安富歩編訳『超訳論語 革命の言葉』エッセンシャル版(ディスカヴァー・トゥェンティワン、2016年)の「序」より安富流論語論。

 私は論語の思想を、次のように捉えている。

 「学習」という概念を人間社会の秩序の基礎とする思想である。
 論語の冒頭は、「学んで時にこれを習う、亦たよろこばしからずや。」という言葉である。この言葉に、論語の思想の全ての基礎が込められている、と私は考える。
 人間にはなにかを学びたい、という好奇心がある。その好奇心によって外部から知識を取り入れても、その段階で自分自身のものになっておらず、そればかりか、とり入れたものに自分自身を譲り渡す格好になっており、「振り回され」ている。
 それが習練を重ねていると、あるときふと、しっかりと自分のものになる瞬間が訪れる。このとき、学ぶ者は学んだことに振り回されるのをやめて、主体性を回復する。これを「習う」という。
 そうなったとき、人は、大きな喜びを感じる。人間は、そういう生き物である。この「学習」のよろこびに孔子は、人間の尊厳と人間社会の秩序との根源を見た、と私は考えている。

 学習回路を開いている状態が、「仁」であり、仁たり得る者を「君子」と呼ぶ。
 このような「学習」の作動している状態が「仁」であり、それができる人を「君子」と呼ぶ。君子は、自分の直面する困難を学ぶ機会と受けとめて挑戦し、何か過[あやま]ち犯せば、すぐに反省して改める。このような学習を通じて変化し、成長するのが、君子のあり方である。
 もちろん君子は、他者の過ちに寛容であり、そこからの学びを促そうとする。しかし世間は往々にして、人間を型に嵌[は]めて「器」として使おうとして圧力を掛けてくる。それに負けて固定した「器」になってしまうと、もはや学習回路を停止し、君子ではなくなってしまう。「君子は器はならず」という言葉はそういう意味である。
 それゆえ君子には、如何なる圧力にも屈しない「勇」が必要である。どんな状況でも、命を脅かされたとしても、自分自身を見失わず、学習過程を守りぬき、自らの心の中心にいる状態が「忠」であり、心のままに偽らない姿が「恕」である。「忠恕」の状態にあるときに、君子の前に進むべき「道」が広がっているので、道の「選択」を迫られることがない。その道を進むなかで見えてくる成すべきことが「義」である。