安富歩編訳『超訳論語 革命の言葉』エッセンシャル版(ディスカヴァー・トゥェンティワン、2016年)
序より引用。

 「仁」の基礎は「孝」であり、「孝」の基礎は親が子に与える「三年の愛」である。
 「仁」たりうる人は、心の平安を得ている人である。それは自らに対する信頼がなければ不可能である。人が自分を信頼しうるようになるには、幼少期に無条件に「三年の愛」を両親から与えられている必要がある。そうすると、その子もまた自然に両親を愛するようになる。これが「孝」である。それゆえ「孝」が仁の元だ、と言われるのである。
 「孝」は、親から子へと与えられる慈愛を基礎としており、そこから自然に生まれる感情であり、それが社会秩序の基礎となる。親が子供を愛することができず、子供が「孝」とならない社会は崩壊してしまう。「孝」たりえない者が無理に孝行しても、それはやっているフリに過ぎず、そのようなものは、社会秩序の基礎たり得ない。

 「学習」回路を開いている者同士の間でコミュニケーションが成り立つ。
 対話者の双方が学習回路を開いていると、双方は共に学び合いながら成長していく。このようにして達成される調和を「和」という。「和」であることによってはじめて、本当のコミュニケーションは成立する。そのとき、両者のやりとりのありさまを、「礼」にかなっている、と言う。「礼の用は和を貴しとなす」という言葉はこのことを意味している。
 学習回路を閉じた者が、いくら礼儀作法に叶ったことをしても、それは慇懃無礼なだけであって、「礼」とは言えない。「礼」が横溢している場で人々が言葉を発するとき、その言葉に偽りはなく、それぞれの心と一致している。言葉と心とが一致している状態が「信」である。
 君子は「和」を実現する相手とは仲良くするが、誰とでも仲良くするのではない。君子は、学習回路を停止させようとする者には敢然として立ち向かい、悪[にく]むことができる。それゆえ、善人からは好まれるが、悪人からは嫌われる。
 君子は他人と意見を対立させることを恐れず、激しい「乱」を生みだすが、それは「義」にもとづく本気の応答であって、それゆえ最終的に相手と心を通わせて、高次元の「和」を生みだすことができる。

 学習回路の閉じている状態が「悪」であり、そういう者を「小人」と呼ぶ。
 論語では「仁」ではなく、学習回路の閉じている状態を「悪」と呼ぶ。そして君子とは逆に、学習回路が閉じている者を「小人」と呼ぶ。
 小人は情報収集に余念がなく、情報や知識をかき集めて保身をはかろうとする。小人には「道」が見えないので、いくつもの選択肢の中から最適な道を選ぼうとして「惑」う。しかし、自分の選択が本当に最適かどうかは、人間にはわからないので、必然的に怯え、うまくいかないと僻[ひが]んだり、拗[す]ねたりする。自分自身を信じることが出来ないので、常に評価を気にしており、人と自分とを比べようとする。
 君子は過[あやま]てば改めるが、小人はそれができないので、過つと言い訳や隠し事をする。小人は誰か力のある者からひどい扱いを受けると反発ができないので我慢し、腹いせに、弱い者に八つ当たりをする。小人は対立が苦手であって、「乱」をおそれる。それゆえ何らかの記号や意見や形式や規則を共にすることで同調し、「乱」を防ごうとする。これを「同」という。「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」というのはそういう意味である。こういう同調は長続きしないので、やがて亀裂が生じ、小人は仲間を裏切ることになる。これを「盗」という。

 私は、このような論語の思想は、現代のに本社会でなんとなく「正しい」と考えられていることをことごとく否定し、まったく異なった倫理を体系的に提示しているように思える。『論語』は、古臭い保守的な書物ではなく、衝撃的で前衛的な革命の書だと、私には思えるのである。