202212043

はじめに
1 生きるために食べる
2 朝の屁祭り
3 反省しないで生きる
 3の補論 「反省しないで生きる」を日本人はどう捉えたか
4 熱帯の贈与論
 プナン社会では、与えられたものを寛大な心ですぐさま他人に分け与えることを最も頻繁に実践する人物が、最も尊敬される。そういう人物は、ふつうは最も質素だし、場合によっては、誰よりもみすぼらしいふうをしている。彼自身は、ほとんど何も持たないからである。ねだられたら与えるだけでなく、自ら率先して分け与える。何も持たないことに反比例するかのように、彼は人々の尊敬を得るようになる。そのような人物は、人々から「大きな男」、すなわちビッグ・マンと呼ばれ、共同体のアドホックなリーダーとなる。そうしたリーダーのあり方は、高級なスーツを身にまとったり、高価な時計を腕に着けたり、ピカピカの高級車を乗りまわしたり、平気で公金を私的に流用したりする先進国の(一部の)リーダーたちとなんと違っていることか。(69 ~70頁)
 逆に、彼が個人的な慾に突き動かされるようになり、与えられたものを独り占めして出し惜しみし、財を個人の富として蓄えるようになれば、彼が発する言葉はしだいに力を失っていく。それだけではなく、人々はしだいに彼のもとを去っていく、その時、ビッグ・マンはもはやビッグ・マンではなくなっている。プナンは、ものを惜しみなく分け与えてくれる男性のもとへと集うのである。(70頁)
 ものをもらった時、何かをしてもらった時に、相手に対して感謝の気持ちを伝える「ありがとう」という表現は、プナン語にはない。ふつう、贈り手に対しては、その場では、何の言葉も発しない。他方で、「ありがとう」に相当する言い回しとして、「よい心」という表現がある。それは、「よい心がけ」であると、贈り手の分け与えてくれた精神性を称える表現である。感謝されるのではなく、分け与える精神こそが褒められるのである。
 その意味で、ビッグ・マンは、「よい心がけ」という言い回しによって表わされる文化規範の体現者でもある。熱帯の狩猟民は、有限の自然の資源を人間社会の中で分配するために、独自の贈与論を生み出してきた。(71頁)
 プナンの小宇宙では、こうした持つことと持たないことの境界が無化された贈与と交換の仕組みが深く根を張っていて、貨幣を介して、持ちものやお金をためこもうとたくらんで外部から滲入してくる資本主義をばらばらに解体しつづけているのである。(72頁)
5 森のロレックス
6 ふたつの勃起考
7 慾を捨てよ、とプナンは言った
 個人的に所有したいという慾への初期対応の違い。
 一方は、所有慾を認め、個人的な所有のアイデアを社会のすみずみにまで行き渡らせ、幸福の追求という理想の実現を、個人の内側に掻き立てるような私たちの社会。他方は、個人の独占慾を殺ぐことによって、ものだけでなく<非・もの>までシェアし、みなで一緒に生き残るというアイデアとやり方を発達させてきたプナンの社会。
 プナン社会では、個人的な所有が前提ではなかった。それゆえに、そこでは、概念としての「貸し借り」は、長い間存在しなかったのである。(127頁)
8 死者を悼むいくつかのやり方
9 子育てはみなで
10  学校へ行かない子どもたち
11  アナキズム以前のアナキズム
12  ないことの火急なる不穏
13  倫理以前、最古の明敏
14  アホ犬の末裔、ペットの野望
15  走りまわるヤマアラシ、人間どもの現実
16  リーフモンキー鳥と、リーフモンキーと、人間と
おわりに 熱帯のニーチェたち

 今日のニーチェ
 ニーチェとプナン
 ユニークな趣向の『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のことを教えてくれた』[原田マリル、ダイヤモンド社、2016年]の主人公アリサは言う。「人生は無意味だから、自由に生きてやれというニーチェの言葉に感じたのが真新しさだった。“人生には、生まれてきたことには必ず意味があるから、大切に生きようね”というような言葉は耳にしたことがあったが、無意味だからこそ、自由に生きるという発想は、いままでの私にはなかったからだ」。ニーチェは私たちの常識をひっくり返す。人生は無意味だからどうでもいいと考えるのではなく、力強く、快活に生きなければならないと言う。私たちが「永遠回帰」を生きているのだとすれば、そのニヒリズムを受け入れ、「超人」になるべきだと説く。
 そのように、ニーチェが近代的自我に対して別の生の可能性を提起したのだとすれば、プナンもまたニーチェと同じように私たちに別の生の可能性を示してくれているのだと言える。プナンが日々の暮らしの中で示す振る舞いや態度は、天才的な閃きによって生の本質に迫ろうとしたニーチェの思想に部分的に交差し、それに匹敵するような衝撃を私たちにもたらしてくれる。プナンの生き方は、現代の日本に生きる私たちが、これまであまり立ち入って考えてこなかった事柄を立ち止まって考えてみることを促す。
 私たちは、一生をかけて何かを実現したり、今日の働きで何かが達成されたりすることをひそかに心に描いて働いている。あるいは、現在の暮らしの水準を維持するために働くということがあるかもしれない。ところが、プナンは、これこれのことを成し遂げるために生きるとか、将来何かになりたいとか、世の中をよくするために生きるとか、生きることの中に意味を見出すことはない。生きることに意味を見出すことがないプナンの生き方は、ニーチェのいう「永遠回帰」の思想に通じる。
 永遠回帰とは、あらゆる出来事が永遠に繰り返されることである。それは、第一に、何かをしても何もしなくても、明日には今日と同じ日がやって来て、そのことが永遠に繰り返されることである。第二に、ある一日がどんなにつらい日であっても、いつかは終わりが来ると信じて、その日をやり過ごすことができるが、それには終わりが決して来ないということである。
 プナンは、こうしたぐるぐると繰り返す「円環的な時間」を無意識のうちに生きているのかもしれない。そうだとすればプナンは、向上心や反省心を持ち、人間としての完成に近づいていくという「直線的な時間」を生きている私たちとは異なる時間形式を生きていることになる。「反省しない」ことは、永遠回帰を生きる人々にとっての生きるための技法だったのではあるまいか。(320~322頁)
 熱帯の大いなる正午
 ニーチェは「大いなる正午」[『ツァラトゥストラ』]という比喩を用いて、価値感をめぐる根源的な問いに気づくことの大切さを説いている。それは、「真上からの強烈な光によって物事がすみずみまで照らされ影が極端に短くなり、影そのものが消えてしまった状態」[飲茶『飲茶の「最強!」のニーチェ』水王社、2017年]のことである。「影が消える」とは、世界から価値感がすべてなくなってしまった状況である。「影が見える」から「明るい部分」と「暗い部分」が生じ、「これは善い」「あれは悪い」という善悪の価値判断が現れる。大いなる正午とは、真上から強烈な光に照らされて影の部分がない、善悪がない状態である。
 ニーチェを踏まえて、森の民プナンと暮らして彼らの考えや物事の捉え方を知ることがいったい何であったのかを考えてみよう。「大いなる正午」とは、世界には固定された絶対的な価値感が存在しないということを、体験を通して理解することに他ならない。私にとって、ボルネオ島の森でプナンと一緒に暮らすことは、「大いなる正午」を垣間見る経験だった。それは、「すべての価値感、すべての意味付け、すべての常識が消え去り、何ひとつ『こうである』と言えるものがない世界」に触れることへの入り口だったのではあるまいか。そうだとすれば、人類学とは、別の世界の可能性を、私たちの日常の前にもたらすことによって、私たちの当たり前を問い直してみることや、物事のそもそもの本質的なあり方に気づくという、これまでよく言われてきたこととはやや趣が異なる知的な営為なのではあるまいか。
 剥き出しの自然に向き合う中で、数々の困難を乗り越え、知恵を紡ぎ、物事の見方ややり方を築き上げてきた森の民が示してくれる、現代世界に生きる私たちの生活とは異なる別の生の可能性のようなものは、たしかにあるのだと感じられる。それらは、熱帯の森でデカルトを経由せずに象[かたど]られた自我の振る舞いから構成される。しかしそれらが、私たちのやり方に比べて、善きものであるとか、素晴らしいものであるとか、美しいものであると言うことは一切できない。人類学者がフィールドで暮らしてあれこれ考えてみることは、世界から価値感がなくなってしまう「大いなる正午」に出くわす経験に近いのだ。
 とは言うものの、何ひとつこうだと言えるものがないということに気づき、そのニヒリズムを受け入れたとしても、ニーチェ流に考えるならば、無意味だからどうでもいいといののではなく、何の意味もないのだからむしろ力強く、積極的に考え、そして生きてみなければならないことになるのではないだろうか。過失に対して一切ごめんなさいと言わないことを不思議がるのと同じように、ごめんなさいと次から次へと公的な場で謝る自分を私たちはもっと不思議がってもいいだろう。ありがとうという言葉や概念がないことの背後に謝意を示す仕組みがないことを知りえたのであれば、私たちが使うありがとうの意味をより明瞭にする事もできるだろう。プナンと暮らして考えたもろもろのことは、ニーチェ的に言えば、何ひとつこうであるということができない、あらゆる価値感が消失した世界の発見へとつながっている。だがそれでもやはり、いやだからこそ、それらには、ストレスをためこんで将来に対する言いようもない不安を抱えながらも、自らのうちに閉じ籠もってしまう社会状況に生きていると薄々感じている私たちに届いて、より自由になって考え、力強く、愉しく生きてみるための手がかりが埋もれているのだと感じられてならないのである。(327~329頁)