新潟県三島郡越路町[こしじまち](現・長岡市)の『越路町史 別編2 民俗』(2001年3月)の記述③です。下線、[ ]は引用者。

  稲の病害虫(『越路町史 別編2 民俗』) 
  『越路町史 別編2 民俗』 2001年3月
   第1部 戦前の暮らし
   第1章 暮らしの様相
   第3節 人ともの 1 季節と生産活動 (1)田圃と畑の仕事 d 田植えと田の草取り
 以前は、稲の病害虫には手の施しようがなかった。稲の病害虫による発育不全を「ナン(難)が来た」といい、葉が赤くなって立ち枯れの状態を「アケがついた」といった。稲がいもち病(稲熟病)にかかり、稲が枯れて田圃の中に穴があいたり、アケがついて1反に2俵しかとれないという話もあった。こうした稲の害虫は、二化螟虫[にかめいちゅう]とツトムシイナゴなどであった。
 螟虫は、年2回発生する害虫でエムシ(柄虫)といわれ、春に羽化するのが一化螟虫、夏に羽化するのが二化螟虫であり、一化螟虫は、春の田植え後に発生した蛾[が]が稲の葉に産卵し、この幼虫(一化螟虫)が稲の茎に入って稲を枯らした。7月上旬から8月初旬に孵化した二化螟虫は、稲の茎の深部に食い入って稲穂を枯らしてしまった。浦では、毎年、水押[みずおし]・浦谷地[うらやち]辺りが螟虫の害が多く、五百島[ごひゃくじま]・下河原[しもがわら]辺りは比較的に害のなかったところといわれていた。
 螟虫の駆除法は、春、蛾が出ないうちに、わらにおの周囲にいる蛹[さなぎ]を搔き落として撲滅し、夏の二化螟虫退治法は、もっぱら誘蛾灯[ゆうがとう]により蛾を集めて殺す方法であった。誘蛾灯は、竹の3本コウジ(3本の竹の上部を結び、下を開いて立てたもの)を立て、その中央に油土瓶[あぶらどびん]を吊したもので、毎晩当番が油瓶を持って点火に回った。
 田圃に稲の葉を巻くようにして巣を作り、涼しい朝夕に巣から出て葉を食べる、ツトムシ[イイモンジセセリの幼虫名]という害虫がいた。ツトムシは、つぎつぎと葉を巻き付けて、巣が田圃一面に連なり、稲の葉を全部食い尽くす虫であった。そのため、稲の茎だけが残って、秋の稲りは穂のみということになった。ツトムシの駆除は、まだ発生したばかりの頃は、竹の2本股で巣をはねて虫を田の中に落とし、巣を葉から取り除いて、虫の頭を手で潰[つぶ]して、腰に下げた空缶か竹筒に入れた。しかし、この被害が田一面に広がると、これでは効果がないので、トカシグシ(梳かし串)で稲を横に撫[な]でて梳[す]き、巣を壊して虫を落した。トカシグシは、軽い桐の木の棒を、長さ1.2mくらいに切り、両手で棒を握る部分だけを残し、他の部分のすべてに、竹製の鉛筆の両端を削ったような形のものを、横に並べて差し込んだものであった。稲をこの道具で梳くのみでは、巣は壊れても虫は落ちて生きていた。つまり、虫は這[は]い上がってまた巣を作り、結局は毎日虫梳きを繰り返すのみで、盆も休まれないほどであった。
 イナゴも害虫であった。秋のうちに稲株や草の根元に生んだ卵は、春先、雪水に洗い出されて水面に浮かび、塵と一緒に畦端に風で寄せられた。これをざるで掬[すく]って殺した。それでも田植えが終わる頃に孵化[ふか]した幼虫は、食い頃の稲を食べて秋には成虫になった。こうなると葉はもちろん、茎や稲穂まで食べて被害甚大となった。
 駆除方法は、まず、田植え直後にエンゲン豆大の卵を拾い、焼き払うことであった。また、成虫になったら、朝夕の露のある時に飛べないイナゴを捕まえることであった。戦時中は学校の生徒たちが、大きな3升、5升の袋にいっぱい捕えたが、それでも被害は減らなかった。[156~157頁]


(1)年1回発生し卵で越冬する。卵は普通30〜40個ほどの卵塊で産卵される。
(2)6月中〜下旬頃からふ化し始め、幼虫ははじめ畦畔などのイネ科雑草の葉を食べ、次第に水田に侵入しイネの葉を食害する。
(3)幼虫は6令を経て、7月末頃から成虫が出現し始める。幼虫の体色は緑色で、形態の変化はほとんどなく成長し、翅(はね)が生え褐色味を帯びて成虫となる。
(4)水田内の分布は、若令幼虫時は畦畔沿いに多く、4〜5令頃から中央部にも多くなる。
(5)産卵は9月上旬頃から始まり最盛期は9月中〜下旬となる。卵は主に雑草の多い農道や畦畔の地際部に産まれるが、イネの株内にも産む。

※蝗の巣拾い(イナゴの卵とり)→『イナゴの一生 ~つくろうぼくらのイナゴふりかけ~
  長野県学校科学教育奨励金 2003年度交付No1 飯山市立戸狩小学校 1年2組