。そしていつしかいびきが多くなり眠りについた。
朝六時に起床。顔を洗い、皆寒い寒いと震えている。泊まらなかった子供たちもみんな集まってくる。昨日作った天満天神宮の旗をこれより神社へ奉納しに行くのだ。みんなそろって旗を持ち神社まで行進する。神社には上組・中組・下組、それぞれの子供たちが旗を収め、頭がよくなりますようにと天神様を拝む。
宿へ帰り、宿のおばさんが作った朝ご飯を食べてから全員で遊び、夕方それぞれ解散。子供たちは一年一回のこの天神講をどれほど楽しみに待っていたかがよく分かる。(1995年8月記)






1.はじめに霧ヶ峰高原の標高1500m以上には、約1000haという日本最大規模の亜高山帯の草原が広がっている。降水量の多い日本列島では、高山や海岸風衝地に成立する自然草原を除けば、何らかの人為的干渉がなければ森林が成立する。そのため、多くの草原は人間による火入れや採草、放牧などにより形成された二次草原である。霧ヶ峰高原の草原も採草利用により維持されてきた二次草原であるが、採草利用の停止により草原の森林化がすすみ、草原景観の消滅や草原性動植物の絶滅さらには生態系全体への影響が危惧されている。2. 調査地の概況
近年、県や市町村、NPO等により草原を保全する取組みが行われつつあるが、草原と山麓集落との関わりの変遷を把握することは、今後の草原保全に多くの示唆を与えてくれると考えられる。
これまで霧ヶ峰高原の草原と山麓集落との関わりについては、草原化の起源が鎌倉時代であること、近世以降霧ヶ峰高原は肥料や飼料となる草の採取に利用され近世末には全域が草原となり、明治以降化学肥料の普及により採草利用が減少し草原の縮小が始まったこと、昭和初期には標高1500m以上は秣の採取に利用されていたこと、昭和初期の秣の具体的な採取方法等が解明されてきた。
一方、霧ヶ峰高原での採草利用は山麓集落の生業と密接に関わってきたと考えられるが、山麓集落の生業との関連で霧ヶ峰高原の資源利用を明らかにしたものはない.
そこで、今回は近世から近代を対象に取り上げ、山麓集落の生業と霧ヶ峰高原の資源利用の変遷を明らかにすることを試みた。
2.1 霧ヶ峰高原の自然条件2.2 中世における霧ヶ峰高原の草原化要因3. 近世の山麓集落の生業と霧ヶ峰高原の資源利用3.1 入会集落の生業3.2 入会集落による霧ヶ峰高原の資源利用3.3 資源をめぐる利用規制4. 近代の山麓集落の生業と霧ヶ峰高原の資源利用
4.1 入会集落の生業
4.2 昭和初期の入会集落による霧ヶ峰高原の資源利用
4.3 昭和初期の資源をめぐる利用規制
5. 山麓集落の生業と霧ヶ峰高原の資源利用の変遷
6. おわりにこれらから、近世末に霧ヶ峰高原全域が採草地として利用されたのは、山麓集落が稲作を中心とした生業を営み肥料をほとんど自給していたためであったと考えられる。また、明治以降の採草利用の減少は、養蚕が盛んになり現金収入が増加するとともに肥料としての草の価値が低下したためであったと考えられる。一方、明治以降も標高1500m以上で比較的採草利用が維持されたのは、西麓集落が現金収入を得るために酪農を開始したことと関連していたと考えられる。利用規制の運用状況の変化は、こうした生業の変化に伴う草の資源価値の変化を反映していると考えられる。
今後は、さらに戦後から現在についても同様に明らかにすることにより、現在の草原の形成過程について検討し、今後の草原保全のあり方についても考えていきたい。謝辞文献
ポイント
・雨の降り方と土砂災害が発生したタイミングの関係を明らかにしました。
・1時間当たりの平均雨量がおよそ 100 年に一度の値に達した際に,土砂災害が発生する
危険性が高いことがわかりました。
・この成果は,土砂災害が発生する危険性が高い雨の降り方の判定に役立つことから,
住⺠の安全な避難計画の策定に貢献することが期待されます。


『薪ストーブライフ』42号(→ナラ枯れ文献⑤『薪ストーブライフ』42号 2021年9月5日記事)の「ナラ枯れから樹木を守ろう」のページに「カシナガは針葉樹が嫌い」という見出しがあったのを思いだして、軽トラに積んで一緒に持ち帰りました。京都・大覚寺の御神木のスダジイの根元に袋詰めしたヒノキのペレットを設置してカシナガの穿入を防いでいる写真が掲載されています。クスノキは材から樟脳が採れる香木です。クスノキは常緑、単葉の広葉樹ですが、鱗状葉の針葉樹・ヒノキの匂いが嫌いならクスノキはもっと嫌いなのではと期待しましたが、『森林防疫』63巻2号(2014年3月)に掲載されている小林正秀・吉井優「ブナ科樹木萎凋病(ナラ枯れ)の防除法」には、「京都府立植物園では市販の樟脳が幹に設置されたが、効果は得られなかった」、「ヒノキの木屑を幹に設置すると2週間程度の忌避効果が認められた」、「このため、京都市内の社寺仏閣では、御神木などの貴重木に対してヒノキ木屑(生材から作成した約1㎝四方のチップ)を梱包した袋を2週間毎に幹に追加設置することが行われている」(4か~6頁)とあります。残念ですが、他の使い道を見つけます。
……平地から山地に生息。人家・神社・寺院等建物の周囲、石垣、崖地、洞穴、太い樹木等で見られる。昼間は壁・塀の隙間、石垣や崖地の割れ目、樹皮下等に潜んでいるが、夜間隠れ場所から出て、天井、障子、壁、塀、縁の下、土台石等で脚を広げて静止し、接近するゴキブリ・カマドウマ・コオロギ・蛾等の昆虫を捕食する。
原発事故が起きる前は、毎年、晩秋から初冬にかけてヒラタケを採りに森へ入った。平成20(2008)年の師走は、大きくしっかりした個体がびっしり倒木に生えていた。ところが、3分の1に白い粒々ができていた。初めて見る異変だった。年末に開かれたいわきキノコ同好会の総会・懇親会では、この白い粒々の話題でもちきりだった。それが「ヒラタケ白こぶ病」だということを初めて知った。
ヒラタケ栽培農家では前々から被害が発生し、原因が分からずにいた。いわゆる「虫こぶ」の一種だ。
12年前の拙ブログには、「キノコバエに運ばれた線虫がヒラタケ・ウスヒラタケのひだに付着すると、ヒラタケ・ウスヒラタケは自衛のために虫こぶ(白こぶ)をつくり、線虫を食べてしまう」とある。当時、そんな見解の文献があったのだろう。今回、あらためて検索するとまったく違っていた。
森林総合研究所九州支所が管内の実験林内で調査した文献がある。それによると、白こぶ病にかかったヒラタケには、病原センチュウのヒラタケシラコブセンチュウと、媒介昆虫であるナミトモナガキノコバエの幼虫が生息している。ヒラタケ子実体(きのこ)が崩壊すると、病原センチュウはヒラタケから脱出してキノコバエに寄生し、羽化したキノコバエによって、また健全なヒラタケに移り、白こぶ病を発生させる。
別の文献では、1970年代の終わり、まず屋久島・福岡・鳥取で同時期に発生が確認された。その後の聞き取り調査では、1995年までに西日本一帯で、さらに2010年ごろには関東・東北でも確認されるようになった。いわきでも発生が確認されたと思ったら、すぐ北へ被害が拡大したわけだ。
白い粒々がびっしり付いているヒラタケは、気味が悪いから手が出ない。栽培ヒラタケは当然、売り物にならなくなる。目の細かな防虫ネットをかけると効果があるそうだ。「地球温暖化」の問題は真っ先に地域の片隅にあらわれる。「地域温暖化」のゆえんだ。
コブ病(コナラのコブ病 、サクラコブ病、サクラがんしゅ病、テング巣病、ヤマモモコブ病、マツコブ病、スギコブ病、フジコブ病、シラカシ樹幹コブ病等)は樹木の枝や樹幹に発生する病気で細菌と糸状菌が原因になっています(注意・シラカシ樹幹コブ病は原因がまだ分かっていません)。樹木にコブができる病気をコブ病と総称的に呼んでいるようです。コブ状に奇形した部位の樹皮の表面はザラザラしていて、大きいものは握り拳ほどにも肥大します。樹幹から伸びる枝に発生した場合、枝の元の部分(枝が出る部分)はザラザラした状態で盛り上がります。枝にできて大きくなったコブの部分から折れて枝が落下している枝もあります。コブの内部はやがて空洞になって折れやすくなっているようです。樹木にしたらかなり厄介な病気に感染してしまったことになります。原因が糸状菌の場合はブナ科に多く発生するようです。この原因となる菌がマツに移り、マツにも発生するそうです。感染を防ぐ予防(対処)はコブのできた枝や幹を早期に切って捨てることで菌の広がりを防ぎます。菌が残っているとまた発生してしまいます。薬品を散布して病気が発生することを防ぐ方法もあるそうです。……
コブ病にはかかりやすい樹種があります。コナラのコブ病、サクラのコブ病、マツのコブ病、スギのコブ病、ヤマモモのコブ病、フジのコブ病が良く知られていますが、タケ類にも発生するということです。主に幹や枝にできる病気なので、広葉樹にできるコブ病の場合は、葉の落ちた時期に観察すると見つけやすいです。葉の茂っている時期ですと葉に隠れて見つけにくくなってしまいます。病名のコブ病や テング巣病 は総称的に呼ばれています。……
・コナラのコブ病。コナラの木の全体の枝に、木の実がなっているように沢山ついています。コナラにできやすいようです。枝に沢山の小さなコブがついている木もあります。この原因菌は糸状菌になるようですが、コブ病を発生させる原因菌は多いようです。コブ病はナラ類(コナラ、ミズナラ、カシワなど)に多く発生しています。コブ病については詳しくは分かっていないそうです。葉の落ちた時期に見つけると木全体の枝にびっしりとできているものまであります。原因菌はクロナルティウム・クエルカムという糸状菌(カビの1種)です。この菌はマツに感染します。
・マツにできるマツコブ病。マツに発生するコブ病はクロナルティウム・クエルカムという糸状菌(カビの1種)が原因になっているそうです。樹幹に球状の塊ができます。近くにコナラのコブ病菌にかかった樹があるとマツにも感染してしまうそうです。コナラのコブ病も同じクロナルティウム・クエルカムという糸状菌(カビの1種)が原因です。
コナラにできたコブ病です[写真略]。コナラのコブ病。ナラ類にできる病気ですが、クヌギ、アベマキの樹では見ていません。コナラが感染に弱い種類になるのか、コナラに特有に発生する菌種になるのかは分かりません。上、樹の枝にこれでもかという位にできていました。枝全体にコブが発生していて、知らないと枝にコブコブができる樹かと思ってしまうほどです。大きさは大きい塊でゴルフボール程でした。樹には薬品(おそらく予防薬だと思います)の入ったペットボトルがぶら下がっていました。中、1部を拡大しました。このコブは大きいものになります。綺麗な球形ではないのですがゴルフボールよりも大きかったです。下、落下していた枝にできていたものです。細い枝の分かれ目や細い枝の途中など、コブの大きさ、できている部位はまちまちです。
こちら[写真略]もコナラのコブ病ですが、コブのでき方が違って見えるものです(原因菌は同じかも知れません)樹の枝の途中にできているコブです。数は少なく樹の全体を見ても2つの枝にできていて、1つには大きく握りこぶし大になったものと、他の部位の枝には3個のゴルフボール程~ウズラの卵位の大きさのコブができていました。上、このコブの大きさはウズラの卵ほどです。枝の途中にできているようです。下、かなり大きなコブで握りこぶしほどの大きさがあります。
・日本大百科全書「ニッポニカ」の解説によるとネクトリア属の菌が植物のがんしゅを作るようですが、専門的すぎて良く分かりません。またコナラのコブ病とマツコブ病はクロナルティウム・クエルカムという糸状菌(カビの1種)が原因になっているそうです。
樹の幹(樹幹)や太い枝にできる樹のコブは、何らかの原因で傷を受けた樹が、傷を治すために細胞を増殖させてできたものになるようです。できている場所は幹が多いです。傷を受けた場所は、傷が修復されて盛り上がって瘢痕状になっていることが多いのですが、稀に傷が修復された後でも細胞が増え続けることで大きくなっていく事があるようです。この場合はコブが大きくなり続けることになります。これは樹皮等の細胞が増殖をして成長を続けることでコブ状の塊になっっていくもので、人間に例えると細胞が増え続ける癌腫のようなものです。このように細菌やウイルス以外にも樹にコブを作る原因があることになります。これは樹幹にできた細菌やウイルス以外を原因とする植物の奇形の1種と思って良いと思います。……
えいとは、えい形成者から出されるなんらかの刺激に対して、植物が組織分化の途中で反応し、その結果、植物の一部の細胞が異常に増殖したり、肥大したり、無核や巨大核、多核など核に異常が生じたり、あるいは、組織分化の過程が狂ったりすることによって引き起こされる、組織や器官の病理学的に異常な形状のことをいう。異常形状のなかには、肥大したものだけではなく、縮小したものもふくまれる。
このようなえいが植物の特定の組織だけに形成されたものを組織えい、器官全体がえいになったものを器官えいという。茎や葉、根などの一部の組織が肥大したえいは組織えい、芽や花、実など全体がえいになったものは器官えいに相当する。ただし、組織と器官がともにえいとなり、両者が明確に区別できない場合も多い。
えいは、ウイルス、バクテリア、菌類、線虫類、昆虫類、ダニ類などさまざまな生物によって形成される。それらのうち、特に昆虫類によって形成されるものは昆虫えい、ダニ類によるものはダニえいなどと呼ばれている。
微生物を探そう!
役に立つ微生物
微生物を保存せよ!
2 ゲノムってなぁに?
3 微生物いろいろ
細菌
酵母
放線菌
虹の発生原理は上述のように太陽と観察者と水滴群の三者の位置関係が特定の条件になった場合に観察されます。太陽(光源)は必ず虹を見ている人(観察者)の背後から射しており、虹の円弧の中心は、太陽と観察者を結ぶ直線の延長線上にあります。つまり、空中の水滴群と観察者と太陽(光源)との位置関係は特定の条件で結び付けられており、この相対的位置関係が成り立てば、雨上がりの空以外でも虹は発生することになります。(光と色の話 第一部 第19回 虹の色(『シーシーエス株式会社』)

写真にある2本の虹の内、目立つ方の虹は主虹(しゅこう。外側:赤、内側:紫)、外側のうっすらと見える虹は副虹(ふくこう。外側:紫、内側:赤)と呼ばれ、色の順序が逆になっています。主虹と副虹に挟まれた中間の空は主虹の下側、あるいは副虹の上側の空よりも幾分暗く見えます。この暗い領域は「アレキサンダーの暗帯」と呼ぶそうです。
虹の色数は文化の問題とする説:物理学者の桜井邦朋は『考え方の風土』(1979)の中で「虹の色の数にしても、私たちは何の疑問もなしに7と答えられるのに、アメリカでは6としか答えられないことを知ったときには、まさに、文化的風土、言い換えれば思考のパターンなどに反映される知的風土が、彼我で完全に異なるのだという有無をも言わさぬ結論を示されたようで、私にはたいへんなショックであった」と書いている。また言語社会学者の鈴木孝夫は『日本語と外国語』(1990)の中で、欧米での同様な経験をふまえて「欧米では虹は5~6色と思っている人が少なくない」と書いていて、「こういう認識はそれぞれの言語の背後にある文化によってもともと違うと理解した方がいいのだ」と述べた。さらに鈴木孝夫は「日本人にとっては虹の色は昔から七と決まっている。虹と言えば七色、七色と言えば虹というほど、この二つの結びつきは固い。(略)つまり日本文化の中では虹は七と決まっている。(略)このような連続的に存在する対象を、日本人が七つの離散的な部分に分節して分けるのは、多分に言語文化的な慣習のせいと言えよう」とした。生物学者の日高敏隆も「日本では七色の虹がアメリカでは六色になり、ベルギーでは五色になってしまうのは、たいへんおもしろかった」と書いた。
虹の七色はニュートンの影響:このような考えに対して科学史家・科学教育研究者の板倉聖宣は、「日本人の虹は七色だとする常識の方が間違っていて、欧米人の方がまともだ」と批判した。板倉は鈴木孝夫の説を否定し、日本で「虹が七色」と言われるようになったのは、幕末から明治時代初期に欧米の科学が導入されてから以後であることを明らかにした。江戸時代の人々は「紅緑の虹」と書いていたが、それは中国伝来の表記法をそのまま用いたものだった。江戸時代の西川如見(1648-1724)の絵には「紅緑の虹」として4色に彩色されたものがある。江戸後期に宇田川榕庵はニュートンの音階と虹色の対応を翻訳紹介した。明治以後の日本の学校教育では欧米から伝来した自然科学の入門書の「虹の色は七色」という記述に従って教えられることになった。明治初期に輸入され翻訳されベストセラーとなった『理学初歩』にも「虹の色はViolet、indigo、blue、green、yellow、orange、redの七色」と記されていたが、これはアメリカで書かれた入門書であった。 英語圏では虹の七色を覚えるために「Richard of York gave Battle in vain」(ヨークのリチャードの挑戦はむなしかった)という語呂合わせがある。日本でも「せき・とう・おう・りょく・せい・らん・し」と覚える方法があった。日本もアメリカも、その他の近代科学の成果を受け入れた国々なら「ニュートンの虹は七色説」が教えられた。
アメリカでの六色への転換:欧米では1700~1800年代の色彩学者のあいだでは、ニュートンの「虹は七色」説は否定されて、六色説が主流になっていた。明治中頃までには日本の色彩学者の間でも「ニュートンによる虹は七色説は誤りであり、あらゆる面から見て虹は六色とした方がいい」とされていた。日本と欧米の色彩学者の間ではニュートンの権威は決定的なものではなかった。 しかし、1938~49年までのアメリカの小学校理科教科書では虹は7色と教えられていた。それが6色に変わったのはBertha Morris Parkerの『Teaching Manual to accompany』(1941-1944)の影響である。そこには「プリズムを設置して壁に色の帯を映します。それを教科書の虹色の帯の図と壁に映った色帯を比べさせます。」そして「どれか壁の上の色帯に見つけるのが難しい色がありますか?それはどれですか?」と問うようになっていた。そして「インディゴ(藍色)というのはほとんど青や紫と区別がつきませんね」と子どもたちに気づかせる授業を行い、「虹は七色ではなくで六色と考えた方がいい」「七色に見えなくても心配しなくてもいい」と教えるものだった。 アメリカでは1948年以降の教科書にはパーカーの「虹は六色」が受け入れられた。日本での虹の六色説の受け入れ:第二次世界大戦後に文部省が作った理科教科書はパーカーの単元別教科書をモデルにしていたが、虹は7色として、パーカーらの考えは受け継がなかった。これによって「アメリカでは虹は6色、日本では7色」と別れることになった。日本で「虹は6色」と書いてあるもっとも初期の本は近藤耕蔵の『日用物理学講義』(1917年:大正6年)である。近藤は「スペクトルは6色に大別するがよし」と書いた。近藤の考えは「青と菫の間に藍を入れると、この部分だけ色を細かく分けすぎることになるから、無理に藍を入れずに〈虹は6色〉としたほうがいい」というものだった。しかしその当時物理学者が書いた教科書では虹は6色と書いたものは1冊も無かった。東北帝大の物理学教授で光学を専門にしていた愛知敬一(1880-1923)は啓蒙書の中で「虹は6色」と書いたが、そのすぐ後の記述ではゆらいで「虹は7色」説を繰り返していた。近藤の虹は6色説は、近藤の弟子以外には当時の教育関係者には受け入れられなかった。1942年の啓蒙書でも、霧吹きで作った虹の色を子どもにを数えさせるお話の中で、最初に子どもに「赤、橙、黄色、緑、青、もっと濃い青、紫」と言わせて、大人が「もっと濃い青」を「藍」だと教えて、7色としている。日本でも欧米でもニュートンの権威を乗り越えられたのは、物理学者ではなく色彩学者や技術者、実業教育研究関係の教師たち、科学啓蒙家といった人々だった。日本の分光学の専門家がスペクトルの認識を変えたのは1947年の中村清二『中村物理学・上巻』で、「色の数を数えることはできない」としながらも6色をあげている。1952年ごろまでに6色への転換が行われたが、その当時の検定教科書では大部分が虹は7色だった]。専門家がニュートンの権威を乗り越えても、日本では常識の権威を越えることができなかった。また、日本では早くから虹の教育は小学校の教材ではなくなったため、高校の物理で初めてスペクトルを習うことになり、高校の物理教科書で虹は6色となっていても、その一般常識を変えることが遅れた。

「なぜあの時あれを見逃してしまったのか」「なぜこんなものを買ってしまったのか」「どうしてあんな簡単な問題が解けなかったのか」-誰しもが日常的に経験しているであろう、なぜか誤って認識したり、いつもならするはずのない判断や行動。それはなぜ起こるのか。このようなふつうの行動に現れる心の働きの偏り、歪みのようなものである「認知バイアス」について、わかりやすい事例を挙げて解説。
認知バイアスという言葉は、心の働きの偏り、歪みを指す。ただしだからと言って、精神疾患などに見られる心の働きを指すわけではない。こうした疾患を持たない人たちの行動の中に現れる偏りや歪みに対して認知バイアスという言葉が用いられる。(はじめに4頁)
本書ではバイアスを列挙するのではなく、また人は愚かですねと嘆いたり、驚いてみせるのでもなく、人の認知の仕組みとそれが用いられる状況の双方から認知バイアスに迫っていこうと思う。(はじめに5頁)
人間の認知は、本質的にこうしたブリコラージュのようなもの[あり合わせのもので、とりあえず必要なものをこしらえるようなこと]と考えることができる。私たちは将来のことはあまりうまく予測できないので、将来起こる可能性があることに対し事前に準備しておくことは困難だ。だからあり合わせのものでなんとかしのぐしかないのだ。こうした次第だから、認知はエレガントではないことも多い。また、非効率きわまりないことをやらざるを得ない場合もある。でも、それが認知の姿なのだ。(第9章⑧246頁)
第1章 注意と記憶のバイアス チェンジ・ブラインドネスと虚偽の記憶
①注意は限られている
②注意をしても見えない
③2種類の注意
④記憶のバイアス、改変
⑤目撃者証言を考える
⑥見えてもあるとは限らない
ブックガイド
第2章 リスク認知に潜むバイアス 利用可能性ヒューリスティック
①人は起こりやすさをどう推定するか
②少ないことは多め、多いことは少なめ
③リハーサル効と利用可性性ヒューリスティックの起源
④メディアと利用可性ヒューリスティック
⑤記憶に作用する諸々の要因
⑥ヒューリスティックの誤作動と逆利用
ブックガイド
第3章 概念に潜むバイアス 代表性ヒューリスティック
①連言錯誤
②概念とカテゴリー
③カテゴリー化を支えるブロトタイプ
④ブロトタイプはどう作られるか
⑤サンプリング
⑥代表性ヒューリスティック
⑦社会的ステレオタイプ
⑧心理学的本質主義
⑨帰属と対応バイアス
⑩代表例が役立つ時、間違う時
ブックガイド
第4章 思考に潜むバイアス 確証バイァス
①論理からの逸脱〜4枚カード問題
②確証バイアス〜2-4-6の後には何が続くか
③第一印象
④因果関係と確証バイアス
⑤確証バイアスはなぜ生まれるか
⑥仮説検証のためのデータ選択
⑦初歩的な問題を間達いに導くものとは
ブックガイド
コラム 因果関係についてのバイアス
第5章 白己決定というバイアス
①欲求・意図・自由意志
②行動の本当の原因は自覚できない
③伝染する意図、日標
④好き嫌いの原因も意識できない
⑤私たちは脳の奴隷なのか
⑥現代の無意識研究
⑦人はなぜ宇宙人に誘拐されるのか〜作話の正体
⑧さまざまな因果とその服用
⑨意恵と行動、そして意図を超えて
ブックガイド
第6章 言語がもたらすバイアス
①言語のもたらすもの
②言語は記憶を阻害する
③言語は思考を停滞させる
④言語は絵を下手にする
⑤言語の苦手科目
⑥世界と言語
⑦武器としての言語、害につながる言語
ブックガイド
付録
第7章 創造(について)のバイアス
①想像を阻む制約
②制約を緩和する多様性
③制約を緩和する評価
④徐々にひらめく
⑤知らないうちにひらめく
⑥失敗が見方の変化を促す
⑦イノベーションを考える
⑧創造の女神が徴笑むのは
ブックガイド
第8章 共同に関わるバイアス
①集合知をどう考えるか
②同調〜右へならう心
③共同を阻害する要因
④分散、分業がもたらすもの
⑤共感というバイアス
⑥1たす1は2にならない時に起こること
ブックガイド
第9章 「認知バイアス」というバイアス
①二重過程理論の間題
②直感の方がうまくいく
③認知の文脈依存性
④限定合理性と生態学的妥当性
⑤心理実験のワナ1~別の問題を解いてしまう
⑥心理実験のワナ2~言葉の裏を読んでしまう
⑦愚かさを裏側から考える
⑧修繕屋としての知性
⑨現代社会とバイアス
⑩人の知性、そしてAI、チンパンジー
ブックガイド
おわりに 結局、人は賢いのか、バカなのか
さくいん
第1章 ヒトラーに従った家畜たち?
1 小さな権力者たちの暴走
「大衆運動」としてのナチズム
ブロパガンダ論の限界
末端の権力者を突き動かすもの
権威への服従がもたらす「自由」
ユダヤ人迫害のメカニズム
「水晶の夜」の暴動
2 「民族共同体」という理想郷
階級のない「公正」な社会
「喜び」を通じて「力」を
3 統合の核としての指導者
『意志の勝利』に見るにヒトラー
「アイドル」としてのヒトラー
「普通の人間」のイメージ
4 大量殺戮への道
「異分子」の排除とホロコースト
「悪の陳腐さ」
「彼らは自由だと思っていた」
コラム 水晶の夜
コラム 悪の陳腐さ
第2章 なぜ「体験学習」なのか?
1 「体験学習」が生まれるまで
『ウェイブ」の衝撃
授業化にあたっての課題
暴走の疑似体験
2 「社会意識論」のテーマ
普通の人間の残虐行為
ミルグラム実験
「権威への服従」がもたらすもの
3 「体験学習」の概要
投業の流れ
授業のねらい
コラム ミルグラム実験
第3章 ファシズムを体験する
1日目
受講にあたっての注意
独裁とは?
独裁に不可欠なもの
拍手で指導者を承認
ナチス式敬礼
独裁を支える団結
共同体の力
ここまでのまとめ
席替えで受講生を分断
制服
ロゴマーク
集団の目的
2日目
ほぼ全員が制服を着てくる
再び糺弾の練習
前回の復習
柄シャツ登場
ワッペン作成
グラウンドに整列
隊列行進
リア充の糺弾
意識の変化を書かせる
コラム ナチ党大会の実態
第4章 受講生は何を学んだのか?
1 受講生のレボートからわかること
高い参加意欲
レポートの概要
典型的な感想
2 デブリーフィングで学ぶこと
3つの論点
①集団の力の実感
②責任感の麻痺
③規範の変化
日常の間い直し
危険性の認識につなげる
3 ファシズムの正体とは?
ファシズムの「魅力」
集団行動の快楽
ファシズムが生まれるとき
「正義」の暴走
コラム ホロコースト
コラム ナチ体制は全体主義国家なのか?
第5章 「体験学習」の舞台裏おわりに
1 「体験学習」の工夫と注意点
①主体的な関与を促す指示
②共通の制服とワッペン
③ナチス式の呼称と敬礼
④ネタの過剰演出
⑤事前の入念な準備
⑥状況に応じた適切な指示
⑦実習の場所の設定
⑧実習の期間の限定
2 「体験学習」の教育的意義
主体的な学び
座学の重視
台本の役割
集団行動の危険性を学ぶ
民主主議育の限界
3 「体験学習」が直面する課題
否定的な価値を学ばせる
「寝た子を起こすな」論
意義をを理してもらうこと
コラム 青い目、茶色い目
第6章 ファシズムと現代
1 ポビュリズムの時代
現代に蘇るファシズム
生の実感を取り戻す
ポピュリズムの危険性
「正論」の限界
2 日本の不寛容な空気
「HINOMARU」騒動
「右も左もない愛国心」
「政治的正しさ」への反発
ヘイトの動機
ファシズムに抗するには?
「責任からの解放」
コラム ネット右翼
コラム ヒトラーは社会主義者なのか?
3 結果授業実施後に受講生に課したレポートから、彼らの多くがこの体験学習を通じて次の3点を驚きをもって認識したことが明らかになった。①集団の力の実感。集団で一緒に行動すると、自分の存在が大きくなったように感じ、集団に所属することへの誇りやメンバーとの連帯感、非メンバーに対する優越感を抱くようになること。制服やシンボルマークといった単純な仕掛けによって、そうした意識が強まること。②責任感の麻痺。指導者から指示されたから、あるいは他のメンバーもみんなやっているからという理由で、普段ならけっしてやらないようなことでもやってしまうこと。個人としての判断を停止して、指示されるまま集団にあわせて無責任に行動してしまうこと。③規範の変化。最初は恥ずかしかったり、こんなことをやるのはおかしいと思っていたのに、集団にとけ込むことで恥ずかしさを感じなくなり、ちゃんとやっていないメンバーに苛立ったりするなど、集団で一緒に行動することを義務のように感じはじめること。
国民的SDGs:「持続可能な開発目標(SDGs)」は、政府や大企業などの一部の組織が向き合うべき問題ということではありません。しかしながら多くの中小企業ではSDGsは自らが取組むべき課題であると認識されていません。[関東経済産業局・日本立地センターの2018年12月の「中小企業のSDGs認知度・実態等調査結果概要」(WEBアンケート調査)によれば、98%の企業が「(詳しく)知らない」「対応を検討していない」と回答している]
「国民的SDGs」は、SDGsが「日常的」「身近な」存在となり、国民一人ひとりがSDGsを「知り」「考え」「行動」する社会とすることを目指しています。そのような社会を実現するためには日本社会を支える何百万社の中小企業によってSDGsが発信され、コミュニケーションが生まれ、価値観が移り変わるような環境がつくられていくことが重要だと考えています。[『kokumin SDGs.com by 経営革新等支援機関連合会』サイトから]
みんなで考えるSDGsの日:総合PR会社である共同ピーアール株式会社の総合研究所(PR総研)が制定。国連が定めた持続可能な開発目標であるSDGs(Sustainable Development Goals )についてのさまざまな企業の取り組みをより多くの人に伝えることが目的。また企業だけでなくひとり一人がSDGsについて考える日にとの思いも込められている。日付はSDGsに持続可能な世界を実現するために掲げられている17のゴールから「みんな(3)」で「17」のゴールを実現しようという意気込みで3月17日に。
●樹木の葉を食べる
ヤママユガ科の蛾は、すべての種類で幼虫が樹木の葉を食べることが知られています。主な食樹としては、ブナ科、クスノキ科、ニガキ科、ミカン科、カバノキ科、ニレ科、カエデ科、ウルシ科、ミズキ科、クルミ科、エゴノキ科、バラ科などに属する樹木が挙げられ、多くの場合、何種類もの樹木をエサとする「多食性」で、「単食性」の種類は少ないと言われています。
市内で記録されている7種類は、いずれもクヌギ、コナラ、クリといったブナ科の樹木を好み、そのため、それらが多く生育する雑木林で多く見られます。針葉樹を食べる種類は知られておらず、実際、スギの植林地などではヤママユガ科の蛾を見ることはありません。
●雑木林が生活の場
ヤママユガ科の蛾は、成虫になるとエサを取ることがなく、口も退化します。ということは一生の間でエサを取るのは幼虫の時期だけということになりますから、生活の場所も必然的に幼虫のエサがある場所ということになります。市内の場合、雑木林がその場所にあたります。
市内のヤママユガ科の一生は、そのほとんどを雑木林に依存しています。卵を産み、幼虫が育ち、マユをつくってサナギになるのは雑木林で、成虫だけが時に林の外に出て街燈などに飛んで行きますが、それでも卵を産む時は再び雑木林に戻ります。雑木林という場所は、それだけでひとつのまとまった環境と見ることができ、雑木林だけで見られる動植物が多く知られていますが、市内のヤママユガ科の蛾もそんな動植物のひとつとして見ることができるわけです。
●市内のヤママユガ科の今後
かつては、市の中部の住宅街でも、街燈に飛来する大きなヤママユガ科の蛾が見られたといいます。最近では、そういうこともなくなってしまいましたが、その理由は、やはり雑木林の減少に求めることができそうです。
今でも大町や大野町、柏井町一帯にはまとまった雑木林がありますが、市の中部に近いあたりでは、雑木林は少しずつ姿を消し、あるいは分断されたり規模が小さくなったりしています。翅があって飛ぶことができるとはいっても、ヤママユガ科の蛾の移動能力など知れています。生活の場となる環境が失われれば、ひとたまりもありません。
広範囲に林が残っている大町公園でも、ヤママユガ科の蛾を見る機会は、年をおうごとに減ってきています。かつては、夏になると動物園の建物に、毎朝のようにヤママユガ科の蛾がペタッと止まっている姿が見られました。大町公園の施設自体が林を切り開いてつくられたものなのであまり大きなことは言えませんが、この数年、減少傾向にあるという感じは否めません。ヤママユガ科の蛾には、ただ「大きい蛾」というだけではなく、雑木林という環境を指標する指標生物としての役割も期待できそうです。
(Yahoo!ニュース 2018.07.24 18:04)
●異常気象の増加は地球温暖化のせいか
●地球温暖化が続く限り、豪雨も猛暑も増え続ける
(Yahoo!ニュース 2018.08.06 07:01)
●大規模水害への防災にともなう社会的難問
●気候変動適応法の下で自治体レベルの議論を
●日本人は「脱炭素」の必要性を実感できるか
●「脱炭素」を前向きに志すとき
(Yahoo!ニュース 2020.07.20 07:00)
1. 「豪雨が地球温暖化の影響だ」とはどういう意味か?
[傾向・一因]:近年の大雨の増加傾向は、地球温暖化が少なくとも一因だ
[傾向・主因]:近年の大雨の増加傾向は、地球温暖化が主な原因だ
[今回・一因]:今回の大雨は、地球温暖化が少なくとも一因だ
[今回・主因]:今回の大雨は、地球温暖化が主な原因だ
[傾向・一因]:近年の大雨の増加傾向は、地球温暖化が少なくとも一因だ
これは科学的に妥当だ。気温の上昇傾向により水蒸気も増加傾向にある。それが、大雨が増加していることの少なくとも一因であることは間違いない。
[傾向・主因]:近年の大雨の増加傾向は、地球温暖化が主な原因だ
これは現時点でいえないだろう。降水量の変化は自然変動が大きい、つまり、気圧・風パターンの発生の仕方が非常にランダムなので、実際のデータから地球温暖化の効果を取り出すのが難しい。
[今回・一因]:今回の大雨は、地球温暖化が少なくとも一因だ
これも筆者の考えでは妥当である。仮に温暖化していないときにまったく同じ気圧・風パターンが発生したら、水蒸気が少ない分だけ雨量が少なかったのは間違いない。この意味において、地球温暖化は今回の大雨の少なくとも一因といえる。
[今回・主因]:今回の大雨は、地球温暖化が主な原因だ
これはいえないとしておこう。今回の大雨の主な原因は気圧・風パターンやそれに影響を与えた海面水温パターン(インド洋の高温など)であるというのが普通だろう。
まとめると、増加傾向についても一回のイベントについても、地球温暖化が一因というのは妥当で、主因とはいえない、というのが筆者の見解である。
3. 報道では何と言っていたか
近年の気象災害の激甚化は地球温暖化が一因とされています。(令和2年版 環境白書)と書いてあり、安心した。
4. 温暖化のせいか、せいでないかは、なぜもめるのか?
「温暖化のせいではない」に同調しがちな人には、ぜひそのリスクを一度よく考えて頂けたらと思う。
●付録1. 大雨の増加傾向は本当にあるか?
●付録2. 水蒸気が増えると降水量が増えるといえるか?
●付録3. 日本の水害死者数は減り続けているか?
件の記事では、防災能力の向上により日本の水害による死者数は大幅に減少してきたことを強調している。
これはもちろん過去には正しいが、示しているグラフは2001年までである。死者数の減少は近年下げ止まっており、2004年には200人を超える死者、2011年と2014年には100人を超える死者が出ている。2018年の西日本豪雨でも死者は200人を超えた。
防災インフラが整備された先進国であるはずの日本において、未だに100人を超える水害死者が出ることが防災関係者に危機感をもたらしてきた。先日、国土交通省の委員会から発表された「気候変動を踏まえた水災害対策のあり方について」では、「施設能力を超過する洪水が発生することを前提に」した水災害対策の転換が謳われている。
この文脈において、「これからもインフラが守ってくれる」と受け取れるような過度に楽観的なメッセージを発することは不適切と思われる。
段丘崖にはケヤキの大木が多数あります。


新型コロナウイルスの影響で、外出を控えた結果、運動不足になる人が増えています。そのなかで、懸念されるのが「健康二次被害」です。健康二次被害の詳細と、運動でコロナ予防の動画案内をチラシにまとめました。多くの皆様のご協力と本情報のシェアをお願い申し上げます(筑波大学久野研究室)。
【運動でコロナ予防】
①一人でできる体操編
②楽しく親子運動編
③テレワーク対策編
④詳しく解説編
⑤テレワーク対策応用編
免疫力は、食事(腸内環境を整えること)、十分な睡眠、体温を上げる運動(ウオーキングと筋トレ)、笑顔で維持・向上が可能です。


筑波大学の久野譜也教授(健康政策)の研究室が自治体や企業へのヒアリング調査を行ったところ、子どもから高齢者まで、外出しないことによる心身への悪影響が見られることが分かった。久野研究室では3 月9日、ウイルスから身を守る免疫力を高めるため、ウォーキングや筋トレなどの運動を勧めるチラシを作成し、「多くの皆さんに実行してほしい」と呼びかけている。
※自宅でできるおすすめ筋トレメニュー(PDF)
◆スクワット 下半身の筋肉をバランスよく鍛える
◆ひざ伸ばし 衰えやすい「大腿四頭筋」を鍛える
◆もも上げ 大腰筋+腹筋を鍛える筋トレ
※テレワークで1日の歩数30%減少、運動不足による健康影響懸念(NHK NEWS WEB 2020/04/16)