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あれこれ

砂防堰堤の働き 12月30日

砂防堰堤は大別すると透過型、不透過型があり、石・コンクリート・鋼材を主材料として様々な種類があります。
砂防事業と砂防施設の分類
砂防堰堤の分類_1

不透過型砂防堰堤の働き
砂防堰堤の働き_2砂防堰堤の働き_3

透過型砂防堰堤の働き
砂防堰堤の働き_1

国土交通白書2018コラム土砂災害においては、豪雨や地震により山が崩れると土砂と共に流木が下流へ流れ出ることで家屋等への被害を増大させる事例が多くあります。その対策として、土砂・流木捕捉効果の高い透過型砂防堰堤の整備が重要になります。砂防堰堤は大きく不透過型と透過型に分けられ、共に流木を捕捉する機能を持ちます。特に透過型は水が貯まらずに流木と土砂が一体のまま捕捉出来るため、流木を効率よく捕捉出来ます。そのため、土石流のおそれのある箇所では、透過型砂防堰堤の整備を推進していきます。一方、恒常的に土砂が流れ出るような箇所では、不透過型砂防堰堤により、新たな斜面の崩壊や土砂の流出を防ぐ必要があります。

※国土交通省>防施設の働き
 砂防(国交省サイト)

⇒砂防堰堤の問題点、課題


榛名山麓砂防堰堤群 12月28日

榛名山麓の船尾滝に向かう途中の道路脇に「榛名山麓砂防堰堤群」の表示板がありました。榛名山麓砂防堰堤群は、群馬県の榛名山麓の伊香保町(現・渋川市)、榛東村、吉岡町、箕郷町(現・高崎市)に広がる、明治時代に造られた砂防堰堤(えんてい)群です。オランダ人技師ヨハニス・デ・レーケの指導を受けて、現地産の巨石等を使用した重力式巨石積堰堤等の施設が整備されました。現在は群馬県が管理し、24基の堰堤がその使命を果たしています。その歴史的価値や自然石を用いたアーチ形状と天端の縄たるみ形状の美しさが評価され、2004年、土木学会選奨土木遺産に認定されています。
PXL_20251222_024654947榛名山麓砂防堰堤群 <群馬県八幡川>榛名山麓砂防堰堤群位置図

●土木学会誌90-6_1●土木学会誌90-6_2位置図

榛名山麓砂防堤A榛名山麓砂防堤B
烏川圏域河川図(一部)群馬県土砂災害警戒情報提供システム
 (左)烏川圏域河川整備計画(2015年)の烏川流域の河川整備実施位置図(11頁部分)

  榛名川上流砂防堰堤(1955年3月竣工
  重力式コンクリート造堰堤(堤長69m、堤高17m、貯砂量68000㎥)
榛名川上流砂防堰堤は、榛名山を水源とする榛名川の最上流部に位置する砂防堰堤です。
榛名川は明治43年[1910]の水害や昭和10年[1935]の水害により甚大な土砂災害の被害を受けたため、昭和11年[1936]より国が砂防事業を開始し、復旧工事が進められました。その1つとして「榛名川上流砂防堰堤」が昭和30年[1955]に建設されました。
この堰堤の最大の特徴は高さ15m以上の堰堤を練石積(石と石の間にコンクリートを混ぜた積み方)により造ったことです。当時としては高度な石積技術や最先端の機械が用いられました。
砂防堰堤は、上流から流れてくる土砂を貯め貯まった土砂を下流へ少しずつ流します。砂防堰堤が土砂で満杯になると川の勾配が緩くなり、土砂の流れや水の流れる力を弱めることができます。水の流れる力が弱くなることで川底や山すそが削られるのを防ぎます。
また、平成18年[2006]には文部科学省より登録有形文化財として登録されました。
目次
(まえがき)
1.鎖国から開港へ  1-1 江戸時代末期の動き
 1-2 生産・流通形態の変化 
 1-3 輸出品目の動向
 (年表:幕末~明治初頭における国内・外の動向)
2.明治維新による動き
 2-1 幕末に締結された修好通商条約の影響
 2-2 税制の改正と農業の変化
 2-3 江戸のヒンターランドにおける養蚕業
  2-3-1 群馬県
  2-3-2 福島県
  2-3-3 長野県
  2-3-4 山梨県
  2-3-5 埼玉県
3.砂防工事の起こり
 3-1 世論
 3-2 デ・レーケが関わった砂防施設と利根川流域における砂防工事
  3-2-1 「明治大正日本砂防工事事績に徴する工法論」における記述
  3-2-2 「明治以降の砂防工事の沿革」における記述
  3-2-3 「明治工業史土木編」における記述
  3-2-4 内務省から群馬県への引き継ぎ書(榛名山砂防工事)
  3-2-5 なぜ利根川流域で榛名山麓の砂防工事が最初に行われたのか
 3-3 信濃川流域において明治期に施工された内務省直轄の砂防工事
  3-3-1 信濃川流域において明治期に実施された直轄砂防工事
  3-3-2 地形図から見た砂防工事の実施渓流
4.榛名山麓で実施された内務省直轄の砂防工事
 表-14 榛名山砂防工事実施箇所数
 表-15 榛名山砂防工事年度別実施事業費
 表-16 榛名山砂防工事現況取調調書(明治 36 年 3 月 24 日調)
 表-17 榛名山砂防施設修繕実施個所
 表-18、19 榛名山砂防工事箇所明細(年度別)
(参考文献)
広報誌「ぐんまの砂防」( 群馬県治水砂防協会)

船尾滝(群馬県吉岡町) 12月22日

関越自動車道を駒寄SIC(スマートインターチェンジ)で下りて群馬県央エリア(前橋市・伊勢崎市・玉村町・渋川市・榛東村・吉岡町)の渋川地区広域圏(渋川市・榛東村・吉岡町)をドライブして船尾滝を見学しました。
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 不入滝→船尾滝 おんべ氷(御幣、おんべろ、おんべい、紙垂、しで) 九十九谷

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アカマツの子葉・初生葉・短枝形成 12月13日

アカマツの発芽から短枝形成まで、Copilotを使ってまとめてみました。
アカマツの成長ステージ(発芽~短枝形成)
  子葉期・初生葉期・短枝形成期
   アカマツの成長ステージ(発芽~短枝形成)

初生葉と短枝の違い比較
  構造・葉の枚数・配置・出現時期・寿命・役割・見え方
   初生葉と短枝の違いの比較表

アカマツ短枝の葉束更新サイクル
  1年目~4年目以降(短枝につく葉束・見え方・特徴)
   アカマツ短枝の葉束更新サイクル

アカマツの枝葉構造比較
  長枝・短枝(役割・寿命・成長の仕方・葉の付き方・葉の更新サイクル・見え方)
   アカマツの枝葉構造の比較
 
ネットにはアカマツをテーマにした記事や写真・動画が多数Upされています。
 ・樹の散歩道葉のかたちの不思議」(廣野郁夫さんの『木のメモ帳』)
   芽生え
 ・樹種の解説アカマツ」(造林技術研究所のWebサイト『森づくりの技術』2021年7月1日記事)
  

  

  

イチョウの伝来はいつ頃か? 12月4日

2001年7月に発行された『神奈川県植物誌2001』の155頁のイチョウの記述です。(下線は引用者)
イチョウ科 GINKGOACEAE (勝山輝男・武智憲治)
落葉高木.葉は偏平に広がり,葉脈は葉柄付け根から二叉分岐を繰り返し,平行脈となり上部葉縁に達する.雌雄異株.雄花は細い軸に多数の葯をつける.雌花は花柄の先に多くは 2 個の胚珠を上向きにつけるが,胚珠の数やつき方には変化があり,1~7個までの変化が観察されている(川名 1991 野草57:19-20,山本 1992 野草58:66-69).受精は精子による.種子は球形,外種皮は肉質,内種皮は硬い.胚乳には葉緑体を含む.化石では世界に17属と多数の種が報告されているが,現世のものは1 属 1 種のみ.
→1.イチョウ属 Ginkgo L.
現生のものは中国中部にイチョウ1種のみがある.日本には自生種はない.
→(1)イチョウ Ginkgo biloba L.
樹皮は灰色を帯びた褐色で割れ目が目立つ.ときに太い枝から気根(俗に乳という)を下ろす.長枝と短枝があり,長枝の葉は螺旋状に互生し,短枝の葉は数個が互生する.葉は普通扇形で,秋には黄葉する.花は4~5月.種子の外種皮は黄褐色肉質で悪臭があり,これを除くと白色で硬く2~3の稜がある内種皮があらわれる.中国原産で日本には室町時代に渡来したと推定され,神社,公園,街路に多く植栽される.圏内でも各地に植栽され,ときに平地に逸出したものがみられる.植栽されたものには大木となっているものも多く,県の名木百選には鎌倉市鶴岡八幡宮(樹高20m,胸高周囲6.8m,推定樹齢800年)や茅ヶ崎鶴嶺八幡(樹高29m,胸高周囲9m,推定樹齢950年)のものなど10本が選ばれている.神奈川県の県の木に指定されている.
2018年11月に公開された『神奈川県植物誌2018 電子版』の198頁では次のようになりました(下線は引用者)。
G003 イチョウ科 GINKGOACEAE (勝山輝男・武智憲治)
落葉高木.葉は偏平に広がり,葉脈は葉柄付け根から二叉分岐を繰り返し,平行脈となり上部葉縁に達する.雌雄異株.雄花は細い軸に多数の葯をつける.雌花は花柄の先に多くは 2 個の胚珠を上向きにつける.受精は精子による.種子は球形,外種皮は肉質,内種皮は硬い.1 属 1 種のみ.
→1.イチョウ属 Ginkgo L.
イチョウ 1 種からなる.
→(1)イチョウ Ginkgo biloba L.
落葉高木.雌雄別株.中国原産で,鎌倉時代に渡来し室町時代から栽培され始めたといわれている.神社や公園,街路に多く植栽され,県内では,ときに丘陵地や平地で逸出したと思われる幼木が見られる.また,街路樹として植栽されたイチョウの樹下には初夏に多数発芽していることがあり,ほとんどは消滅してしまうが,ごく稀に幼木に育っているものがある.逸出していると思われるが,確実に世代更新をしているといえるものはまだ確認できていない.県の木になっている.
下線の部分はどのような資料によるものなのでしょうか? イチョウの伝来はいつ頃なのでしょう。
Googleで「イチョウはいつ頃日本に渡来しましたか?」で検索すると、AIによる概要は
イチョウが日本に渡来した正確な時期は不明ですが、一般的には鎌倉時代(13世紀頃)に中国から仏教とともに伝わったと考えられています。 
複数の文献や研究によると、以下のような説があります。
平安時代以降:遅くとも平安時代(794年-1185年)には既に日本に渡来していたとする見解もあります。
鎌倉時代:中国の宋の時代に薬用や食用として栽培されるようになったイチョウが、仏教伝来とともに日本に持ち込まれたという説が有力です。
室町時代:日本に残る最も古いイチョウ関連の文字資料は、1370年頃に成立した『異制庭訓往来』であるとされており、この頃までには渡来していたことが確実視されています。 
これらのことから、13世紀から14世紀頃には日本に広く知られるようになっていたと考えられます。
Wikipediaのイチョウ分布と伝播には、
分布と伝播
耐寒耐暑性があり、強健で抵抗力も強いので、日本では北海道から沖縄県まで広く植栽されている[79]。北半球ではメキシコシティからアンカレッジ、南半球ではプレトリアからダニーデンの中・高緯度地方に分布し、極地方や赤道地帯には栽植されない。年平均気温が0–20℃の降水量500–2000 mmの地域に分布している[23][66]。IUCNレッドリスト1997年版で希少種 (Rare) に、1998年版で絶滅危惧(絶滅危惧II類)に評価された[1]。
自生地は確認されていないが中国原産とされる[3][79]。中国でも10世紀以前に記録はなく[30]、古い記録としては、欧陽脩が『欧陽文忠公集』(1054年)に書き記した珍しい果実のエピソードが確実性の高いものとして知られる[15][30][87]。それに先立ち、現在の中国安徽省宣城市付近に自生していたものが、11世紀初めに当時の北宋王朝の都があった開封に植栽されたという李和文による記録があり、中国でイチョウが広くみられるようになったのは、それ以降であるという説が有力である[87]。中国の安徽省および浙江省には野生状のものがあり、他の針葉樹・広葉樹と混生して森林を作っている[7]。
その後、仏教寺院などに盛んに植えられ、日本にも薬種などとして伝来したとみられるが、年代には古墳・飛鳥時代説、奈良・平安時代説、鎌倉時代説、室町時代説など諸説あるものの、臆測や風説でしかないものも混じっている[15][29]。六国史や平安時代の王朝文学にも記載がなく、鶴岡八幡宮の大銀杏(「隠れイチョウ」)を根拠とする説も根拠性には乏しいため、1200年代までにはイチョウは日本に伝来していなかったと考えられている[29][30]。行誉により1445年頃に書かれた問答式の辞書『壒嚢鈔』には深根輔仁『本草和名』(914年)にも記述がないとある[30]。
1323年(至治3年)に当時の元の寧波から日本の博多への航行中に沈没した貿易船[註 16]の海底遺物のなかからイチョウが発見されている[15][30][87]。1370年頃に成立したとみられる『異制庭訓往来』が文字資料としては最古と考えられる[30][87]。そのため、1300年代に貿易船により輸入品としてギンナンが伝来したと考えられる[30]。南北朝時代の近衛道嗣の日記『愚管記』(1381年)には銀杏の木について[87]、室町時代の国語辞書『下学集』(1444年)にも樹木として記載がある[30]。また、15世紀の『新撰類聚往来』[89] には、果実・種子としての銀杏(イチャウ)が記載されている。室町中期にはイチョウの木はかなり一般化し、1500年代には種子としても樹木としても人々の日常生活に深く入り込んでいったと考えられる[30]。……以下略…… [ ]内は出典番号
考文献、外部リンクから、関連しそうなものをいくつか抜き出すと、以下のものがあります。 
・真柳誠 (1997年9月10日). “イチョウの出現と日本への伝来”. 真柳誠[著述等目録]。
・堀輝三 (2001). “イチョウの伝来は何時か…古典資料からの考察…”. Plant Morphology 13 (1): 31–40、日本植物形態学会。.
・堀輝三 (2004年10月8日). “イチョウの渡海の歴史”. つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2004) 3: TJB200410TH.. 特集:植物の世界(平成16年度筑波大学公開講座). 筑波大学生物学類.。 “イチョウの渡海の歴史 表1:イチョウに関する記述・図がある日本、中国、韓国の文献(主なもののみ)”、 “イチョウの渡海の歴史 図 1:幹周7m以上ある巨樹イチョウの分布
表1_1

堀輝三さんの「イチョウの伝来は何時か… 古典資料からの考察…」についてGoogle検索のAIモードでは、以下のように評価されています。
日本へのイチョウの伝来時期は、従来の通説であった鎌倉時代説を否定し、室町時代の前期、およそ15世紀初頭が妥当であると結論づけられています。 
論文の主な論点は以下の通りです: 
従来の諸説: これまでイチョウの伝来時期については、飛鳥時代(7世紀)から室町時代(16世紀)まで900年にもわたる幅広い説があり、具体的な根拠や出典が不明確な場合が多かった。
古典資料の再検討: 堀氏は、源実朝の暗殺時に公暁が鶴岡八幡宮の大銀杏の陰に隠れていたという伝説(鎌倉時代)などの古典資料を詳細に検討した結果、これらの逸話が後世の創作である可能性が高いことを指摘した。
結論: 日本の古典文学や記録におけるイチョウの出現時期、およびギンナンの結実に関する記述の特徴から、伝来時期は室町時代前期(15世紀初頭)とするのが最も合理的であると結論づけている。 
この論文により、イチョウの日本への伝来時期に関する学説は大きく見直されることとなりました。

秩父の段丘地形 10月27日

段丘は川や海に面して平らな面と崖が階段状に並んだ地形です。平らな面を段丘面、崖を段丘崖といい、川によって作られたものが河岸段丘(河成段丘)です。月刊『地図中心』616号総特集日本段丘図鑑 日本の典型的地形《段丘編》(日本地図センター、2024年1月)20頁に高橋尚志さんの「荒川上流、秩父盆地の河成段丘と気候変動」が掲載されています。
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 秩父市街地が載る段丘面の地下には過去の荒川が運んだ砂礫の地層がある。その厚さは部分的には葯30mもあり、砂礫で埋もれた「谷」が存在する。これは、葯12.5万年前頃の温暖期に荒川が流れていた谷の名残である。約10万年前頃から地球の気候は徐々に寒冷化して日本列島に接近する台風の数が減り、荒川の洪水の頻度や流量は減少した。その結果、運ばれきれなくなった土砂が堆積して荒川の河床が上昇し、温暖期の谷は埋められて広い河原ができた。
 その後、約1万年前頃から気候は再び温暖化に転じ、降水量が増加したことで荒川は再び谷を掘り始め、現在の地形ができた。秩父市街地が載る段丘面は、現在よりも寒冷な時代に荒川が高所につくった広い河原が由来である。荒川の段丘は、日本列島における氷期(寒冷期)・間氷期(温暖期)という長期的な気候変動によって形成された河成段丘の典型例である。
 しかし、なぜ関東山地の中で秩父盆地にだけ広い段丘面があるのか?それは、基盤の岩石の硬さの違いに原因がある。秩父盆地周辺の岩石は新第3紀の比較的軟らかい砂岩や泥岩である一方、下流の長瀞付近には相対的に硬い変成岩が分布する。関東山地の中の岩石が少し軟らかいところに、ぽつんと窪んだ秩父盆地と段丘が広がったのである。
秩父市の羊山公園()と浦山ダム()から秩父盆地の段丘地形を眺めました。秩父地域の1市4町(秩父市・小鹿野町・長瀞町・皆野町・横瀬町)は2011年にジオパーク秩父として、日本ジオパークに認定されています。羊山公園はジオサイト、浦山ダムは眺望サイトの一つです。
秩父の河成段丘1687_0秩父盆地の段丘地形横断面

PA270027羊山A羊山B

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PA270049

裏山ダムA裏山ダムB



河岸段丘(かがんだんきゅう):河川の中・下流域において、流路に沿って 発達する階段状の地形のこと。河川の力によって、上流から運ばれてきた土砂が堆積し、さらに河川により削られたりすることで形成される。段丘の構成物などからいつの時代に形成されたかが推定できる。(P.38, P.40, P.74, P.76, P.78)
里山(さとやま):地域住民の生活と密接な関わりを持つ集落周辺の雑木林や田んぼ、水路などがある一帯のこと。住民は、生活の一部として、燃料となる薪(薪炭用木材)とり、食料などとなる山菜とり、落ち葉を利用した堆肥づくりなどを行い、里山を利用した。(P.2, P.5, P.6, P.7, P.15,P.21, P.23, P.24, P.28, P.44)
  「田切」地形:傾斜地を流れる河川において、両側が崖状になっている地形

雷雨で停電 8月27日

夕方6時頃激しい雷雨がありました。東松山市内では停電が発生し、熱中症対策として市役所1階市民ホールが2時間ほどクーリングシェルターとして開設されました。
鳩山アメダスでは27日積算降水量は0,5㎜です。埼玉県川の防災情報から市内、鳩山町役場、毛呂山町役場の27日の累積雨量を調べてみました。秩父市、ときがわ町、小川町の観測地点では雨はなかったようです。
坂戸市内には観測地点はありません。坂戸市青木では午後6時半ごろ突風が発生し、養鶏場の鶏舎2棟が屋根を飛ばされるなどして全壊。当時、埼玉県全域に竜巻注意情報が出ていましたが、熊谷地方気象台では竜巻ではなく、積乱雲から吹きおろす気流が地面に衝突したあと水平に吹く「ダウンバースト」か、冷たい空気の塊が地表を広範囲に進む「ガストフロント」の可能性が高いと発表しています(NHK首都圏NEWSWEB「埼玉 坂戸 突風 “ダウンバーストかガストフロント”気象台」)。
27日の鳩山町アメダスの日最高気温は38.9℃(10分値)ですが、1分値では39.4℃(13時7分)で全国1位、26日は37.4℃で全国4位でした。
鳩山アメダス20250827.png
※東松山市内
岡排水機場(岡845)8㎜、松山第2小学校(東平519)23㎜、東松山県土整備事務所(六軒町5)24㎜、荒川上流河川事務所(高坂973-3)5㎜、白山中学校(白山台17)3㎜
※東松山市外
鳩山町役場(大豆戸184)5㎜、毛呂山町役場(中央2-1)16㎜

ヌスビトハギ(マメ科)
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センニンソウ(キンポウゲ科)
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岩殿A地区の池に水を入れる 8月27日

夕方、雷雨がありました。午前中、岩殿A地区の水たまりとなっている池に、軽トラで運んできた井戸水120リットルを入れました。旱天で田んぼも水路も干上がってしまい、入山沼~九十九川までのエリアでメダカが見られるのはA、B地区の池のみとなっています。
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水をいれるとメダカが泳げるようになりました。トンボが産卵しています。ヤゴはメダカを捕食するのでメダカにとっては天敵です。暑さを避けて隠れていたカエルが現れて、ヤゴを捕まえて食べていました。オタマジャクシはメダカの稚魚を食べることがあるそうです。ドジョウ、タニシ、ザリガニもいます。小さな水溜まりの中で食べる・食べられる関係が鎖のようにつながっています(食物連鎖)。

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27日(左)と28日(右)の正午に撮影。夕方の降水量はC地区で3㎜程度。

タコノアシ(タコノアシ科)
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カシナガの飛来・移住が被害拡大要因 8月21日

東北地方の森林植生マップ_1北東北3県(岩手・秋田・青森)におけるナラ枯れ被害は、近年急速に拡大、特にミズナラやコナラなどのナラ類が多く分布する地域で深刻な影響が出ている。ナラ枯れが発生する可能性の高い地域をあらかじめ把握しておくことは重要。東北地方でナラ枯れの被害が激化しやすい ミズナラ、カシワ、コナラ 、クリ等がどこに分布しているか、ミズナラ、コナラ、ブナ、針葉樹人工林、マツ類、その他を凡例として色分けした植生分布図が作成されている。近藤洋史・斉藤正一「ナラ枯れ被害に対応した東北地方の森林植生マップの作成」(『山形大学紀要(農学)』19巻4号、2025年2月)142頁




東日本でのナラ枯れ拡大、近隣の既存被害地からの移住により分布拡大
東日本の被害地域の拡大
東日本遺伝的グループ分布
2024年11月26日の森林総研プレスリリース「東日本のカシノナガキクイムシの由来を遺伝情報により解明-ナラ枯れがどのように広がったかを理解する手がかり-」によれば、ナラ枯れは2008年頃までは本州中部日本海側の地域(左図:オレンジ色)を中心に発生していたが、その後23年までには東北地方と北海道南端部、関東地方の広い範囲(左図:黄色)に拡大。東日本各地から採集したカシノナガキクイムシのDNA分析を行ったところ、東日本のカシノナガキクイムシには地域による遺伝的な違いがあり、これらはすくなくとも3つの遺伝的グループ(右図:茶色、青色、緑色)に分けられることがあきらかになり、近年、ナラ枯れ被害をもたらしているカシノナガキクイムシの由来は単一ではないことが分かった。


東日本におけるカシノナガキクイムシの遺伝的構造、過去の集団動態モデル図
東日本のカシノナガキクイムシの由来を遺伝情報により解明_2東日本のカシノナガキクイムシの由来を遺伝情報により解明_4左図の円グラフの大きさは解析した個体数(全地域で合計165固体)。円グラフの色は3つの遺伝的グループに由来する割合を示している。分布域が拡大するなかで交錯し、一部地域では交配した集団があることもまた明らかになった。 
それぞれのグループの分布域は拡大しており、近年新たに被害が発生した地点では、近隣の既被害地と遺伝的に同じグループのカシノナガキクイムシが被害の原因となっていた。このことから近年新たに発生した被害の多くは、隣県などの近隣の既存の被害地からカシノナガキクイムシが飛来・移住することにより被害地拡大が起きた結果である可能性が高い。ナラ枯れが発生していない地域では、近隣被害地からのカシノナガキクイムシの飛来を警戒して対策を行うことが重要である。

ナラ枯れは地元のカシナガが起こしている(2011年) 8月20日 

森林総合研究所のグループがナラ枯れの最北端被害地の秋田県から京都府にかけての14地域のカシノナガキクイムシについてマイクロサテライトマーカーにより遺伝子を調べたところ、本州中部を境にして遺伝的組成が大きく異なることが判明しました(プレスリリース2011年1月31日「ナラ枯れは『地元』のカシノナガキクイムシが起こしている-遺伝子解析が示すナラ枯れ被害拡大の要因-」)。これは現在のナラ枯れ被害は、気候変動等により本州南西部のカシナガが今まで生息していなかった本州北東部に分布を広げた結果ではなく、ナラ類が燃料として利用されなくなり大径木が増えたことなどにより、各地のカシナガが大発生しやすくなったことに原因があることが強く示唆されます。また同じ地域の中でも場所が離れると遺伝的に遠くなることから、大発生したカシナガが近隣に移動し、その場所の個体群と交配しながら大発生し、さらに近隣の場所へと少しずつ分布を拡大しているためと推察されます。
森林総研20110131プレスリリース_1ナラ枯れ被害対策マニュアル図ナラ枯れ被害対策マニュアル図2

香川県ナラ枯れ防除対策方針 8月11日

香川県では2019年8月に、小豆島町安田地区など3箇所でコナラ等が枯死している箇所が確認され、国立研究開発法人森林研究・整備機構森林総合研究所(森林総研)による鑑定の結果、同年9月10日に「ナラ枯れ」と判明し、県内で初めての発生となりました。『香川県ナラ枯れ防除対策方針』は20年12月1日か香川県内に適用されている方針で、その構成は、はじめに、防除対策の基本、二次的被害の防止、地域区分に応じた対策の実施、具体的な防除対策、共通事項等からなっている。
香川県ナラ枯れ被害に注意!チラシ
香川県ナラ枯れチラシ_1香川県ナラ枯れチラシ_2

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被害拡大期間:カシナガが例年羽化する期間で、その前後の余裕期間を加えた6~10月をいう。

●はじめに
 ナラ枯れとはナラ菌と媒介昆虫カシノナガキクイムシによる伝染病。
 森林病害虫等防除法(1950年法律第53号)による法定害虫で県市町が連携して防除。
 防除実施主体が効果的、効率的な防除対策を講じるための基本的な考え方を示す。

●防除対策の基本、二次的被害の防止
 高齢化した二次林が多く、ナラ枯れ被害を受けやすい。
 被害地外周、飛び火的被害拡大を抑制する。
 急速な被害の拡大が森林の持つ多面的機能の確保に影響を及ぼす。
 枯れ枝の落下、倒木による人的・物的被害
 住宅や道路・電線等のライフラインへの二次的被害。
 被害状況に応じた適切な防除対策を行い、安全・安心な県民生活確保。

●地域区分に応じた対策の実施、具体的な防除対策
 ・県内の森林を被害地・未被害地・保全するコナラ・カシ等の森林等に区分。 

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 地域区分別の主な防除対策

 被害地における対策

 ・未被害地域との境界周辺の枯死木を優先的駆除。
 ・穿入生存木は二次的被害の原因とならない限り原則放置、
 ・樹液の流出量が少なく、大量の木くずを出している場合は、駆除実施。
 ・ナラ枯れ被害は発生から4~5年で被害がピークに達し、その後、被害が収束。
 ・被害地においては、収束するまで監視を行い、防除を継続。
 ・被害が目立たなくなってからも状況確認を継続。
 未被害地における対策
 ・被害地に近接した地域の重点監視。
 ・被害が発生した場合は、被害地に準じた駆除を実施
 ・飛び火的な被害が発生時は、枯死木及び周辺の穿入生存木も含め、集中的に防除。
 保全するコナラ・カシ等の森林における対策
 ・天然記念物、景勝地、災害防止機能を持つ森林など、県と市町が協議、選定。
「保全するコナラ・カシ等の森林等」とは、「ナラ枯れ」の被害を受けることにより、次のような状況が危惧される森林又は樹林・樹木をいい、県と市町が協議の上、選定するものとする。① 天然記念物等の重要な樹木及びそれらと一体として管理された森林、又は、地域の貴重な樹林・樹木で、その生態系・樹勢等に著しい影響を受けるおそれのあるもの、②森林公園や景勝地等不特定多数の県民等が利用する森林で、その景観が著しく損なわれるおそれのある森林、③土砂流出防止等の森林の持つ災害防止機能が著しく失われるおそれがある森林。
 ・未被害木には単木的な予防的防除(樹幹注入、ビニール被覆、予防伐採等)。
 ・枯死木には駆除(伐倒くん蒸・立木くん蒸等)。
 ・穿入生存木については駆除または翌年の感染源にならぬようにビニール被覆。
 ・土砂流出のおそれがある場合は広葉樹等の植栽等により森林の機能回復を図る。
 保全するコナラ・カシ等の森林等の周辺の森林
 ・保全する森林への被害拡大抑制のため、枯死木・被害木の伐倒くん蒸・立木くん蒸。
共通事項
 ・防除のための体制づくり、情報収集・共有、監視体制の強化。
 ・被害材を利用する場合の3つの原則
  ①被害材を「被害地域」から「未被害地域」に移動させない。
  ②被害材と未被害材を混在させない。
  ③被害材を薪利用する場合は、カシナガが成熟する3月までに割材を終えておく。
  ※薪として移動させる場合は、カシナガの活動する「被害拡大期間」の後とする。
 ・被害木を伐採する場合の3つの原則
  ①被害拡大期間にコナラやシイ・カシ類の未被害木の伐採を行わない。
  ※カシナガを誘引し、周辺に被害を広げるおそれ(駆除目的と危険回避の場合を除く)。
  ②被害木を伐採し、そのまま残置する場合:長さ50cmに玉切りし、現地に地伏せ
  ※材の乾燥を促進し、カシナガの生息密度を減らすため。
  ③被害木を伐採した後の根株:原則として、地際から10cm以下となるように処理。
  ※根株は被害木の中で最もカシナガの生息密度が高い部分であるため。
防除対策指針の見直し
 県内の被害状況、新たな防除技術の開発等に応じ、必要があれば見直す。

香川県のナラ枯れ被害 8月7日

香川県では2019年、小豆島町においてナラ枯れか確認され、その後23年度までに4市6町に被害が拡大しています(香川県HP>「ナラ枯れ」の発生について)。小豆島の土庄町[とのしょうちょう]と対岸の岡山県玉野市までが約10㎞、四国の香川県高松市までが約3㎞です。

香川県のナラ枯れ被害状況(2019~23年度)


小宅由似・小林剛・河合洋人・ 土手美恵・ 石塚正秀・山本高広・後藤秀章「香川県の里山林におけるナラ枯れの初期過程と枯死木の早期除去を目的とした皆伐の状況」(日本生態学会第72回全国大会ポスター発表、2025年3月)

香川県では2019年度よりナラ枯れによるブナ科樹木の集団枯死が報告され、2023年度までの被害材積は4500㎥にのぼる。ナラ枯れで集団枯死するブナ科樹木には林冠構成木が含まれるため、森林景観を大きく変化させうる。また、大きな落枝も生じるため、林床環境の変化が見込まれるほか、公園など付近で人の利用がある林分で被害が発生した場合は枯死木の早期の除去が求められる。このためナラ枯れの被害拡大の特徴や集団枯死発生後の植生の変遷を追跡する必要があるが、蓄積されている知見の多くが草食動物による林床植生の被食圧が高い状況下のもので、ナラ枯れそのものが森林景観や植生遷移に与える影響の評価は進んでいない。……

日本森林学会の『森林科学』103号(2025年2月)に小宅由衣[おやけゆい]さんの「ナラ枯れで森がうごく -香川県で拡大するナラ枯れ- 」(シリーズ うごく森45)が掲載されています。最新号なので現在はJ-STAGEからは無料では見られません。うごく森は『森林科学』47巻(2006年)から連載されているシリーズで、森がうごくとはどのようなことなのか興味もあって購入しました。

森林科学№103(2025年2月)

小宅由衣「ナラ枯れで森がうごく -香川県で拡大するナラ枯れ- 」 

・「ナラ枯れ」とはなにか?
・「ナラ枯れ」には黒幕と立役者がいる
  黒幕:ナラ菌 立役者:カシナガ
・カシナガの特徴
・カシナガの穿入に遭いやすい木、ナラ枯れで枯死しやすい樹種
・香川県におけるナラ枯れの状況
・ナラ枯れが生じやすい林分では何が起きる?

  林冠構成種の枯死、倒木により林冠にギャップが生まれる

    →森林の更新(ギャップ更新)

  林業被害、安全に関する被害、土砂災害のリスク

  獣害によるギャップ更新遅延

・まとめ

 ナラ枯れは、それ単体では自然現象の範囲といえるものですが、被害を受ける樹種が人の暮らしに身近なブナ科の樹木であることから、社会に与える影響が大きいことが課題であると考えられるようになってきました。
 一方で、ナラ枯れにより森林は様変わりし、人間社会も影響を受けます。これらの影響の大きさや期間の長さは、どれほどがカシナガとナラ菌によるもので、どれほどが他の要因によるものなのかは、まだ切り分けができていません。
 どの程度、ナラ枯れに対策を取るべきなのかなど、今後の研究によって判明していく部分も多い。まだまだ研究途上の分野です。

高橋誠・久保田正裕「新シリーズ「うごく森」をはじめるにあたって」(『森林科学』47巻64頁)

……木も自分自身の個体としての生存、あるいは種としての存続を確保するための様々な努力をしています。その中には、先に述べたような実生の消長や開花、結実のように、人間の五感で容易に認識できるプロセスもあれば、人間の五感ではなかなかそれと実感できない空閤スール・時間スケールで進むプロセスもあります。樹木の個体としての生存、種としての存続を確保するためのプロセスとして、地史的な時閤スケールでの分布域の変遷や天然更新の際の花粉や種子による散布、昆虫や鳥類、動物との相互作用、菌類などとの共生、乾燥や高塩濃度といった劣悪な環境への適応、環境条件に応じて表現型を変化させる可塑性、個体の寿命や繁殖能力に関わるような遺伝子の働きやその挙動など、多様な側面を挙げることができるでしょう。ここでは、それらを樹木あるいはその集合体としての森林(もり)の「動的」な側面と形容したいと思います。
新シリーズ「うごく森」では毎号異なった専門的な視点で森林と向き合っている研究者の方々に原稿をお願いし、樹木や森林の「動的」な側面をさまざまな角度から紹介していきたいと考えています。このシリーズを通して、読者の皆さんが森林への理解をより深めていただければ、このシリーズを企画した編集委員として幸甚です。……


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高知県高岡郡梼原町にある鷹取山のナラ枯れ被害
四万十森林管理署主任森林整備官齋藤充治・業務グループ係員原口翔吾「鷹取山におけるナラ枯れの現状について」(四国森林管理局『四国森林・林業研究発表要旨集』2023年1月18日)
四国森林・林業研究発表要旨集_1四国森林・林業研究発表要旨集_2
伊藤昌明・佐藤重穂・梶村恒「高知県鷹取山植物群落保護林においてエタノールで誘引された養菌性キクイムシ類」(『森林総合研究所研究報告』6巻4号 (No.405)、2007年12月)のキクイムシ科11種のリストにはカシノナガキクイムシは記載されていない。

森林資源を未来へつなぐ町(内閣広報室、2021年7月)

森林資源に恵まれた高知県梼原町(ゆすはらちょう)では、地元住人と自治体が一体となり、循環型社会の実現を目指している。

標高1455メートル、雄大な四国カルスト高原に位置する高知県梼原町は周囲を森林に囲まれた人口約3300人の町である。カルストとは、雨による浸食などによって石灰岩が地表に現れている地形のことで、標高の高い四国カルスト高原にある梼原町はそのイメージを「雲の上の町」と表現している。町には、「2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会」の主会場である新国立競技場の設計などで知られる建築家・隈研吾さんの設計による施設*が六つある。それらは、町の緑豊かな森林と美しく調和している。“自己主張するのではなく、周囲の環境に溶け込むような建物を建てる”という隈さんの有名なコンセプト「負ける建築」は、梼原町の一連の建築の原点となっている。……

1950年から70年の日本の高度経済成長期の住宅需要が落ち着くと、次第に日本の林業は衰退し始めることとなった。町面積の91パーセントを森林が占める梼原町も例外ではなかった。梼原町は森林資源の活用と保全に関して見直しのため協議を重ね、2000年に「森林づくり基本条例」を策定、森林の有する機能の高度発揮と林業の持続的な発展を基本理念とし、森や水の資源を守り、人と自然の共生を高めるための森林再生に多角的に取り組んできた。その年の10月には、全国に先駆けて梼原町森林組合が「FSC認証」(適切に管理された森林を評価する国際制度)を取得するなど、適切な森林管理による持続可能な林業経営に取り組んでいる。……

町は、山間の地形を生かした風力発電、小規模水力発電を町営で行い、その売電益を基金として、町の森林管理事業に給付金を交付している。さらに、間伐材や未利用となる端材は圧力を加えて固形燃料(木質ペレット)に加工し、民間施設のボイラーや公共施設の冷暖房機器の燃料として活用されている。
梼原町は、2050年には温室効果ガス排出量70パーセント削減、吸収量の4.3倍増(1990年比)、地域資源利用によるエネルギー自給率100パーセント超を目標に掲げ、木質バイオマスのエネルギー利用など先進的な取組を行ってきている。地域の資源を循環させるこの仕組みは国からも高く評価され、2009年には政府が選定する「環境モデル都市」に選定された。
喫緊の課題は、林業技術の後継者の育成だ。梼原町は林業に携わる若者の交流の場を設け、林業技術の習得を図る場づくりの他、町外から技術を学ぶ移住者を募り、現在、2名を受け入れている。

地元の人材の活用にも力を入れており、ガイドによる現代人を癒す森林浴体験プログラム「森林セラピーロード」の整備を始め、郷土料理でのおもてなしや、民泊などにも取り組んでいる。……

※『雲の上の町 ゆすはら』(檮原町HP)から森林セラピーの取り組みセラピーロードパンフレット1同2モデル住宅によるLCCM住宅の普及森林資源の循環利用など。

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広報ゆすはら 令和6年6月号_1広報ゆすはら 令和5年9月号_1広報ゆすはら 令和4年12月号_1広報ゆすはら 令和3年6月号_1
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最高気温 伊勢崎41.8℃、鳩山41.4℃、熊谷40.7℃ 8月5日

太平洋側は高気圧に覆われて晴れ上がり、山越の温かい風が吹き下ろすフェーン現象の影響も加わり、関東地方の内陸部で日中の最高気温は群馬県伊勢崎で41.8℃を観測して国内の過去最高を更新。埼玉県内では、鳩山町41.4℃、熊谷市40.7℃、所沢市、秩父市40.0℃を記録。最高気温が40℃以上の14地点はすべて関東地域、全国289の観測点で35℃以上の猛暑日となった。
ウェザーニュース20250805

伊勢崎のアメダス(8月5日)
伊勢崎アメダス20250805

鳩山のアメダス(8月5日)
鳩山アメダス20250805


休憩時の話題から(フォッサマグナ、磐梯山山体崩壊) 7月4日③

6月の作業開始前の打ち合わせや休憩時の鳥取さんの話題から、フォッサマグナ、磐梯山の山体崩壊についての資料です。

フォッサマグナ(糸魚川市のフォッサマグナミュージアム
 地学図録126フォッサマグナミュージアムAフォッサマグナミュージアムB

磐梯山の山体崩壊
 ・磐梯山ジオパークお宝ガイド
  磐梯山ジオパークお宝ガイド磐梯山の山体崩壊

 ・地学教科書・図録
  ・高等学校 地学基礎(数研出版、21年検定済)、地学図録改訂版(第9刷、21年)
    日本の火山災害、岩屑なだれ[がんせつ]・火山性津波
    江戸時代の雲仙普賢岳の寛政噴火
    地学基礎(数研2021)地学基礎78地学基礎79

    自然災害(地震・火山噴火・大雨による土砂災害と対策)
    1888年の磐梯山の山体崩壊で形成された流れ山地形
    地学基礎198地学基礎199

    山体崩壊と岩屑なだれ
    地学図録(数研2021)地学図録1771889年→1888年

  ・高等学校 地学基礎(第一学習社、21年検定済)  
   火山災害と防災、噴火の種類
火山は、溶岩や火山砕屑物が積み上がってできている。そのため、不安定で、噴火や地震などをきっかけに大崩壊をおこすことがある(図57)この崩壊が起こると、膨大な量の土砂と岩石が岩なだれ①となって高速で広範囲に流下し、大きな被害をもたらす。海に流れると、津波を引きおこすことがある。 ①山体が大規模に崩れることによって、岩石が粉々に砕けた岩片となり、斜面を高速で下る現象をいう。
   地学基礎198地学基礎199

松ボックリを拾う 11月27日

市民の森に落ちているテーダマツの松ボックリを焚き火用に集めました。1200個以上ありますが、湿っていて笠が開いていないのが大半なので、燃すには乾燥させなければいけません。サイズはアカマツの松ボックリより大きいですが、イベントに間に合うかどうかわかりませんが、ストックしておきます。
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交接中のナメクジ 11月21日

冬季の伐採木の確認のために尾根の道を歩いていた時、足元に青白いもを見つけました。2匹のナメクジが白いものでくっついて巴状になっています。カタツムリやナメクジの仲間の多くは雌雄同体で1匹のナメクジのなかに雄の性器と雌の性器を持っていますが、殆どは他の個体と交接して精子の交換をします。青白いものはお互いの交接器です。
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2020年10月30日にはキノコのホダ場で見つけていました。
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※千田永久世「神秘的・ナメクジの交尾」(『森林インストラクター東京会自然発見! 2009年8月4日記事)
カタツムリの交尾(木村一貴さんの『Kazuki Kimura's website

大柳川渓谷 11月18日

中央道の甲府南インターでおりて、山梨県南球磨郡 富士川町鰍沢 フジカワチョウカジカサワ 地域の大柳川渓谷に行きました。10本のつり橋と5つの滝があり、西沢渓谷、川俣川渓谷に並ぶ山梨県内おすすめ渓谷の一つです。
大柳川渓谷A大柳川渓谷B

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   (YouTubeの『ぶらり富士山エリア』チャンネル』) 31:29
 

絵葉書で見る長瀞の今昔 9月4日

1924年12月9日、国の名勝・天然記念物に「長瀞」が指定され、今年は指定100周年を迎えました。長瀞町郷土資料館では9月8日まで『“絵はがき”から見る長瀞の昔と今』を開催し、明治・大正・昭和の時代の長瀞、宝登山神社、その周辺の絵葉書59点と現在の写真を並べて展示しています。
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監修者は長瀞町文化財保護審議会委員の村田嘉行さん。絵葉書の(1)印刷された「郵便はがき」の文字(1933年途中まで「か」、その後は「が」)(2)宛名面の宛先部分と通信文を書く部分を区切るけい線の位置(07年~14年途中は下から3分の1、その後は2分の1)(3)写真説明の固有名詞(例えば駅名「寳登山」は秩父鉄道の前身の上武鉄道が11年の開業から23年に「長瀞」に改称するまで使用)(4)使用済みでは文面にある日付や貼られた切手の種類などから、撮影年代を絞り込んで検証しました(『毎日新聞』埼玉版、2022年11月16日)。

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養浩亭
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長生館
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大正亭
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秩父館
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見晴亭
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長瀞駅(明治後期)
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長瀞駅(昭和初期)
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※野上村(1889年)→野上町(1940年)→長瀞町(1972年)
 宝登山駅(1911年)→長瀞駅(1923年)
 国神駅(1916年)→上長瀞駅(1928年)


                    (京都府レッドデータブック2015自然生態系

岩殿H地区の草刈り 6月11日

岩殿H地区の奥の方(G地区寄り)の草刈りをしました。
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午後5時半頃、ネムノキ(マメ科)の葉は就眠運動で垂れ下がり、小葉が閉じてきていました。
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葉や花を昼間に開き、夜に閉じる運動を就眠運動と言います(⇒『植物Q&A』2007年8月21日記事)。『自然観察大学』のブログにはネムノキが昼寝もする(昼間でも葉を閉じる)という記事がありました(「ネムノキの昼寝」、「ネムノキの昼寝続報」)。両掌で葉をやさしく挟んで、“眠れ、眠れ”と呪文を唱えてどうなるか、観察してみましょう。

シロキクラゲ 6月4日

無名沼イ号付近の幼木観察エリアの落枝に発生していました。古くなって形が崩れています。
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シロキクラゲハナビラニカワタケ ホクト株式会社の『きのこらぼ』きのこアルバム

ヤママユガ(天蚕)の幼虫 5月14日

岩殿の学びの道の路上で車に驚いたスズメが咥えていたヤママユガ(天蚕)の幼虫を落してしていきました。重すぎたようです
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マツの花 4月20日

敷島公園で撮影した、アカマツ、クロマツの花です。マツには雄花[おばな]と雌花[めばな]があります。雄花から飛び散った花粉は風に運ばれ、雌花のりん片の隙間から入って受粉します。受粉した雌花は、成長してマツカサになります
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NHK for School の動画に『マツの雄花と雌花』、『マツの雄花の変化(マツの雄花に花が咲き、花粉が飛び、その後枯れていくまでの映像)』、『マツの雌花の変化と種子(マツの雌花が受粉し、松笠が2年かけて成熟するようすの映像)』があります。群馬県公式動画サイト『tsulunos(ツルノス)』に『理科授業花のつくり(2)』があり、マツの花について学習することができます。


マツの花のつくり(『新しい科学の教科書Ⅰ』文一総合出版、2003年、213頁)
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※裸子植物の花と種子(岩瀬徹・大野啓一『写真で見る植物用語』全国農村教育協会、2004年)
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※被子植物の花(岩瀬徹・大野啓一『写真で見る植物用語』全国農村教育協会、2004年)
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敷島公園(前橋市)のマツ林 4月20日

群馬県前橋市の敷島公園のマツ林を見にいきました。利根川と広瀬川に挟まれた、36.6haという広大な面積を誇る運動・レクリエーション公園(群馬県管理のスポーツ施設区域17.8ha=北側と前橋市管理のレクリエーション区域18.8ha=南側)です。1922年の開園当時は小山河原といわれる松林の河川敷だったそうで、現在は2700本ものクロマツやアカマツなどが木陰をつくっています。園内にはアカマツの園芸品種タギョウショウ(多行松 c.f タギョウショウとウツクシマツ)もあり、上毛新聞敷島球場3塁側と補助陸上競技場の間の園路には40本以上の並木道があるそううですがスタッフブログ2015.02.17記事)今回は見ていません。アカマツとクロマツの交雑種のアイグロマツも園内にはあるかもしれません。
クロマツは東松山市の市民の森では見られません。クロマツは枝の強度に比べ、葉量が多いので樹形としては枝が垂れ下がる形になりやすく、日本画などに描かれてきたマツの姿となりやすい」と言われていますが、園内のクロマツとアカマツの樹形を較べてみると、そのように思えました。
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日本各地のアカマツの幹の形を幹の曲りなどから分析したものにマツ林の造成に関する研究グループ(佐野宗一・赤井龍男ほか)「日本各地のアカマツの樹形について」があります。
はじめに:アカマツは主として東北地方から九州地方にかけて天然分布し、その中には生長や形質のよい有名マツも多いが、各地域の生育環境が著しく異なるため、樹形や生長状態にそれぞれ特徴があるものと思われる。これを明らかにするために、1968~9年の文部省科学研究費(総合研究)による「マツ林の造成に関する研究」の中で、各地域の研究分担者が日本におけるマツ林の生育の実態調査を行なった。この報告はそれらの資料を代表者の佐野が集め、そのうちアカマツの樹形に関する部分を赤井がとりまとめたものである。
これを含めて京都大学農学部の四手井研究室と演習林のメンバーによる研究成果をまとめたものが四手井綱英・佐野宗一編『松と人生』(明玄書房、1973年)で、第四章生育第三節マツの樹形(118~134頁)が前掲論文の報告・討論。
幹の傾斜:幹形に関係なく、横方向から対象木がほぼ垂直に成立しているか下方に傾斜しているかをみる
幹の曲り:通直なものと曲りに分け、曲りがあるものは著しいもの(大)と少ないもの(小)に分ける
根曲り:根元が曲っているものと曲がっていないものに分ける
二叉:二叉に分れている部分が樹冠内(上)か、幹の中程(中)か、下の方(下)かの3ツに区別する
   [叉は「ふたまた」、又は「ふたたび」]
ポストホルン(後角・枝がわり):二叉と同様ポストホルンの位置を幹の上、中、下によって示す
アカマツ、クロマツは、幼齢期から壮齢期に至る過程において、主軸の先端部分がシンクイムシに食害されたり、あるいは風、低温などの気象害によって、物理的、生理的障害を受けることがある。その場合、その下の枝が背地性(垂直の方向に伸びる性質)を示して新しく主軸にかわる。しかし幹の形はカギ型に曲り、普通にはその形がいつまでも残っている場合があり、これをポストホルン(後角、枝がわり)という。このポストホルンが著しいと用材として利用できなくなり、大きな欠点となる。[124頁]
二叉木ポストホルン


日本花の会結城農場のサクラ 4月10日

公益財団法人日本花の会の結城農場(茨城県結城市田間2217)のサクラ見本園のサクラです。桜見本園には日本各地や海外から収集した約400品種、1,000本の桜が植栽されています。HPに「FAQ・桜の豆知識」、「桜図鑑」があります。桜苗木の受託生産と育苗をしていてカタログにあたる『桜ミニ図鑑』(300円)を配布しています。
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大原隆明サクラハンドブック』(文一総合出版)
本書の見方(1)【花のページ】(2頁)、本書の見方(2)【葉のページ】(3頁)
本書の特色と使い方(4~5頁)
サクラハンドブック2~34~5
日本でみられるサクラは、国内の野山に自生している「野生種・自然交配種」と、国内では栽培のものだけが知られる種類とに大きく分けられる。さらに栽培のみに知られる種類には「国外産の野生種」と、野生種や交雑品の中から人間が園芸価値が高いものを選び出した「栽培品種」とがある。種類の名前を調べる上では、その三つを区別して扱うことが重要である。【野生種・自然交雑種】(p.10-25、p.42-43の9種類)1種類の中でも遺伝的な変異が非常に大きく、さまざまな個体が含まれる。識別する時には個体間の変化が多い部分にはこだわらず、変化の少ない部分の特徴(詳細はp.8-9参照)だけに注目する。……(6頁)
見本頁「ヤマザクラ」(10・11頁)、「ソメイヨシノ」(44・45頁)
ヤマザクラソメイヨシノ

クリオオアブラムシ 1月4日

実生を育てている堆肥箱のコナラ、クヌギの幼木の根元近くにクリオオアブラムシの卵が黒い染みのようにびっしりとついていました。翅のある成虫、翅のない成虫もまだいます。
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クリオオアブラムシ:カメムシ目アブラムシ科。全国の山林のクリ、クヌギ、カシ類に集まる昆虫。大きさは4㎜前後の大型のアブラムシで、全身黒色、触角は短く、脚は長い。有翅型の翅も黒色で、白い斑紋がある。翅 のあるものとないものとがある。春・夏はオスのみの単為生殖でメスの幼虫を胎生する。秋になるとオスを生み、有性生殖で卵を産み、卵で越冬する。クリ、クヌギ、カシ類の枝に集団で寄生して樹液を吸う (国営讃岐まんのう公園動植物図鑑HP)。
クリオオアブラムシ(北海道立総合研究機構林業試験場HP)
生態卵越冬。青枝や小枝に群生する。春から秋の間に繁殖を繰り返し、数世代を経過する。6月頃、有翅の雌成虫が現れ、他の木に移動して繁殖する。晩秋に幹の株元近くに複数の雌成虫が集まって卵をまとめて産む。


カボチャにペインティング 12月5日

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嵐山町古里[ふるさと]で撮影

2014年、16年、18年2月の降雪 2月10日

今日は雪が降り、市民の森保全クラブの活動は中止しました。夕方の積雪は9㎝。このブログの記事から2月の降雪・雪景色の記録をたどってみました。
2014年2月4日の降雪
2014年2月4日:雪の岩殿田んぼ(岩殿A・B地区)
2014年2月4日:目薬屋田んぼ(岩殿C地区)

2014年2月9日の降雪
2014年2月9日:土曜日は大雪 積雪34センチ(土曜日:2月8日)
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2014年2月10日:入山沼下の遊休田んぼ(岩殿 I 地区)
2014年2月10日:雪晴れの市民の森(物見山駐車場~市民の森入山口)
2014年2月10日:(仮称)無名沼イ号・ロ号(岩殿C地区)
2014年2月10日:足跡の主はだれ(岩殿C地区)
2014年2月10日:凍結した入山沼
2014年2月10日:雪晴れの岩殿田んぼ(岩殿A・B地区)

2014年2月14日~16日の降雪
2014年2月14日:定例作業日の活動は中止(学びの道、作業道。市民の森活動エリア)
2014年2月14日:ボッシュ林下の遊休田んぼ(岩殿C地区)
2014年2月14日:雪の岩殿田んぼ(岩殿A・B地区)
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2016年2月7日の降雪
2016年2月7日:岩殿C地区(岩殿C・F地区)
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2018年2月2日の降雪
2018年2月2日:積雪7㎝
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2018年2月4日:市民の森保全クラブ作業エリア遠望(岩殿C・F地区)
 入山谷津東側(学びの道・岩殿A・E地区)
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 入山谷津の中央(作業道・岩殿F・G地区)
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 入山谷津の奥(岩殿C地区・無名沼イ号)
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 積雪量・降雪量の違い
※降雪・積雪・降雨・降水量(『違いがわかる事典』による)
降雪量は1時間、2時間などある時間内に降り積もった雪の深さ。積雪量は自然の状態で降り積もったある時点での雪の深さ。1時間前の積雪量と現在の積雪量の差が、1時間で降った雪の量(降雪量)。積雪は重みで沈んだり、解けたりするので累積降雪量と積雪量は一致しない。天気予報の「積雪あり」は観測所の周辺地面の半分が雪で覆われた状態、半分以上覆っていなければ「積雪なし」降雨量は雨だけが降った量。降水量は雨・雪・霰(あられ)・雹(ひょう)・霜など全てを水に換算した量。[2018年1月23日記事「大雪で積雪」から]

※降雪量と降水量の関係(『気象予報士瀬戸信行の「てるてる風雲録」』より)
降雪量と降水量の割合を比較したものを雪水比(ゆきみずひ、降雪量÷降水量)という。気温が比較的高い時に降るぼたん雪と気温の低い時に降る粉雪では、その比率が異なる(粉雪は約2、ぼたん雪は0.6~1.5)地上気温が低いほど密度が小さく乾いた雪(粉雪)となるため降雪量が多くなり、地上気温が高いほど密度が大きく湿った雪(ぼたん雪)となるため降雪量が少なくなる。[2018年1月23日記事「大雪で積雪」から]
   (『ウェザーニュース』2020年12年12月30日記事)
降雪量の説明の前に、積雪深の時間変化の特徴を考えねばなりません。雪が降れば積雪深は増えるのですが、積もった雪は融解や昇華で消失したり、雪自身の重みで圧縮されることにより、深さが自然に減るのです。
つまり、雪が弱まると積雪深の差分がマイナスになるため、雨量のように単純に時間ごとの差分で累積計算してしまうと途中で減算され、降った量の統計としては正しいとは言えません。
そこで気象観測では、1時間ごとに積雪深を観測して差分を比較し、増加した分だけを累積計算して「降雪量」として記録するわけです。
このように「降雪量」は降った雪の量の統計を示すのには向いているのですが、数値がそのまま積雪の増加となるわけではないので、一般市民からはイメージが難しいという問題があります。
例えば2020年12月30日現在、気象庁は「1月1日18時までに予想される24時間降雪量は、北陸地方の多い所で80〜120cm」との情報を発表しています。24時間にわたり雪が降り続けて減少に転じなかった場合には「降雪量」がそのまま積雪増加量となります。ただ、雪の降り積もるペースよりも雪の圧縮されるペースが上回った場合には積雪深が減少に転じるため、「降雪量」よりも実際の積雪増加は小幅となります。

  「積雪深」は測れるが「降雪」は直接測れない
  積雪深は圧縮されて自然に減る
  降雪量は統計に向くが、イメージしづらい
今日12月18日(土)の場合、札幌ではいちども積雪深(雪の厚み)が55cmに達していませんが、24時間降雪量は55cmと記録されています。

天神講⑥ 天神講が教えるもの 1月26日

大舘勝治さんの『民俗からの発想』(幹書房、2000年)の150~152頁です。
(5)お雛粥・天神マチが教えるもの
 秩父郡小鹿野町の赤平川流域の集落には、お雛粥をはじめ天神マチ、十日夜など、子ども組が主宰する行事が行われてきた。天神マチは今でも続けられているが、お雛粥や十日夜の行事は姿を消してしまった。姿を消してしまった行事に対して、これらを経験してきた大人は昔を懐かしく思い、行事が失われたことを残念がっている。
 天神マチなどを行っているときの子どもたちは、生き生きと自由な世界にひたっている。上級生は下級生をいたわり、下級生は上級生の始動に従い、秩序ある行動が取られている。行事の中の重要な難しい部分は上級生の役割であり、下級生には下級生の仕事がある。そして、いつでも上級生の持っている経験を通して得た知識は、仕事として下級生に伝えられる。例えば、お雛粥を煮ているときに「こういうふうにすれば火はよく燃える」などと、火の燃し方を教えている。学校や家庭ではえられない年齢を超えた連帯感が育まれる。
 子ども組のまつりの楽しさは、普段と異なり、大人の指図を受けずに子どもだけで取りしきることだという。大人たちは、子ども組の祭りや行事に無関心かというと、そうではない。従って、祭りや行事の重要な部分については関与しないが、側面からの援助は惜しまない。天神マチの寿司作りには、自分の子どもがいるいないにかかわらず、宿に当たる家の隣組の親たちが手助けをする。また、トーカンヤ(十日夜)の藁鉄炮を作れない子どもには大人が作ってあげる。そして、子どもたちの集団が庭を叩きに来るころには、玄関を開けて待っているなど、非常に協力的である。子のように、地域の大人たちは、子ども組の祭りや行事を暖かく見守っている。
 子ども組の祭りや行事は、子どもが主体的にかかわるが、地域全体から見れば地域共同体の下部組織としての子ども組の祭りや行事である。大人の指図を受けない自由はあっても、組織を逸脱した行為は許されないということを子どもたちはよく理解している。地域社会に密着した子ども組は健全そのものであり、子ども組が担う祭りや行事は決して野卑なものではないのである。そこには、子どもの社会教育の原点がある。今、子どもの教育に求められるものは、地域における教育であり、子どもの祭りや行事がその核となり得る要素を十二分に持っているはずだ。地域が子どもを育てていくことが大切である。
大舘勝治『民俗からの発想』(幹書房、2000年)150~152頁

天神講⑤ 2000年 1月26日

秩父郡小鹿野町三山にある田ノ頭集落の天神マチ(天神講)。大舘勝治さんの『民俗からの発想』(幹書房、2000年)144~147頁です。
平成12年[2000年]の天神マチ
 2000年(平成12年)1月22日(土曜日)、この地の天神マチを訪ねてみた。田ノ頭の耕地の様子は、16年前に見たその時と同じような静かな山間のムラで、長い時の流れもなかったかのように瞬時にタイムスリップしている自分に気付いたのである。
 天神マチの会場は、旧田ノ頭支所(役場旧三田川出張所)の2階である。午後1時過ぎ、会場の支所の2階へ子どもたちが三々五々集まってくる。平成6年[1994年]、会場がここになるまでは、中学3年生のオヤカタと称すリーダーの家を会場に行ってきた伝統がある。
 この日集まった子どもたちは、幼稚園児から中学生までの18名である。戸数18戸の耕地にしては若いお嫁さんが比較的多いこともあって、子どもも他の地区に比べて多いという。中学生5名、小学生11名、幼稚園児2名が正式のメンバーであるが、そのほかに母親と一緒の乳飲み子もいる。
 子どもたちのほかに数人の大人がいるが、大人は天神マチのオヤカタになっている子どもの両親が当番として出席しているほか、小さい子どもが参加している母親が数人出ている。
 2階の会場の広間には、天神様に奉納する習字を書く机が用意され、小さい子から順番で1人3枚ずつ掛け軸風の小さな短冊にそれぞれの願いを書く。中学生の子ども(男子)がつきっきりで面倒を見て、3枚書かせる。
 順番を待つ子どもたちは、会場で思い思い遊んでいる。大きい子から小さい子までがにぎやかに会場を所狭しと遊び回り、あたかも18人兄弟の大家族の家庭にいるかのごとくである。遊びに夢中で「オシッコ」と慌てる子どもには、誰彼となくそこにいる母親がトイレに連れていく。日本の良き伝統的地域社会「地域が子供を育てる」という光景の一こまを見る思いである。
 3枚の小さな短冊が書き終わると、最後に、書き初め用紙3枚をつなぎ合わせた長い短冊に、昔からお手本とされる漢詩を皆で一字ずつ書き、皆の名前を添書きする。
 こうしてすべての習字が終わると、裏山の中腹に祀られている諏訪神社(天神様が合祀されている)に向かう。すでに太陽は山の端に隠れて寒さが身に沁みる時刻である。社殿の前にあらかじめ用意されている大きな笹竹の笹に願い事を書いた短冊をつるし、長い大きな短冊は竹の上の方につるし、立ち木を利用して立てられる。まるで冬の七夕様である。子どもたちはそれぞれ天神様を拝んで会場に戻る。
 皆で夕食をとり、お菓子を食べ、夜遅くまで楽しく遊ぶ。遊びの企画は上級生の中学生によるもので、「肝だめし」などが盛り込まれている。
 秩父郡小鹿野町では、2000年1月現在このような子どもたちの天神マチが田ノ頭の耕地のほかに上飯田、松坂、栗尾、和田耕地で行われている。少子化社会で、各地の貴重な伝統行事の存続が危ぶまれる中で、田ノ頭耕地の天神マチは行事の一部は簡略化されたが15、16年前と同じように続けられ、地域に機能して生きていることに感動した。そこにはかつて地域のどこにでもあった子どもたちの年齢を超えた交流、親と子の交流、地域が子どもを育てた民俗の心がある。天神マチは子どもたちが社会性を身につける地域教育の場であり、また地域文化を創造していく原点でもある。
大舘勝治『民俗からの発想』(幹書房、2000年)147~150頁

天神講④ 1984年 1月26日

秩父郡小鹿野町三山にある田ノ頭集落の天神マチ(天神講)。

大舘勝治さんの『民俗からの発想』(幹書房、2000年)144~147頁です。
昭和59年[1984年]の天神マチ
 昭和39年[1964年]ごろまでお雛粥の行事が行われていた秩父郡小鹿野町三山の田ノ頭の集落は、戸数18戸ほどの小さな村である。この集落には、現在、小学生から中学生までの子どもが十数人いて、子どもの伝統的な行事、天神マチ(天神講)を行っている。
 天神マチは、1月25日に行われるのが一般的であるが、ここでは、現在25日に近い土曜日から日曜日にかけて行われている。土曜日の晩にオコモリといって一泊しても、翌日が日曜日でのんびりできるというのが変更の理由である。
 天神マチを行う子どもたちは、小学校1年生から中学校3年生までの男女である。数年前までは男女別々に行っていたが、子どもが少なくなったために合同で行うようになった。また、昭和58年[1983年]の天神マチから、同じ理由でその年に小学校へ入学する幼稚園児も加入できるようになった。上級性の子どもが「天神マチに入って下さい」とお願いに来るので加入するのである。
 上級性の一人がカシラ(オヤカタ)になって采配を振るい、その他の上級生は補助役となって行事は遂行される。
 天神マチの準備は、天神マチが行われる一週間前の日曜日に、上級生が子どものいる家を回って、寿司を作る米を集めることから始める。以前は前日に集めたという。集める米の量は、1人につき3合であるが、子どもが4人いても2人分出せば良い。古くは、1人につき5合で、一家で子どもが3人参加するとなると1升5合の米を出す習わしであった。
 この米で寿司を作るが、寿司を作るのは上級生の母親たちである。以前は子どもがいるいないにかかわらず、天神マチの宿になる家の隣組5軒の母親が集まって寿司を作るしきたりであった。つまり、地域の行事として行われていたが、子どもがいないのに準備に出てもらうのは頼みにくいということになり、上級生の子どもの母親が出て寿司を作るようになった。天神マチを伝承する基盤が変化を生じたのである。
 天神マチの寿司はたくさん作り、米を出した分だけ子どもの家に届ける。したがって、子ども一人につき5合の米を集めていた時代は、兄弟で何人も参加していると、大量の寿司が届けられたという。今では寿司もそれほど喜ばれなくなり、集める米も少なくしたといわれる。
 母親たちが集まって寿司を作る家は上級生の家で、その家を「天神マチの宿」という。子どもたちは、土曜日の午後からこの宿に全員が集まる。母親たちが夕食に食べる寿司を作っている間、子どもたちは習字を習って天神様にあげる旗を書く。この旗は「書き上げ」といって、一本の竹に全員の習字をつるして天神様へ奉納するのである。
 夕食の準備ができると、母親たちはかえってしまい、後は子どもたちだけの時間となる。楽しく夕食を済ませると、歌を歌ったりトランプなどをして遊ぶ。そしてその晩は、オコモリといって宿の家に泊まるのである。オコモリができるのは2年生から上で、幼稚園児や1年生は夜10時ごろ、上級生に送られて家に帰る。
 この夜は、近隣のどこの集落でも天神マチが行われていて、他地区の子どもたちが御馳走を持って遊びに来る。子どもたちは互いに御馳走を交換して食べたり、トランプなどをして一晩楽しく過ごす。
 田ノ頭地区では、むかしから寿司を作るが、近隣の和田、栗尾地区では餅を作り、この夜、互いに交換して食べる習慣がある。なお、他地区に遊びに出かけられるのは上級生だけである。
 天神マチに必要な経費は、以前は子どもたちが行う夜番(夜警)謝礼金とトーカンヤ(十日夜)の祝金ですべて賄っていた。夜番も十日夜の行事もなくなってからは、地区の大人の新年会の席で寄付を集めて、この金を子どもたちに渡している。
 子どもたちが行ってきた夜番とは、12月1日から2月末までの夕方6時から鉦を鳴らしながら地区内を回る夜警の仕事である。2人1組で交替で行い、謝礼を得ていた。しかし、地区の子どもが減少してから、順番がすぐに回ってくるのでかわいそう、ということで中止になった。同じ夜番でも大人の方は今でも行われている。
 天神マチの経費に使われた十日夜の祝金は、旧暦10月10日の秋の収穫祭である十日夜の行事を行っていただいたものである。
 十日夜の行事は、天神マチに参加する男女の子どもたちが、藁鉄炮を持って地区内の各家々の庭を叩いて回る行事である。「トーカンヤをはたかしてください」といって各家に断り、上級生を先頭に並び、号令を発して藁鉄炮を打つ。
 「トーカンヤ、トーカンヤ、十日の晩はいい晩だ 朝ソバキリに昼団子 ヨーメシ食ったらひっぱたけ 貧乏神をはたき出せ 福の神をはたき込め」と唱和して藁鉄炮を打つ。
 各家では祝い金を子どもたちに出すが、祝い金が多いと最後の文句を2回唱和して志に応える。この祝い金を翌年の天神マチの費用に充てるのである。天神マチを男女別に行っていた当時は、十日夜の祝い金を男女等分にして天神マチの経費に充てたという。
 その十日夜の行事は、昭和40年代前半に[1960年代後半]に学校からの指導により、やむなく中止したといわれる。その理由は、十日夜の行事で子どもたちが藁鉄炮を叩いて祝い金をもらって歩くことが「下卑た振る舞い」との評価からである。
 ムラの人たちは、古くから行われてきた行事が中止になったことに驚いたという。十日夜に子どもたちが訪れて来るのを親たちも楽しみにしていたからで、今でも十日夜の行事がなくなったことを残念に思っている人が多い。
 子どもたちの祭りや行事を調べてみると、学校からの指導により中止になったというものが、思いのほか多いのに気づくのである。
大舘勝治『民俗からの発想』(幹書房、2000年)144~147頁

天神講③ 1960・61年 1月26日

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』11号 (1960年3月発行)、12号(1961年4月発行)に掲載されている天神講をテーマにした中学生の作文です。
どきょうだめし 一年B組A・K
 いよいよ冬休みだ。ぼくたちは冬休みに、はいるとすぐ天神講をする。宿は三年生の家でし、終ってからどきょうだめしをすることにした。
 ぼくたち一、二年生は、おどかされる方で、三年は、おどかす方である。三年でもあんがいおくびょうものがいる。ぼくたちはそれよりこわかったにちがいない。宿の家から出て百メートルばかり右にいき、それから、こんどは五〇メートルぐらい坂を登る。その坂はまわりから大きな木がかぶさりまっ暗である。登りきるとそこにお墓がある。そこには、まだこのあいだ死んだばかりの人の墓がある。三年生は、そこから、ゆうれいが出るとぼくたちをおどかした。ぼくたちはもうこわくてこわくてしかたがない。その墓をすぎるとまた登り坂である。そこを、まっすぐいくとそこに小さなお堂がある。そこにいって、あめをとってくるというわけである。
 時計が八時をうつ。三年生はみんなをおどかしにいった。第一にTがいくことになった。Tは、あんがいおくびょうであるが口先では、「なあにおっかなくないさ。」といっていた。いよいよ三年のあいずがあったのでTは出ていった。
 あとにのこったY、U、U、Wに僕である。つぎつぎと番はすすむ。いよいよぼくの番である。空には、月がなく星だけがきらきらと光っている。きゅうにUが、「流れ星だ。」と言った。流れ星というのは、なんてきもちのわるいものだなあと思った。ぼくは出発した。まっ暗な道をぐんぐんいくと登り坂にかかった。あたりは、しいんとしてただ遠く犬の鳴く声と、ぼくの歩く足音がするだけである。まっ暗で何も見えない。かんでぐんぐん進む。ときどきほりにおちたり石につまずいたりして、やっと明るい所に出た。そこがお墓である。ぞっと、せなかに水をかぶったようないやな感じがした。そこから、もどろうと思ったが、みんなにわらわれるのが、はづかしいので、しかたなく行った。五〇メートルばかりむこうに、あかるい所が見える。そこにお墓があるのだ。いよいよ墓である。星の光があたって石塔が青白く光って見える。墓所のそばをとおる時からだが、あつくなるのを感じた。そこは、かしの木がおおいかぶさって目がいたいほど暗い。遠くにぼんやりと火の花が見える。お堂の所においてあるちょうちんの光である。そこをめざして歩っていくと、、ぼくは「あっ」と大きな声をだした。なにかぶつかったようにかんじた。よく見ると、三年のはったなわである。声をだすまいと思ったが声を出してしまった。しばらう行くと、お堂についた。そこには、あめがおいてある。ぼくはそれをとるとまた歩き出した。こんどは前よりも暗く、遠くに家のあかりがぼんやりと見えるだけで、なにも見えない。風が葉のないくぬぎの木をならしている。かおがあうとほど寒い。ぼくはめくらめっぽう歩いた。そして大きな松の木の横をまがって、しのやぶへはいった。そこには細い道がでこぼこしていて歩きにくい。きゅうにへっこんでいるので、かくんとする。あっちにつまずき、こっちにつまづいて、やっと家のあかりが見えて来た。
 しばらく歩いてやっと家についた。家にはいったら目がきゅうにかるくなった。そして口々にこわさをいいあった。冬の夜は、星が青白く光り北風が木立をならし、寒さをよけいきびしくかんじる。冬の夜はとてもさびしいものである。
   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』11号 1960年(昭和35)3月
今年の冬休み 一年D組 長島正美
 暮れのうちと、いっても、冬休みに、入ってすぐの頃は、とてもたいくつだったが、三十日の朝、もちをついてからは、本を整理したり、庭の掃除を、したりして、とてもたいくつといって、いられなくなった。
 三十一日の夜、兄と弟はとなりの家へテレビを、見にいったが、ラジオの歌の日本シリーズが聞きたかったのでいかないで、ラジオを聞いて、風呂に、入ってすぐねた。十二時少し過ぎた頃目がさめた。そうしたら除夜の鐘がなっていて、兄たちも帰ってきていた。
 一日の朝も今年は、祝賀式もないので、朝おそくまで、ねていた。二日間は、なにもなく三日に、親類の人が子供を一人連れてきた。それで急に、にぎやかになった。四日目は、天神講である。朝、九時に始まるので、八時頃から、隣の子と、野球やバトミントンを、して遊んで、九時頃、家を出発して、宿(やど)へいったが少しみぞれがふってきた。八幡様へ行く時も、途中で休んだりして、すっきりしないで、あまり面しろくなかった。昼からは、晴れたが、庭がぬかっていたので外で、遊べないので、しかたなく中で、台つぶれや、トランプ、かるたなどをして、じきに帰った。六日に東京から、大人一人、子供二人が、きた。二人とも男の小学生で、野球をしたり、ゴルフ場へいったりして、次の日の十一時頃、帰った。後の残りの日は、のんびりと、遊んだ。今度の冬休みは小学の時の、冬休みと、たいして、かわりなかったが、しいて、いえば、漢字帳を、書いたことである。いつもだら、何もしないで遊んでしまうものを……。
   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』12号 1961年(昭和36)4月
天神講 三年B組 長島睦子
 一月四日。これは私達の長い伝統を持つ天神講である。
 朝八時頃集まって、皆、手に筆を持って、「天満天神宮」などと書いて、神社へお参りするのである。それが終って昼食、前年までは、「あんこもち」のお昼であったが、今年から私達の要望した「寿司」に変った。これはまあ、私達にとれば前年より変化があり良かったと思う。その次三時になると「お茶」、茶菓子とお茶などが、個人に配られる。飲み、食べ、遊んで六時に開散と、ざっとこんな内容である。小学校時代には、天神講と意味も知らずに、ただ遊ぶだけのおもしろさだった。ところが中学生になると意味が、ちょっと解りかけてきたと同時に、「つまらない、おもしろくない。」というようなよけいな考えが育ってしまった。小さい頃のまちどうしいどころではなく、日が近づくに従っていやになる。こんな始末だ。よくない考えだ。今年は、中学三年生。しかも下級生を指導する立場におかれる親玉となるわけだ。しかし、私は身分ばかりで任務は何一つ果せないのである。下級生に対して、申し訳のない次第だ。
 当日「つまらないなあ。」と言いながら出掛けようとすると兄が、「おまえが皆をおもしろくさせなければならないのだ。」と言われたものの、朝は遅刻してしまい、遊び時間は、部屋の片隅で、数人でトランプなどして遊んでという自分勝手な行動。しかし、小さい子はそれなりにふざけあったり、にぎわったりしている。それを見てほっとする。
 残念ながら、皆一緒になって楽しく遊ぶことが出来ないうちに短い一日は終ってしまった。
 こんなだから、すなわち、自分達で自分をつまらなくしているようなものだ。
 今年で天神講というものは、私達三年生にとって最後だった。今考えて見ると、今年はもちろん、九ヶ年間やって来たが思い出深い事はあまりない。来年度からはもっと楽しいものにしていただきたい。
   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』12号 1961年(昭和36)4月

天神講② 1956・58年 1月26日

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 (1956年3月発行)、9号(1958年3月発行)に掲載されている天神講をテーマにした中学生の作文です。
一月四日 三年三組 大野トク
 いつものくせで今日もつい朝寝坊をしてしまった。ふすまの間から射しこんでくる光で目がさめた。床に少し入っていたが、ふと「そうだ、今日は天神講だったっけ」と思いついたので、はね起きた。そして隣りの部屋に行って見ると、川口から来たお客と、小岩と、高坂から来たお客と一緒に妹はもう目をさましたまま、まだ床に入っていた。
 「幸子、今日は天神講だから、早く起きないとおくれるよ、もう七時だよ」といって、急がせて起こしてしまった。
 顔を洗いに行くと、もう太陽は東の空に気持よく上っていた。
 「今日も又、良い天気でありますように」朝日はお祈りしながら、歯をみがいていた。朝飯をすましてから又も妹を急がせた。
 「早く半紙を三枚出して、半分に切ってくれよ」妹に云ったら母が「どうせ幸子が切ったんじゃだめになってしまうから、自分で切った方が早いよ」といわれたので、しかたなく、「じゃあ、すずり箱を出してみ」といったら妹はすぐもって来た。
 「そうだ、母ちゃん重箱は?」
 「母ちゃんは手伝いに行くんだから、忙しいからおばあちゃんに出してもらいな」といって出かけてしまった。
 私はもうおそいと思って気が気でなかった。でもすぐ出してくれたのでよかった。これで大体仕度がそろったので、私と妹は出かけた。宿の家に行くと、もう男の子が五、六人女子が三人で、たき火をしていたので「もう篠は取った?」と聞くと「もうとっくだよ!」と云われたので安心した。
 「たけおさん、もう八時になった?」
 「もう八時はすぎたよ」との答えだったが、まだ幾人も集っていなかった。でも少したったら大体集合した。
 そこで天神様に供える習字を書いて、八幡様に納めにいって来た。それからは遊んだりお茶を飲んだり、トランプなどをしたりして楽しく過した。そして最後に、
 「私達三年生は、もう最後だから『螢の光』を歌おう」といって、全員(三十一名)で歌った。
 このようにして最後の天神講を楽しく、ほがらかにすごしたのである。
   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』7号 1956年(昭和31)3月
天神講 一年 中島敏子
 私たちの一年中で最も楽しい天神講は一月五日だ。待ちに待った天神講の日がやって来た。朝寒い頃から、小さい子供達は、うれしくてしかたがないのか、私の家に、
 「もう行ってもいい。」
とまちどうしいように言って来た。私が、
 「まだ早いよ。」
と言っても、きかずに私をむりやりに宿の家まで連れて来てしまった。私は、半紙を切ったりする。
 千枝子ちゃん達は、すみをすって書く用意をしている。そのうちすみもしだいにこくなったので小さい子から順番に書き始めた。
 全部で人数は二十一人です。やがて書いているうちに全部書き終りました。書き終って、十五分ぐらいで男と女で羽根つきをし、八幡様へ全部で納めに行って来てから、又さっきの続きをした。
 男子がとうとう勝った。もう昼近くなったので、おぜんを並べてぼたもちを配ばったり、とうふ汁を配った。くばり終ってから、小さい子をみんな呼んで昼食を食べた。昼も食べ終ってじゅうばこを取りに行った。帰ってきたら羽根つきをしていたので羽根つきにまじった。
 羽根つきもあきたので、私と正子ちゃんで男子が、べいごまをしているのを見に行った。なかなかおもしろいので見ているうちに、三時ちかくなってしまった。三時のお茶休みには、茶菓子が出る。
 その菓子は、天神講が五日なので四日に買いに行くことになっている。毎年男子が買いに行くのだが、今年だけ女子が買いに行った。菓子を買って来てから千枝子ちゃんの家で分けた。男は、大豆、あずき、米、茶菓子を集めた。
 そのうち、お茶休みも終わり、皆と県道の方へ行った。すると、二人ばかりのイラン人が通りかかった。小学生はイラン人がめずらしいのか、イラン人の後をぞろぞろとついて行った。私たち中学生も、後の方からついていった。ちょうど通りかかったところから、五〇〇メートルぐらい行ったところに井戸をほっていた。イラン人は、立ち止まって、何かしきりにわけのわからない、イラン語【ペルシャ語】で話していたが、やがて井戸を掘っているのを手伝っている人達に、
 「さよなら。」
と言って立ち去った。その時私は、
 「このごろイラン人はなかなか日本語が上手になってきたなあ。」とつくずく感じた。なぜと云えば、ハーモニカで、「お手々つないで」とか、いろいろ童謡を吹いたり、歌ったりしているのを聞いたからです。と思っているうちに皆がもとの天神講の宿の家まで引き返して行ってしまったので、私もいそいで帰った。庭でみんなが集まって何だか話をしている。近づいて行くと、かんけりをする相談をしていた。話がまとまり、かんけりを約三十分位したが、ある人が、こんどは千枝子ちゃんの家の前の坂でやろうと言いだしたので、そこへ行くことになった。でも十分位遊んでいるうちに、あたりは薄暗くなったので中学三年の守ちゃんが、
 「もう帰るか。」
と言ったので帰った。
 帰ってから、すぐトランプをしているうちに夕飯の仕度をした。夕飯も終わったので、こんどは小さい順に歌を歌った。
 審査員は中学二年の栄さんと中学三年の守ちゃんです。かねを四つもらった人はキャラメルを四ついただけることに決めた。私は二個いただいた。キャラメルを四つもらった人は三、四人だった。又トランプをした。そのうちにマラソンを終えて、進さんが帰って来て、こんどは、
 「歌った人には、キャラメルを二つずつくれるよ。」
と言ったので、皆歌って、キャラメルをいただいた。歌い終ると、進さんが、記念写真を撮って下さいました。
 全部で写そうとしたけれど、残念なことに少しの人が入らないので、男女別にしました。最初女の子が写し、その次に男全部で写した。その後で、私と、とみちゃんと正子ちゃんで写していただいた。まだ他に写していただいた人もいた。
 ふと時計を見ると九時近くになるところだった。予定では九時だけれど写真を写していたので少しおそくなってしまった。
 宿の人と別れて五、六人一緒で家へ帰った。夜道は明るく、歩く足音は昼間とちがってとても大きく聞こえた。
 皆寒いのか背中をまるめて、いそいで歩いて行く。
 もう家もすぐ目の前に近づいて来た。
   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』9号 1958年(昭和33)3月
天神講 一年 杉田けい子
 天神様と言うのは菅原道真を祭ってあるのであって、字がじょうずになるように(天満天神宮とか天神様)と字を書く。そし又字がじょうずになるだけでなく、文学、たとえば勉強ができるようになる。だから天神様をすることは結構なことであります。
と校長先生がおっしゃいましたが、私の方でもその天神様を五日にしました。
 宿は私の家です。では前の日からお話しします。
 中学生の女子が四人手伝いに来てくれました。寒いうちに米二合、あづき、さとうなどを集めて来て、ちょうど十時ごろだったので母が、
 「どうもすみませんでした。じゃあお茶を入れますから。」
と言って、まもなく持ってきて、
 「どうぞ。」と言った。けれども皆んな遠慮してなかなか飲まないから私が茶碗を一人、一人わたしてやりました。休みにすこしバトミントンをして遊ぶと二年生のゆき子ちゃんが、
 「けい子ちゃん、芋洗いなんかするんだべ。」と言った。
 「私は知らないから母に聞いてくらあ。」
といって家にかけこんだ。
 「かあちゃん、皆んなが芋洗いなんかするんか、と言ったけれどどうする。」
と言うと母が、
 「皆んながしてくれると言った。」
 「うん。」
と言うと、
 「じゃあ、してもらうか。」
と言った。そして私は「庭へ行ってたるに、こんぶがふやかしてあるんだけれど洗って出してくれる。」と言って、私が野菜かごを持って井戸ばたに行った。たるに入れてあった水はとても冷たいので汲みたての水ととりかえて洗い始めた。
 四人で洗ったからあっと言う間に洗いきってしまった。それが、すむとこんどは芋洗いでしたので、私が芋出しに行き母に、
 「芋はどのくらい出したらいい?」と聞くと母が、
 「バケツ二はいぐらいでたくさんだよ。」と言った。
 皆んな一生懸命仕事をしてもらったので母はおおだすかりと言っておりました。又芋むきまでもしてくれた。これで終ったので皆んなに、
 「ありがとね。」と言った。
 皆んな昼になったので家へ、家へと足を進めた。半日すぎていよいよ夜になると母は煮物でいそがしそうだ。私は風呂に入り八時ごろ寝床につきました。けれども色々なことが考えられて眠れません。習字も書いてないし、作文も書いてない。こんなことを考えると天神様なんかしたくなくなってしまう。
 その二日間のうちに習字と作文くらい書ける。私はついに声を出して、
 「天神様なんかしたくない。」
と言ってしまった。そして、いつの間にか眠ってしまった。朝の明けたのも知らず起きたら七時をすぎていた。
 父に「鼻がつまって風邪をひいちゃった。」と言うと父は、
 「おまえはよわいな。一年に何回風邪をひくのか。」
といわれた。でも起きて御飯を食べて掃除が終ったら、庭でバトミントンをつく音が聞こえたので出て見たら、千代子ちゃんが来ていたので、母にもう遊んでいいと聞いたら、
 「掃除をしたのかい。」
 「うん、掃除はしたよ。」と言うと、
 「じゃ皆んなと遊びな。」と言った。
 皆んなとバトミントンをしたり、うしろむきなどしているうちに十時ごろになってしまったので、私が墨とすずりを出してえんがわですみをすってもらった。そのうちに私が筆を用意して書き始めた。小さい順に書かせた。一、二年生は、「てんじんさま」とひらがなで書き、初めは、大きい人が手を取って書かせた。それから三、四、五年生は「天神様」と漢字で書き、もう三、四、五年生になると自分でざっさと書いてしまう。
 いよいよ私たちの番になったので私は「天満天神宮」と書いた。これで全部書き終ったので、こんどは書いた紙にしのをまきつけて、その上のまん中に穴をあけて糸を通して竹につるす仕事をした。
 これはだいたい大きい子がしのをはりつける。小さい子が竹につるす。こう言うふうにしてからすぐに終ったので、八幡様へ納めに行くのです。その途中ぬまで氷すべりを四、五人の男の子がしていた。ここの氷すべりは私が六年生の時に先生から注意されたのですが、まだしておりますが、氷すべりと言うのは面白いのでしょう。
 こんなことを思っているうちに、お寺の近くになった。男の子がお寺から台を借りて運んで行く所だったので女の子も皆んなして手伝って家まで運んでやった。
 そして又仲よく遊んでいるうちにお昼近くになったので中学生はお膳や皿など洗ってくれたので、早く昼食ができました。皆んなで楽しそうに食べ始めたが、二人こない人があったので、私たち大きい生徒が迎えに行ったら、どこかへ行ったと話を聞いたので、私たちも食べ始めた。千代子ちゃんの母がお給仕をして下さった。皆んな、ぼたもちや色々食べて嬉しそうでした。
 食べ終ると、トランプやすごろくをして遊んでいる時、小さい子がトランプにまぜないとか、悪口をいったりしてけんかをしてしまった。
 だから私が小さい子の面倒をみながらバトミントンをして遊ばせました。その時、私の父は白菜を運んでいたら、歌子ちゃんが、
 「小さい子はトランプにまぜない。」
と言ったら父は、
 「どうして。」
とただひとこと言っただけでした。こんなことをしているうちに三時になったのでお茶にしようとかたづけた。
 昼から男の子は一人残っているだけで、玉川会館に映画を見に行ったから、人数が、少なくなってしまった。私たちは、お茶、お菓子、煮物など食べながら、歌を歌ったりとてもにぎやかだった。まさ子ちゃんなんか勇気があって、
 「おれ歌うよ。」
と言って、じょうずに歌ってくれた。小さい子はふざけることもあるがしんけんに歌うこともある。中学生はただだまっているだけでした。又、
 「菓子七円、みかんが十五円だから二十二円。おらあちは三人だから六十六円。ほれ。」
と、私に百円さつを出した子もいた。だから私は、
 「お金はいいんだよ。」
と言った。
そのうち楽しいお茶休みもすみ、皆んなでかんけりをしていると、男の子が映画を見に行って帰ってきたので、私は、
 「タイム。」
といって、お茶をわかして男の子に出しました。そのころ時刻は四時ごろだったので、まだ羽根つきをして遊んだ。
 ふと県道を見たら、イラン人が通るのに気がついた。皆んなが見に行こうといってかけだした。県道についてすこし待っていたらきて、イラン人に皆んなが、
 「さようなら。」
と言ったら背の高い方の人が手を振って、かた方の人がちょっとアクセントがちがうが、
 「さようなら。」
と言った。イラン人をずっと見ていたら立ちどまってなんとか言っているようすでした。そこへ弟が自転車できて、
 「いまイラン人が人参をさして、『これ人参でしす』と言ったよ。」
と話した。
 そして、又私の家にもどってきて、皆んなが私の母に、
 「ごちそうさまになりました。」
と言ってから、すこし「アウトおに」をして帰りました。
 夜になって私は天神講の反省をしました。
 一、お茶の時などすこしうるさかった。でも小さい子が多かったからやむをえないかとも思った。
 又小さい子の遊びがなかったため、家に帰ってしまった子が二人あった。来年からは小さい子の遊びを考えたいと思います。
   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』9号 1958年(昭和33)3月

天神講① 1月25日

市民の森保全クラブで、休憩時に「天神講」が話題になったことがあるので、『東松山市史 民俗編』(東松山市、1983年発行)を取り出して読んでみました。
天神講 1月25日、上唐子地区は大字の行事として執り行われた。また、これを「天神祭」ともいわれた。その当時は、「奉納天満天神宮」と書いた書き初めを小学生全員で村の鎮守様(天神宮が合祀されている)に数多く奉納された。
 そして子供達は6年生の家(比較的恵まれている農家)に集まり、その家の親が手伝ってくれて、各人の持ち寄った米5合(約0.9リットル)、小豆2合(約0.36リットル)位のもので、にぎやかに食べながらケンチンジルと少しのお菓子などでカルタなどで夜9時頃まで遊んだものである。
 下岡地区では、24日6年生が先になり字の下級生と、米2合、醤油、砂糖、野菜などを集め宿(6年生の家が持ち回る)でご馳走を作ってもらい皆で食べる。この時「奉納天満天神宮威徳御菶殿」と書き方練習をし翌25日に天神様に奉納した。なお明治大正の頃は宿の家におこもりして翌日奉納したという(習字が上手になるようにと旗を書き天神様に上げた)。
 日吉町、本町一丁目、元宿の子供達は、25日書き方練習をして元宿の天神様に奉納した。(習字が上手になるように「奉納天満天神宮」と書いて納める)。
 天神講は子供たちにとって、習字を書いたり御馳走をたべたり、子供たちの信仰と社交と娯楽を兼ねた行事だった。
(『東松山市史 民俗編』1983年、295頁)

東松山市の隣にある嵐山町菅谷の天神講について紹介します。1995年に田幡憲一さんがまとめたものです。1940年代前半、戦時中の天神講体験者の回想で、12月24日・25日に行われています。
菅谷上組の天神講 田幡憲一
 菅谷の子供の楽しみの一つに天神講があった。十二月二十四日、俺たち小学校【菅谷村立菅谷尋常高等小学校。現嵐山町立菅谷小学校】の一年生になった者は、風呂敷に包んできた通信簿を座敷に放りだして、天神講だと言って家を駆け出して行く。今年から天神講に参加できると喜んだものだ。高等二年の上級生、高等一年、小学六年、皆大きくたくましく兄貴のようだった。上級生が学校から帰るのを待ち構えていた。昭ちゃん、良平さん、秀夫さん、みんなが帰ってきた。さあこれから天神講だ。
 高等二年、一年、みんなで米を入れる袋、醤油ビン、油のビン等をもって、天神講に参加する子供の家を廻る。米二合、人参一本、又次の家では米と大根一本、醤油茶飲み茶碗一杯、油茶飲み茶碗一杯、ゴボウ一本……。上級生の後ろについて歩きながら家々を集めて歩き、今年の宿(やど)をしてくれる家につくころには、荷物が一杯集まった。
 そして子供達も大勢集まり、上級生の命令で、これから山に薪を集めに行くものと、笹竹取りに行くものとに別れて出掛けて行く。皆協力して枯木を集めて縄でいわいて運ぶ。夜と朝との自分たちで使う物はみんなで共同で集めて、宿をしてくれる家へもって行き、宿のおばさんに渡した。
 宿をしてくれる家では、二部屋続きの座敷を開放して、子供たちに自由につかわしてくれた。子供たちは共同ではたらき、今晩の天神講の宿での、一同に会しての晩飯を楽しみにしながら、上級生の指示に従い、髪と筆、 硯、紙も小さい子供には初めての唐紙(トウシ)という長い紙でした。その紙に上級生がお手本を
     奉納 天満天神宮
 と書いてみせて、下級生の手をとりながら書いて行く。全員書き終わり墨が乾くまで、座敷いっぱい並べて、うまく書けた子、書けない子、うるさいこと……。
 その間にも、年上の子供たちは先程取ってきた笹竹を適当な長さに切り揃え、長いものと旗の頭につけるものとに分けている。そして乾いた紙の頭に糊をつけて笹竹に丸く張り付けて、竹の両方の端を糸で結び、長い笹竹につるしてできあがり。
 そろそろ先程集めたゴボウ、大根、ニンジン、いろいろのものを宿のおばさんが料理している匂いがしてくると、子供たちはなんのご馳走ができるのかとひそひそ話。その間にも、上級生たちは習字の道具を片付けたり、掃除をしたりして、宿をしてくれる家に迷惑の掛からぬ様にと気を使っている。自分たちの事だから自分たちでするのが当り前だ。
 夕方近くなると上級生の命令で、みんなが家に帰り、ご飯茶碗と箸を持ってくる。上の人たちは、ご飯のちゃぶ台を借り集めて持ってくる。いよいよ待ちに待った夕ご飯。それぞれの絵のついた茶碗に、おいしくできた五目ご飯をよそる。宿のおばさんが一番大変だ。急に子供が十六人。おいしいおいしいとお代わり。もう五杯もたべた。俺は四杯。豆腐のつゆもうまい。食欲旺盛だ。みんなで食べれば何でもうまい。おばさんの作った五目ご飯はすぐになくなる。皆満腹だ。
 いじめなどない、塾もない。皆、上級生の命令に従いついて行く。そして、自分も早く大きくなって下のものの面倒をみるのがたのしみだ。
 またまた、上級生の命令がでる。今夜泊まるものは布団一枚、家からもって来るようにと。小さい子供は母親が布団をもってくる。布団を敷き、これから上級生のこわい話。雨の夜、土葬の墓の上で青い炎が燃える話。これは、亡くなった人のリンがたち昇る、いや死んだ人の身体からでる油だとゆう話……。又小学校の南西二百メートルぐらいの、山の中の焼場のこわい話。昭和十六年(1941)頃まで使用していた伝染病や肺結核で亡くなった人を火葬したところ。薪に油をかけてもやしていた話……。皆布団の中から首をだして先輩たちの話に長い夜を過ごした。そしていつしかいびきが多くなり眠りについた。
 朝六時に起床。顔を洗い、皆寒い寒いと震えている。泊まらなかった子供たちもみんな集まってくる。昨日作った天満天神宮の旗をこれより神社へ奉納しに行くのだ。みんなそろって旗を持ち神社まで行進する。神社には上組・中組・下組、それぞれの子供たちが旗を収め、頭がよくなりますようにと天神様を拝む。
 宿へ帰り、宿のおばさんが作った朝ご飯を食べてから全員で遊び、夕方それぞれ解散。子供たちは一年一回のこの天神講をどれほど楽しみに待っていたかがよく分かる。(1995年8月記)

シロダモ、ジョロウグモなど 11月3日

シロダモ(クスノキ科)の黄色い花と赤い実。雌雄異株で花と実が同時にみられるのは雌株。
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ツマグロオオヨコバイ(オオヨコバイ科)を捕まえたジョロウグモ(ジョロウグモ科)
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コガネグモ・ジョロウグモが巣を張る谷津の秋(2020年10月12日、二宮さん作成)
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3日間の降水量 9月19日

9月18日~20日の鳩山アメダスのデータです。台風や豪雨の予報があると市民の森で災害が起きないかと雨の降り方が気になります(←「雨で斜面が崩れる理由(2022年9月1日記事)」)。鳩山アメダス埼玉県川の防災情報から荒川上流河川事務所高坂東松山県土整備事務所白山中学校などの観測地点や気象レーダー(→HIR-NET提供の気象レーダー、雨量レーダーのサイトリンク集『埼玉県気象レーダー)をみています。

9月18日
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9月19日
7479

9月20日
7480

9月の日降水量、最大1時間降水量
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霧ヶ峰の草原の成り立ち 9月12日

霧ヶ峰高原の八島ヶ原湿原に隣接する下諏訪町立八島ビジターセンターあざみ館を見学しました。

八島ヶ原湿原と霧ヶ峰の山々(Wikipedia)_11-4A八島湿原(八島ビジターセンター)
八島ヶ原湿原と霧ヶ峰の山々Wikipedia「八島ヶ原湿原」

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浦山佳恵「霧ヶ峰高原の山麓集落による高原資源の利用と生業の変遷 -近世から近代を対象に-」(
長野県環境保全研究所 環境保全研究所研究報告 第3号、2008年)

1.はじめに
 霧ヶ峰高原の標高1500m以上には、約1000haという日本最大規模の亜高山帯の草原が広がっている。降水量の多い日本列島では、高山や海岸風衝地に成立する自然草原を除けば、何らかの人為的干渉がなければ森林が成立する。そのため、多くの草原は人間による火入れや採草、放牧などにより形成された二次草原である。霧ヶ峰高原の草原も採草利用により維持されてきた二次草原であるが、採草利用の停止により草原の森林化がすすみ、草原景観の消滅や草原性動植物の絶滅さらには生態系全体への影響が危惧されている。
 近年、県や市町村、NPO等により草原を保全する取組みが行われつつあるが、草原と山麓集落との関わりの変遷を把握することは、今後の草原保全に多くの示唆を与えてくれると考えられる。
 これまで霧ヶ峰高原の草原と山麓集落との関わりについては、草原化の起源が鎌倉時代であること、近世以降霧ヶ峰高原は肥料や飼料となる草の採取に利用され近世末には全域が草原となり、明治以降化学肥料の普及により採草利用が減少し草原の縮小が始まったこと、昭和初期には標高1500m以上は秣の採取に利用されていたこと、昭和初期の秣の具体的な採取方法等が解明されてきた。
 一方、霧ヶ峰高原での採草利用は山麓集落の生業と密接に関わってきたと考えられるが、山麓集落の生業との関連で霧ヶ峰高原の資源利用を明らかにしたものはない.
 そこで、今回は近世から近代を対象に取り上げ、山麓集落の生業と霧ヶ峰高原の資源利用の変遷を明らかにすることを試みた。
2. 調査地の概況
 2.1 霧ヶ峰高原の自然条件
 2.2 中世における霧ヶ峰高原の草原化要因
          霧ヶ峰高原の山麓集落による高原資源の利用と生業の変遷_3
3. 近世の山麓集落の生業と霧ヶ峰高原の資源利用
 3.1 入会集落の生業
 3.2 入会集落による霧ヶ峰高原の資源利用
   霧ヶ峰高原の山麓集落による高原資源の利用と生業の変遷_4
 3.3 資源をめぐる利用規制
4. 近代の山麓集落の生業と霧ヶ峰高原の資源利用
 4.1 入会集落の生業
 4.2 昭和初期の入会集落による霧ヶ峰高原の資源利用
 4.3 昭和初期の資源をめぐる利用規制
5. 山麓集落の生業と霧ヶ峰高原の資源利用の変遷
6. おわりに
これらから、近世末に霧ヶ峰高原全域が採草地として利用されたのは、山麓集落が稲作を中心とした生業を営み肥料をほとんど自給していたためであったと考えられる。また、明治以降の採草利用の減少は、養蚕が盛んになり現金収入が増加するとともに肥料としての草の価値が低下したためであったと考えられる。一方、明治以降も標高1500m以上で比較的採草利用が維持されたのは、西麓集落が現金収入を得るために酪農を開始したことと関連していたと考えられる。利用規制の運用状況の変化は、こうした生業の変化に伴う草の資源価値の変化を反映していると考えられる。
今後は、さらに戦後から現在についても同様に明らかにすることにより、現在の草原の形成過程について検討し、今後の草原保全のあり方についても考えていきたい。
謝辞
文献
 

  

※車山山頂(茅野市)には高さ12.4mの気象レーダー観測所(気象トップラーレーダー)があります。

立科町のくびれ 9月12日

立科町は東西9.9㎞、南北26.4㎞と南北に長い町で瓢箪[ひょうたん]を引き延ばしたような形をしています。最狭部は幅わずか53mで、そのくびれをもたらしたのは、17世紀初頭、雨境峠の南側の蓼科山麓は諏訪方9ヶ村(現・茅野市)と佐久方8ヶ村(現・立科町)の入会原野でしたが、半世紀以上にわたって争論が続いたあげく、1670年代に諏訪側の立ち入り・利用が禁止されて佐久側の独占が認められたことです。これが「立科のくびれ」の南側、白樺高原地域(蓼科)が現在立科町に属している遠因の一つです。
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中山道 茂田井間の宿 9月12日

霧ヶ峰高原の八島ヶ原湿原に隣接する長野県諏訪郡にある下諏訪町立八島ビジターセンターあざみ館に向かう途中で寄りました。中山道69宿の25番目の望月宿と26番目の芦田宿の間にある宿場町で用水に沿って古い家並が残っています。

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案内板に佐久市教育委員会、立科町教育委員会とあるので、『立科町合併60周年記念 町勢要覧 2015』の資料編・立科町60年のあゆみをみると1960年に望月町(2005年に佐久市に合併)茂田井地区で立科町への境界変更についての住民投票が行われ、望月町茂田井の大部分が立科町に境界変更したとありました(39頁)。2軒の造り酒家は佐久市、一里塚は立科町です。

 

 


雨で斜面が崩れる理由 9月1日

7月21日の記事にあるように、市民の森では7月の豪雨で土砂崩れがおきた場所が何箇所もあります。ボッシュ林の北向き斜面の谷もその一つです。大規模なものではありませんが、これから多発しそうです。
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YouTubeの森林総研チャンネルにある「【森林講座】土砂災害を引き起こす雨の降り方に隠された共通点」(21:09)の前半に「そもそもなぜ斜面が雨で崩れるのか?」があります。



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土砂災害が発生する危険性の高い雨の降り方を判定する」(森林総研プレスリリース2021年10月28日
ポイント
・雨の降り方と土砂災害が発生したタイミングの関係を明らかにしました。
・1時間当たりの平均雨量がおよそ 100 年に一度の値に達した際に,土砂災害が発生する
危険性が高いことがわかりました。
・この成果は,土砂災害が発生する危険性が高い雨の降り方の判定に役立つことから,
住⺠の安全な避難計画の策定に貢献することが期待されます。




太陽のまわりに日暈(ハロ) 5月11日

今朝は太陽のまわりに日暈(ひがさ、ハロ)が見えました。天気下り坂のサインだそうです。

単管パイプ・クスノキ削屑 3月19日

ふじみ野市の平地林にあるガレージの片付けで出た単管パイプをいただきました。40本ほどあります。
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袋詰めされたクスノキの削屑
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『薪ストーブライフ』42号(→ナラ枯れ文献⑤『薪ストーブライフ』42号 2021年9月5日記事)の「ナラ枯れから樹木を守ろう」のページに「カシナガは針葉樹が嫌い」という見出しがあったのを思いだして、軽トラに積んで一緒に持ち帰りました。京都・大覚寺の御神木のスダジイの根元に袋詰めしたヒノキのペレットを設置してカシナガの穿入を防いでいる写真が掲載されています。クスノキは材から樟脳が採れる香木です。クスノキは常緑、単葉の広葉樹ですが、鱗状葉の針葉樹・ヒノキの匂いが嫌いならクスノキはもっと嫌いなのではと期待しましたが、『森林防疫』63巻2号(2014年3月)に掲載されている小林正秀・吉井優「ブナ科樹木萎凋病(ナラ枯れ)の防除法」には、「京都府立植物園では市販の樟脳が幹に設置されたが、効果は得られなかった」、「ヒノキの木屑を幹に設置すると2週間程度の忌避効果が認められた」、「このため、京都市内の社寺仏閣では、御神木などの貴重木に対してヒノキ木屑(生材から作成した約1㎝四方のチップ)を梱包した袋を2週間毎に幹に追加設置することが行われている」(4か~6頁)とあります。残念ですが、他の使い道を見つけます。

コアシダカグモ 11月21日

岩殿C地区の資材置場を整理していた時、見つけました。コアシダカグモ(アシダカグモ科)♂?。網をはらないで歩きまわり、頭から尻先までの体の大きさが20~25㎜(=体長。足を含めた大きさは全長)の大型のクモです。
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 ●コアシダカグモ(♂) 2016年6月28日記事
 ●コアシダカグモ 2015年6月13日記事

コアシダカグモ(新海栄一『日本のクモ』文一総合出版、2006年)
……平地から山地に生息。人家・神社・寺院等建物の周囲、石垣、崖地、洞穴、太い樹木等で見られる。昼間は壁・塀の隙間、石垣や崖地の割れ目、樹皮下等に潜んでいるが、夜間隠れ場所から出て、天井、障子、壁、塀、縁の下、土台石等で脚を広げて静止し、接近するゴキブリ・カマドウマ・コオロギ・蛾等の昆虫を捕食する。

クリオオアブラムシ 11月20日

伐採・更新エリアのコナラについていました。近くにアリがいたのでアブラムシの仲間だと検討をつけて調べたらクリオオアブラムシ(アブラムシ科)でした。
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島根県病害虫防除所の「病害虫データベース」のクリの害虫クリオオアブラムシによるとクリのほかクヌギ、コナラなどにも寄生するそうです。京都教育大学生態学研究室の自然ICT教育プロジェクトの生物観察支援システムⅡ(観察動画アーカイブ)YouTubeチャンネル京都教育大学 自然ICT教材プロジェクトから以下の動画を見ることができます。





赤城自然園 11月10日

赤城自然園に行きました。2019年にもこの時期に紅葉狩りに来ています。
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オオセンチコガネ(センチコガネ科)
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獣糞や動物の死がいに集まる黒っぽいコガネムシ。
センチコガネより体表の輝きが強い。

ヒラタケ白こぶ病 11月3日

キノコの季節がやってきました。野外で発生しているヒラタケをひっくり返してみるとヒダの部分に白い粒があるものがあります。これをヒラタケ白こぶ病(ひだこぶ線虫病)といいます。ヒラタケ白こぶ病は、1978年に島根県、ほぼ同時期に中国地方、九州地方で発生が確認されました。その後、1995年までには西日本一帯、新潟県、長野県など、さらには2010年頃には関東・東北でも確認されるようになったそうです。このこぶはナミトモナガキノコバエが運ぶ線虫によって生じることが知られています。白コブ病の発生したきのこは食用には問題なく中毒することもないのですが、見た目は気持ちの良いものではないのでこぶを取り除いて食べましょう。ヒラタケが発生する直前に寒冷紗など1㎜方眼の防虫ネットでこのキノコバエの飛来を遮断することで防除できます。
 ヒラタケ白こぶ病発生サイクル

   

ヒラタケが白こぶ病に磐城蘭土紀行[いわきらんど]2020年11月12日記事)
 原発事故が起きる前は、毎年、晩秋から初冬にかけてヒラタケを採りに森へ入った。平成20(2008)年の師走は、大きくしっかりした個体がびっしり倒木に生えていた。ところが、3分の1に白い粒々ができていた。初めて見る異変だった。年末に開かれたいわきキノコ同好会の総会・懇親会では、この白い粒々の話題でもちきりだった。それが「ヒラタケ白こぶ病」だということを初めて知った。
 ヒラタケ栽培農家では前々から被害が発生し、原因が分からずにいた。いわゆる「虫こぶ」の一種だ。
 12年前の拙ブログには、「キノコバエに運ばれた線虫がヒラタケ・ウスヒラタケのひだに付着すると、ヒラタケ・ウスヒラタケは自衛のために虫こぶ(白こぶ)をつくり、線虫を食べてしまう」とある。当時、そんな見解の文献があったのだろう。今回、あらためて検索するとまったく違っていた。
 森林総合研究所九州支所が管内の実験林内で調査した文献がある。それによると、白こぶ病にかかったヒラタケには、病原センチュウのヒラタケシラコブセンチュウと、媒介昆虫であるナミトモナガキノコバエの幼虫が生息している。ヒラタケ子実体(きのこ)が崩壊すると、病原センチュウはヒラタケから脱出してキノコバエに寄生し、羽化したキノコバエによって、また健全なヒラタケに移り、白こぶ病を発生させる。
 別の文献では、1970年代の終わり、まず屋久島・福岡・鳥取で同時期に発生が確認された。その後の聞き取り調査では、1995年までに西日本一帯で、さらに2010年ごろには関東・東北でも確認されるようになった。いわきでも発生が確認されたと思ったら、すぐ北へ被害が拡大したわけだ。
 白い粒々がびっしり付いているヒラタケは、気味が悪いから手が出ない。栽培ヒラタケは当然、売り物にならなくなる。目の細かな防虫ネットをかけると効果があるそうだ。「地球温暖化」の問題は真っ先に地域の片隅にあらわれる。「地域温暖化」のゆえんだ。
※水谷和人「ヒラタケ原木栽培で発生する白こぶ病とその防除」(岐阜県森林研究所普及成果『森林研情報』80、2011年2月)
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津田格「きのことキノコバエと線虫の三者関係(『日本森林学会誌』94巻6号、2012年)
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吹上コスモス畑の生きもの トビ 11月2日

吹上コスモス畑のある荒川の河川敷には鳥類がたくさんいるようです。カラスが追いかけている猛禽を撮っので、拡大して調べてみました。尾羽の先が直線、翼の先(初列風切羽[しょれつかざきりはね])が6つに分かれている、風切羽の付け根の白点があることからトビ(トンビ、鳶、タカ科)だと思います。

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「ピーヒョロロ」という鳴き声や「鳶が鷹を産む」という諺[ことわざ]位しか記憶に定着していませんでしたが、調べているうちに唱歌の「飛べ飛べとんび 空高く(『とんび』作詞:葛原しげる、作曲:梁田貞(やなだただし、1918年 )や、三橋達也さんの「夕焼け空がマッカッカ」(『夕やけとんび』作詞:矢野亮、作曲:吉田矢健治、1958年)とかおもいだしました。
 

 

ナラメイガフシ 11月2日

コナラの虫こぶ、ナラメイガフシ(コナラ+芽+イガの形+五倍子・付子、虫こぶ)。ナラメイガタマバチがコナラの若芽に産卵し、幼虫が寄生してできたもの。
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コナラのこぶ病 11月1日

29日の岩殿入山谷津植生調査の際、20年度の伐採・更新エリアで虫こぶ(虫えい)の写真を撮りました。
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今日、再度現場に行って調べたところ、糸状菌(カビ)が原因のこぶ(えい)だったことがわかりました。
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枝を切り取り、コブの部分は堅いのでノコギリで切断してみました。
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ネットで調べると「虫こぶ? かと思って切ってみたら… コナラの「こぶ病」のようです」(『あうるの森』2021年2月21日記事)がありました。この記事にあるリンクをたどって「コブ病。木の枝や幹にできるコブ状に見える樹の病気(奇形)です。」(『趣味の自然観察、デジカメ持ってお散歩』2017年3月21日記事)を読みました。写真の解説の部分は元の記事を読んで下さい。
コブ病(コナラのコブ病 、サクラコブ病、サクラがんしゅ病、テング巣病、ヤマモモコブ病、マツコブ病、スギコブ病、フジコブ病、シラカシ樹幹コブ病等)は樹木の枝や樹幹に発生する病気で細菌と糸状菌が原因になっています(注意・シラカシ樹幹コブ病は原因がまだ分かっていません)。樹木にコブができる病気をコブ病と総称的に呼んでいるようです。コブ状に奇形した部位の樹皮の表面はザラザラしていて、大きいものは握り拳ほどにも肥大します。樹幹から伸びる枝に発生した場合、枝の元の部分(枝が出る部分)はザラザラした状態で盛り上がります。枝にできて大きくなったコブの部分から折れて枝が落下している枝もあります。コブの内部はやがて空洞になって折れやすくなっているようです。樹木にしたらかなり厄介な病気に感染してしまったことになります。原因が糸状菌の場合はブナ科に多く発生するようです。この原因となる菌がマツに移り、マツにも発生するそうです。感染を防ぐ予防(対処)はコブのできた枝や幹を早期に切って捨てることで菌の広がりを防ぎます。菌が残っているとまた発生してしまいます。薬品を散布して病気が発生することを防ぐ方法もあるそうです。……
コブ病にはかかりやすい樹種があります。コナラのコブ病、サクラのコブ病、マツのコブ病、スギのコブ病、ヤマモモのコブ病、フジのコブ病が良く知られていますが、タケ類にも発生するということです。主に幹や枝にできる病気なので、広葉樹にできるコブ病の場合は、葉の落ちた時期に観察すると見つけやすいです。葉の茂っている時期ですと葉に隠れて見つけにくくなってしまいます。病名のコブ病や テング巣病 は総称的に呼ばれています。……
・コナラのコブ病。コナラの木の全体の枝に、木の実がなっているように沢山ついています。コナラにできやすいようです。枝に沢山の小さなコブがついている木もあります。この原因菌は糸状菌になるようですが、コブ病を発生させる原因菌は多いようです。コブ病はナラ類(コナラ、ミズナラ、カシワなど)に多く発生しています。コブ病については詳しくは分かっていないそうです。葉の落ちた時期に見つけると木全体の枝にびっしりとできているものまであります。原因菌はクロナルティウム・クエルカムという糸状菌(カビの1種)です。この菌はマツに感染します。
・マツにできるマツコブ病。マツに発生するコブ病はクロナルティウム・クエルカムという糸状菌(カビの1種)が原因になっているそうです。樹幹に球状の塊ができます。近くにコナラのコブ病菌にかかった樹があるとマツにも感染してしまうそうです。コナラのコブ病も同じクロナルティウム・クエルカムという糸状菌(カビの1種)が原因です。
コナラにできたコブ病です[写真略]。コナラのコブ病。ナラ類にできる病気ですが、クヌギ、アベマキの樹では見ていません。コナラが感染に弱い種類になるのか、コナラに特有に発生する菌種になるのかは分かりません。、樹の枝にこれでもかという位にできていました。枝全体にコブが発生していて、知らないと枝にコブコブができる樹かと思ってしまうほどです。大きさは大きい塊でゴルフボール程でした。樹には薬品(おそらく予防薬だと思います)の入ったペットボトルがぶら下がっていました。、1部を拡大しました。このコブは大きいものになります。綺麗な球形ではないのですがゴルフボールよりも大きかったです。、落下していた枝にできていたものです。細い枝の分かれ目や細い枝の途中など、コブの大きさ、できている部位はまちまちです。
こちら[写真略]もコナラのコブ病ですが、コブのでき方が違って見えるものです(原因菌は同じかも知れません)樹の枝の途中にできているコブです。数は少なく樹の全体を見ても2つの枝にできていて、1つには大きく握りこぶし大になったものと、他の部位の枝には3個のゴルフボール程~ウズラの卵位の大きさのコブができていました。、このコブの大きさはウズラの卵ほどです。枝の途中にできているようです。、かなり大きなコブで握りこぶしほどの大きさがあります。
・日本大百科全書「ニッポニカ」の解説によるとネクトリア属の菌が植物のがんしゅを作るようですが、専門的すぎて良く分かりません。またコナラのコブ病とマツコブ病はクロナルティウム・クエルカムという糸状菌(カビの1種)が原因になっているそうです。
樹の幹(樹幹)や太い枝にできる樹のコブは、何らかの原因で傷を受けた樹が、傷を治すために細胞を増殖させてできたものになるようです。できている場所は幹が多いです。傷を受けた場所は、傷が修復されて盛り上がって瘢痕状になっていることが多いのですが、稀に傷が修復された後でも細胞が増え続けることで大きくなっていく事があるようです。この場合はコブが大きくなり続けることになります。これは樹皮等の細胞が増殖をして成長を続けることでコブ状の塊になっっていくもので、人間に例えると細胞が増え続ける癌腫のようなものです。このように細菌やウイルス以外にも樹にコブを作る原因があることになります。これは樹幹にできた細菌やウイルス以外を原因とする植物の奇形の1種と思って良いと思います。……


虫えい(虫こぶ)とは(『北海道の虫えい(虫こぶ)図鑑』はじめに)
 えいとは、えい形成者から出されるなんらかの刺激に対して、植物が組織分化の途中で反応し、その結果、植物の一部の細胞が異常に増殖したり、肥大したり、無核や巨大核、多核など核に異常が生じたり、あるいは、組織分化の過程が狂ったりすることによって引き起こされる、組織や器官の病理学的に異常な形状のことをいう。異常形状のなかには、肥大したものだけではなく、縮小したものもふくまれる。
 このようなえいが植物の特定の組織だけに形成されたものを組織えい、器官全体がえいになったものを器官えいという。茎や葉、根などの一部の組織が肥大したえいは組織えい、芽や花、実など全体がえいになったものは器官えいに相当する。ただし、組織と器官がともにえいとなり、両者が明確に区別できない場合も多い。
 えいは、ウイルス、バクテリア、菌類、線虫類、昆虫類、ダニ類などさまざまな生物によって形成される。それらのうち、特に昆虫類によって形成されるものは昆虫えい、ダニ類によるものはダニえいなどと呼ばれている。
 (独立行政法人製品評価技術基盤機構(NITE)サイトの『NITEキッズ』生活に役立つ微生物の話)
糸状菌類とは、糸状の菌糸で生活する微生物で、一般的に「カビ」と呼ばれている生物である。単細胞性で生活する酵母や肉眼で見えるほどの大きな繁殖器官を作るキノコとともに真菌類に属する。
 生活に役立つ微生物の話(バイオテクノロジー分野)
   1 微生物ってなぁに? 
     微生物を探そう!
     役に立つ微生物
    微生物を保存せよ!
   2 ゲノムってなぁに? 
   3 微生物いろいろ
     細菌 
     酵母 
     糸状菌 
    放線菌 

吹上コスモス畑の生きもの 10月31日


コスモスの筒状花を食べるオオタバコガ?の幼虫。
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コスモスの花(筒状花、舌状花)
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アオオサカメムシの4齢幼虫?
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アオクサカメムシ(『幼虫図鑑』)
※長島聖大「いいにおいのカメムシがいる!?」 リンク切れになっているのに気がつきました(11月7日)。
 (日本自然保護協会『きょうから始める自然観察』配布資料、2020年4月17日更新記事)
 臭いにおい:クサギカメムシ 
 青リンゴのような「いいにおい」:オオクモヘリカメムシ キバラヘリカメムシ
「クサギカメムシ」と書かれた装置のボタンを押すと、おなじみのくさいにおいが吹き出る。一方、「オオクモヘリカメムシ」は青リンゴのような「いいにおい」
「クサギカメムシ」と書かれた装置のボタンを押すと、おなじみのくさいにおいが吹き出る。一方、「オオクモヘリカメムシ」は青リンゴのような「いいにおい」
※長島聖大「カメムシのくさいにおいの原因とカメムシが大量発生する理由が知りたい」(『毎日小学生新聞』連載・疑問氷解2020年7月28日記事)をリンク切れの記事に変えて追加しておきます。
カメムシのくさいにおいの原因とカメムシが大量発生する理由が知りたい
カメムシのくさいにおいの原因とカメムシが大量発生する理由が知りたい
カメムシのくさいにおいの原因とカメムシが大量発生する理由が知りたい
    

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※石田雅彦「日本船入港拒否させた「クサギカメムシ」とは」(Yahoo!ニュース2018年3月2日記事)
 
 

吉見町のコスモス畑 10月27日

吉見町の東洋製罐埼玉工場東側の下細谷耕地7ヘクタールのコスモス畑。見頃でした。
毎年、コスモスまつりが開かれてきましたが、今年はコロナウィルス感染症拡大防止のため、出店やイベント等は中止となり鑑賞のみで開催。
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『広報よしみ』11月号によれば、今年、第20回で「よしみコスモスまつり」は終了だそうです。
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