奥野克巳さんのありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房、2018年6月)を読みました。ボルネオ島のマレーシア・サラワク州ブラガ川上流域で暮らす狩猟採集民プナンの集落での共同生活とフィールドワークから見えてきたこと。豊かさ、自由、幸せとは何かをニーチェの思想にからませて、日本社会のあたりまえを問い直しています。
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はじめに
1 生きるために食べる
 私たち現代人は、食べ物だけでなく、あらゆる必要なものを外臓[体の外側に備蓄]する世界に生きている。そのため、それらの財を交換によって入手するために必要な貨幣を手に入れる手立てをまずは確立せねばならない。その手立てには、人間が生きがいや生きる意味を見出すプロセスが伴ってくる。そこでは、ニーチェが言うように、仕事の悦びなしに働くよりは、むしろ死んだほうがましだと考える人間も出てくる。
 現代に生きる私たちは、生きるために食べるのではない。生きるために食べるために、それとは別個のもうひとつの手続きを踏むことによって生きている。それに対して、狩猟採集民は生きるために日々、森の中に、原野に、食べ物を探しに出かけるというわけだ。(19頁)
2 朝の屁祭り
3 反省しないで生きる
或るいっそう偉大な個人か、たとえば社会・国家という集団的個人かが、個々の人々を屈服させ、したがって彼らの孤立化から引きずり出して一つの団体に秩序づけるとき、そのときはじめてあらゆる道徳性のための地盤が整えられるのである。道徳性には強制が先行する、それどころか道徳性そのものがなおしばらくは、人が不快を避けるために順応する強制なのである。後になるとそれは風習になり、さらに後になると自由な服従となり、ついにはほとんど本能となる。そのときそれは、長い間に馴れて自然のようになったあらゆるものと同様、快と結びついているー―そして今や徳とよばれる。フリードリッヒ・ニーチェ『人間的、あまりに人間的Ⅰ』
 私自身が、プナンのフィールドワークの初期段階で抱えていた違和感のひとつは、「プナンは日々を生きているだけで、反省のようなことをしない」というものだった。私が町で買って持ち込んだバイクを貸すと、タイヤをパンクさせても、何もいわずにそのまま返してくる。バイクのタイヤに空気を入れるポンプを貸すと、木材を運搬するトレーラーに轢かれてペチャンコになったそれを、何も言わずに返却してくる。こうした様々な体験がその違和感に含まれる。
 プナンは、過失に対して謝罪もしなければ、反省もしない人たちだと言うのが、私の居心地の悪さに結び付いていたのである。(39頁)
ここからは私の経験によるあて推量であるが、出来事を悔いたり、やり方について思い悩んだりするというやり取りは、ふつうプナン同士ではしない。ある出来事の未達や間違いを残念であった、悔やんでいると述べるようなことは、たまにあるように思う。しかし、プナンが、「~しなければならない/しなければならなかった」といういい方をすることは、実際にはほとんどない。(49頁)
 言い換えれば、プナン人たちは、「後悔」「残念」という感情を持つけれども、「~しなければならなかった」「~したほうがよかった」という言い回しを用いて、反省へと向かわないようなのである。後悔と反省とは違う。後悔は悔やむことで、反省とは、後悔をベースにして、ああすればよかった、こうすれば適当だった、次回同じようなことがあったらこうしようなどと思いめぐらすことを含む。(50頁)
プナンは、後悔はたまにするが、反省はたぶんしない。なぜ反省しないのか。いや、その問い自体が変なのかもしれない。実は、私たち現代人こそ、なぜそんなに反省するのか、反省をするようになったのかと自らに問わなければならないのかもしれない。しかし、とりあえず今、プナンがなぜ反省しないのか、しないように見えるのかについて考えてみれば、以下の二つのことが考えられる。
 ひとつは、プナンが「状況主義」だということである。彼らは、過度に状況判断的である。その時々に起きている事柄を参照点として行動を決めるということをつねとしていて、万事うまくいくこともあれば、場合によっては、うまくいかないこともあると承知している。そのため、くよくよと後悔したり、それを反省へと段階を上げたりしても、何も始まらないことをよく知っているのである。
 もうひとつは、反省しないことは、プナンの時間の観念のありように深く関わっているのでなないかという点である。直線的な時間軸の中で、将来的に向上することを動機づけられている私たちの社会では、よりよき未来の姿を描いて、反省することをつねに求められている。そのような倫理的精神が、学校教育や家庭教育において、徹底的に、私たちの内面の深くに植えつけられている。私たちは、よりよき未来に向かう過去の反省を、自分自身の外側から求められるのである。しかし、プナンには、そういった時間感覚とそれをベースとする精神性はどうやらない。狩猟民的な時間感覚は、我々の近代的な「よりよき未来のために生きる」という理念ではなく、「今を生きる」という実践に基づいて組み立てられている。(50~51頁)
……私たちは、プナンと違って、日々反省するように動機づけられている。反省することは風習であり、自由な服従であり、本能であり、そして今や徳でもあるのだ。(51頁)
  3の補論 「反省しないで生きる」を日本人はどう捉えたか
 反省することは、果たして、人間に本来的に備わっている思考と行動のパターンなのだろうか。いや、自らを再帰的に振り返るという思考と行動が、ある時から出てきたのだろうか。そうだとすれば、人類は反省することを、いったいどの時期に手を入れたのか。そうした想定が正しいものだとすれば、私たち人間は反省する文化を持つようになったのだと言える。個人的な反省ではなく、集団的な反省のようなものがあって、人類の生存価が高まったのかもしれない。集団が先か、個人が先か、反省とは個的な行為なのか、あるいは社会的な行為なのか。
 私たちはふだん、反省することがいかなることなのかを顧みることなく、何かにつけ反省をしている。私たちは、ある意味息苦しい、反省することの世界の外へいったん出てみることができるのか、できないのか。(62頁)