夕立があった午後5時過ぎ、帰宅途中に2本の虹を見ました。虹は「太陽の光が雨粒の中で屈折・反射して七色に分かれているもの」で、「天気が「晴れ→雨→晴れ」と急変するような場合に虹が出やすい。虹が現れるのは必ず、太陽がある方向の反対側の空。絶好のチャンスである夕立後は、東の空に虹が出る」(【教えたくなる!】虹が現れるために必要な3つの秘密、知っていますか?(『いろは出版』2015年2月2日記事)) といいますが、そのとおりでした。
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難しくいうと、
虹の発生原理は上述のように太陽と観察者と水滴群の三者の位置関係が特定の条件になった場合に観察されます。太陽(光源)は必ず虹を見ている人(観察者)の背後から射しており、虹の円弧の中心は、太陽と観察者を結ぶ直線の延長線上にあります。つまり、空中の水滴群と観察者と太陽(光源)との位置関係は特定の条件で結び付けられており、この相対的位置関係が成り立てば、雨上がりの空以外でも虹は発生することになります。(光と色の話 第一部 第19回 虹の色(『シーシーエス株式会社』)
となります。

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写真にある2本の虹の内、目立つ方の虹は主虹(しゅこう。外側:赤、内側:紫)、外側のうっすらと見える虹は副虹(ふくこう。外側:紫、内側:赤)と呼ばれ、色の順序が逆になっています。主虹と副虹に挟まれた中間の空は主虹の下側、あるいは副虹の上側の空よりも幾分暗く見えます。この暗い領域は「アレキサンダーの暗帯」と呼ぶそうです。


虹の色は何色? 4色・5色・7色・6色  Wikipediaの「の「虹の認識の歴史」、「ニュートンの7色説の権威とその乗り超え」の節をご覧下さい。以下は「ニュートンの7色説の権威とその乗り越え」から引用(脚注番号省略)。

虹の色数は文化の問題とする説:物理学者の桜井邦朋は『考え方の風土』(1979)の中で「虹の色の数にしても、私たちは何の疑問もなしに7と答えられるのに、アメリカでは6としか答えられないことを知ったときには、まさに、文化的風土、言い換えれば思考のパターンなどに反映される知的風土が、彼我で完全に異なるのだという有無をも言わさぬ結論を示されたようで、私にはたいへんなショックであった」と書いている。また言語社会学者の鈴木孝夫は『日本語と外国語』(1990)の中で、欧米での同様な経験をふまえて「欧米では虹は5~6色と思っている人が少なくない」と書いていて、「こういう認識はそれぞれの言語の背後にある文化によってもともと違うと理解した方がいいのだ」と述べた。さらに鈴木孝夫は「日本人にとっては虹の色は昔から七と決まっている。虹と言えば七色、七色と言えば虹というほど、この二つの結びつきは固い。(略)つまり日本文化の中では虹は七と決まっている。(略)このような連続的に存在する対象を、日本人が七つの離散的な部分に分節して分けるのは、多分に言語文化的な慣習のせいと言えよう」とした。生物学者の日高敏隆も「日本では七色の虹がアメリカでは六色になり、ベルギーでは五色になってしまうのは、たいへんおもしろかった」と書いた。


虹の七色はニュートンの影響:このような考えに対して科学史家・科学教育研究者の板倉聖宣は、「日本人の虹は七色だとする常識の方が間違っていて、欧米人の方がまともだ」と批判した。板倉は鈴木孝夫の説を否定し、日本で「虹が七色」と言われるようになったのは、幕末から明治時代初期に欧米の科学が導入されてから以後であることを明らかにした。江戸時代の人々は「紅緑の虹」と書いていたが、それは中国伝来の表記法をそのまま用いたものだった。江戸時代の西川如見(1648-1724)の絵には「紅緑の虹」として4色に彩色されたものがある。江戸後期に宇田川榕庵はニュートンの音階と虹色の対応を翻訳紹介した。明治以後の日本の学校教育では欧米から伝来した自然科学の入門書の「虹の色は七色」という記述に従って教えられることになった。明治初期に輸入され翻訳されベストセラーとなった『理学初歩』にも「虹の色はViolet、indigo、blue、green、yellow、orange、redの七色」と記されていたが、これはアメリカで書かれた入門書であった。 英語圏では虹の七色を覚えるために「Richard of York gave Battle in vain」(ヨークのリチャードの挑戦はむなしかった)という語呂合わせがある。日本でも「せき・とう・おう・りょく・せい・らん・し」と覚える方法があった。日本もアメリカも、その他の近代科学の成果を受け入れた国々なら「ニュートンの虹は七色説」が教えられた。


アメリカでの六色への転換:欧米では1700~1800年代の色彩学者のあいだでは、ニュートンの「虹は七色」説は否定されて、六色説が主流になっていた。明治中頃までには日本の色彩学者の間でも「ニュートンによる虹は七色説は誤りであり、あらゆる面から見て虹は六色とした方がいい」とされていた。日本と欧米の色彩学者の間ではニュートンの権威は決定的なものではなかった。 しかし、1938~49年までのアメリカの小学校理科教科書では虹は7色と教えられていた。それが6色に変わったのはBertha Morris Parkerの『Teaching Manual to accompany』(1941-1944)の影響である。そこには「プリズムを設置して壁に色の帯を映します。それを教科書の虹色の帯の図と壁に映った色帯を比べさせます。」そして「どれか壁の上の色帯に見つけるのが難しい色がありますか?それはどれですか?」と問うようになっていた。そして「インディゴ(藍色)というのはほとんど青や紫と区別がつきませんね」と子どもたちに気づかせる授業を行い、「虹は七色ではなくで六色と考えた方がいい」「七色に見えなくても心配しなくてもいい」と教えるものだった。 アメリカでは1948年以降の教科書にはパーカーの「虹は六色」が受け入れられた。

日本での虹の六色説の受け入れ:第二次世界大戦後に文部省が作った理科教科書はパーカーの単元別教科書をモデルにしていたが、虹は7色として、パーカーらの考えは受け継がなかった。これによって「アメリカでは虹は6色、日本では7色」と別れることになった。日本で「虹は6色」と書いてあるもっとも初期の本は近藤耕蔵の『日用物理学講義』(1917年:大正6年)である。近藤は「スペクトルは6色に大別するがよし」と書いた。近藤の考えは「青と菫の間に藍を入れると、この部分だけ色を細かく分けすぎることになるから、無理に藍を入れずに〈虹は6色〉としたほうがいい」というものだった。しかしその当時物理学者が書いた教科書では虹は6色と書いたものは1冊も無かった。東北帝大の物理学教授で光学を専門にしていた愛知敬一(1880-1923)は啓蒙書の中で「虹は6色」と書いたが、そのすぐ後の記述ではゆらいで「虹は7色」説を繰り返していた。近藤の虹は6色説は、近藤の弟子以外には当時の教育関係者には受け入れられなかった。1942年の啓蒙書でも、霧吹きで作った虹の色を子どもにを数えさせるお話の中で、最初に子どもに「赤、橙、黄色、緑、青、もっと濃い青、紫」と言わせて、大人が「もっと濃い青」を「藍」だと教えて、7色としている。日本でも欧米でもニュートンの権威を乗り越えられたのは、物理学者ではなく色彩学者や技術者、実業教育研究関係の教師たち、科学啓蒙家といった人々だった。日本の分光学の専門家がスペクトルの認識を変えたのは1947年の中村清二『中村物理学・上巻』で、「色の数を数えることはできない」としながらも6色をあげている。1952年ごろまでに6色への転換が行われたが、その当時の検定教科書では大部分が虹は7色だった]。専門家がニュートンの権威を乗り越えても、日本では常識の権威を越えることができなかった。また、日本では早くから虹の教育は小学校の教材ではなくなったため、高校の物理で初めてスペクトルを習うことになり、高校の物理教科書で虹は6色となっていても、その一般常識を変えることが遅れた。