カロリン・エムケ『憎しみにあらがって ―― 不純なものへの賛歌』(浅井晶子訳、みすず書房、2018年)を読みました。
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人種主義、ファナティズム、民主主義への敵意――ますます分極化する社会で、集団的な憎しみが高まっている。なぜ憎しみを公然と言うことが、普通のことになったのだろう。
多くの難民を受け入れてきたドイツでも、それは例外ではない。2016年には、難民の乗ったバスを群集が取り囲んで罵声を浴びせ、立ち往生させる事件が起こった。それまでのドイツではありえなかったこの事件は、社会に潜む亀裂をあらわにした。
自分たちの「基準」にあてはまらない、立場の弱い者への嫌悪、そうした者たちを攻撃してもかまわないという了解。この憎しみの奔流に飲み込まれないためには、どうしたらいいだろう。
憎しみは、何もないところからは生まれない。いま大切なのは、憎しみの歴史に新たなページを加えることではなく、基準から外れたとしても幸せに生きていく可能性をつくることではないだろうか。
著者カロリン・エムケはドイツのジャーナリスト。自分とは「違う」存在を作りだして攻撃するという、世界的に蔓延する感情にまっすぐに向き合った本書は、危機に揺れるドイツでベストセラーになった。いまの世界を読むための必読書。
   (みすず書房HP「書誌情報」より)
 カロリン・エムケ『憎しみに抗って ―― 不純なものへの賛歌』目次
はじめに
1 可視‐不可視
   恋
   希望
   懸念
   憎しみと蔑視
    1 特定の集団に対する非人間的行為(クラウスニッツ)
   憎しみと蔑視
    2 組織的人種差別(スタテンアイランド)
2 均一 ー 自然 ー 純粋
   均一
   根源的/自然
   純粋
3 不純なものへの賛歌

原註
訳者あとがき
著訳者略歴
※東京大学出版会・白水社・みすず書房の出版情報PR紙「パブリッシャーズ・レビュー」第26号(2018年3月15日号)より
 ドイツでベストセラー
  カロリン・エムケ
   《憎しみに抗って 不純なものへの賛歌》浅井晶子訳
 人道主義、ファナティズム、民主主義への敵意 ―― ますます分極化する社会で、集団的な憎しみが高まっている。なぜ憎しみを公然と言うことが、普通のことになったのだろう。
 こうした現象は、世界中でみられる。多くの難民を受け入れてきたドイツでも、それは例外ではない。
 2016年、ドイツのクラウスニッツで、難民の乗ったバスを百人以上の群集が取り囲んで罵声を浴びせ、立ち往生させる事件が起こった。多くは近所のごく普通の住民だったという。その様子はSNSで瞬く間に拡散し、おびえる難民の子どもや、手をこまぬく警官の様子も映っている。それまでのドイツはありえなかったこの事件は、社会に潜む亀裂をあらわにした[*1]。
 「怒りは、なにものにも守られることなく目だっている者に向けられる」。自分たちの「基準」にあてはまらない、立場の弱い者への嫌悪、そうした者たちを攻撃してもかまわないという了解。この憎しみの奔流に呑み込まれないためには、どうしたらいいのだろう。
 著者エムケは言う。憎しみは、何もないところからは生まれない。なぜ悪むべきかという「理由」は、誰かがつくらないと存在しない。憎しみは、いまに始まったことではなく、じつは長い歴史をもっている。
 いま大切なことは、憎しみの歴史に新たな1ページを加えることではなく、基準から外れたとしても幸せに触れて生きる可能性をつくっていくことではないだろうか。
 著者カロリン・エムケはドイツのジャーナリスト。自分とは「違う」存在をつくりだし攻撃するという、世界的に蔓延する感情にまっすぐに向き合った本書は、危機に揺れるドイツでベストセラーになった。いまの世界を読むための必読書。
   [現代社会・暴力・ポピュリズム](四六判・216頁・3600円)

齋藤純一さんの書評「多様性ゆえの安定、再構築を」から(『好書好日』2018.06.02>『 朝⽇新聞』2018年04月21日)
憎しみに抗って―不純なものへの賛歌 [著]カロリン・エムケ
 このところ「ヘイトスピーチ」や「ヘイトクライム」といった「憎しみ」を含む言葉を耳にすることが多くなった。実際、ネット上では憎悪表現が当たり前のように飛び交っている。その標的とされ、心身に深い傷を被っている人も少なくないはずである。
 ようやくたどり着いたドイツで住民から罵声を浴びせられる難民[*1]、アメリカで警官の暴力的な取り締まりにさらされる黒人[*2]、国境での保安検査で屈辱的な扱いを受けるトランスジェンダー(「自然」とみなされる性別が本人の感覚と合致しない人)。本書が取り上げるのは、何を語ったか、何を行ったのかとはまったく無関係に、侮蔑や憎悪を投げつけられる人々である。
 本書を読んであらためて重要と感じるのは、憎しみを引き起こす原因とそれが向けられる対象の間にはほとんど関係がない、ということである。難民や移民はいわば叩(たた)きやすいから憎しみの標的とされる。彼らをいくら叩いたところで、生活不安がなくなるわけではないのにもかかわらず。人に憎しみの感情を抱かせる原因は複雑で解消しがたい一方、標的の選択は単純で、感情の投射は容易である。
 「彼ら」を締めだせば「われわれ」は安全や豊かさを取り戻すことができる。こうした考え方はなぜ執拗(しつよう)に現れるのか。「同質なもの」、「純粋なもの」は予(あらかじ)め存在せず、「異質なもの」、「不純なもの」を特定し、それを排除することを通じてつくりだされる。このメカニズムが、反ユダヤ主義とホロコーストの経験と記憶をしっかりと刻んだはずのドイツでいままた反復されようとしている。余所者(よそもの)は「少しくらい満足しておとなしくなるべきではないか」という感覚はすでに一部だけのものではなくなっている。
 一昨年ドイツで上梓(じょうし)された原著は10万部を超すベストセラーとなり、12カ国語に翻訳されているという。移民を排除すべしという主張は、いまや多くの社会で公然と語られるようになり、それは、憤懣(ふんまん)の捌(は)け口を求める需要に応えている。この本がいま広く読まれているのも、多様な諸価値やそれらのハイブリッド(不純)な交流を肯定する規範が明らかに壊れつつあるという危機感ゆえであろう。
 自身も性的マイノリティに属する著者は、文化的、宗教的、性的な多様性のなかでこそ落ち着くことができる、と言う。多様性ゆえの安定、排他的ではない安全性を構築しなおすために、どのような言葉や行為が必要なのか。私たちは「他者を傷つける能力」を併せもつだけに、そしてその能力はたやすく行使されるがゆえに、いかに憎しみに抗するかという問いをおろそかにするわけにはいかない。
    ◇
 Carolin Emcke 67年生まれ。ジャーナリスト。「シュピーゲル」「ツァイト」の記者として世界各地の紛争地を取材。2014年よりフリー。16年にドイツ図書流通連盟平和賞。
*1:2016年2月18日、ドイツのクラウスニッツで、難民の乗ったバスを百人以上の群集が取り囲んで罵声を浴びせ、立ち往生させる事件が起こった。多くは近所のごく普通の住民だったという。その様子はSNSで瞬く間に拡散し、おびえる難民の子どもや、手をこまぬく警官の様子も映っている。それまでのドイツはありえなかったこの事件は、社会に潜む亀裂をあらわにした。[前掲「書誌情報」より引用]

*2:2014年7月17日にニューヨークのスタテンアイランドで警察官が逮捕にあたって禁じられている絞め技で黒人男性エリック・ガーナーを死亡させた事件。(「エリック・ガーナー窒息死事件」>Wikipedia)
1.はじめに
2018年8月末から9月はじめにかけての2週間、ドイツ社会はこの話題に揺れた。[8月26日]東部ザクセン州の都市ケムニッツでおこったある殺人事件をきっかけに、極右勢力が大規模なデモをおこない、街中で外国人を狩りたてて暴行したり、警察や反対する左派勢力と激しく衝突したりしたのだ。
日本でも、この事件は大手マスコミ各社が取りあげた。しかし、それらの報道は事件の概要を断片的に伝えるのみであり、この事件がドイツ社会にあたえた衝撃についても、またこの事件を近年のドイツ社会の動きに対してどのように位置づけるかについても、説明が不足している。……
2.ケムニッツ市記念祭での殺人事件
3.事件をめぐる数々の謎
4.なぜケムニッツだったのか
5.なぜドイツ東部なのか、なぜザクセン州なのか
6.「憂慮する」市民たち
ケムニッツをはじめとする外国人に対する暴力事件は、けっして一部の過激な極右の人間やならず者たちによって引き起こされたのではない。その背後に外国人に敵意を持ち、暴力に参加はしないまでも、それを容認する大勢の市民たちがいる。すでに上述のロストックの事件[*3]の際も、外国人労働者の宿舎が燃え上がると喝采を送った住民がいたし、なかには自宅にあった予備のガソリンを火炎瓶を作るためにネオナチたちに提供した者もいた。……
……難民であれ労働者であれ外国人に対して警戒的な人びとは一定程度いる。彼らは自らを「憂慮するbesorgt」市民たちと呼んでいる。
この言葉は、2018年の夏頃、ケムニッツの事件とちょうど相前後して盛んに取りあげられるようになった。その主張は、「われわれは外国人に反対しているわけではない、しかし……」というフォーマットに集約される。自分たちは人種主義者ではない、しかし今のところドイツには外国人が増えすぎている。このままではうまくいかない。ドイツで暮らすからには最低限われわれのやり方・流儀には従ってもらわねばならない、というわけである。
こうした「憂慮する」多くのひとびとが、数の上では少数である極右勢力によるあからさまな外国人排斥の活動を下支えし、その温床となっているのである。
ドイツの女性ジャーナリストのカロリン・エムケは、ヘイト犯罪に関する著書『憎しみに抗って』(2016年、邦訳みすず書房、2018年)のなかで、2015年夏のクラウスニッツの事件について詳細に分析している。彼女によれば、難民を乗せたバスが同地の収容センターに到着したとき、その行く手を阻んで「われわれこそが国民だ」と叫び、罵声を浴びせたり唾を吐きかける真似をしたのは、およそ100人ほどの住民たちだった。
しかし、エムケによれば、その場には、第2のグループとして大勢の傍観者たちがいた。誰ひとり騒ぎを止めようとせず、その場を立ち去りもしない。傍観者がいることによって、バスのなかにいる人たちに対峙する群衆はその分、数が増えたことになった。彼らの存在は、暴徒たちをさらに勢いづかせることになったとエムケは主張する。「彼らはただそこに立って、わめく者たちを注視する場を形成している。その注視をこそ、わめく者たちは必要とするのだ。自身を『国民』だと主張するために」(同訳書51頁、一部改変)。
エムケによれば、「憂慮する」市民たちは、自分たちは人種差別や極右と一線を画しているように見せかけているが、その仮面の下にあるのは「異質なものへの敵意」である(同訳書38頁)。この考えは、経済的好況の影で格差が広がりつつあることへの不満と結びつき、難民受け入れを進めるメルケル政権に対する批判へと、さらに大手マスコミが事実を伝えていないというメディア批判へとつながっていく。
ドイツ東部には、このようなメンタリティがドイツの他の地域よりも強固に根を下ろしつつある。2017年7-8月の世論調査では、「連邦共和国は外国人によって危険な度合いにまで過剰に外国化(überfremdet)されつつある」という見方に賛成の意見が、ザクセン州では回答の56%にのぼった。62%が「当地で暮らしているイスラム教徒はわれわれの価値を受け入れていない」と考えており、38%が「イスラム教徒の移民を禁止すべきだ」という意見である。
7.極右政党とネオナチの結合
8.ドイツ社会の和解のレジリエンス
現在のドイツでは、「憂慮」に覆い隠されたかたちで他者に対する憎しみが横行しており、それは「権利を奪われ、社会から取り残され、政治的対応からも置き去りにされる人間の集団が生まれる前触れ」ではないのか、とカロリン・エムケは問うている(同訳書40頁)。
あるいはそうなのかもしれない。予断は許されない。しかし、状況はそこまで危機的ではないと思わせる要素もまた存在している。
それは、ドイツ社会には、和解のレジリエンスとも言うべきバランス回復の機能があるからだ。レジリエンスとは、元来は物質が外的な力を受けた際に元に戻ろうとする力を意味し、転じて心理学用語として個人の内面がストレスに抗して回復する能力として用いられていたが、最近では社会の危機的状況や災害からの機能回復や復興をさして使われるようになっている。
1990年代前半以来くり返されてきた外国人に対する暴力事件は、たしかにドイツ社会のなかに大きな傷を開けた。しかし、その傷口をただちに閉じ、苦痛を癒やし、社会の統合を再構築する動きが、随所で即座に自発的に出現するのだ。……
9.レジリエンスの動揺?
ケムニッツの事件に対して、ドイツ社会はこのような和解のレジリエンスを機能させることで、傷口を閉ざし、危機を乗り切ったかに見える。ドイツ社会の統合とコンセンサスはいま一度守られ維持されたのだろうか。レジリエンスは、万能のものとして機能しているのだろうか。
残念ながら、現実はそう簡単ではない。ケムニッツの事件とその顛末には、ドイツ社会のレジリエンスが動揺し変化しつつある兆候を見て取ることが可能である。これは、とくに事件に対する政治家の発言に見て取ることができる。暴力が振るわれたことに対しては、断固たる拒絶の意思を示すものの、外国人への連帯や共生社会への賛成を示す力強い言葉はそこにはほとんど聴かれず、むしろ難民を厄介者扱いし、非難するような発言が目立った。……
10.おわりに――レジリエンスと「憂慮する」市民たちの今後
……「憂慮する」ことが当たり前になりつつあるドイツ社会では、外国人に対する大小の暴力事件は、残念ながら今後も完全にはなくならないだろう。ケムニッツのような感情的な暴発もまた予期されるところである。
しかし、そうした事件のあと、今後も和解のレジリエンスが発動されることもまた確実である。多くの人が自発的に立ち上がり、街頭に出て、あるいはネット上で暴力にノーを叫ぶだろう。多くの抗議声明が出され、評論家は口角泡を飛ばして論じ、政治家は美辞麗句をちりばめた名調子で事件を非難し、今後の再発防止を誓うだろう。
しかし、もしかすると、和解のレジリエンスは、ひとびとの善意と真心を借りて、外国人への暴力事件がひとたびあったとしても、その衝撃を緩和し、社会を何事もなかったかのように修復してしまう魔法の道具、一種の通過儀礼にすぎなくなっていくのかも知れない。そうなれば、やがてはAfDや極右さえ、何食わぬ顔でレジリエンスに参加していくようになるかも知れない。
とはいえ、このようなドイツ社会のレジリエンスのあり方は、何かの事件が起こるたびに、お茶の間の賞味期限が過ぎるまではさんざんにマスコミが取りあげ、プライヴァシーを無視した取材をおこない、面白おかしく報道し、話題を独占しておいて、その後何の反省もなく完全に忘れ去られる社会より、どれほどいいか知れない。それはドイツ市民社会の本領発揮であり、精華である。
(11.2019年3月21日加筆)
2019年3月18日、ドレスデンのザクセン州立裁判所で、ケムニッツ殺人事件の容疑者の裁判が始まった。これをきっかけに、昨年夏の事件はもう一度ドイツ世論の注目を浴びることになった。……
*3:1992年8月にはロストック=リヒテンハーゲンでベトナム人労働者の宿舎が放火され、4日間にわたって警官隊とネオナチが激しい衝突を繰り広げた。