岩殿満喫クラブ 岩殿 Day by Day

市民の森保全クラブ Think Holistically, Conduct Eco-friendly Actions Locally

あれこれ

クリオオアブラムシ 1月4日

実生を育てている堆肥箱のコナラ、クヌギの幼木の根元近くにクリオオアブラムシの卵が黒い染みのようにびっしりとついていました。翅のある成虫、翅のない成虫もまだいます。
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クリオオアブラムシ:カメムシ目アブラムシ科。全国の山林のクリ、クヌギ、カシ類に集まる昆虫。大きさは4㎜前後の大型のアブラムシで、全身黒色、触角は短く、脚は長い。有翅型の翅も黒色で、白い斑紋がある。翅 のあるものとないものとがある。春・夏はオスのみの単為生殖でメスの幼虫を胎生する。秋になるとオスを生み、有性生殖で卵を産み、卵で越冬する。クリ、クヌギ、カシ類の枝に集団で寄生して樹液を吸う (国営讃岐まんのう公園動植物図鑑HP)。
クリオオアブラムシ(北海道立総合研究機構林業試験場HP)
生態卵越冬。青枝や小枝に群生する。春から秋の間に繁殖を繰り返し、数世代を経過する。6月頃、有翅の雌成虫が現れ、他の木に移動して繁殖する。晩秋に幹の株元近くに複数の雌成虫が集まって卵をまとめて産む。


カボチャにペインティング 12月5日

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嵐山町古里[ふるさと]で撮影

2014年、16年、18年2月の降雪 2月10日

今日は雪が降り、市民の森保全クラブの活動は中止しました。夕方の積雪は9㎝。このブログの記事から2月の降雪・雪景色の記録をたどってみました。
2014年2月4日の降雪
2014年2月4日:雪の岩殿田んぼ(岩殿A・B地区)
2014年2月4日:目薬屋田んぼ(岩殿C地区)

2014年2月9日の降雪
2014年2月9日:土曜日は大雪 積雪34センチ(土曜日:2月8日)
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2014年2月10日:入山沼下の遊休田んぼ(岩殿 I 地区)
2014年2月10日:雪晴れの市民の森(物見山駐車場~市民の森入山口)
2014年2月10日:(仮称)無名沼イ号・ロ号(岩殿C地区)
2014年2月10日:足跡の主はだれ(岩殿C地区)
2014年2月10日:凍結した入山沼
2014年2月10日:雪晴れの岩殿田んぼ(岩殿A・B地区)

2014年2月14日~16日の降雪
2014年2月14日:定例作業日の活動は中止(学びの道、作業道。市民の森活動エリア)
2014年2月14日:ボッシュ林下の遊休田んぼ(岩殿C地区)
2014年2月14日:雪の岩殿田んぼ(岩殿A・B地区)
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2016年2月7日の降雪
2016年2月7日:岩殿C地区(岩殿C・F地区)
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2018年2月2日の降雪
2018年2月2日:積雪7㎝
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2018年2月4日:市民の森保全クラブ作業エリア遠望(岩殿C・F地区)
 入山谷津東側(学びの道・岩殿A・E地区)
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 入山谷津の中央(作業道・岩殿F・G地区)
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 入山谷津の奥(岩殿C地区・無名沼イ号)
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 積雪量・降雪量の違い
※降雪・積雪・降雨・降水量(『違いがわかる事典』による)
降雪量は1時間、2時間などある時間内に降り積もった雪の深さ。積雪量は自然の状態で降り積もったある時点での雪の深さ。1時間前の積雪量と現在の積雪量の差が、1時間で降った雪の量(降雪量)。積雪は重みで沈んだり、解けたりするので累積降雪量と積雪量は一致しない。天気予報の「積雪あり」は観測所の周辺地面の半分が雪で覆われた状態、半分以上覆っていなければ「積雪なし」降雨量は雨だけが降った量。降水量は雨・雪・霰(あられ)・雹(ひょう)・霜など全てを水に換算した量。[2018年1月23日記事「大雪で積雪」から]

※降雪量と降水量の関係(『気象予報士瀬戸信行の「てるてる風雲録」』より)
降雪量と降水量の割合を比較したものを雪水比(ゆきみずひ、降雪量÷降水量)という。気温が比較的高い時に降るぼたん雪と気温の低い時に降る粉雪では、その比率が異なる(粉雪は約2、ぼたん雪は0.6~1.5)地上気温が低いほど密度が小さく乾いた雪(粉雪)となるため降雪量が多くなり、地上気温が高いほど密度が大きく湿った雪(ぼたん雪)となるため降雪量が少なくなる。[2018年1月23日記事「大雪で積雪」から]
   (『ウェザーニュース』2020年12年12月30日記事)
降雪量の説明の前に、積雪深の時間変化の特徴を考えねばなりません。雪が降れば積雪深は増えるのですが、積もった雪は融解や昇華で消失したり、雪自身の重みで圧縮されることにより、深さが自然に減るのです。
つまり、雪が弱まると積雪深の差分がマイナスになるため、雨量のように単純に時間ごとの差分で累積計算してしまうと途中で減算され、降った量の統計としては正しいとは言えません。
そこで気象観測では、1時間ごとに積雪深を観測して差分を比較し、増加した分だけを累積計算して「降雪量」として記録するわけです。
このように「降雪量」は降った雪の量の統計を示すのには向いているのですが、数値がそのまま積雪の増加となるわけではないので、一般市民からはイメージが難しいという問題があります。
例えば2020年12月30日現在、気象庁は「1月1日18時までに予想される24時間降雪量は、北陸地方の多い所で80〜120cm」との情報を発表しています。24時間にわたり雪が降り続けて減少に転じなかった場合には「降雪量」がそのまま積雪増加量となります。ただ、雪の降り積もるペースよりも雪の圧縮されるペースが上回った場合には積雪深が減少に転じるため、「降雪量」よりも実際の積雪増加は小幅となります。

  「積雪深」は測れるが「降雪」は直接測れない
  積雪深は圧縮されて自然に減る
  降雪量は統計に向くが、イメージしづらい
今日12月18日(土)の場合、札幌ではいちども積雪深(雪の厚み)が55cmに達していませんが、24時間降雪量は55cmと記録されています。

天神講⑥ 天神講が教えるもの 1月26日

大舘勝治さんの『民俗からの発想』(幹書房、2000年)の150~152頁です。
(5)お雛粥・天神マチが教えるもの
 秩父郡小鹿野町の赤平川流域の集落には、お雛粥をはじめ天神マチ、十日夜など、子ども組が主宰する行事が行われてきた。天神マチは今でも続けられているが、お雛粥や十日夜の行事は姿を消してしまった。姿を消してしまった行事に対して、これらを経験してきた大人は昔を懐かしく思い、行事が失われたことを残念がっている。
 天神マチなどを行っているときの子どもたちは、生き生きと自由な世界にひたっている。上級生は下級生をいたわり、下級生は上級生の始動に従い、秩序ある行動が取られている。行事の中の重要な難しい部分は上級生の役割であり、下級生には下級生の仕事がある。そして、いつでも上級生の持っている経験を通して得た知識は、仕事として下級生に伝えられる。例えば、お雛粥を煮ているときに「こういうふうにすれば火はよく燃える」などと、火の燃し方を教えている。学校や家庭ではえられない年齢を超えた連帯感が育まれる。
 子ども組のまつりの楽しさは、普段と異なり、大人の指図を受けずに子どもだけで取りしきることだという。大人たちは、子ども組の祭りや行事に無関心かというと、そうではない。従って、祭りや行事の重要な部分については関与しないが、側面からの援助は惜しまない。天神マチの寿司作りには、自分の子どもがいるいないにかかわらず、宿に当たる家の隣組の親たちが手助けをする。また、トーカンヤ(十日夜)の藁鉄炮を作れない子どもには大人が作ってあげる。そして、子どもたちの集団が庭を叩きに来るころには、玄関を開けて待っているなど、非常に協力的である。子のように、地域の大人たちは、子ども組の祭りや行事を暖かく見守っている。
 子ども組の祭りや行事は、子どもが主体的にかかわるが、地域全体から見れば地域共同体の下部組織としての子ども組の祭りや行事である。大人の指図を受けない自由はあっても、組織を逸脱した行為は許されないということを子どもたちはよく理解している。地域社会に密着した子ども組は健全そのものであり、子ども組が担う祭りや行事は決して野卑なものではないのである。そこには、子どもの社会教育の原点がある。今、子どもの教育に求められるものは、地域における教育であり、子どもの祭りや行事がその核となり得る要素を十二分に持っているはずだ。地域が子どもを育てていくことが大切である。
大舘勝治『民俗からの発想』(幹書房、2000年)150~152頁

天神講⑤ 2000年 1月26日

秩父郡小鹿野町三山にある田ノ頭集落の天神マチ(天神講)。大舘勝治さんの『民俗からの発想』(幹書房、2000年)144~147頁です。
平成12年[2000年]の天神マチ
 2000年(平成12年)1月22日(土曜日)、この地の天神マチを訪ねてみた。田ノ頭の耕地の様子は、16年前に見たその時と同じような静かな山間のムラで、長い時の流れもなかったかのように瞬時にタイムスリップしている自分に気付いたのである。
 天神マチの会場は、旧田ノ頭支所(役場旧三田川出張所)の2階である。午後1時過ぎ、会場の支所の2階へ子どもたちが三々五々集まってくる。平成6年[1994年]、会場がここになるまでは、中学3年生のオヤカタと称すリーダーの家を会場に行ってきた伝統がある。
 この日集まった子どもたちは、幼稚園児から中学生までの18名である。戸数18戸の耕地にしては若いお嫁さんが比較的多いこともあって、子どもも他の地区に比べて多いという。中学生5名、小学生11名、幼稚園児2名が正式のメンバーであるが、そのほかに母親と一緒の乳飲み子もいる。
 子どもたちのほかに数人の大人がいるが、大人は天神マチのオヤカタになっている子どもの両親が当番として出席しているほか、小さい子どもが参加している母親が数人出ている。
 2階の会場の広間には、天神様に奉納する習字を書く机が用意され、小さい子から順番で1人3枚ずつ掛け軸風の小さな短冊にそれぞれの願いを書く。中学生の子ども(男子)がつきっきりで面倒を見て、3枚書かせる。
 順番を待つ子どもたちは、会場で思い思い遊んでいる。大きい子から小さい子までがにぎやかに会場を所狭しと遊び回り、あたかも18人兄弟の大家族の家庭にいるかのごとくである。遊びに夢中で「オシッコ」と慌てる子どもには、誰彼となくそこにいる母親がトイレに連れていく。日本の良き伝統的地域社会「地域が子供を育てる」という光景の一こまを見る思いである。
 3枚の小さな短冊が書き終わると、最後に、書き初め用紙3枚をつなぎ合わせた長い短冊に、昔からお手本とされる漢詩を皆で一字ずつ書き、皆の名前を添書きする。
 こうしてすべての習字が終わると、裏山の中腹に祀られている諏訪神社(天神様が合祀されている)に向かう。すでに太陽は山の端に隠れて寒さが身に沁みる時刻である。社殿の前にあらかじめ用意されている大きな笹竹の笹に願い事を書いた短冊をつるし、長い大きな短冊は竹の上の方につるし、立ち木を利用して立てられる。まるで冬の七夕様である。子どもたちはそれぞれ天神様を拝んで会場に戻る。
 皆で夕食をとり、お菓子を食べ、夜遅くまで楽しく遊ぶ。遊びの企画は上級生の中学生によるもので、「肝だめし」などが盛り込まれている。
 秩父郡小鹿野町では、2000年1月現在このような子どもたちの天神マチが田ノ頭の耕地のほかに上飯田、松坂、栗尾、和田耕地で行われている。少子化社会で、各地の貴重な伝統行事の存続が危ぶまれる中で、田ノ頭耕地の天神マチは行事の一部は簡略化されたが15、16年前と同じように続けられ、地域に機能して生きていることに感動した。そこにはかつて地域のどこにでもあった子どもたちの年齢を超えた交流、親と子の交流、地域が子どもを育てた民俗の心がある。天神マチは子どもたちが社会性を身につける地域教育の場であり、また地域文化を創造していく原点でもある。
大舘勝治『民俗からの発想』(幹書房、2000年)147~150頁

天神講④ 1984年 1月26日

秩父郡小鹿野町三山にある田ノ頭集落の天神マチ(天神講)。

大舘勝治さんの『民俗からの発想』(幹書房、2000年)144~147頁です。
昭和59年[1984年]の天神マチ
 昭和39年[1964年]ごろまでお雛粥の行事が行われていた秩父郡小鹿野町三山の田ノ頭の集落は、戸数18戸ほどの小さな村である。この集落には、現在、小学生から中学生までの子どもが十数人いて、子どもの伝統的な行事、天神マチ(天神講)を行っている。
 天神マチは、1月25日に行われるのが一般的であるが、ここでは、現在25日に近い土曜日から日曜日にかけて行われている。土曜日の晩にオコモリといって一泊しても、翌日が日曜日でのんびりできるというのが変更の理由である。
 天神マチを行う子どもたちは、小学校1年生から中学校3年生までの男女である。数年前までは男女別々に行っていたが、子どもが少なくなったために合同で行うようになった。また、昭和58年[1983年]の天神マチから、同じ理由でその年に小学校へ入学する幼稚園児も加入できるようになった。上級性の子どもが「天神マチに入って下さい」とお願いに来るので加入するのである。
 上級性の一人がカシラ(オヤカタ)になって采配を振るい、その他の上級生は補助役となって行事は遂行される。
 天神マチの準備は、天神マチが行われる一週間前の日曜日に、上級生が子どものいる家を回って、寿司を作る米を集めることから始める。以前は前日に集めたという。集める米の量は、1人につき3合であるが、子どもが4人いても2人分出せば良い。古くは、1人につき5合で、一家で子どもが3人参加するとなると1升5合の米を出す習わしであった。
 この米で寿司を作るが、寿司を作るのは上級生の母親たちである。以前は子どもがいるいないにかかわらず、天神マチの宿になる家の隣組5軒の母親が集まって寿司を作るしきたりであった。つまり、地域の行事として行われていたが、子どもがいないのに準備に出てもらうのは頼みにくいということになり、上級生の子どもの母親が出て寿司を作るようになった。天神マチを伝承する基盤が変化を生じたのである。
 天神マチの寿司はたくさん作り、米を出した分だけ子どもの家に届ける。したがって、子ども一人につき5合の米を集めていた時代は、兄弟で何人も参加していると、大量の寿司が届けられたという。今では寿司もそれほど喜ばれなくなり、集める米も少なくしたといわれる。
 母親たちが集まって寿司を作る家は上級生の家で、その家を「天神マチの宿」という。子どもたちは、土曜日の午後からこの宿に全員が集まる。母親たちが夕食に食べる寿司を作っている間、子どもたちは習字を習って天神様にあげる旗を書く。この旗は「書き上げ」といって、一本の竹に全員の習字をつるして天神様へ奉納するのである。
 夕食の準備ができると、母親たちはかえってしまい、後は子どもたちだけの時間となる。楽しく夕食を済ませると、歌を歌ったりトランプなどをして遊ぶ。そしてその晩は、オコモリといって宿の家に泊まるのである。オコモリができるのは2年生から上で、幼稚園児や1年生は夜10時ごろ、上級生に送られて家に帰る。
 この夜は、近隣のどこの集落でも天神マチが行われていて、他地区の子どもたちが御馳走を持って遊びに来る。子どもたちは互いに御馳走を交換して食べたり、トランプなどをして一晩楽しく過ごす。
 田ノ頭地区では、むかしから寿司を作るが、近隣の和田、栗尾地区では餅を作り、この夜、互いに交換して食べる習慣がある。なお、他地区に遊びに出かけられるのは上級生だけである。
 天神マチに必要な経費は、以前は子どもたちが行う夜番(夜警)謝礼金とトーカンヤ(十日夜)の祝金ですべて賄っていた。夜番も十日夜の行事もなくなってからは、地区の大人の新年会の席で寄付を集めて、この金を子どもたちに渡している。
 子どもたちが行ってきた夜番とは、12月1日から2月末までの夕方6時から鉦を鳴らしながら地区内を回る夜警の仕事である。2人1組で交替で行い、謝礼を得ていた。しかし、地区の子どもが減少してから、順番がすぐに回ってくるのでかわいそう、ということで中止になった。同じ夜番でも大人の方は今でも行われている。
 天神マチの経費に使われた十日夜の祝金は、旧暦10月10日の秋の収穫祭である十日夜の行事を行っていただいたものである。
 十日夜の行事は、天神マチに参加する男女の子どもたちが、藁鉄炮を持って地区内の各家々の庭を叩いて回る行事である。「トーカンヤをはたかしてください」といって各家に断り、上級生を先頭に並び、号令を発して藁鉄炮を打つ。
 「トーカンヤ、トーカンヤ、十日の晩はいい晩だ 朝ソバキリに昼団子 ヨーメシ食ったらひっぱたけ 貧乏神をはたき出せ 福の神をはたき込め」と唱和して藁鉄炮を打つ。
 各家では祝い金を子どもたちに出すが、祝い金が多いと最後の文句を2回唱和して志に応える。この祝い金を翌年の天神マチの費用に充てるのである。天神マチを男女別に行っていた当時は、十日夜の祝い金を男女等分にして天神マチの経費に充てたという。
 その十日夜の行事は、昭和40年代前半に[1960年代後半]に学校からの指導により、やむなく中止したといわれる。その理由は、十日夜の行事で子どもたちが藁鉄炮を叩いて祝い金をもらって歩くことが「下卑た振る舞い」との評価からである。
 ムラの人たちは、古くから行われてきた行事が中止になったことに驚いたという。十日夜に子どもたちが訪れて来るのを親たちも楽しみにしていたからで、今でも十日夜の行事がなくなったことを残念に思っている人が多い。
 子どもたちの祭りや行事を調べてみると、学校からの指導により中止になったというものが、思いのほか多いのに気づくのである。
大舘勝治『民俗からの発想』(幹書房、2000年)144~147頁

天神講③ 1960・61年 1月26日

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』11号 (1960年3月発行)、12号(1961年4月発行)に掲載されている天神講をテーマにした中学生の作文です。
どきょうだめし 一年B組A・K
 いよいよ冬休みだ。ぼくたちは冬休みに、はいるとすぐ天神講をする。宿は三年生の家でし、終ってからどきょうだめしをすることにした。
 ぼくたち一、二年生は、おどかされる方で、三年は、おどかす方である。三年でもあんがいおくびょうものがいる。ぼくたちはそれよりこわかったにちがいない。宿の家から出て百メートルばかり右にいき、それから、こんどは五〇メートルぐらい坂を登る。その坂はまわりから大きな木がかぶさりまっ暗である。登りきるとそこにお墓がある。そこには、まだこのあいだ死んだばかりの人の墓がある。三年生は、そこから、ゆうれいが出るとぼくたちをおどかした。ぼくたちはもうこわくてこわくてしかたがない。その墓をすぎるとまた登り坂である。そこを、まっすぐいくとそこに小さなお堂がある。そこにいって、あめをとってくるというわけである。
 時計が八時をうつ。三年生はみんなをおどかしにいった。第一にTがいくことになった。Tは、あんがいおくびょうであるが口先では、「なあにおっかなくないさ。」といっていた。いよいよ三年のあいずがあったのでTは出ていった。
 あとにのこったY、U、U、Wに僕である。つぎつぎと番はすすむ。いよいよぼくの番である。空には、月がなく星だけがきらきらと光っている。きゅうにUが、「流れ星だ。」と言った。流れ星というのは、なんてきもちのわるいものだなあと思った。ぼくは出発した。まっ暗な道をぐんぐんいくと登り坂にかかった。あたりは、しいんとしてただ遠く犬の鳴く声と、ぼくの歩く足音がするだけである。まっ暗で何も見えない。かんでぐんぐん進む。ときどきほりにおちたり石につまずいたりして、やっと明るい所に出た。そこがお墓である。ぞっと、せなかに水をかぶったようないやな感じがした。そこから、もどろうと思ったが、みんなにわらわれるのが、はづかしいので、しかたなく行った。五〇メートルばかりむこうに、あかるい所が見える。そこにお墓があるのだ。いよいよ墓である。星の光があたって石塔が青白く光って見える。墓所のそばをとおる時からだが、あつくなるのを感じた。そこは、かしの木がおおいかぶさって目がいたいほど暗い。遠くにぼんやりと火の花が見える。お堂の所においてあるちょうちんの光である。そこをめざして歩っていくと、、ぼくは「あっ」と大きな声をだした。なにかぶつかったようにかんじた。よく見ると、三年のはったなわである。声をだすまいと思ったが声を出してしまった。しばらう行くと、お堂についた。そこには、あめがおいてある。ぼくはそれをとるとまた歩き出した。こんどは前よりも暗く、遠くに家のあかりがぼんやりと見えるだけで、なにも見えない。風が葉のないくぬぎの木をならしている。かおがあうとほど寒い。ぼくはめくらめっぽう歩いた。そして大きな松の木の横をまがって、しのやぶへはいった。そこには細い道がでこぼこしていて歩きにくい。きゅうにへっこんでいるので、かくんとする。あっちにつまずき、こっちにつまづいて、やっと家のあかりが見えて来た。
 しばらく歩いてやっと家についた。家にはいったら目がきゅうにかるくなった。そして口々にこわさをいいあった。冬の夜は、星が青白く光り北風が木立をならし、寒さをよけいきびしくかんじる。冬の夜はとてもさびしいものである。
   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』11号 1960年(昭和35)3月
今年の冬休み 一年D組 長島正美
 暮れのうちと、いっても、冬休みに、入ってすぐの頃は、とてもたいくつだったが、三十日の朝、もちをついてからは、本を整理したり、庭の掃除を、したりして、とてもたいくつといって、いられなくなった。
 三十一日の夜、兄と弟はとなりの家へテレビを、見にいったが、ラジオの歌の日本シリーズが聞きたかったのでいかないで、ラジオを聞いて、風呂に、入ってすぐねた。十二時少し過ぎた頃目がさめた。そうしたら除夜の鐘がなっていて、兄たちも帰ってきていた。
 一日の朝も今年は、祝賀式もないので、朝おそくまで、ねていた。二日間は、なにもなく三日に、親類の人が子供を一人連れてきた。それで急に、にぎやかになった。四日目は、天神講である。朝、九時に始まるので、八時頃から、隣の子と、野球やバトミントンを、して遊んで、九時頃、家を出発して、宿(やど)へいったが少しみぞれがふってきた。八幡様へ行く時も、途中で休んだりして、すっきりしないで、あまり面しろくなかった。昼からは、晴れたが、庭がぬかっていたので外で、遊べないので、しかたなく中で、台つぶれや、トランプ、かるたなどをして、じきに帰った。六日に東京から、大人一人、子供二人が、きた。二人とも男の小学生で、野球をしたり、ゴルフ場へいったりして、次の日の十一時頃、帰った。後の残りの日は、のんびりと、遊んだ。今度の冬休みは小学の時の、冬休みと、たいして、かわりなかったが、しいて、いえば、漢字帳を、書いたことである。いつもだら、何もしないで遊んでしまうものを……。
   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』12号 1961年(昭和36)4月
天神講 三年B組 長島睦子
 一月四日。これは私達の長い伝統を持つ天神講である。
 朝八時頃集まって、皆、手に筆を持って、「天満天神宮」などと書いて、神社へお参りするのである。それが終って昼食、前年までは、「あんこもち」のお昼であったが、今年から私達の要望した「寿司」に変った。これはまあ、私達にとれば前年より変化があり良かったと思う。その次三時になると「お茶」、茶菓子とお茶などが、個人に配られる。飲み、食べ、遊んで六時に開散と、ざっとこんな内容である。小学校時代には、天神講と意味も知らずに、ただ遊ぶだけのおもしろさだった。ところが中学生になると意味が、ちょっと解りかけてきたと同時に、「つまらない、おもしろくない。」というようなよけいな考えが育ってしまった。小さい頃のまちどうしいどころではなく、日が近づくに従っていやになる。こんな始末だ。よくない考えだ。今年は、中学三年生。しかも下級生を指導する立場におかれる親玉となるわけだ。しかし、私は身分ばかりで任務は何一つ果せないのである。下級生に対して、申し訳のない次第だ。
 当日「つまらないなあ。」と言いながら出掛けようとすると兄が、「おまえが皆をおもしろくさせなければならないのだ。」と言われたものの、朝は遅刻してしまい、遊び時間は、部屋の片隅で、数人でトランプなどして遊んでという自分勝手な行動。しかし、小さい子はそれなりにふざけあったり、にぎわったりしている。それを見てほっとする。
 残念ながら、皆一緒になって楽しく遊ぶことが出来ないうちに短い一日は終ってしまった。
 こんなだから、すなわち、自分達で自分をつまらなくしているようなものだ。
 今年で天神講というものは、私達三年生にとって最後だった。今考えて見ると、今年はもちろん、九ヶ年間やって来たが思い出深い事はあまりない。来年度からはもっと楽しいものにしていただきたい。
   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』12号 1961年(昭和36)4月

天神講② 1956・58年 1月26日

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 (1956年3月発行)、9号(1958年3月発行)に掲載されている天神講をテーマにした中学生の作文です。
一月四日 三年三組 大野トク
 いつものくせで今日もつい朝寝坊をしてしまった。ふすまの間から射しこんでくる光で目がさめた。床に少し入っていたが、ふと「そうだ、今日は天神講だったっけ」と思いついたので、はね起きた。そして隣りの部屋に行って見ると、川口から来たお客と、小岩と、高坂から来たお客と一緒に妹はもう目をさましたまま、まだ床に入っていた。
 「幸子、今日は天神講だから、早く起きないとおくれるよ、もう七時だよ」といって、急がせて起こしてしまった。
 顔を洗いに行くと、もう太陽は東の空に気持よく上っていた。
 「今日も又、良い天気でありますように」朝日はお祈りしながら、歯をみがいていた。朝飯をすましてから又も妹を急がせた。
 「早く半紙を三枚出して、半分に切ってくれよ」妹に云ったら母が「どうせ幸子が切ったんじゃだめになってしまうから、自分で切った方が早いよ」といわれたので、しかたなく、「じゃあ、すずり箱を出してみ」といったら妹はすぐもって来た。
 「そうだ、母ちゃん重箱は?」
 「母ちゃんは手伝いに行くんだから、忙しいからおばあちゃんに出してもらいな」といって出かけてしまった。
 私はもうおそいと思って気が気でなかった。でもすぐ出してくれたのでよかった。これで大体仕度がそろったので、私と妹は出かけた。宿の家に行くと、もう男の子が五、六人女子が三人で、たき火をしていたので「もう篠は取った?」と聞くと「もうとっくだよ!」と云われたので安心した。
 「たけおさん、もう八時になった?」
 「もう八時はすぎたよ」との答えだったが、まだ幾人も集っていなかった。でも少したったら大体集合した。
 そこで天神様に供える習字を書いて、八幡様に納めにいって来た。それからは遊んだりお茶を飲んだり、トランプなどをしたりして楽しく過した。そして最後に、
 「私達三年生は、もう最後だから『螢の光』を歌おう」といって、全員(三十一名)で歌った。
 このようにして最後の天神講を楽しく、ほがらかにすごしたのである。
   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』7号 1956年(昭和31)3月
天神講 一年 中島敏子
 私たちの一年中で最も楽しい天神講は一月五日だ。待ちに待った天神講の日がやって来た。朝寒い頃から、小さい子供達は、うれしくてしかたがないのか、私の家に、
 「もう行ってもいい。」
とまちどうしいように言って来た。私が、
 「まだ早いよ。」
と言っても、きかずに私をむりやりに宿の家まで連れて来てしまった。私は、半紙を切ったりする。
 千枝子ちゃん達は、すみをすって書く用意をしている。そのうちすみもしだいにこくなったので小さい子から順番に書き始めた。
 全部で人数は二十一人です。やがて書いているうちに全部書き終りました。書き終って、十五分ぐらいで男と女で羽根つきをし、八幡様へ全部で納めに行って来てから、又さっきの続きをした。
 男子がとうとう勝った。もう昼近くなったので、おぜんを並べてぼたもちを配ばったり、とうふ汁を配った。くばり終ってから、小さい子をみんな呼んで昼食を食べた。昼も食べ終ってじゅうばこを取りに行った。帰ってきたら羽根つきをしていたので羽根つきにまじった。
 羽根つきもあきたので、私と正子ちゃんで男子が、べいごまをしているのを見に行った。なかなかおもしろいので見ているうちに、三時ちかくなってしまった。三時のお茶休みには、茶菓子が出る。
 その菓子は、天神講が五日なので四日に買いに行くことになっている。毎年男子が買いに行くのだが、今年だけ女子が買いに行った。菓子を買って来てから千枝子ちゃんの家で分けた。男は、大豆、あずき、米、茶菓子を集めた。
 そのうち、お茶休みも終わり、皆と県道の方へ行った。すると、二人ばかりのイラン人が通りかかった。小学生はイラン人がめずらしいのか、イラン人の後をぞろぞろとついて行った。私たち中学生も、後の方からついていった。ちょうど通りかかったところから、五〇〇メートルぐらい行ったところに井戸をほっていた。イラン人は、立ち止まって、何かしきりにわけのわからない、イラン語【ペルシャ語】で話していたが、やがて井戸を掘っているのを手伝っている人達に、
 「さよなら。」
と言って立ち去った。その時私は、
 「このごろイラン人はなかなか日本語が上手になってきたなあ。」とつくずく感じた。なぜと云えば、ハーモニカで、「お手々つないで」とか、いろいろ童謡を吹いたり、歌ったりしているのを聞いたからです。と思っているうちに皆がもとの天神講の宿の家まで引き返して行ってしまったので、私もいそいで帰った。庭でみんなが集まって何だか話をしている。近づいて行くと、かんけりをする相談をしていた。話がまとまり、かんけりを約三十分位したが、ある人が、こんどは千枝子ちゃんの家の前の坂でやろうと言いだしたので、そこへ行くことになった。でも十分位遊んでいるうちに、あたりは薄暗くなったので中学三年の守ちゃんが、
 「もう帰るか。」
と言ったので帰った。
 帰ってから、すぐトランプをしているうちに夕飯の仕度をした。夕飯も終わったので、こんどは小さい順に歌を歌った。
 審査員は中学二年の栄さんと中学三年の守ちゃんです。かねを四つもらった人はキャラメルを四ついただけることに決めた。私は二個いただいた。キャラメルを四つもらった人は三、四人だった。又トランプをした。そのうちにマラソンを終えて、進さんが帰って来て、こんどは、
 「歌った人には、キャラメルを二つずつくれるよ。」
と言ったので、皆歌って、キャラメルをいただいた。歌い終ると、進さんが、記念写真を撮って下さいました。
 全部で写そうとしたけれど、残念なことに少しの人が入らないので、男女別にしました。最初女の子が写し、その次に男全部で写した。その後で、私と、とみちゃんと正子ちゃんで写していただいた。まだ他に写していただいた人もいた。
 ふと時計を見ると九時近くになるところだった。予定では九時だけれど写真を写していたので少しおそくなってしまった。
 宿の人と別れて五、六人一緒で家へ帰った。夜道は明るく、歩く足音は昼間とちがってとても大きく聞こえた。
 皆寒いのか背中をまるめて、いそいで歩いて行く。
 もう家もすぐ目の前に近づいて来た。
   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』9号 1958年(昭和33)3月
天神講 一年 杉田けい子
 天神様と言うのは菅原道真を祭ってあるのであって、字がじょうずになるように(天満天神宮とか天神様)と字を書く。そし又字がじょうずになるだけでなく、文学、たとえば勉強ができるようになる。だから天神様をすることは結構なことであります。
と校長先生がおっしゃいましたが、私の方でもその天神様を五日にしました。
 宿は私の家です。では前の日からお話しします。
 中学生の女子が四人手伝いに来てくれました。寒いうちに米二合、あづき、さとうなどを集めて来て、ちょうど十時ごろだったので母が、
 「どうもすみませんでした。じゃあお茶を入れますから。」
と言って、まもなく持ってきて、
 「どうぞ。」と言った。けれども皆んな遠慮してなかなか飲まないから私が茶碗を一人、一人わたしてやりました。休みにすこしバトミントンをして遊ぶと二年生のゆき子ちゃんが、
 「けい子ちゃん、芋洗いなんかするんだべ。」と言った。
 「私は知らないから母に聞いてくらあ。」
といって家にかけこんだ。
 「かあちゃん、皆んなが芋洗いなんかするんか、と言ったけれどどうする。」
と言うと母が、
 「皆んながしてくれると言った。」
 「うん。」
と言うと、
 「じゃあ、してもらうか。」
と言った。そして私は「庭へ行ってたるに、こんぶがふやかしてあるんだけれど洗って出してくれる。」と言って、私が野菜かごを持って井戸ばたに行った。たるに入れてあった水はとても冷たいので汲みたての水ととりかえて洗い始めた。
 四人で洗ったからあっと言う間に洗いきってしまった。それが、すむとこんどは芋洗いでしたので、私が芋出しに行き母に、
 「芋はどのくらい出したらいい?」と聞くと母が、
 「バケツ二はいぐらいでたくさんだよ。」と言った。
 皆んな一生懸命仕事をしてもらったので母はおおだすかりと言っておりました。又芋むきまでもしてくれた。これで終ったので皆んなに、
 「ありがとね。」と言った。
 皆んな昼になったので家へ、家へと足を進めた。半日すぎていよいよ夜になると母は煮物でいそがしそうだ。私は風呂に入り八時ごろ寝床につきました。けれども色々なことが考えられて眠れません。習字も書いてないし、作文も書いてない。こんなことを考えると天神様なんかしたくなくなってしまう。
 その二日間のうちに習字と作文くらい書ける。私はついに声を出して、
 「天神様なんかしたくない。」
と言ってしまった。そして、いつの間にか眠ってしまった。朝の明けたのも知らず起きたら七時をすぎていた。
 父に「鼻がつまって風邪をひいちゃった。」と言うと父は、
 「おまえはよわいな。一年に何回風邪をひくのか。」
といわれた。でも起きて御飯を食べて掃除が終ったら、庭でバトミントンをつく音が聞こえたので出て見たら、千代子ちゃんが来ていたので、母にもう遊んでいいと聞いたら、
 「掃除をしたのかい。」
 「うん、掃除はしたよ。」と言うと、
 「じゃ皆んなと遊びな。」と言った。
 皆んなとバトミントンをしたり、うしろむきなどしているうちに十時ごろになってしまったので、私が墨とすずりを出してえんがわですみをすってもらった。そのうちに私が筆を用意して書き始めた。小さい順に書かせた。一、二年生は、「てんじんさま」とひらがなで書き、初めは、大きい人が手を取って書かせた。それから三、四、五年生は「天神様」と漢字で書き、もう三、四、五年生になると自分でざっさと書いてしまう。
 いよいよ私たちの番になったので私は「天満天神宮」と書いた。これで全部書き終ったので、こんどは書いた紙にしのをまきつけて、その上のまん中に穴をあけて糸を通して竹につるす仕事をした。
 これはだいたい大きい子がしのをはりつける。小さい子が竹につるす。こう言うふうにしてからすぐに終ったので、八幡様へ納めに行くのです。その途中ぬまで氷すべりを四、五人の男の子がしていた。ここの氷すべりは私が六年生の時に先生から注意されたのですが、まだしておりますが、氷すべりと言うのは面白いのでしょう。
 こんなことを思っているうちに、お寺の近くになった。男の子がお寺から台を借りて運んで行く所だったので女の子も皆んなして手伝って家まで運んでやった。
 そして又仲よく遊んでいるうちにお昼近くになったので中学生はお膳や皿など洗ってくれたので、早く昼食ができました。皆んなで楽しそうに食べ始めたが、二人こない人があったので、私たち大きい生徒が迎えに行ったら、どこかへ行ったと話を聞いたので、私たちも食べ始めた。千代子ちゃんの母がお給仕をして下さった。皆んな、ぼたもちや色々食べて嬉しそうでした。
 食べ終ると、トランプやすごろくをして遊んでいる時、小さい子がトランプにまぜないとか、悪口をいったりしてけんかをしてしまった。
 だから私が小さい子の面倒をみながらバトミントンをして遊ばせました。その時、私の父は白菜を運んでいたら、歌子ちゃんが、
 「小さい子はトランプにまぜない。」
と言ったら父は、
 「どうして。」
とただひとこと言っただけでした。こんなことをしているうちに三時になったのでお茶にしようとかたづけた。
 昼から男の子は一人残っているだけで、玉川会館に映画を見に行ったから、人数が、少なくなってしまった。私たちは、お茶、お菓子、煮物など食べながら、歌を歌ったりとてもにぎやかだった。まさ子ちゃんなんか勇気があって、
 「おれ歌うよ。」
と言って、じょうずに歌ってくれた。小さい子はふざけることもあるがしんけんに歌うこともある。中学生はただだまっているだけでした。又、
 「菓子七円、みかんが十五円だから二十二円。おらあちは三人だから六十六円。ほれ。」
と、私に百円さつを出した子もいた。だから私は、
 「お金はいいんだよ。」
と言った。
そのうち楽しいお茶休みもすみ、皆んなでかんけりをしていると、男の子が映画を見に行って帰ってきたので、私は、
 「タイム。」
といって、お茶をわかして男の子に出しました。そのころ時刻は四時ごろだったので、まだ羽根つきをして遊んだ。
 ふと県道を見たら、イラン人が通るのに気がついた。皆んなが見に行こうといってかけだした。県道についてすこし待っていたらきて、イラン人に皆んなが、
 「さようなら。」
と言ったら背の高い方の人が手を振って、かた方の人がちょっとアクセントがちがうが、
 「さようなら。」
と言った。イラン人をずっと見ていたら立ちどまってなんとか言っているようすでした。そこへ弟が自転車できて、
 「いまイラン人が人参をさして、『これ人参でしす』と言ったよ。」
と話した。
 そして、又私の家にもどってきて、皆んなが私の母に、
 「ごちそうさまになりました。」
と言ってから、すこし「アウトおに」をして帰りました。
 夜になって私は天神講の反省をしました。
 一、お茶の時などすこしうるさかった。でも小さい子が多かったからやむをえないかとも思った。
 又小さい子の遊びがなかったため、家に帰ってしまった子が二人あった。来年からは小さい子の遊びを考えたいと思います。
   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』9号 1958年(昭和33)3月

天神講① 1月25日

市民の森保全クラブで、休憩時に「天神講」が話題になったことがあるので、『東松山市史 民俗編』(東松山市、1983年発行)を取り出して読んでみました。
天神講 1月25日、上唐子地区は大字の行事として執り行われた。また、これを「天神祭」ともいわれた。その当時は、「奉納天満天神宮」と書いた書き初めを小学生全員で村の鎮守様(天神宮が合祀されている)に数多く奉納された。
 そして子供達は6年生の家(比較的恵まれている農家)に集まり、その家の親が手伝ってくれて、各人の持ち寄った米5合(約0.9リットル)、小豆2合(約0.36リットル)位のもので、にぎやかに食べながらケンチンジルと少しのお菓子などでカルタなどで夜9時頃まで遊んだものである。
 下岡地区では、24日6年生が先になり字の下級生と、米2合、醤油、砂糖、野菜などを集め宿(6年生の家が持ち回る)でご馳走を作ってもらい皆で食べる。この時「奉納天満天神宮威徳御菶殿」と書き方練習をし翌25日に天神様に奉納した。なお明治大正の頃は宿の家におこもりして翌日奉納したという(習字が上手になるようにと旗を書き天神様に上げた)。
 日吉町、本町一丁目、元宿の子供達は、25日書き方練習をして元宿の天神様に奉納した。(習字が上手になるように「奉納天満天神宮」と書いて納める)。
 天神講は子供たちにとって、習字を書いたり御馳走をたべたり、子供たちの信仰と社交と娯楽を兼ねた行事だった。
(『東松山市史 民俗編』1983年、295頁)

東松山市の隣にある嵐山町菅谷の天神講について紹介します。1995年に田幡憲一さんがまとめたものです。1940年代前半、戦時中の天神講体験者の回想で、12月24日・25日に行われています。
菅谷上組の天神講 田幡憲一
 菅谷の子供の楽しみの一つに天神講があった。十二月二十四日、俺たち小学校【菅谷村立菅谷尋常高等小学校。現嵐山町立菅谷小学校】の一年生になった者は、風呂敷に包んできた通信簿を座敷に放りだして、天神講だと言って家を駆け出して行く。今年から天神講に参加できると喜んだものだ。高等二年の上級生、高等一年、小学六年、皆大きくたくましく兄貴のようだった。上級生が学校から帰るのを待ち構えていた。昭ちゃん、良平さん、秀夫さん、みんなが帰ってきた。さあこれから天神講だ。
 高等二年、一年、みんなで米を入れる袋、醤油ビン、油のビン等をもって、天神講に参加する子供の家を廻る。米二合、人参一本、又次の家では米と大根一本、醤油茶飲み茶碗一杯、油茶飲み茶碗一杯、ゴボウ一本……。上級生の後ろについて歩きながら家々を集めて歩き、今年の宿(やど)をしてくれる家につくころには、荷物が一杯集まった。
 そして子供達も大勢集まり、上級生の命令で、これから山に薪を集めに行くものと、笹竹取りに行くものとに別れて出掛けて行く。皆協力して枯木を集めて縄でいわいて運ぶ。夜と朝との自分たちで使う物はみんなで共同で集めて、宿をしてくれる家へもって行き、宿のおばさんに渡した。
 宿をしてくれる家では、二部屋続きの座敷を開放して、子供たちに自由につかわしてくれた。子供たちは共同ではたらき、今晩の天神講の宿での、一同に会しての晩飯を楽しみにしながら、上級生の指示に従い、髪と筆、 硯、紙も小さい子供には初めての唐紙(トウシ)という長い紙でした。その紙に上級生がお手本を
     奉納 天満天神宮
 と書いてみせて、下級生の手をとりながら書いて行く。全員書き終わり墨が乾くまで、座敷いっぱい並べて、うまく書けた子、書けない子、うるさいこと……。
 その間にも、年上の子供たちは先程取ってきた笹竹を適当な長さに切り揃え、長いものと旗の頭につけるものとに分けている。そして乾いた紙の頭に糊をつけて笹竹に丸く張り付けて、竹の両方の端を糸で結び、長い笹竹につるしてできあがり。
 そろそろ先程集めたゴボウ、大根、ニンジン、いろいろのものを宿のおばさんが料理している匂いがしてくると、子供たちはなんのご馳走ができるのかとひそひそ話。その間にも、上級生たちは習字の道具を片付けたり、掃除をしたりして、宿をしてくれる家に迷惑の掛からぬ様にと気を使っている。自分たちの事だから自分たちでするのが当り前だ。
 夕方近くなると上級生の命令で、みんなが家に帰り、ご飯茶碗と箸を持ってくる。上の人たちは、ご飯のちゃぶ台を借り集めて持ってくる。いよいよ待ちに待った夕ご飯。それぞれの絵のついた茶碗に、おいしくできた五目ご飯をよそる。宿のおばさんが一番大変だ。急に子供が十六人。おいしいおいしいとお代わり。もう五杯もたべた。俺は四杯。豆腐のつゆもうまい。食欲旺盛だ。みんなで食べれば何でもうまい。おばさんの作った五目ご飯はすぐになくなる。皆満腹だ。
 いじめなどない、塾もない。皆、上級生の命令に従いついて行く。そして、自分も早く大きくなって下のものの面倒をみるのがたのしみだ。
 またまた、上級生の命令がでる。今夜泊まるものは布団一枚、家からもって来るようにと。小さい子供は母親が布団をもってくる。布団を敷き、これから上級生のこわい話。雨の夜、土葬の墓の上で青い炎が燃える話。これは、亡くなった人のリンがたち昇る、いや死んだ人の身体からでる油だとゆう話……。又小学校の南西二百メートルぐらいの、山の中の焼場のこわい話。昭和十六年(1941)頃まで使用していた伝染病や肺結核で亡くなった人を火葬したところ。薪に油をかけてもやしていた話……。皆布団の中から首をだして先輩たちの話に長い夜を過ごした。そしていつしかいびきが多くなり眠りについた。
 朝六時に起床。顔を洗い、皆寒い寒いと震えている。泊まらなかった子供たちもみんな集まってくる。昨日作った天満天神宮の旗をこれより神社へ奉納しに行くのだ。みんなそろって旗を持ち神社まで行進する。神社には上組・中組・下組、それぞれの子供たちが旗を収め、頭がよくなりますようにと天神様を拝む。
 宿へ帰り、宿のおばさんが作った朝ご飯を食べてから全員で遊び、夕方それぞれ解散。子供たちは一年一回のこの天神講をどれほど楽しみに待っていたかがよく分かる。(1995年8月記)

シロダモ、ジョロウグモなど 11月3日

シロダモ(クスノキ科)の黄色い花と赤い実。雌雄異株で花と実が同時にみられるのは雌株。
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ツマグロオオヨコバイ(オオヨコバイ科)を捕まえたジョロウグモ(ジョロウグモ科)
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コガネグモ・ジョロウグモが巣を張る谷津の秋(2020年10月12日、二宮さん作成)
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3日間の降水量 9月19日

9月18日~20日の鳩山アメダスのデータです。台風や豪雨の予報があると市民の森で災害が起きないかと雨の降り方が気になります(←「雨で斜面が崩れる理由(2022年9月1日記事)」)。鳩山アメダス埼玉県川の防災情報から荒川上流河川事務所高坂東松山県土整備事務所白山中学校などの観測地点や気象レーダー(→HIR-NET提供の気象レーダー、雨量レーダーのサイトリンク集『埼玉県気象レーダー)をみています。

9月18日
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9月19日
7479

9月20日
7480

9月の日降水量、最大1時間降水量
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霧ヶ峰の草原の成り立ち 9月12日

霧ヶ峰高原の八島ヶ原湿原に隣接する下諏訪町立八島ビジターセンターあざみ館を見学しました。

八島ヶ原湿原と霧ヶ峰の山々(Wikipedia)_11-4A八島湿原(八島ビジターセンター)
八島ヶ原湿原と霧ヶ峰の山々Wikipedia「八島ヶ原湿原」

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浦山佳恵「霧ヶ峰高原の山麓集落による高原資源の利用と生業の変遷 -近世から近代を対象に-」(
長野県環境保全研究所 環境保全研究所研究報告 第3号、2008年)

1.はじめに
 霧ヶ峰高原の標高1500m以上には、約1000haという日本最大規模の亜高山帯の草原が広がっている。降水量の多い日本列島では、高山や海岸風衝地に成立する自然草原を除けば、何らかの人為的干渉がなければ森林が成立する。そのため、多くの草原は人間による火入れや採草、放牧などにより形成された二次草原である。霧ヶ峰高原の草原も採草利用により維持されてきた二次草原であるが、採草利用の停止により草原の森林化がすすみ、草原景観の消滅や草原性動植物の絶滅さらには生態系全体への影響が危惧されている。
 近年、県や市町村、NPO等により草原を保全する取組みが行われつつあるが、草原と山麓集落との関わりの変遷を把握することは、今後の草原保全に多くの示唆を与えてくれると考えられる。
 これまで霧ヶ峰高原の草原と山麓集落との関わりについては、草原化の起源が鎌倉時代であること、近世以降霧ヶ峰高原は肥料や飼料となる草の採取に利用され近世末には全域が草原となり、明治以降化学肥料の普及により採草利用が減少し草原の縮小が始まったこと、昭和初期には標高1500m以上は秣の採取に利用されていたこと、昭和初期の秣の具体的な採取方法等が解明されてきた。
 一方、霧ヶ峰高原での採草利用は山麓集落の生業と密接に関わってきたと考えられるが、山麓集落の生業との関連で霧ヶ峰高原の資源利用を明らかにしたものはない.
 そこで、今回は近世から近代を対象に取り上げ、山麓集落の生業と霧ヶ峰高原の資源利用の変遷を明らかにすることを試みた。
2. 調査地の概況
 2.1 霧ヶ峰高原の自然条件
 2.2 中世における霧ヶ峰高原の草原化要因
          霧ヶ峰高原の山麓集落による高原資源の利用と生業の変遷_3
3. 近世の山麓集落の生業と霧ヶ峰高原の資源利用
 3.1 入会集落の生業
 3.2 入会集落による霧ヶ峰高原の資源利用
   霧ヶ峰高原の山麓集落による高原資源の利用と生業の変遷_4
 3.3 資源をめぐる利用規制
4. 近代の山麓集落の生業と霧ヶ峰高原の資源利用
 4.1 入会集落の生業
 4.2 昭和初期の入会集落による霧ヶ峰高原の資源利用
 4.3 昭和初期の資源をめぐる利用規制
5. 山麓集落の生業と霧ヶ峰高原の資源利用の変遷
6. おわりに
これらから、近世末に霧ヶ峰高原全域が採草地として利用されたのは、山麓集落が稲作を中心とした生業を営み肥料をほとんど自給していたためであったと考えられる。また、明治以降の採草利用の減少は、養蚕が盛んになり現金収入が増加するとともに肥料としての草の価値が低下したためであったと考えられる。一方、明治以降も標高1500m以上で比較的採草利用が維持されたのは、西麓集落が現金収入を得るために酪農を開始したことと関連していたと考えられる。利用規制の運用状況の変化は、こうした生業の変化に伴う草の資源価値の変化を反映していると考えられる。
今後は、さらに戦後から現在についても同様に明らかにすることにより、現在の草原の形成過程について検討し、今後の草原保全のあり方についても考えていきたい。
謝辞
文献
 

  

※車山山頂(茅野市)には高さ12.4mの気象レーダー観測所(気象トップラーレーダー)があります。

立科町のくびれ 9月12日

立科町は東西9.9㎞、南北26.4㎞と南北に長い町で瓢箪[ひょうたん]を引き延ばしたような形をしています。最狭部は幅わずか53mで、そのくびれをもたらしたのは、17世紀初頭、雨境峠の南側の蓼科山麓は諏訪方9ヶ村(現・茅野市)と佐久方8ヶ村(現・立科町)の入会原野でしたが、半世紀以上にわたって争論が続いたあげく、1670年代に諏訪側の立ち入り・利用が禁止されて佐久側の独占が認められたことです。これが「立科のくびれ」の南側、白樺高原地域(蓼科)が現在立科町に属している遠因の一つです。
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中山道 茂田井間の宿 9月12日

霧ヶ峰高原の八島ヶ原湿原に隣接する長野県諏訪郡にある下諏訪町立八島ビジターセンターあざみ館に向かう途中で寄りました。中山道69宿の25番目の望月宿と26番目の芦田宿の間にある宿場町で用水に沿って古い家並が残っています。

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案内板に佐久市教育委員会、立科町教育委員会とあるので、『立科町合併60周年記念 町勢要覧 2015』の資料編・立科町60年のあゆみをみると1960年に望月町(2005年に佐久市に合併)茂田井地区で立科町への境界変更についての住民投票が行われ、望月町茂田井の大部分が立科町に境界変更したとありました(39頁)。2軒の造り酒家は佐久市、一里塚は立科町です。

 

 


雨で斜面が崩れる理由 9月1日

7月21日の記事にあるように、市民の森では7月の豪雨で土砂崩れがおきた場所が何箇所もあります。ボッシュ林の北向き斜面の谷もその一つです。大規模なものではありませんが、これから多発しそうです。
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YouTubeの森林総研チャンネルにある「【森林講座】土砂災害を引き起こす雨の降り方に隠された共通点」(21:09)の前半に「そもそもなぜ斜面が雨で崩れるのか?」があります。



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土砂災害が発生する危険性の高い雨の降り方を判定する」(森林総研プレスリリース2021年10月28日
ポイント
・雨の降り方と土砂災害が発生したタイミングの関係を明らかにしました。
・1時間当たりの平均雨量がおよそ 100 年に一度の値に達した際に,土砂災害が発生する
危険性が高いことがわかりました。
・この成果は,土砂災害が発生する危険性が高い雨の降り方の判定に役立つことから,
住⺠の安全な避難計画の策定に貢献することが期待されます。




太陽のまわりに日暈(ハロ) 5月11日

今朝は太陽のまわりに日暈(ひがさ、ハロ)が見えました。天気下り坂のサインだそうです。

単管パイプ・クスノキ削屑 3月19日

ふじみ野市の平地林にあるガレージの片付けで出た単管パイプをいただきました。40本ほどあります。
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袋詰めされたクスノキの削屑
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『薪ストーブライフ』42号(→ナラ枯れ文献⑤『薪ストーブライフ』42号 2021年9月5日記事)の「ナラ枯れから樹木を守ろう」のページに「カシナガは針葉樹が嫌い」という見出しがあったのを思いだして、軽トラに積んで一緒に持ち帰りました。京都・大覚寺の御神木のスダジイの根元に袋詰めしたヒノキのペレットを設置してカシナガの穿入を防いでいる写真が掲載されています。クスノキは材から樟脳が採れる香木です。クスノキは常緑、単葉の広葉樹ですが、鱗状葉の針葉樹・ヒノキの匂いが嫌いならクスノキはもっと嫌いなのではと期待しましたが、『森林防疫』63巻2号(2014年3月)に掲載されている小林正秀・吉井優「ブナ科樹木萎凋病(ナラ枯れ)の防除法」には、「京都府立植物園では市販の樟脳が幹に設置されたが、効果は得られなかった」、「ヒノキの木屑を幹に設置すると2週間程度の忌避効果が認められた」、「このため、京都市内の社寺仏閣では、御神木などの貴重木に対してヒノキ木屑(生材から作成した約1㎝四方のチップ)を梱包した袋を2週間毎に幹に追加設置することが行われている」(4か~6頁)とあります。残念ですが、他の使い道を見つけます。

コアシダカグモ 11月21日

岩殿C地区の資材置場を整理していた時、見つけました。コアシダカグモ(アシダカグモ科)♂?。網をはらないで歩きまわり、頭から尻先までの体の大きさが20~25㎜(=体長。足を含めた大きさは全長)の大型のクモです。
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 ●コアシダカグモ(♂) 2016年6月28日記事
 ●コアシダカグモ 2015年6月13日記事

コアシダカグモ(新海栄一『日本のクモ』文一総合出版、2006年)
……平地から山地に生息。人家・神社・寺院等建物の周囲、石垣、崖地、洞穴、太い樹木等で見られる。昼間は壁・塀の隙間、石垣や崖地の割れ目、樹皮下等に潜んでいるが、夜間隠れ場所から出て、天井、障子、壁、塀、縁の下、土台石等で脚を広げて静止し、接近するゴキブリ・カマドウマ・コオロギ・蛾等の昆虫を捕食する。

クリオオアブラムシ 11月20日

伐採・更新エリアのコナラについていました。近くにアリがいたのでアブラムシの仲間だと検討をつけて調べたらクリオオアブラムシ(アブラムシ科)でした。
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島根県病害虫防除所の「病害虫データベース」のクリの害虫クリオオアブラムシによるとクリのほかクヌギ、コナラなどにも寄生するそうです。京都教育大学生態学研究室の自然ICT教育プロジェクトの生物観察支援システムⅡ(観察動画アーカイブ)YouTubeチャンネル京都教育大学 自然ICT教材プロジェクトから以下の動画を見ることができます。





赤城自然園 11月10日

赤城自然園に行きました。2019年にもこの時期に紅葉狩りに来ています。
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オオセンチコガネ(センチコガネ科)
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獣糞や動物の死がいに集まる黒っぽいコガネムシ。
センチコガネより体表の輝きが強い。

ヒラタケ白こぶ病 11月3日

キノコの季節がやってきました。野外で発生しているヒラタケをひっくり返してみるとヒダの部分に白い粒があるものがあります。これをヒラタケ白こぶ病(ひだこぶ線虫病)といいます。ヒラタケ白こぶ病は、1978年に島根県、ほぼ同時期に中国地方、九州地方で発生が確認されました。その後、1995年までには西日本一帯、新潟県、長野県など、さらには2010年頃には関東・東北でも確認されるようになったそうです。このこぶはナミトモナガキノコバエが運ぶ線虫によって生じることが知られています。白コブ病の発生したきのこは食用には問題なく中毒することもないのですが、見た目は気持ちの良いものではないのでこぶを取り除いて食べましょう。ヒラタケが発生する直前に寒冷紗など1㎜方眼の防虫ネットでこのキノコバエの飛来を遮断することで防除できます。
 ヒラタケ白こぶ病発生サイクル

   

ヒラタケが白こぶ病に磐城蘭土紀行[いわきらんど]2020年11月12日記事)
 原発事故が起きる前は、毎年、晩秋から初冬にかけてヒラタケを採りに森へ入った。平成20(2008)年の師走は、大きくしっかりした個体がびっしり倒木に生えていた。ところが、3分の1に白い粒々ができていた。初めて見る異変だった。年末に開かれたいわきキノコ同好会の総会・懇親会では、この白い粒々の話題でもちきりだった。それが「ヒラタケ白こぶ病」だということを初めて知った。
 ヒラタケ栽培農家では前々から被害が発生し、原因が分からずにいた。いわゆる「虫こぶ」の一種だ。
 12年前の拙ブログには、「キノコバエに運ばれた線虫がヒラタケ・ウスヒラタケのひだに付着すると、ヒラタケ・ウスヒラタケは自衛のために虫こぶ(白こぶ)をつくり、線虫を食べてしまう」とある。当時、そんな見解の文献があったのだろう。今回、あらためて検索するとまったく違っていた。
 森林総合研究所九州支所が管内の実験林内で調査した文献がある。それによると、白こぶ病にかかったヒラタケには、病原センチュウのヒラタケシラコブセンチュウと、媒介昆虫であるナミトモナガキノコバエの幼虫が生息している。ヒラタケ子実体(きのこ)が崩壊すると、病原センチュウはヒラタケから脱出してキノコバエに寄生し、羽化したキノコバエによって、また健全なヒラタケに移り、白こぶ病を発生させる。
 別の文献では、1970年代の終わり、まず屋久島・福岡・鳥取で同時期に発生が確認された。その後の聞き取り調査では、1995年までに西日本一帯で、さらに2010年ごろには関東・東北でも確認されるようになった。いわきでも発生が確認されたと思ったら、すぐ北へ被害が拡大したわけだ。
 白い粒々がびっしり付いているヒラタケは、気味が悪いから手が出ない。栽培ヒラタケは当然、売り物にならなくなる。目の細かな防虫ネットをかけると効果があるそうだ。「地球温暖化」の問題は真っ先に地域の片隅にあらわれる。「地域温暖化」のゆえんだ。
※水谷和人「ヒラタケ原木栽培で発生する白こぶ病とその防除」(岐阜県森林研究所普及成果『森林研情報』80、2011年2月)
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津田格「きのことキノコバエと線虫の三者関係(『日本森林学会誌』94巻6号、2012年)
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吹上コスモス畑の生きもの トビ 11月2日

吹上コスモス畑のある荒川の河川敷には鳥類がたくさんいるようです。カラスが追いかけている猛禽を撮っので、拡大して調べてみました。尾羽の先が直線、翼の先(初列風切羽[しょれつかざきりはね])が6つに分かれている、風切羽の付け根の白点があることからトビ(トンビ、鳶、タカ科)だと思います。

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「ピーヒョロロ」という鳴き声や「鳶が鷹を産む」という諺[ことわざ]位しか記憶に定着していませんでしたが、調べているうちに唱歌の「飛べ飛べとんび 空高く(『とんび』作詞:葛原しげる、作曲:梁田貞(やなだただし、1918年 )や、三橋達也さんの「夕焼け空がマッカッカ」(『夕やけとんび』作詞:矢野亮、作曲:吉田矢健治、1958年)とかおもいだしました。
 

 

ナラメイガフシ 11月2日

コナラの虫こぶ、ナラメイガフシ(コナラ+芽+イガの形+五倍子・付子、虫こぶ)。ナラメイガタマバチがコナラの若芽に産卵し、幼虫が寄生してできたもの。
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コナラのこぶ病 11月1日

29日の岩殿入山谷津植生調査の際、20年度の伐採・更新エリアで虫こぶ(虫えい)の写真を撮りました。
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今日、再度現場に行って調べたところ、糸状菌(カビ)が原因のこぶ(えい)だったことがわかりました。
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枝を切り取り、コブの部分は堅いのでノコギリで切断してみました。
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ネットで調べると「虫こぶ? かと思って切ってみたら… コナラの「こぶ病」のようです」(『あうるの森』2021年2月21日記事)がありました。この記事にあるリンクをたどって「コブ病。木の枝や幹にできるコブ状に見える樹の病気(奇形)です。」(『趣味の自然観察、デジカメ持ってお散歩』2017年3月21日記事)を読みました。写真の解説の部分は元の記事を読んで下さい。
コブ病(コナラのコブ病 、サクラコブ病、サクラがんしゅ病、テング巣病、ヤマモモコブ病、マツコブ病、スギコブ病、フジコブ病、シラカシ樹幹コブ病等)は樹木の枝や樹幹に発生する病気で細菌と糸状菌が原因になっています(注意・シラカシ樹幹コブ病は原因がまだ分かっていません)。樹木にコブができる病気をコブ病と総称的に呼んでいるようです。コブ状に奇形した部位の樹皮の表面はザラザラしていて、大きいものは握り拳ほどにも肥大します。樹幹から伸びる枝に発生した場合、枝の元の部分(枝が出る部分)はザラザラした状態で盛り上がります。枝にできて大きくなったコブの部分から折れて枝が落下している枝もあります。コブの内部はやがて空洞になって折れやすくなっているようです。樹木にしたらかなり厄介な病気に感染してしまったことになります。原因が糸状菌の場合はブナ科に多く発生するようです。この原因となる菌がマツに移り、マツにも発生するそうです。感染を防ぐ予防(対処)はコブのできた枝や幹を早期に切って捨てることで菌の広がりを防ぎます。菌が残っているとまた発生してしまいます。薬品を散布して病気が発生することを防ぐ方法もあるそうです。……
コブ病にはかかりやすい樹種があります。コナラのコブ病、サクラのコブ病、マツのコブ病、スギのコブ病、ヤマモモのコブ病、フジのコブ病が良く知られていますが、タケ類にも発生するということです。主に幹や枝にできる病気なので、広葉樹にできるコブ病の場合は、葉の落ちた時期に観察すると見つけやすいです。葉の茂っている時期ですと葉に隠れて見つけにくくなってしまいます。病名のコブ病や テング巣病 は総称的に呼ばれています。……
・コナラのコブ病。コナラの木の全体の枝に、木の実がなっているように沢山ついています。コナラにできやすいようです。枝に沢山の小さなコブがついている木もあります。この原因菌は糸状菌になるようですが、コブ病を発生させる原因菌は多いようです。コブ病はナラ類(コナラ、ミズナラ、カシワなど)に多く発生しています。コブ病については詳しくは分かっていないそうです。葉の落ちた時期に見つけると木全体の枝にびっしりとできているものまであります。原因菌はクロナルティウム・クエルカムという糸状菌(カビの1種)です。この菌はマツに感染します。
・マツにできるマツコブ病。マツに発生するコブ病はクロナルティウム・クエルカムという糸状菌(カビの1種)が原因になっているそうです。樹幹に球状の塊ができます。近くにコナラのコブ病菌にかかった樹があるとマツにも感染してしまうそうです。コナラのコブ病も同じクロナルティウム・クエルカムという糸状菌(カビの1種)が原因です。
コナラにできたコブ病です[写真略]。コナラのコブ病。ナラ類にできる病気ですが、クヌギ、アベマキの樹では見ていません。コナラが感染に弱い種類になるのか、コナラに特有に発生する菌種になるのかは分かりません。、樹の枝にこれでもかという位にできていました。枝全体にコブが発生していて、知らないと枝にコブコブができる樹かと思ってしまうほどです。大きさは大きい塊でゴルフボール程でした。樹には薬品(おそらく予防薬だと思います)の入ったペットボトルがぶら下がっていました。、1部を拡大しました。このコブは大きいものになります。綺麗な球形ではないのですがゴルフボールよりも大きかったです。、落下していた枝にできていたものです。細い枝の分かれ目や細い枝の途中など、コブの大きさ、できている部位はまちまちです。
こちら[写真略]もコナラのコブ病ですが、コブのでき方が違って見えるものです(原因菌は同じかも知れません)樹の枝の途中にできているコブです。数は少なく樹の全体を見ても2つの枝にできていて、1つには大きく握りこぶし大になったものと、他の部位の枝には3個のゴルフボール程~ウズラの卵位の大きさのコブができていました。、このコブの大きさはウズラの卵ほどです。枝の途中にできているようです。、かなり大きなコブで握りこぶしほどの大きさがあります。
・日本大百科全書「ニッポニカ」の解説によるとネクトリア属の菌が植物のがんしゅを作るようですが、専門的すぎて良く分かりません。またコナラのコブ病とマツコブ病はクロナルティウム・クエルカムという糸状菌(カビの1種)が原因になっているそうです。
樹の幹(樹幹)や太い枝にできる樹のコブは、何らかの原因で傷を受けた樹が、傷を治すために細胞を増殖させてできたものになるようです。できている場所は幹が多いです。傷を受けた場所は、傷が修復されて盛り上がって瘢痕状になっていることが多いのですが、稀に傷が修復された後でも細胞が増え続けることで大きくなっていく事があるようです。この場合はコブが大きくなり続けることになります。これは樹皮等の細胞が増殖をして成長を続けることでコブ状の塊になっっていくもので、人間に例えると細胞が増え続ける癌腫のようなものです。このように細菌やウイルス以外にも樹にコブを作る原因があることになります。これは樹幹にできた細菌やウイルス以外を原因とする植物の奇形の1種と思って良いと思います。……


虫えい(虫こぶ)とは(『北海道の虫えい(虫こぶ)図鑑』はじめに)
 えいとは、えい形成者から出されるなんらかの刺激に対して、植物が組織分化の途中で反応し、その結果、植物の一部の細胞が異常に増殖したり、肥大したり、無核や巨大核、多核など核に異常が生じたり、あるいは、組織分化の過程が狂ったりすることによって引き起こされる、組織や器官の病理学的に異常な形状のことをいう。異常形状のなかには、肥大したものだけではなく、縮小したものもふくまれる。
 このようなえいが植物の特定の組織だけに形成されたものを組織えい、器官全体がえいになったものを器官えいという。茎や葉、根などの一部の組織が肥大したえいは組織えい、芽や花、実など全体がえいになったものは器官えいに相当する。ただし、組織と器官がともにえいとなり、両者が明確に区別できない場合も多い。
 えいは、ウイルス、バクテリア、菌類、線虫類、昆虫類、ダニ類などさまざまな生物によって形成される。それらのうち、特に昆虫類によって形成されるものは昆虫えい、ダニ類によるものはダニえいなどと呼ばれている。
 (独立行政法人製品評価技術基盤機構(NITE)サイトの『NITEキッズ』生活に役立つ微生物の話)
糸状菌類とは、糸状の菌糸で生活する微生物で、一般的に「カビ」と呼ばれている生物である。単細胞性で生活する酵母や肉眼で見えるほどの大きな繁殖器官を作るキノコとともに真菌類に属する。
 生活に役立つ微生物の話(バイオテクノロジー分野)
   1 微生物ってなぁに? 
     微生物を探そう!
     役に立つ微生物
    微生物を保存せよ!
   2 ゲノムってなぁに? 
   3 微生物いろいろ
     細菌 
     酵母 
     糸状菌 
    放線菌 

吹上コスモス畑の生きもの 10月31日


コスモスの筒状花を食べるオオタバコガ?の幼虫。
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コスモスの花(筒状花、舌状花)
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アオオサカメムシの4齢幼虫?
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アオクサカメムシ(『幼虫図鑑』)
※長島聖大「いいにおいのカメムシがいる!?」 リンク切れになっているのに気がつきました(11月7日)。
 (日本自然保護協会『きょうから始める自然観察』配布資料、2020年4月17日更新記事)
 臭いにおい:クサギカメムシ 
 青リンゴのような「いいにおい」:オオクモヘリカメムシ キバラヘリカメムシ
「クサギカメムシ」と書かれた装置のボタンを押すと、おなじみのくさいにおいが吹き出る。一方、「オオクモヘリカメムシ」は青リンゴのような「いいにおい」
「クサギカメムシ」と書かれた装置のボタンを押すと、おなじみのくさいにおいが吹き出る。一方、「オオクモヘリカメムシ」は青リンゴのような「いいにおい」
※長島聖大「カメムシのくさいにおいの原因とカメムシが大量発生する理由が知りたい」(『毎日小学生新聞』連載・疑問氷解2020年7月28日記事)をリンク切れの記事に変えて追加しておきます。
カメムシのくさいにおいの原因とカメムシが大量発生する理由が知りたい
カメムシのくさいにおいの原因とカメムシが大量発生する理由が知りたい
カメムシのくさいにおいの原因とカメムシが大量発生する理由が知りたい
    

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※石田雅彦「日本船入港拒否させた「クサギカメムシ」とは」(Yahoo!ニュース2018年3月2日記事)
 
 

吉見町のコスモス畑 10月27日

吉見町の東洋製罐埼玉工場東側の下細谷耕地7ヘクタールのコスモス畑。見頃でした。
毎年、コスモスまつりが開かれてきましたが、今年はコロナウィルス感染症拡大防止のため、出店やイベント等は中止となり鑑賞のみで開催。
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『広報よしみ』11月号によれば、今年、第20回で「よしみコスモスまつり」は終了だそうです。

吹上コスモス畑 10月25日

日本一長い全長1101mの水管橋を右にみて大芦橋を渡って、荒川左岸、鴻巣市吹上地区明用[みょうよう]のコスモス畑に行きました。1200万本だそうです。
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筒状の変わり咲きのシーシェル
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カジノキ(クワ科)
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クコ(ナス科)
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ノゲイトウ(ヒユ科)
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ピンボケですみません。

ゴマダラカミキリ
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オオヒラタシデムシの幼虫 10月4日

足が6本、昆虫です。甲虫目カブトムシ亜目のシデムシの仲間は動物の死体などを「自然」に還す役割をはたしています。オオヒラタシデムシは昼行性で、市民の森の地面でよくみかけるシデムシです。卵→幼虫→さなぎ→成虫の完全変態を行います。
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シデムシの仲間には「子育て」するものがいます。
【動画】死骸に産卵するシデムシ、驚異の子育て術(『ナショナル ジオグラフィック』2018年10月17日記事)自らの体内微生物で腐敗を抑え、育児部屋と餌を確保するモンシデムシ
  

ナカグロクチバ 8月22日

岩殿の田んぼの見廻りついでに畑ものぞきました。カボチャがつるごとなくなっていました。イノシシ?

ナカグロクチバ(ヤガ科)。
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オクラ(アオイ科トロロアオイ属)の花
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クビアカツヤカミキリの生息確認 8月10日

東松山市大谷の農林公園でクビアカツヤカミキリが見つかったようです。
 「クビアカツヤカミキリ」が市内大岡地区で発見されました!
環境政策課です。クビアカツヤカミキリは、人体に害はありませんが、サクラ、モモ、ウメなどの樹木に卵を産み付け、枯らす恐れのある特定外来生物に指定された昆虫です。幼虫の活動時期(3月〜10月)は、被害の目印であるフラス(木くず・ふんの混合物)が樹幹の下部に排出されます。成虫やフラスを発見した場合は、環境政策課までご連絡ください。成虫は発見次第駆除してください。
東松山市HPの記事「クビアカツヤカミキリについて 更新日:2021年8月11日」でも確認して下さい。
クビアカツヤカミキリについて(東松山市)1クビアカツヤカミキリについて(東松山市)2

埼玉県HPの「クビアカツヤカミキリについて」にある「県内の発生状況」をまとめた表によれば、
東松山市令和3年7月下旬被害樹木なし(成虫1頭確認)
とあるので、東松山市の発表はこの事例なのかと思いましたら、県のHPに掲載されている事例は別件でした。東松山市役所が広報して数日の間に、市民からクビアカツヤカミキリの情報が数件寄せられているとのことです(8月13日記事更新)。

※埼玉県環境科学国際センターHPのサクラの外来害虫“クビアカツヤカミキリ”情報」では、
<6>被害確認の方法
 1)フラスの確認
 ・根元などに大量に散乱・堆積するフラスがあるか否かを確認する(図6)。
 ・フラスは、通常、褐色のカリントウ状で比較的硬いのが特徴である(図4)。

   → フラスがあれば、樹体内に幼虫が侵入し、生存していることを示す。

 2)フラス排出孔の確認
 ・フラスが樹体のどこから排出されているのかを確認する。
 ・樹体からフラスが挽き肉状にとび出している場所がフラス排出孔である(図7)。
  ただし、フラス排出孔が小さく、見つけにくいことがある。

  → フラス排出孔は、農薬を注入するときの注入口や、注入場所決定の目安となる。

 3)成虫脱出孔の確認
 ・樹体に成虫脱出孔があるか否かを確認する(図10)。
 ・成虫脱出孔は、楕円形で、長径が2~3cm程度である。 

  → 成虫脱出孔があれば、過去にその樹体から成虫が羽化したことがあることを示す。

  → 複数の脱出孔がある場合、樹体内部は大きく食害を受けている可能性がある。

 4)樹体枯死の確認
 ・樹体に枯死した箇所があるか否かを確認する(図10) 。

  ⇒上記の4項目について確認し、被害の程度を把握した上で防除の方法を検討する。

 

<7>防除の方法
(1)野外で成虫を見つけたらすぐに捕殺する。

(2)春から秋にかけて、樹木の根元などにフラスが確認された場合、フラス排出孔を見つけ、針金や千枚通しなどでフラスを取り除くとともに、そこから針金を挿入して幼虫を刺殺するか、登録農薬(薬剤名:ロビンフット、アクセルフロアブル、園芸用キンチョールE、マツグリーン液剤2またはバイオセーフ)を注入して駆除する(図11)。なお、農薬を使用する場合は、取り扱い上の注意に従うこと(表2)。処理後には見回りを実施し、フラスの排出がないことを確認する。フラスの排出が確認された場合は、再度、農薬を注入する。

(3)フラス排出孔から大量で大型のフラスが確認された場合、羽化時期が近づいていると考えられるため、(2)と同様に、フラス排出孔から農薬注入などを実施するとともに、成虫の拡散防止のため、羽化期前の5月下旬頃までに、樹木の幹にネット(目合4mm以下の防鳥ネットなど)を、1周から1周半程度巻き付ける(図12)。また、ネットを巻き付ける前に、樹体の幹または幹の分枝部分に、登録農薬のバイオリサ<カミキリ>スリム(昆虫寄生性糸状菌製剤)を巻き付けておくと効果的である。成虫が、同製剤に触れて糸状菌に感染すると、カビが生えて死に至る。なお、農薬を使用する場合は、取り扱い上の注意に従うこと(表2)。ネットを巻き付けた後は、定期的に見回り、羽化した成虫がネット内にいれば捕殺する。また、ネットは、羽化期が終わった9月以降に取り外す。
(4)樹体からフラスの排出が認められた場合、フラス排出孔よりも下の根際部にドリルで穴を開け、そこから登録農薬(薬剤名:アトラック液剤、ウッドスターまたはリバイブ)を適量注入することにより(図13)、幼虫を駆除することができる。この方法では、樹体に注入された農薬成分が蒸散流に乗り、樹体全体に拡散・浸透する仕組みになっている。幼虫は農薬成分が浸透した樹体の一部を摂食することにより駆除される。しかし、幼虫による被害が大きく、すでに樹体の一部に枯死の兆候が現れているような場合は、農薬の拡散・浸透が進まず、効果が低い可能性がある。また、蛹化した個体や成虫には効果が現れないと考えられる。したがって、樹体内からの羽化・脱出時期が近づいていることが予想される被害木の場合は、ネットの巻き付けとの併用を推奨する。なお、農薬を使用する場合は、取り扱い上の注意に従うこと(表2)。
(5)樹体に複数のフラス排出孔や成虫脱出孔が確認され、特に枝などに枯死が確認された場合は、伐倒処理することが望ましい。伐採した材は、幼虫が潜んでいる可能性があるため、必ずチップ化または焼却処分する。また、残った切り株から成虫が脱出しないように、ネットを被せておくなどの処理(図14)が必要である。
とあります。

  クビアカツヤカミキリ注意喚起リーフレット(埼玉県)_1クビアカツヤカミキリ注意喚起リーフレット(埼玉県)_2
サクラの外来病虫‘’クビアカツヤカミキリ‘’被害防止の手引 第5版(埼玉県環境科学国際センター、2020年)
 クビアカツヤカミキリ被害防止の手引(埼玉県)_01クビアカツヤカミキリ被害防止の手引(埼玉県)_02クビアカツヤカミキリ被害防止の手引(埼玉県)_03
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埼玉県環境科学国際センターで2018年からクビアカツヤカミキリ県民大調査を実施しています。今年は8月末まで県民や関係機関から広く情報調査を行い、生息域や被害状況の把握と生息分布の拡大パターンの解析を行います。
クビアカツヤカミキリ発見大調査マニュアル2021_1クビアカツヤカミキリ発見大調査マニュアル2021_2

2本の虹 7月1日

夕立があった午後5時過ぎ、帰宅途中に2本の虹を見ました。虹は「太陽の光が雨粒の中で屈折・反射して七色に分かれているもの」で、「天気が「晴れ→雨→晴れ」と急変するような場合に虹が出やすい。虹が現れるのは必ず、太陽がある方向の反対側の空。絶好のチャンスである夕立後は、東の空に虹が出る」(【教えたくなる!】虹が現れるために必要な3つの秘密、知っていますか?(『いろは出版』2015年2月2日記事)) といいますが、そのとおりでした。
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難しくいうと、
虹の発生原理は上述のように太陽と観察者と水滴群の三者の位置関係が特定の条件になった場合に観察されます。太陽(光源)は必ず虹を見ている人(観察者)の背後から射しており、虹の円弧の中心は、太陽と観察者を結ぶ直線の延長線上にあります。つまり、空中の水滴群と観察者と太陽(光源)との位置関係は特定の条件で結び付けられており、この相対的位置関係が成り立てば、雨上がりの空以外でも虹は発生することになります。(光と色の話 第一部 第19回 虹の色(『シーシーエス株式会社』)
となります。

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写真にある2本の虹の内、目立つ方の虹は主虹(しゅこう。外側:赤、内側:紫)、外側のうっすらと見える虹は副虹(ふくこう。外側:紫、内側:赤)と呼ばれ、色の順序が逆になっています。主虹と副虹に挟まれた中間の空は主虹の下側、あるいは副虹の上側の空よりも幾分暗く見えます。この暗い領域は「アレキサンダーの暗帯」と呼ぶそうです。


虹の色は何色? 4色・5色・7色・6色  Wikipediaの「の「虹の認識の歴史」、「ニュートンの7色説の権威とその乗り超え」の節をご覧下さい。以下は「ニュートンの7色説の権威とその乗り越え」から引用(脚注番号省略)。

虹の色数は文化の問題とする説:物理学者の桜井邦朋は『考え方の風土』(1979)の中で「虹の色の数にしても、私たちは何の疑問もなしに7と答えられるのに、アメリカでは6としか答えられないことを知ったときには、まさに、文化的風土、言い換えれば思考のパターンなどに反映される知的風土が、彼我で完全に異なるのだという有無をも言わさぬ結論を示されたようで、私にはたいへんなショックであった」と書いている。また言語社会学者の鈴木孝夫は『日本語と外国語』(1990)の中で、欧米での同様な経験をふまえて「欧米では虹は5~6色と思っている人が少なくない」と書いていて、「こういう認識はそれぞれの言語の背後にある文化によってもともと違うと理解した方がいいのだ」と述べた。さらに鈴木孝夫は「日本人にとっては虹の色は昔から七と決まっている。虹と言えば七色、七色と言えば虹というほど、この二つの結びつきは固い。(略)つまり日本文化の中では虹は七と決まっている。(略)このような連続的に存在する対象を、日本人が七つの離散的な部分に分節して分けるのは、多分に言語文化的な慣習のせいと言えよう」とした。生物学者の日高敏隆も「日本では七色の虹がアメリカでは六色になり、ベルギーでは五色になってしまうのは、たいへんおもしろかった」と書いた。


虹の七色はニュートンの影響:このような考えに対して科学史家・科学教育研究者の板倉聖宣は、「日本人の虹は七色だとする常識の方が間違っていて、欧米人の方がまともだ」と批判した。板倉は鈴木孝夫の説を否定し、日本で「虹が七色」と言われるようになったのは、幕末から明治時代初期に欧米の科学が導入されてから以後であることを明らかにした。江戸時代の人々は「紅緑の虹」と書いていたが、それは中国伝来の表記法をそのまま用いたものだった。江戸時代の西川如見(1648-1724)の絵には「紅緑の虹」として4色に彩色されたものがある。江戸後期に宇田川榕庵はニュートンの音階と虹色の対応を翻訳紹介した。明治以後の日本の学校教育では欧米から伝来した自然科学の入門書の「虹の色は七色」という記述に従って教えられることになった。明治初期に輸入され翻訳されベストセラーとなった『理学初歩』にも「虹の色はViolet、indigo、blue、green、yellow、orange、redの七色」と記されていたが、これはアメリカで書かれた入門書であった。 英語圏では虹の七色を覚えるために「Richard of York gave Battle in vain」(ヨークのリチャードの挑戦はむなしかった)という語呂合わせがある。日本でも「せき・とう・おう・りょく・せい・らん・し」と覚える方法があった。日本もアメリカも、その他の近代科学の成果を受け入れた国々なら「ニュートンの虹は七色説」が教えられた。


アメリカでの六色への転換:欧米では1700~1800年代の色彩学者のあいだでは、ニュートンの「虹は七色」説は否定されて、六色説が主流になっていた。明治中頃までには日本の色彩学者の間でも「ニュートンによる虹は七色説は誤りであり、あらゆる面から見て虹は六色とした方がいい」とされていた。日本と欧米の色彩学者の間ではニュートンの権威は決定的なものではなかった。 しかし、1938~49年までのアメリカの小学校理科教科書では虹は7色と教えられていた。それが6色に変わったのはBertha Morris Parkerの『Teaching Manual to accompany』(1941-1944)の影響である。そこには「プリズムを設置して壁に色の帯を映します。それを教科書の虹色の帯の図と壁に映った色帯を比べさせます。」そして「どれか壁の上の色帯に見つけるのが難しい色がありますか?それはどれですか?」と問うようになっていた。そして「インディゴ(藍色)というのはほとんど青や紫と区別がつきませんね」と子どもたちに気づかせる授業を行い、「虹は七色ではなくで六色と考えた方がいい」「七色に見えなくても心配しなくてもいい」と教えるものだった。 アメリカでは1948年以降の教科書にはパーカーの「虹は六色」が受け入れられた。

日本での虹の六色説の受け入れ:第二次世界大戦後に文部省が作った理科教科書はパーカーの単元別教科書をモデルにしていたが、虹は7色として、パーカーらの考えは受け継がなかった。これによって「アメリカでは虹は6色、日本では7色」と別れることになった。日本で「虹は6色」と書いてあるもっとも初期の本は近藤耕蔵の『日用物理学講義』(1917年:大正6年)である。近藤は「スペクトルは6色に大別するがよし」と書いた。近藤の考えは「青と菫の間に藍を入れると、この部分だけ色を細かく分けすぎることになるから、無理に藍を入れずに〈虹は6色〉としたほうがいい」というものだった。しかしその当時物理学者が書いた教科書では虹は6色と書いたものは1冊も無かった。東北帝大の物理学教授で光学を専門にしていた愛知敬一(1880-1923)は啓蒙書の中で「虹は6色」と書いたが、そのすぐ後の記述ではゆらいで「虹は7色」説を繰り返していた。近藤の虹は6色説は、近藤の弟子以外には当時の教育関係者には受け入れられなかった。1942年の啓蒙書でも、霧吹きで作った虹の色を子どもにを数えさせるお話の中で、最初に子どもに「赤、橙、黄色、緑、青、もっと濃い青、紫」と言わせて、大人が「もっと濃い青」を「藍」だと教えて、7色としている。日本でも欧米でもニュートンの権威を乗り越えられたのは、物理学者ではなく色彩学者や技術者、実業教育研究関係の教師たち、科学啓蒙家といった人々だった。日本の分光学の専門家がスペクトルの認識を変えたのは1947年の中村清二『中村物理学・上巻』で、「色の数を数えることはできない」としながらも6色をあげている。1952年ごろまでに6色への転換が行われたが、その当時の検定教科書では大部分が虹は7色だった]。専門家がニュートンの権威を乗り越えても、日本では常識の権威を越えることができなかった。また、日本では早くから虹の教育は小学校の教材ではなくなったため、高校の物理で初めてスペクトルを習うことになり、高校の物理教科書で虹は6色となっていても、その一般常識を変えることが遅れた。

鈴木宏昭『認知バイアス』 2月16日

鈴木宏昭さんの『認知バイアス 心に潜むふしぎな働き』(講談社ブルーバックスB-2152、2020年10月)を読みました。
認知バイアス
「なぜあの時あれを見逃してしまったのか」「なぜこんなものを買ってしまったのか」「どうしてあんな簡単な問題が解けなかったのか」-誰しもが日常的に経験しているであろう、なぜか誤って認識したり、いつもならするはずのない判断や行動。それはなぜ起こるのか。このようなふつうの行動に現れる心の働きの偏り、歪みのようなものである「認知バイアス」について、わかりやすい事例を挙げて解説。
認知バイアスという言葉は、心の働きの偏り、歪みを指す。ただしだからと言って、精神疾患などに見られる心の働きを指すわけではない。こうした疾患を持たない人たちの行動の中に現れる偏りや歪みに対して認知バイアスという言葉が用いられる。(はじめに4頁)
本書ではバイアスを列挙するのではなく、また人は愚かですねと嘆いたり、驚いてみせるのでもなく、人の認知の仕組みとそれが用いられる状況の双方から認知バイアスに迫っていこうと思う。(はじめに5頁)
人間の認知は、本質的にこうしたブリコラージュのようなもの[あり合わせのもので、とりあえず必要なものをこしらえるようなこと]と考えることができる。私たちは将来のことはあまりうまく予測できないので、将来起こる可能性があることに対し事前に準備しておくことは困難だ。だからあり合わせのものでなんとかしのぐしかないのだ。こうした次第だから、認知はエレガントではないことも多い。また、非効率きわまりないことをやらざるを得ない場合もある。でも、それが認知の姿なのだ。(第9章⑧246頁)

鈴木宏昭『認知バイアス 心に潜むふしぎな働き目次
はじめに
第1章 注意と記憶のバイアス チェンジ・ブラインドネスと虚偽の記憶
  ①注意は限られている
  ②注意をしても見えない
  ③2種類の注意
  ④記憶のバイアス、改変
  ⑤目撃者証言を考える
  ⑥見えてもあるとは限らない
  ブックガイド
第2章 リスク認知に潜むバイアス 利用可能性ヒューリスティック
  ①人は起こりやすさをどう推定するか
  ②少ないことは多め、多いことは少なめ
  ③リハーサル効と利用可性性ヒューリスティックの起源
  ④メディアと利用可性ヒューリスティック
  ⑤記憶に作用する諸々の要因
  ⑥ヒューリスティックの誤作動と逆利用
  ブックガイド
第3章 概念に潜むバイアス 代表性ヒューリスティック
  ①連言錯誤
  ②概念とカテゴリー
  ③カテゴリー化を支えるブロトタイプ
  ④ブロトタイプはどう作られるか
  ⑤サンプリング
  ⑥代表性ヒューリスティック
  ⑦社会的ステレオタイプ
  ⑧心理学的本質主義
  ⑨帰属と対応バイアス
  ⑩代表例が役立つ時、間違う時
  ブックガイド
第4章 思考に潜むバイアス 確証バイァス
  ①論理からの逸脱〜4枚カード問題
  ②確証バイアス〜2-4-6の後には何が続くか
  ③第一印象
  ④因果関係と確証バイアス
  ⑤確証バイアスはなぜ生まれるか
  ⑥仮説検証のためのデータ選択
  ⑦初歩的な問題を間達いに導くものとは
  ブックガイド
  コラム 因果関係についてのバイアス
第5章 白己決定というバイアス
  ①欲求・意図・自由意志
  ②行動の本当の原因は自覚できない
  ③伝染する意図、日標
  ④好き嫌いの原因も意識できない
  ⑤私たちは脳の奴隷なのか
  ⑥現代の無意識研究
  ⑦人はなぜ宇宙人に誘拐されるのか〜作話の正体
  ⑧さまざまな因果とその服用
  ⑨意恵と行動、そして意図を超えて
  ブックガイド
第6章 言語がもたらすバイアス
  ①言語のもたらすもの
  ②言語は記憶を阻害する
  ③言語は思考を停滞させる
  ④言語は絵を下手にする
  ⑤言語の苦手科目
  ⑥世界と言語
  ⑦武器としての言語、害につながる言語
  ブックガイド
  付録
第7章 創造(について)のバイアス
  ①想像を阻む制約
  ②制約を緩和する多様性
  ③制約を緩和する評価
  ④徐々にひらめく
  ⑤知らないうちにひらめく
  ⑥失敗が見方の変化を促す
  ⑦イノベーションを考える
  ⑧創造の女神が徴笑むのは
  ブックガイド
第8章 共同に関わるバイアス
  ①集合知をどう考えるか
  ②同調〜右へならう心
  ③共同を阻害する要因
  ④分散、分業がもたらすもの
  ⑤共感というバイアス
  ⑥1たす1は2にならない時に起こること
  ブックガイド
第9章 「認知バイアス」というバイアス
  ①二重過程理論の間題
  ②直感の方がうまくいく
  ③認知の文脈依存性
  ④限定合理性と生態学的妥当性
  ⑤心理実験のワナ1~別の問題を解いてしまう
  ⑥心理実験のワナ2~言葉の裏を読んでしまう
  ⑦愚かさを裏側から考える
  ⑧修繕屋としての知性
  ⑨現代社会とバイアス
  ⑩人の知性、そしてAI、チンパンジー
  ブックガイド
おわりに 結局、人は賢いのか、バカなのか
さくいん


 


田野大輔『ファシズム教室』 2月15日

田野大輔さんの『ファシズム教室 なぜ集団は暴走するのか』(大月書店、2020年4月)を読みました。
ファシズム教室

田野大輔『ファシズム教室 なぜ集団は暴走するのか目次
ほじめに
第1章 ヒトラーに従った家畜たち?
 1 小さな権力者たちの暴走
  「大衆運動」としてのナチズム
  ブロパガンダ論の限界
  末端の権力者を突き動かすもの
  権威への服従がもたらす「自由」
  ユダヤ人迫害のメカニズム
  「水晶の夜」の暴動
 2 「民族共同体」という理想郷
  階級のない「公正」な社会
  「喜び」を通じて「力」を
 3 統合の核としての指導者
  『意志の勝利』に見るにヒトラー
  「アイドル」としてのヒトラー
  「普通の人間」のイメージ
 4 大量殺戮への道
  「異分子」の排除とホロコースト
  「悪の陳腐さ」
  「彼らは自由だと思っていた」
 コラム 水晶の夜
 コラム 悪の陳腐さ
第2章 なぜ「体験学習」なのか?
 1 「体験学習」が生まれるまで
  『ウェイブ」の衝撃
  授業化にあたっての課題
  暴走の疑似体験
 2 「社会意識論」のテーマ
  普通の人間の残虐行為
  ミルグラム実験
  「権威への服従」がもたらすもの
 3 「体験学習」の概要
  投業の流れ
  授業のねらい
 コラム ミルグラム実験
第3章 ファシズムを体験する
 1日目
  受講にあたっての注意
  独裁とは?
  独裁に不可欠なもの
  拍手で指導者を承認
  ナチス式敬礼
  独裁を支える団結
  共同体の力
  ここまでのまとめ
  席替えで受講生を分断
  制服
  ロゴマーク
  集団の目的
 2日目
  ほぼ全員が制服を着てくる
  再び糺弾の練習
  前回の復習
  柄シャツ登場
  ワッペン作成
  グラウンドに整列
  隊列行進
  リア充の糺弾
  意識の変化を書かせる
 コラム ナチ党大会の実態
第4章 受講生は何を学んだのか?
 1 受講生のレボートからわかること
  高い参加意欲
  レポートの概要
  典型的な感想
 2 デブリーフィングで学ぶこと
  3つの論点
  ①集団の力の実感
  ②責任感の麻痺
  ③規範の変化
  日常の間い直し
  危険性の認識につなげる
 3 ファシズムの正体とは?
  ファシズムの「魅力」
  集団行動の快楽
  ファシズムが生まれるとき
  「正義」の暴走
 コラム ホロコースト
 コラム ナチ体制は全体主義国家なのか?
第5章 「体験学習」の舞台裏
 1 「体験学習」の工夫と注意点
  ①主体的な関与を促す指示
  ②共通の制服とワッペン
  ③ナチス式の呼称と敬礼
  ④ネタの過剰演出
  ⑤事前の入念な準備
  ⑥状況に応じた適切な指示
  ⑦実習の場所の設定
  ⑧実習の期間の限定
 2 「体験学習」の教育的意義
  主体的な学び
  座学の重視
  台本の役割
  集団行動の危険性を学ぶ
  民主主議育の限界
 3 「体験学習」が直面する課題
  否定的な価値を学ばせる
  「寝た子を起こすな」論
  意義をを理してもらうこと
 コラム 青い目、茶色い目

第6章 ファシズムと現代
 1 ポビュリズムの時代
  現代に蘇るファシズム
  生の実感を取り戻す
  ポピュリズムの危険性
  「正論」の限界
 2 日本の不寛容な空気
  「HINOMARU」騒動
  「右も左もない愛国心」
  「政治的正しさ」への反発
  ヘイトの動機
  ファシズムに抗するには?
  「責任からの解放」
 コラム ネット右翼
 コラム ヒトラーは社会主義者なのか?
おわりに


※永月「ファシズムの体験学習に行ってきた話」(『九月の断章』ブログ、2018年9月6日)
 

 3 結果
 授業実施後に受講生に課したレポートから、彼らの多くがこの体験学習を通じて次の3点を驚きをもって認識したことが明らかになった。①集団の力の実感。集団で一緒に行動すると、自分の存在が大きくなったように感じ、集団に所属することへの誇りやメンバーとの連帯感、非メンバーに対する優越感を抱くようになること。制服やシンボルマークといった単純な仕掛けによって、そうした意識が強まること。②責任感の麻痺。指導者から指示されたから、あるいは他のメンバーもみんなやっているからという理由で、普段ならけっしてやらないようなことでもやってしまうこと。個人としての判断を停止して、指示されるまま集団にあわせて無責任に行動してしまうこと。③規範の変化。最初は恥ずかしかったり、こんなことをやるのはおかしいと思っていたのに、集団にとけ込むことで恥ずかしさを感じなくなり、ちゃんとやっていないメンバーに苛立ったりするなど、集団で一緒に行動することを義務のように感じはじめること。

田野大輔研究業績リスト(Daisuke Tano′s Website『dTANo.Mac』から)

3月17日は「みんなで考えるSDGsの日」 10月10日

2019年9月、中小企業を支援する経営革新等支援機関連合会は、特別にSDGsを注目する日にちを設定することでSDGsの盛り上がりがつくりだせるのではないかと考えて、毎月17日を「国民的SDGsの日」として設定しました。
国民的SDGsの日0317
国民的SDGs:「持続可能な開発目標(SDGs)」は、政府や大企業などの一部の組織が向き合うべき問題ということではありません。しかしながら多くの中小企業ではSDGsは自らが取組むべき課題であると認識されていません。[関東経済産業局・日本立地センターの2018年12月の「中小企業のSDGs認知度・実態等調査結果概要」(WEBアンケート調査)によれば、98%の企業が「(詳しく)知らない」「対応を検討していない」と回答している]
「国民的SDGs」は、SDGsが「日常的」「身近な」存在となり、国民一人ひとりがSDGsを「知り」「考え」「行動」する社会とすることを目指しています。そのような社会を実現するためには日本社会を支える何百万社の中小企業によってSDGsが発信され、コミュニケーションが生まれ、価値観が移り変わるような環境がつくられていくことが重要だと考えています。[『kokumin SDGs.com by 経営革新等支援機関連合会』サイトから]

2020年3月、PR総研一般社団法人日本記念日協会の認定を受け、毎年3月17日を「みんなで考えるSDGsの日」に制定しています。
みんなで考えるSDGsの日
みんなで考えるSDGsの日総合PR会社である共同ピーアール株式会社の総合研究所(PR総研)が制定。国連が定めた持続可能な開発目標であるSDGs(Sustainable Development Goals )についてのさまざまな企業の取り組みをより多くの人に伝えることが目的。また企業だけでなくひとり一人がSDGsについて考える日にとの思いも込められている。日付はSDGsに持続可能な世界を実現するために掲げられている17のゴールから「みんな(3)」で「17」のゴールを実現しようという意気込みで3月17日に。


ヤママユ 9月18日

ヤママユ(ヤママユガ科)のメス。翅開長15㎝です。「ヤママユの雌は羽化してからの寿命が短く、羽化の夜あるいは次の日の夜には交尾をし、その翌日から2,3日で産卵しその後死んでしまうというのが一般的」だそうです(環境省『里なび』の活動レポート「里なび研修会 in 新潟県十日町市」から)。
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雑木林で生活する蛾-ヤママユガの仲間-(市立市川自然博物館 1998年9月15日発行)
●樹木の葉を食べる
 ヤママユガ科の蛾は、すべての種類で幼虫が樹木の葉を食べることが知られています。主な食樹としては、ブナ科、クスノキ科、ニガキ科、ミカン科、カバノキ科、ニレ科、カエデ科、ウルシ科、ミズキ科、クルミ科、エゴノキ科、バラ科などに属する樹木が挙げられ、多くの場合、何種類もの樹木をエサとする「多食性」で、「単食性」の種類は少ないと言われています。
 市内で記録されている7種類は、いずれもクヌギ、コナラ、クリといったブナ科の樹木を好み、そのため、それらが多く生育する雑木林で多く見られます。針葉樹を食べる種類は知られておらず、実際、スギの植林地などではヤママユガ科の蛾を見ることはありません。
●雑木林が生活の場
 ヤママユガ科の蛾は、成虫になるとエサを取ることがなく、口も退化します。ということは一生の間でエサを取るのは幼虫の時期だけということになりますから、生活の場所も必然的に幼虫のエサがある場所ということになります。市内の場合、雑木林がその場所にあたります。
 市内のヤママユガ科の一生は、そのほとんどを雑木林に依存しています。卵を産み、幼虫が育ち、マユをつくってサナギになるのは雑木林で、成虫だけが時に林の外に出て街燈などに飛んで行きますが、それでも卵を産む時は再び雑木林に戻ります。雑木林という場所は、それだけでひとつのまとまった環境と見ることができ、雑木林だけで見られる動植物が多く知られていますが、市内のヤママユガ科の蛾もそんな動植物のひとつとして見ることができるわけです。
●市内のヤママユガ科の今後
 かつては、市の中部の住宅街でも、街燈に飛来する大きなヤママユガ科の蛾が見られたといいます。最近では、そういうこともなくなってしまいましたが、その理由は、やはり雑木林の減少に求めることができそうです。
 今でも大町や大野町、柏井町一帯にはまとまった雑木林がありますが、市の中部に近いあたりでは、雑木林は少しずつ姿を消し、あるいは分断されたり規模が小さくなったりしています。翅があって飛ぶことができるとはいっても、ヤママユガ科の蛾の移動能力など知れています。生活の場となる環境が失われれば、ひとたまりもありません。
 広範囲に林が残っている大町公園でも、ヤママユガ科の蛾を見る機会は、年をおうごとに減ってきています。かつては、夏になると動物園の建物に、毎朝のようにヤママユガ科の蛾がペタッと止まっている姿が見られました。大町公園の施設自体が林を切り開いてつくられたものなのであまり大きなことは言えませんが、この数年、減少傾向にあるという感じは否めません。ヤママユガ科の蛾には、ただ「大きい蛾」というだけではなく、雑木林という環境を指標する指標生物としての役割も期待できそうです。
ヤママユガの繭(2019年12月20日記事)
天蚕蛾(ヤママユガ)
  (カイコ・蚕糸・染織・シルクetc.に関心のある人のためのページSilk New Wave』から)
家蚕と野蚕の種類と違い
  家蚕と野蚕(有限会社きぬさや『Brandnewsilk.com for Experts』から)
 家蚕と野蚕の違いと種類
野蚕(『蚕糸・昆虫バイオテック』79-3、2011年)

コガタスズメバチの巣 8月22日

児沢家の母屋の東側のクネ[生垣]にコガタスズメバチの巣がありました。20㎝弱の大きさです。
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巣穴から見張りのハチが外をうかがっています。

今日の最高気温、伊勢崎・桐生・鳩山で40℃越す 8月11日

今日は関東を中心に猛烈な暑さとなり、14:42に群馬県伊勢崎市、14:31に桐生市で40.5℃(歴代13位、8月11位)、13:49に鳩山町で40.2℃を観測しました。日本全国で40℃以上を記録するのは去年8月15日に新潟県寺泊で40.6℃を観測して以来。関東で40℃を超えるのは、2018年7月23日に熊谷で日本歴代最高の41.1℃を観測して以来。

今日の最高気温(8月11日)

埼玉県のアメダス実況、日最高・最低気温(8月11日)
 埼玉県最高気温20200811
  (tenki.jp


 ●なぜ「地球温暖化は人間のせいである」といえるのか
 ●異常気象の増加は地球温暖化のせいか
 ●地球温暖化が続く限り、豪雨も猛暑も増え続ける

江守正多「豪雨も猛暑も、地球温暖化が進む限り増え続けるという現実に目を向けよう(続編:ではどうすればよいか)」
  (Yahoo!ニュース 2018.08.06 07:01)
 ●大規模水害への防災にともなう社会的難問
 ●気候変動適応法の下で自治体レベルの議論を
 ●日本人は「脱炭素」の必要性を実感できるか
 ●「脱炭素」を前向きに志すとき

江守正多「豪雨は温暖化のせいか?せいではないか?問題(豪雨報道を検証する)」
  (Yahoo!ニュース 2020.07.20 07:00)
 1. 「豪雨が地球温暖化の影響だ」とはどういう意味か?
[傾向・一因]:近年の大雨の増加傾向は、地球温暖化が少なくとも一因だ
[傾向・主因]:近年の大雨の増加傾向は、地球温暖化が主な原因だ
[今回・一因]:今回の大雨は、地球温暖化が少なくとも一因だ
[今回・主因]:今回の大雨は、地球温暖化が主な原因だ

 2. 命題の真偽
[傾向・一因]:近年の大雨の増加傾向は、地球温暖化が少なくとも一因だ
 これは科学的に妥当だ。気温の上昇傾向により水蒸気も増加傾向にある。それが、大雨が増加していることの少なくとも一因であることは間違いない。
[傾向・主因]:近年の大雨の増加傾向は、地球温暖化が主な原因だ
 これは現時点でいえないだろう。降水量の変化は自然変動が大きい、つまり、気圧・風パターンの発生の仕方が非常にランダムなので、実際のデータから地球温暖化の効果を取り出すのが難しい。
[今回・一因]:今回の大雨は、地球温暖化が少なくとも一因だ
 これも筆者の考えでは妥当である。仮に温暖化していないときにまったく同じ気圧・風パターンが発生したら、水蒸気が少ない分だけ雨量が少なかったのは間違いない。この意味において、地球温暖化は今回の大雨の少なくとも一因といえる。
[今回・主因]:今回の大雨は、地球温暖化が主な原因だ
 これはいえないとしておこう。今回の大雨の主な原因は気圧・風パターンやそれに影響を与えた海面水温パターン(インド洋の高温など)であるというのが普通だろう。
まとめると、増加傾向についても一回のイベントについても、地球温暖化が一因というのは妥当で、主因とはいえない、というのが筆者の見解である。

 3. 報道では何と言っていたか
近年の気象災害の激甚化は地球温暖化が一因とされています。(令和2年版 環境白書)と書いてあり、安心した。

 4. 温暖化のせいか、せいでないかは、なぜもめるのか?
「温暖化のせいではない」に同調しがちな人には、ぜひそのリスクを一度よく考えて頂けたらと思う。

 ●付録1. 大雨の増加傾向は本当にあるか?
 ●付録2. 水蒸気が増えると降水量が増えるといえるか?
 ●付録3. 日本の水害死者数は減り続けているか?
件の記事では、防災能力の向上により日本の水害による死者数は大幅に減少してきたことを強調している。
これはもちろん過去には正しいが、示しているグラフは2001年までである。死者数の減少は近年下げ止まっており、2004年には200人を超える死者、2011年と2014年には100人を超える死者が出ている。2018年の西日本豪雨でも死者は200人を超えた。
防災インフラが整備された先進国であるはずの日本において、未だに100人を超える水害死者が出ることが防災関係者に危機感をもたらしてきた。先日、国土交通省の委員会から発表された「気候変動を踏まえた水災害対策のあり方について」では、「施設能力を超過する洪水が発生することを前提に」した水災害対策の転換が謳われている。
この文脈において、「これからもインフラが守ってくれる」と受け取れるような過度に楽観的なメッセージを発することは不適切と思われる。

日照不足 7月17日

前線や湿った空気の影響で雨や曇りの日が続き、全国的に日照不足が報道されています。
鳩山アメダスの記録によれば、7月17日までの30日間の日照時間は平年の50%、同じ期間に降った雨の量(降水量)は146%です。

  埼玉県の期間合計日照時間(平年比) 
日照時間・平年比(20200717)

  埼玉県の期間合計降水量(平年比)
雨量・平年比(20200717)_1

 7月17日までの前5日(7月13日~7月17日)
    〃   前10日(7月8日~7月17日)
    〃   前20日(6月28日~7月17日)
    〃   前30日(6月18日~7月17日)
    〃   前60日(5月19日~7月17日)
    〃   前90日(4月19日~7月17日)

上唐子ホタルの里 4月29日

上唐子ホタルの里と不動の滝を見学しました。東松山市役所では毎年、「ホタルの自生地生息調査」、「ホタル生息環境等調査」を実施しています。ホタルの生息調査は市内23箇所で実施され、入山沼・藤井沢沼下流においても生息が確認されています。岩殿満喫クラブ管理エリアでもホタルの生息環境の保全に努めます。
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遮光ネットが張られています。黄色の花はキショウブ?

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段丘崖にはケヤキの大木が多数あります。
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不動の滝
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幹回り1メートルのヤブツバキ東松山市の名木、2008年3月東松山市観光協会認定)
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水と信仰
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上唐子月田橋たもとの水神塔
  

「健康二次被害を防ぐために!」チラシ・動画 4月24日

新型コロナウイルスの影響で、外出を控えた結果、運動不足になる人が増えています。そのなかで、懸念されるのが「健康二次被害」です。健康二次被害の詳細と、運動でコロナ予防の動画案内をチラシにまとめました。多くの皆様のご協力と本情報のシェアをお願い申し上げます(筑波大学久野研究室)。

「健康二次被害を防ぐために!」チラシ

【運動でコロナ予防】
①一人でできる体操編



②楽しく親子運動編



③テレワーク対策編



④詳しく解説編



⑤テレワーク対策応用編





手洗い×睡眠・食事×運動・笑顔 4月4日

ウイルスを寄せつけないように免疫力を高めましょう
免疫力は、食事(腸内環境を整えること)、十分な睡眠、体温を上げる運動(ウオーキングと筋トレ)、笑顔で維持・向上が可能です。


手洗い×睡眠・食事×運動・笑顔手洗い×睡眠・食事×運動・笑顔_01

筑波大学の久野譜也教授(健康政策)の研究室が自治体や企業へのヒアリング調査を行ったところ、子どもから高齢者まで、外出しないことによる心身への悪影響が見られることが分かった。久野研究室では3 月9日、ウイルスから身を守る免疫力を高めるため、ウォーキングや筋トレなどの運動を勧めるチラシを作成し、「多くの皆さんに実行してほしい」と呼びかけている。


自宅でできるおすすめ筋トレメニュー(PDF)

◆スクワット 下半身の筋肉をバランスよく鍛える

◆ひざ伸ばし 衰えやすい「大腿四頭筋」を鍛える

◆もも上げ 大腰筋+腹筋を鍛える筋トレ


※テレワークで1日の歩数30%減少、運動不足による健康影響懸念(NHK NEWS WEB 2020/04/16)


まもなく桜満開 3月24日

松山高校校庭の桜です。
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マルクビクシコメツキの幼虫? 2月5日

朽木のチップの中にいました。コウチュウ目コメツキムシ科のマルクビクシコメツキ(ハリガネムシ)の幼虫だと思います?
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小鹿野町農産物栽培マニュアル(PDF、2007年)257頁
●小鹿野町農産物栽培マニュアル

  

カロリン・エムケ『憎しみに抗って』 1月4日

カロリン・エムケ『憎しみにあらがって ―― 不純なものへの賛歌』(浅井晶子訳、みすず書房、2018年)を読みました。
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人種主義、ファナティズム、民主主義への敵意――ますます分極化する社会で、集団的な憎しみが高まっている。なぜ憎しみを公然と言うことが、普通のことになったのだろう。
多くの難民を受け入れてきたドイツでも、それは例外ではない。2016年には、難民の乗ったバスを群集が取り囲んで罵声を浴びせ、立ち往生させる事件が起こった。それまでのドイツではありえなかったこの事件は、社会に潜む亀裂をあらわにした。
自分たちの「基準」にあてはまらない、立場の弱い者への嫌悪、そうした者たちを攻撃してもかまわないという了解。この憎しみの奔流に飲み込まれないためには、どうしたらいいだろう。
憎しみは、何もないところからは生まれない。いま大切なのは、憎しみの歴史に新たなページを加えることではなく、基準から外れたとしても幸せに生きていく可能性をつくることではないだろうか。
著者カロリン・エムケはドイツのジャーナリスト。自分とは「違う」存在を作りだして攻撃するという、世界的に蔓延する感情にまっすぐに向き合った本書は、危機に揺れるドイツでベストセラーになった。いまの世界を読むための必読書。
   (みすず書房HP「書誌情報」より)
 カロリン・エムケ『憎しみに抗って ―― 不純なものへの賛歌』目次
はじめに
1 可視‐不可視
   恋
   希望
   懸念
   憎しみと蔑視
    1 特定の集団に対する非人間的行為(クラウスニッツ)
   憎しみと蔑視
    2 組織的人種差別(スタテンアイランド)
2 均一 ー 自然 ー 純粋
   均一
   根源的/自然
   純粋
3 不純なものへの賛歌

原註
訳者あとがき
著訳者略歴
※東京大学出版会・白水社・みすず書房の出版情報PR紙「パブリッシャーズ・レビュー」第26号(2018年3月15日号)より
 ドイツでベストセラー
  カロリン・エムケ
   《憎しみに抗って 不純なものへの賛歌》浅井晶子訳
 人道主義、ファナティズム、民主主義への敵意 ―― ますます分極化する社会で、集団的な憎しみが高まっている。なぜ憎しみを公然と言うことが、普通のことになったのだろう。
 こうした現象は、世界中でみられる。多くの難民を受け入れてきたドイツでも、それは例外ではない。
 2016年、ドイツのクラウスニッツで、難民の乗ったバスを百人以上の群集が取り囲んで罵声を浴びせ、立ち往生させる事件が起こった。多くは近所のごく普通の住民だったという。その様子はSNSで瞬く間に拡散し、おびえる難民の子どもや、手をこまぬく警官の様子も映っている。それまでのドイツはありえなかったこの事件は、社会に潜む亀裂をあらわにした[*1]。
 「怒りは、なにものにも守られることなく目だっている者に向けられる」。自分たちの「基準」にあてはまらない、立場の弱い者への嫌悪、そうした者たちを攻撃してもかまわないという了解。この憎しみの奔流に呑み込まれないためには、どうしたらいいのだろう。
 著者エムケは言う。憎しみは、何もないところからは生まれない。なぜ悪むべきかという「理由」は、誰かがつくらないと存在しない。憎しみは、いまに始まったことではなく、じつは長い歴史をもっている。
 いま大切なことは、憎しみの歴史に新たな1ページを加えることではなく、基準から外れたとしても幸せに触れて生きる可能性をつくっていくことではないだろうか。
 著者カロリン・エムケはドイツのジャーナリスト。自分とは「違う」存在をつくりだし攻撃するという、世界的に蔓延する感情にまっすぐに向き合った本書は、危機に揺れるドイツでベストセラーになった。いまの世界を読むための必読書。
   [現代社会・暴力・ポピュリズム](四六判・216頁・3600円)

齋藤純一さんの書評「多様性ゆえの安定、再構築を」から(『好書好日』2018.06.02>『 朝⽇新聞』2018年04月21日)
憎しみに抗って―不純なものへの賛歌 [著]カロリン・エムケ
 このところ「ヘイトスピーチ」や「ヘイトクライム」といった「憎しみ」を含む言葉を耳にすることが多くなった。実際、ネット上では憎悪表現が当たり前のように飛び交っている。その標的とされ、心身に深い傷を被っている人も少なくないはずである。
 ようやくたどり着いたドイツで住民から罵声を浴びせられる難民[*1]、アメリカで警官の暴力的な取り締まりにさらされる黒人[*2]、国境での保安検査で屈辱的な扱いを受けるトランスジェンダー(「自然」とみなされる性別が本人の感覚と合致しない人)。本書が取り上げるのは、何を語ったか、何を行ったのかとはまったく無関係に、侮蔑や憎悪を投げつけられる人々である。
 本書を読んであらためて重要と感じるのは、憎しみを引き起こす原因とそれが向けられる対象の間にはほとんど関係がない、ということである。難民や移民はいわば叩(たた)きやすいから憎しみの標的とされる。彼らをいくら叩いたところで、生活不安がなくなるわけではないのにもかかわらず。人に憎しみの感情を抱かせる原因は複雑で解消しがたい一方、標的の選択は単純で、感情の投射は容易である。
 「彼ら」を締めだせば「われわれ」は安全や豊かさを取り戻すことができる。こうした考え方はなぜ執拗(しつよう)に現れるのか。「同質なもの」、「純粋なもの」は予(あらかじ)め存在せず、「異質なもの」、「不純なもの」を特定し、それを排除することを通じてつくりだされる。このメカニズムが、反ユダヤ主義とホロコーストの経験と記憶をしっかりと刻んだはずのドイツでいままた反復されようとしている。余所者(よそもの)は「少しくらい満足しておとなしくなるべきではないか」という感覚はすでに一部だけのものではなくなっている。
 一昨年ドイツで上梓(じょうし)された原著は10万部を超すベストセラーとなり、12カ国語に翻訳されているという。移民を排除すべしという主張は、いまや多くの社会で公然と語られるようになり、それは、憤懣(ふんまん)の捌(は)け口を求める需要に応えている。この本がいま広く読まれているのも、多様な諸価値やそれらのハイブリッド(不純)な交流を肯定する規範が明らかに壊れつつあるという危機感ゆえであろう。
 自身も性的マイノリティに属する著者は、文化的、宗教的、性的な多様性のなかでこそ落ち着くことができる、と言う。多様性ゆえの安定、排他的ではない安全性を構築しなおすために、どのような言葉や行為が必要なのか。私たちは「他者を傷つける能力」を併せもつだけに、そしてその能力はたやすく行使されるがゆえに、いかに憎しみに抗するかという問いをおろそかにするわけにはいかない。
    ◇
 Carolin Emcke 67年生まれ。ジャーナリスト。「シュピーゲル」「ツァイト」の記者として世界各地の紛争地を取材。2014年よりフリー。16年にドイツ図書流通連盟平和賞。
*1:2016年2月18日、ドイツのクラウスニッツで、難民の乗ったバスを百人以上の群集が取り囲んで罵声を浴びせ、立ち往生させる事件が起こった。多くは近所のごく普通の住民だったという。その様子はSNSで瞬く間に拡散し、おびえる難民の子どもや、手をこまぬく警官の様子も映っている。それまでのドイツはありえなかったこの事件は、社会に潜む亀裂をあらわにした。[前掲「書誌情報」より引用]

*2:2014年7月17日にニューヨークのスタテンアイランドで警察官が逮捕にあたって禁じられている絞め技で黒人男性エリック・ガーナーを死亡させた事件。(「エリック・ガーナー窒息死事件」>Wikipedia)
1.はじめに
2018年8月末から9月はじめにかけての2週間、ドイツ社会はこの話題に揺れた。[8月26日]東部ザクセン州の都市ケムニッツでおこったある殺人事件をきっかけに、極右勢力が大規模なデモをおこない、街中で外国人を狩りたてて暴行したり、警察や反対する左派勢力と激しく衝突したりしたのだ。
日本でも、この事件は大手マスコミ各社が取りあげた。しかし、それらの報道は事件の概要を断片的に伝えるのみであり、この事件がドイツ社会にあたえた衝撃についても、またこの事件を近年のドイツ社会の動きに対してどのように位置づけるかについても、説明が不足している。……
2.ケムニッツ市記念祭での殺人事件
3.事件をめぐる数々の謎
4.なぜケムニッツだったのか
5.なぜドイツ東部なのか、なぜザクセン州なのか
6.「憂慮する」市民たち
ケムニッツをはじめとする外国人に対する暴力事件は、けっして一部の過激な極右の人間やならず者たちによって引き起こされたのではない。その背後に外国人に敵意を持ち、暴力に参加はしないまでも、それを容認する大勢の市民たちがいる。すでに上述のロストックの事件[*3]の際も、外国人労働者の宿舎が燃え上がると喝采を送った住民がいたし、なかには自宅にあった予備のガソリンを火炎瓶を作るためにネオナチたちに提供した者もいた。……
……難民であれ労働者であれ外国人に対して警戒的な人びとは一定程度いる。彼らは自らを「憂慮するbesorgt」市民たちと呼んでいる。
この言葉は、2018年の夏頃、ケムニッツの事件とちょうど相前後して盛んに取りあげられるようになった。その主張は、「われわれは外国人に反対しているわけではない、しかし……」というフォーマットに集約される。自分たちは人種主義者ではない、しかし今のところドイツには外国人が増えすぎている。このままではうまくいかない。ドイツで暮らすからには最低限われわれのやり方・流儀には従ってもらわねばならない、というわけである。
こうした「憂慮する」多くのひとびとが、数の上では少数である極右勢力によるあからさまな外国人排斥の活動を下支えし、その温床となっているのである。
ドイツの女性ジャーナリストのカロリン・エムケは、ヘイト犯罪に関する著書『憎しみに抗って』(2016年、邦訳みすず書房、2018年)のなかで、2015年夏のクラウスニッツの事件について詳細に分析している。彼女によれば、難民を乗せたバスが同地の収容センターに到着したとき、その行く手を阻んで「われわれこそが国民だ」と叫び、罵声を浴びせたり唾を吐きかける真似をしたのは、およそ100人ほどの住民たちだった。
しかし、エムケによれば、その場には、第2のグループとして大勢の傍観者たちがいた。誰ひとり騒ぎを止めようとせず、その場を立ち去りもしない。傍観者がいることによって、バスのなかにいる人たちに対峙する群衆はその分、数が増えたことになった。彼らの存在は、暴徒たちをさらに勢いづかせることになったとエムケは主張する。「彼らはただそこに立って、わめく者たちを注視する場を形成している。その注視をこそ、わめく者たちは必要とするのだ。自身を『国民』だと主張するために」(同訳書51頁、一部改変)。
エムケによれば、「憂慮する」市民たちは、自分たちは人種差別や極右と一線を画しているように見せかけているが、その仮面の下にあるのは「異質なものへの敵意」である(同訳書38頁)。この考えは、経済的好況の影で格差が広がりつつあることへの不満と結びつき、難民受け入れを進めるメルケル政権に対する批判へと、さらに大手マスコミが事実を伝えていないというメディア批判へとつながっていく。
ドイツ東部には、このようなメンタリティがドイツの他の地域よりも強固に根を下ろしつつある。2017年7-8月の世論調査では、「連邦共和国は外国人によって危険な度合いにまで過剰に外国化(überfremdet)されつつある」という見方に賛成の意見が、ザクセン州では回答の56%にのぼった。62%が「当地で暮らしているイスラム教徒はわれわれの価値を受け入れていない」と考えており、38%が「イスラム教徒の移民を禁止すべきだ」という意見である。
7.極右政党とネオナチの結合
8.ドイツ社会の和解のレジリエンス
現在のドイツでは、「憂慮」に覆い隠されたかたちで他者に対する憎しみが横行しており、それは「権利を奪われ、社会から取り残され、政治的対応からも置き去りにされる人間の集団が生まれる前触れ」ではないのか、とカロリン・エムケは問うている(同訳書40頁)。
あるいはそうなのかもしれない。予断は許されない。しかし、状況はそこまで危機的ではないと思わせる要素もまた存在している。
それは、ドイツ社会には、和解のレジリエンスとも言うべきバランス回復の機能があるからだ。レジリエンスとは、元来は物質が外的な力を受けた際に元に戻ろうとする力を意味し、転じて心理学用語として個人の内面がストレスに抗して回復する能力として用いられていたが、最近では社会の危機的状況や災害からの機能回復や復興をさして使われるようになっている。
1990年代前半以来くり返されてきた外国人に対する暴力事件は、たしかにドイツ社会のなかに大きな傷を開けた。しかし、その傷口をただちに閉じ、苦痛を癒やし、社会の統合を再構築する動きが、随所で即座に自発的に出現するのだ。……
9.レジリエンスの動揺?
ケムニッツの事件に対して、ドイツ社会はこのような和解のレジリエンスを機能させることで、傷口を閉ざし、危機を乗り切ったかに見える。ドイツ社会の統合とコンセンサスはいま一度守られ維持されたのだろうか。レジリエンスは、万能のものとして機能しているのだろうか。
残念ながら、現実はそう簡単ではない。ケムニッツの事件とその顛末には、ドイツ社会のレジリエンスが動揺し変化しつつある兆候を見て取ることが可能である。これは、とくに事件に対する政治家の発言に見て取ることができる。暴力が振るわれたことに対しては、断固たる拒絶の意思を示すものの、外国人への連帯や共生社会への賛成を示す力強い言葉はそこにはほとんど聴かれず、むしろ難民を厄介者扱いし、非難するような発言が目立った。……
10.おわりに――レジリエンスと「憂慮する」市民たちの今後
……「憂慮する」ことが当たり前になりつつあるドイツ社会では、外国人に対する大小の暴力事件は、残念ながら今後も完全にはなくならないだろう。ケムニッツのような感情的な暴発もまた予期されるところである。
しかし、そうした事件のあと、今後も和解のレジリエンスが発動されることもまた確実である。多くの人が自発的に立ち上がり、街頭に出て、あるいはネット上で暴力にノーを叫ぶだろう。多くの抗議声明が出され、評論家は口角泡を飛ばして論じ、政治家は美辞麗句をちりばめた名調子で事件を非難し、今後の再発防止を誓うだろう。
しかし、もしかすると、和解のレジリエンスは、ひとびとの善意と真心を借りて、外国人への暴力事件がひとたびあったとしても、その衝撃を緩和し、社会を何事もなかったかのように修復してしまう魔法の道具、一種の通過儀礼にすぎなくなっていくのかも知れない。そうなれば、やがてはAfDや極右さえ、何食わぬ顔でレジリエンスに参加していくようになるかも知れない。
とはいえ、このようなドイツ社会のレジリエンスのあり方は、何かの事件が起こるたびに、お茶の間の賞味期限が過ぎるまではさんざんにマスコミが取りあげ、プライヴァシーを無視した取材をおこない、面白おかしく報道し、話題を独占しておいて、その後何の反省もなく完全に忘れ去られる社会より、どれほどいいか知れない。それはドイツ市民社会の本領発揮であり、精華である。
(11.2019年3月21日加筆)
2019年3月18日、ドレスデンのザクセン州立裁判所で、ケムニッツ殺人事件の容疑者の裁判が始まった。これをきっかけに、昨年夏の事件はもう一度ドイツ世論の注目を浴びることになった。……
*3:1992年8月にはロストック=リヒテンハーゲンでベトナム人労働者の宿舎が放火され、4日間にわたって警官隊とネオナチが激しい衝突を繰り広げた。

安富歩編訳『超訳論語 革命の言葉』③ 12月21日

安富歩編訳『超訳論語 革命の言葉』エッセンシャル版(ディスカヴァー・トゥェンティワン、2016年)のアマゾンサイトでは同書の「内容紹介」として「序」の、①、②で引用した文章の直前部分が掲載されています。

 危機にこそ、人間の真価がわかる。今この時代に読み直したいまったく新しい「論語」。

 本書は、私自身が、この世界を生きるためのよすがを求めて、論語の言葉の響きを聞き取った、その報告である。
 論語という、二千数百年という時間を越えてこの私に届いた奇跡の言葉には、人々の心を響かせてきた、何かがあるはずだ。
 私はその何かを聞こうとして、多くの知識を蓄えつつ、耳を澄ませてきた。
 その響きを本書ではお伝えしたいと思う。

 もちろん本書は、徹底して客観的たらんとしつつ、同時に、徹頭徹尾、主観的な書物である。
 それゆえ、ここに書かれていることを、決して鵜呑みにしないで頂きたい。
 一つ一つの言葉が、役に立てば役に立て、役に立たなければ、捨てて欲しい。
 そして、論語について何かを誰かに言いたい、と考えたなら、必ず原文に当たり、
 本当に私が聞き取った響きが聞こえるかどうか、読者自ら確認してほしい。
 もし違った響きが聞こえたら、それがあなたにとっての論語なのであり、その響きを大切にして欲しい。
 本書はそのための手がかりに過ぎないのである。(「序」より 著者よりコメント)

※本書が「徹底して客観的たらんとしつつ、同時に、徹頭徹尾、主観的な書物」であるとはどういう意味でしょうか? 
内容紹介で引用されている部分の更に前の部分では、論語の言葉から真実を聞き取るには、二つの方法、客観的な方法と主観的な方法とがある。客観的な方法とは、「二千数百年前の、孔子が生きた時代がどのようなものであったのかを、文献や考古学の資料に基づいて推定し、その上で、論語を資料として読む」方法であるが、この客観的な方法だけで「正確な意味を汲み取る、というのは、人間にはできない相談」、「孔子が言った言葉の本当の意味を客観的に措定することなど、決してできない」。それでも客観的方法には「ある言葉が意味していないことを明らかにできる」ことと、「その言葉が元来意味した内容を明らかにできる」ことを指摘していますが、で引用した部分からも、安富さんの『超訳論語』が客観的方法を十二分に踏まえたものであることが理解出来ると思います。

※アマゾンのカスタマーレビューにある甘凡君さんの「なぜ、革命の言葉なのか」(2019年5月25日)では、この本と著者の選書である『生きるための論語』との併用が勧められ、安富さんの『論語』三部作、『生きるための論語』、『生きる技法』、『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである。 他人に支配されず、自由に生きる技術』を読むと、①現代でどうしたら幸福に生きられるかという問題提起から、論語をどう解釈し直したか、②現代人が幸福を考える上での8要素(1自立、2友達、3愛、4貨幣、5自由、6夢、7自己嫌悪、8成長)に対して、どう考えるかを提示し、③その8要素で、もっともやっかいな自己嫌悪に関して、どう克服するのかの著者の思想(論語をベースにした実践哲学)が述べられているとして、この3冊を読むのがベストとしています。

※仁とは
白川静『字通』(1996年)によれば、字訓に「したしむ・いつくしむ・めぐむ」があり、「初形は人の下に敷物をおく形」「人が衽(しきもの)を敷いている形」で「衽席(じんせき)を用いて人に接することによって親しむ、和むという具体的な行為や事実から、次第に抽象化して「和親・仁愛」の意に展開したものであろうとしています。
仏教語に「一月三舟」(いちげつさんしゅう、いちがつさんしゅう)があって、「一つの月も、止まっている舟、北へ行く舟、南へ行く舟から見るとそれぞれ異なって見えるように、人はそれぞれの立場により仏の教えを異なって受け取るということ」(『デジタル大辞泉』)とされています。仁についてもあれこれと考えていきたいですね。

安富歩編訳『超訳論語 革命の言葉』② 12月21日

安富歩編訳『超訳論語 革命の言葉』エッセンシャル版(ディスカヴァー・トゥェンティワン、2016年)
序より引用。

 「仁」の基礎は「孝」であり、「孝」の基礎は親が子に与える「三年の愛」である。
 「仁」たりうる人は、心の平安を得ている人である。それは自らに対する信頼がなければ不可能である。人が自分を信頼しうるようになるには、幼少期に無条件に「三年の愛」を両親から与えられている必要がある。そうすると、その子もまた自然に両親を愛するようになる。これが「孝」である。それゆえ「孝」が仁の元だ、と言われるのである。
 「孝」は、親から子へと与えられる慈愛を基礎としており、そこから自然に生まれる感情であり、それが社会秩序の基礎となる。親が子供を愛することができず、子供が「孝」とならない社会は崩壊してしまう。「孝」たりえない者が無理に孝行しても、それはやっているフリに過ぎず、そのようなものは、社会秩序の基礎たり得ない。

 「学習」回路を開いている者同士の間でコミュニケーションが成り立つ。
 対話者の双方が学習回路を開いていると、双方は共に学び合いながら成長していく。このようにして達成される調和を「和」という。「和」であることによってはじめて、本当のコミュニケーションは成立する。そのとき、両者のやりとりのありさまを、「礼」にかなっている、と言う。「礼の用は和を貴しとなす」という言葉はこのことを意味している。
 学習回路を閉じた者が、いくら礼儀作法に叶ったことをしても、それは慇懃無礼なだけであって、「礼」とは言えない。「礼」が横溢している場で人々が言葉を発するとき、その言葉に偽りはなく、それぞれの心と一致している。言葉と心とが一致している状態が「信」である。
 君子は「和」を実現する相手とは仲良くするが、誰とでも仲良くするのではない。君子は、学習回路を停止させようとする者には敢然として立ち向かい、悪[にく]むことができる。それゆえ、善人からは好まれるが、悪人からは嫌われる。
 君子は他人と意見を対立させることを恐れず、激しい「乱」を生みだすが、それは「義」にもとづく本気の応答であって、それゆえ最終的に相手と心を通わせて、高次元の「和」を生みだすことができる。

 学習回路の閉じている状態が「悪」であり、そういう者を「小人」と呼ぶ。
 論語では「仁」ではなく、学習回路の閉じている状態を「悪」と呼ぶ。そして君子とは逆に、学習回路が閉じている者を「小人」と呼ぶ。
 小人は情報収集に余念がなく、情報や知識をかき集めて保身をはかろうとする。小人には「道」が見えないので、いくつもの選択肢の中から最適な道を選ぼうとして「惑」う。しかし、自分の選択が本当に最適かどうかは、人間にはわからないので、必然的に怯え、うまくいかないと僻[ひが]んだり、拗[す]ねたりする。自分自身を信じることが出来ないので、常に評価を気にしており、人と自分とを比べようとする。
 君子は過[あやま]てば改めるが、小人はそれができないので、過つと言い訳や隠し事をする。小人は誰か力のある者からひどい扱いを受けると反発ができないので我慢し、腹いせに、弱い者に八つ当たりをする。小人は対立が苦手であって、「乱」をおそれる。それゆえ何らかの記号や意見や形式や規則を共にすることで同調し、「乱」を防ごうとする。これを「同」という。「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」というのはそういう意味である。こういう同調は長続きしないので、やがて亀裂が生じ、小人は仲間を裏切ることになる。これを「盗」という。

 私は、このような論語の思想は、現代のに本社会でなんとなく「正しい」と考えられていることをことごとく否定し、まったく異なった倫理を体系的に提示しているように思える。『論語』は、古臭い保守的な書物ではなく、衝撃的で前衛的な革命の書だと、私には思えるのである。

安富歩編訳『超訳論語 革命の言葉』① 12月21日

安富歩編訳『超訳論語 革命の言葉』エッセンシャル版(ディスカヴァー・トゥェンティワン、2016年)の「序」より安富流論語論。

 私は論語の思想を、次のように捉えている。

 「学習」という概念を人間社会の秩序の基礎とする思想である。
 論語の冒頭は、「学んで時にこれを習う、亦たよろこばしからずや。」という言葉である。この言葉に、論語の思想の全ての基礎が込められている、と私は考える。
 人間にはなにかを学びたい、という好奇心がある。その好奇心によって外部から知識を取り入れても、その段階で自分自身のものになっておらず、そればかりか、とり入れたものに自分自身を譲り渡す格好になっており、「振り回され」ている。
 それが習練を重ねていると、あるときふと、しっかりと自分のものになる瞬間が訪れる。このとき、学ぶ者は学んだことに振り回されるのをやめて、主体性を回復する。これを「習う」という。
 そうなったとき、人は、大きな喜びを感じる。人間は、そういう生き物である。この「学習」のよろこびに孔子は、人間の尊厳と人間社会の秩序との根源を見た、と私は考えている。

 学習回路を開いている状態が、「仁」であり、仁たり得る者を「君子」と呼ぶ。
 このような「学習」の作動している状態が「仁」であり、それができる人を「君子」と呼ぶ。君子は、自分の直面する困難を学ぶ機会と受けとめて挑戦し、何か過[あやま]ち犯せば、すぐに反省して改める。このような学習を通じて変化し、成長するのが、君子のあり方である。
 もちろん君子は、他者の過ちに寛容であり、そこからの学びを促そうとする。しかし世間は往々にして、人間を型に嵌[は]めて「器」として使おうとして圧力を掛けてくる。それに負けて固定した「器」になってしまうと、もはや学習回路を停止し、君子ではなくなってしまう。「君子は器はならず」という言葉はそういう意味である。
 それゆえ君子には、如何なる圧力にも屈しない「勇」が必要である。どんな状況でも、命を脅かされたとしても、自分自身を見失わず、学習過程を守りぬき、自らの心の中心にいる状態が「忠」であり、心のままに偽らない姿が「恕」である。「忠恕」の状態にあるときに、君子の前に進むべき「道」が広がっているので、道の「選択」を迫られることがない。その道を進むなかで見えてくる成すべきことが「義」である。


キツネの交通事故死 12月19日

関越自動車道に並行して走っている道路でキツネが死んでいました。関越道にかかる西本宿4号橋の近くです。高坂カントリークラブの方から4号橋を渡って来て車に衝突したのでしょうか、その逆も?「動物飛び出し注意」の看板が立っています。
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長瀞ライン下り 12月3日

今日は秩父夜祭の大祭。長瀞の舟下りも賑わっていました。今年は12月8日(日曜日)で営業終了です。
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鹿島茂『エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層』 11月13日

鹿島茂さんの『エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層』(ベスト新書543、2017年)を読みました。
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鹿島茂『エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層』
序章 人類史のルール
 エマニュエル・トッドとは何者か
 トッド理論のあらましを知る ~4つの家族類型といでおろぎー~
 トッド理論で世界の謎が解ける ~人類史のルール~

第1章 トッドに未来予測を可能にする家族システムという概念
 ①絶対核家族 「イングランド・アメリカ型」
  トランプ政権誕生は民主主義の理にかなっている
  トランプ当選をもたらした「絶対核家族」
  金銭解決に傾きやすい親子関係
  『リア王』と『ハムレット』は財産をめぐる相続劇
  過剰なグローバリゼイションによる疲弊
  イギリスのEU離脱を促した隠された理由
 ②直系家族 「ドイツ・日本型」
  EUの覇者ドイツ
  イエの支配者としての父親の権威
  東日本大震災でモラルの高さが賞賛された日本
 ③平等主義核家族 「フランス・スペイン型」
  土地よりも家具が大事
  フランス人がおしゃれになった理由
 ④外婚性共同体核家族 「中国・ロシア型」
  大帝国が誕生する条件 ~権威ある父親と平等な兄弟~
  大帝国が崩壊する兆し ~ソ連崩壊と乳児死亡率が語る~
  家族類型とイデオロギーの相関関係

第2章 国家の行く末を決める「識字率」
 トッドの家族理論はこうしてつくられた
 古い様式はいつでも辺境に保存される
 「土地の所有」が家族のかたちを変える
 人の運命はあらかじめ決められているのか?
 歴史を動かす最大の要素「識字率」

第3章 世界史の謎
 ①秦の始皇帝が焚書坑儒を行ったのはなぜ?
 ②ヴァイキングがブリテン島とフランスを襲撃したのはなぜ?
 ③十字軍エルサレム奪還が行われたのはなぜ?
 ④英仏百年戦争が起きたのはなぜ?
 ⑤ルイ14世が中央集権国家を築くことができたのはなぜ?
 ⑥フランス革命が起きたのはなぜ?
 ⑦イギリスで産業革命が起きたのはなぜ?
 ⑧ヒットラーが誕生したのはなぜ?
 ⑨世界初の共産主義国ソ連が誕生したのはなぜ?
 ⑩イギリスが失速し、ドイツがナンバー1になったのはなぜ?
 ⑪第二次世界大戦後、ドイツと日本が復興できたのはなぜ?

第4章 日本史の謎
 ①平安時代に藤原一族が権勢を誇れたのはなぜ?
 ②織田信長が延暦寺を焼打ちしたのはなぜ?
 ③「いざ鎌倉」の精神はどこから?
 ④徳川幕府が250年間も安定したのはなぜ?
 ⑤幕末の動乱が西南の地方から始まったのはなぜ?
 ⑥ヒーロー坂本龍馬が誕生したのはなぜ?
 ⑦海援隊や新選組が誕生したのはなぜ?
 ⑧明治政府が天皇を頂点に置いたのはなぜ?
 ⑨二・二六事件が起こったのはなぜ?
 ⑩太平洋戦争を始めたのは誰か?
 ⑪どんな占領軍でもしなかったのに、マッカーサーだけが行ったのは?

第5章 21世紀 世界と日本の深層
 ①2033年、中国が崩壊する日
 ②ロシアの安定はプーチンが独裁者だから?
 ③EUにとっての移民問題とは?
 ④EUは二つに分けるべきなのか?
 ⑤アメリカ平等主義は見せかけか?
 ⑥アメリカの黒人差別は終わらないのか?
 ⑦アフリカが近代化するためのカギは?
 ⑧最も近代化が遅れるのはイスラム圏?
 ⑨フランスでイスラム系テロが頻発するのはなぜ?
 ⑩日本の核武装の可能性は?
 ⑪日本会議はなぜ誕生したのか?
 ⑫直系家族・日本の人口減少社会に未来はあるのか?

第6章 こらからの時代を生き抜く方法
 現代日本の新たな葛藤
 下流スパイラルはなぜ起こるのか?
 「学歴はもはや収入に結びつかない」に騙されるな!
 日本の唯一の問題は少子化である
 教育費は無料に、そして教育権を親から奪え!
 シングルマザー救済運動のすすめ
 2100年以後の世界 ~幼年期の終焉vs資源の枯渇~

あとがき
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 かつてはモルガン学説のように人類は昔は大家族だったものが時代が経つにつれて核家族に変わってきたと考えられていた。しかし近年ケンブリッジ大学のグループによる調査で、英国では12世紀までさかのぼっても核家族しか見られないことが判明し、人類の家族は最初から核家族だったと主張されるようになった。ところがトッドの調査によりドイツやロシアには昔は複合家族・大家族が存在していたことが分かり、トッドはケンブリッジ大のグループと袂を分かつことになる。
 このようにトッドの学問は家族形態に関するものなのであるが、そのスタートにあったのは別の疑問だった。つまり人類の人口の変遷である。人類は長らく多産多死型社会だったけれど、やがて少産少死型社会へと移行する。ふつうに考えれば、栄養が悪くて医学も未発達だった時代には多産多死型社会になるしかなく、栄養が良くなり医学も発達すれば少産少死型社会に移行するという図式が思い浮かぶ。ところが、実際は少死になってもしばらくは多産のままに社会は続くのだという。その時に人口の大幅な増加が起こるのであり、今でもアフリカはそのような状態にある。
 ではいつ(なぜ)少子化が始まるのか。トッドによれば、子供の数を左右しているのは女性の識字率である。女性の識字率が50%を超えると少子化が始まる。また、男性の識字率が50%を超えると革命や大変革など大きな社会的変動が起こるという。
 さらに、女性識字率を決めるのは、家族システムだという。
 そこで家族システムの話となる。従来は家族というと核家族か大家族かという区別しか考えられていなかったが、トッドはそこに遺産相続システムという要素を導入した。つまり兄弟の平等・不平等ということである。これによって家族は4つのタイプに分類される。
 1.絶対核家族(イングランド・アメリカ型)
 結婚した男子は親と同居せずに独立。相続は1人だけで、兄弟平等ではない。子は早く独立するから親子関係は権威主義的ではない。教育には不熱心(子供の早期独立を促すから)だが、女性の識字率は比較的高い(兄弟の不平等は姉弟・兄妹にとっては平等を生みやすい)。
 2.平等主義核家族(フランス・スペイン型)
 1と同じく子供は早くに独立するが、相続は兄弟間で平等である。親子関係は権威主義的ではない。教育には不熱心で、兄弟が平等である分、女性(姉妹)の地位は低い。
 3.直系家族(ドイツ・日本型)
 結婚した子供の一人(多くは長男)が親と同居するのが原則。親子関係は権威主義的。教育熱心で女性の識字率も高い。
 4.外婚制共同体家族(ロシア・中国型)
 男子は長男・次男を問わず結婚後も親と同居。したがってかなりの大家族となる。父親の権威は大きいが、財産は平等分与なので、父の死後息子たちは独立して家を構える。マルクス・レーニン主義による共産主義国家を生んだのはこの家族型である。教育には不熱心。女性の地位は低く、識字率も低い。
 以上の、例えば4を見れば分かるように、家族の形態は共産主義革命の成否ともつながっており、それだけ大きな、単なる家族類型にとどまらない影響力を持つ、というのがトッドと著者の主張である。また、「そんなこと言っても先進国は今は核家族が主流でしょ」という異議に対しては、こうした家族パターンは、組織を作るときにも影響を及ぼすとされる。つまり社会のあり方そのものを規定しているということである。(後略)
※村山晴彦さんの「エマニュエル・トッド氏の予言(その2)」(京都総合経済研究所『経済TOPICS』2017年1月号から)
 エマニュエル・トッド氏は、世界の家族構成は、大きくは四つの類型に分かれるとしている。親子関係が「権威主義的」か「非権威主義的」か、つまり「子どもが結婚後にも同居する」か「結婚後は別居する」か、ということと、(子である)兄弟関係が遺産相続において「平等」か「不平等」かである。「この二つの変数をX軸Y軸に配すると、一見似たものどうしに見える家族の違いが、すっきりと四つに分類される」という。
 親子関係が「権威主義的」で、(子である)兄弟関係が遺産相続において「平等」なのがロシア、中国、フィンランドなどの外婚制共同体家族である。男子は長男、次男の区別なく、結婚後も両親と同居する。このためかなりの大家族になる。父親の権威は強く、兄弟たちは結婚後もその権威に従う。ただし、父親の死後は、財産は完全に兄弟同士で平等に分割され、兄弟はそれぞれ独立した家を構える。トッド氏は、こうした父親の強い権威と兄弟間の平等がロシア・中国型の共産主義(スターリン型共産主義、一党独裁型資本主義)を生んだと考える。このような家族形態では、男の兄弟は平等でも、女性はそこから排除されるため地位は低く、多くの場合、女性の識字率は低い。教育への関心も低いという。なぜ(子である)兄弟が平等かというと、彼らはもともと遊牧民であったためだという。遊牧民は家畜を伴って草原を移動し、短期間の定着を繰り返すため、父親がリーダーとなり、兄弟が平等で協力することが合理的であった。戦争の際には大人数のため有利であった。遊牧民は土地を持たず、家畜や移動用のテント、家財、武具などが財産のため、分割は容易である。そうであるなら、このような家族形態の中国やロシアが民主主義的な国になる可能性は低いことになる。
 同じように親子関係が「権威主義的」でも、(子である)兄弟関係が遺産相続において「不平等」なのが日本、韓国、北朝鮮や、ドイツ、オーストリア、スイス、ベルギーなどの直系家族である。親の権威は永続的で、親子関係は権威主義的、兄弟は不平等で、財産はその中の一人(多くは長男)に相続される。次男以下と女子は相続に与れないか、財産分与を受けて家を出る。長男の嫁は、未婚の兄弟姉妹に対して権威を持つことが求められるため、結婚年齢が高く、長男とあまり年の差がない女性が選ばれる。なぜ、(子である)兄弟が不平等になるかというと、農耕とそのための土地所有が関係していた。ドイツの例で言うと、ドイツの中南部の地方は山間で、平地が少なく、農地が限られていた。そこで農業を始め二代、三代と続くと農地の分割相続が難しくなる。このため、1000 年頃には一子相続という方法がはじまったという。
 直系家族は教育熱心で、代々施される知育、教育は主として長男の嫁をキーパーソンとして、家庭内に蓄積されてきた。鹿島教授の言葉を借りれば「ドイツが、二度の世界大戦で敗者となり、また、再統一という試練があったにもかかわらず、さして間を置かずにヨーロッパの覇者となりえたのは、直系家族が大切にしてきた教育熱心さ、知識への信頼」にあったという。
 親子関係が「非権威主義的」な形態でも、(子である)兄弟関係が遺産相続において「平等」か「不平等」か、で2つに分かれる。前者が平等主義核家族、後者が絶対核家族である。
 平等主義核家族においては、子どもは早くから独立傾向を示し、結婚後に親と同居することはまずない。親の権威は永続的でないため、識字率は低く、教育への関心も低い。遺産は兄弟間で完全に平等に分けられる。フランスのパリ盆地一体、スペイン中部、ポルトガル南西部、イタリア南部、中南米などがこの家族形態で、ルイ 16 世王政に反対したフランス革命は、平等主義核家族のパリ盆地の民衆が起こした。「人間は生まれながらにして自由かつ法の前で平等である」との人権宣言はこのような家族形態がフランスにあったから実現した。フランスのパリ盆地は肥沃で平坦な地域だが、広大な耕地は領主貴族や大ブルジョワが保有し、農民は小作料を払って土地を借りていた。このため財産としての土地を子に受け継がせることができなかった。そこで農具、工具、家畜、食器、家具、衣服などが遺産として平等に分割された。これらの動産を平等に分割するためのオークションも古くからあったという。フランス人がおしゃれなのも、衣服や靴、帽子などが換金性の高い商品であったことと無縁でないというから面白い。
 親子関係が「非権威主義的」で、(子である)兄弟関係が「不平等」なのが絶対核家族で、イングランド、アメリカ、オランダ、デンマーク、オーストラリアなどがこの形態だという。結婚した男子は親とは同居せず、別の核家族をつくる。このため、親の権威は永続的でない。親の財産は兄弟の中の誰かに相続されるが、遺産などで明確にされないときには相続をめぐってしばしば争いが起きる。不平等が前提のため、競争意識が強く、それが資本主義、自由主義を生み出すエネルギーになった。子供の早期独立が推奨されるため、教育には熱心でなく、識字率も低い。イギリスが生んだ偉大な劇作家・シェイクスピアの「リア王」「ハムレット」「リチャード三世」などが財産相続をめぐる親子、兄弟間の争いをテーマにしているのも絶対核家族ゆえだという。イギリスで産業革命が起き、最初の資本主義国家になったのも、農地を持たない国民が簡単に農村を離れて工場労働者として賃金を得ることに抵抗感がなかったためだという。
 なお、この点は全ての家族形態に言えることであるが、たとえば地方に行けば直系家族が中心かもしれないが、東京に住む核家族の家庭では日本古来の直系家族の原理は働いてはいないのではないかというと、そうではないという。なぜなら、政府、官僚組織、政党、会社、學校、宗教団体、町内会、部活といったあらゆる集団が古くからある価値を保っているからだという。家では核家族でも、一歩外に出れば日本やドイツなどの場合には直系家族を前提にした仕組みや考え方に、ロシアや中国などでは外婚制共同体家族が前提の仕組みや考え方になっているという。
 このような分類を基準にすると、世界で起きている最近の出来事の多くも説明できるという。
 たとえば、アメリカでアングロサクソン系の白人労働者が中南米からの移民と対立し、トランプ大統領が当選したのも説明が可能だという。絶対核家族は教育に対して熱心でなく、低学歴、低収入になる傾向が強い。メキシコなどからアメリカにきた移民の多くはヒスパニックと呼ばれる人たちで、スペイン、ポルトガルの流れをくむ平等主義核家族である。彼らもまた教育に熱心でなく、低学歴、低収入になる傾向が強い。このため、労働市場で両者が完全に衝突してしまった。鹿島教授の言葉を借りれば「絶対核家族に内在する教育不熱心という要因がプア・ホワイトの社会的上昇を妨げ、更なる貧困の連鎖を生んでいるということがトランプ当選の真の理由」だという。
 イギリスのEU離脱も似たような話である。イギリスの白人労働者階級も教育に熱心でなく、移民との競合が起きてしまった。加えてEUは、経済的にも政治的にもドイツに握られている。ドイツは直系家族のためEU議会の運営も直系家族型にならざるを得ない。それは自由を大事にしてきた絶対核家族のイギリスには我慢がならないのだという。
 日本がかつてアメリカとの戦争に突き進んだのも、最近話題となっている「忖度」(そんたく)も直系家族と関係があるという。直系家族は父親に権威があることになっているが、実際には主体的な判断はほとんど行わず、皆が権威者である父親の意をくんで(忖度して)、それぞれがその意を実現する方向に向かって一斉に行動する。日本が太平洋戦争に突き進んだのも、大企業でさまざまな問題が相次いでいるのも、「最終的な意思決定者の不在」「意思決定機関の不能」にあり、「直系家族的組織の欠陥」であるという。
 エマニュエル・トッド氏が説く4つの家族形態にはそれぞれにメリットとデメリットがある。大切なことは、それぞれのメリットとデメリットを正しく理解したうえで、当面するさまざまな課題を考え、解決する際の「考えるツール」として上手く利用していくことではないだろうか。鹿島教授の著書「エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層」は、膨大なトッド氏の研究成果をわかりやすくまとめた好著である。
鹿島茂さんの個人事務所である鹿島茂事務所(株式会社ノエマ)は2017年7月5日、書評アーカイブWEBサイト「ALL REVIEWS(オールレビューズ)(https://allreviews.jp/)」をオープン。
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