新潟・中越地方は全国有数の地滑り地帯です。長岡市山古志地区には水を張った棚田(養鯉池)が続いていました。
6月17日に撮影した写真です。2004年10月23日に発生した中越地震から11年8ヶ月たちました。地震発生時の人口は2,167人、翌年、長岡市と合併し、今年6月1日現在の人口は1067人です(『ガバナンス』2016年7月号、144頁)。
対談:棚田と米と文化財(田村善次郎+真島俊一)から
小千谷市錦鯉の里で撮影
6月17日に撮影した写真です。2004年10月23日に発生した中越地震から11年8ヶ月たちました。地震発生時の人口は2,167人、翌年、長岡市と合併し、今年6月1日現在の人口は1067人です(『ガバナンス』2016年7月号、144頁)。
対談:棚田と米と文化財(田村善次郎+真島俊一)から
(真島)……棚田は棚田だけを単純に見ていてはわかりません。棚田が村全体にとってどういうふうに必要であったかを理解していないと、棚田のことはわからない。例えば、周りに落葉林や竹林があるのはなぜか、その意味がわからないと、棚田を理解したことにはならないわけです。今となっては村の竹林を誰が植えたか忘れられているが、竹の再生力は見事で、食用やたくさんの民具の材料になる。棚田へ水を引く樋、稲のハザ木、ザル、ミノなどの農具になる。村の周りにある樹林に何一つ無用なものはないのです。こうした棚田の村全体の構造は、時間をかけないとなかなか見えてこない。
村全体を見ていく一方で、技術的に見ていくことも必要です。棚田はたくさんの部分の集積であるからです。…【石垣、土坡】…もう一つ棚田を技術的に調べるうえで重要なことは、水をどう使っているかということです。それも調べる。
そうやって次々に調べていくと、どうやら棚田というのは一気にできたものではなくて、少しずつ土地の条件に合わせて、可能な限り時代の技術でつくり続けてきた。その重なりを今、僕たちは見ているのだということがわかってきます。(百の知恵双書001『棚田の謎 千枚田はどうしてできたのか』(田村善次郎・TEM研究所、CM出版発行、農文協発売、2003年)69~170頁)
(田村)……千枚田といわれるようなかなり規模の大きい棚田は全部いっぺんにできたわけではないですから、やはり拓きやすい、水の得やすいところから始めて、ある時期にかなり集中的に労力を投入して、水利を整理して広げて言ったのでしょう。あまり細かく調べてはいないけれども、新潟の山古志はおもしろいところですね。長岡市、小千谷市は錦鯉の生産が盛んなところです。錦鯉が初めて出現したのは19世紀前半(江戸時代の文化・文政のころ)、新潟県の二十村郷(にじゅうむらごう。長岡市太田、山古志、小千谷市東山、川口町北部の一帯)で、食用として飼われていた鯉に突然変異で色のついた「変わりもの」が現れたのが最初といわれています。その後、研究と改良が重ねられ、 現在のような見事な観賞魚となりました。
(真島)あそこはすごい千枚田ですね。
(田村)棚田ばっかりでね。水の湧くところは、山のいちばん上でなくて、ちょっと下がったところですね。そこに横穴を掘って、ちょろちょろ流れる水を小さい池をつくっていったん溜めてから下の田んぼに配る方法が多いようです。おそらく最初は横穴も何もなくて、水の湧くところに、少し何枚かつくっていたのだと思います。それを少しずつ増やしていったのでしょうね。……
山古志の田んぼを見たときに、最初はそういうふうにして、みんなシコシコつくっていって、その集積が千枚田の風景なんだろうと思いました。その後、横穴を掘って水路を引き、池に溜めてという、ある程度組織的な拓き方をする時期が訪れたのでしょう。
(真島)水の湧くところというのは、山の中腹ですね。いちばん上には湧かない。いちばん下に湧くところもあるけれど、それでは田んぼをつくれない。
(田村)だから、棚田の場合は水の湧くところから下に拓いていったものが、比較的多いのではないかという感じがしますね。(『同上』171頁)
小千谷市錦鯉の里で撮影