北條清一『武州このごろ記』(日本公論社、1935年7月発行)の122頁~124頁に収録されています。目次では、「田村麿の悪蛇退治(小谷野忍海氏)」となっていますと( )がついています。小谷野さんに取材した記事で、『東京日々新聞』埼玉版の一千字訪問シリーズに掲載されたものと思われます。見出しは悪蛇ですが、本文では悪龍です。「蛇」、「龍」、「龍蛇」もあるかもしれません。
   田村麿の悪蛇退治
 比企郡松山町在の岩殿山の千手観世音菩薩は、坂東十番の霊所である。春全山は新緑の粧ひをこらして、つつじが満開である。山の頂に佇んで眺むれば、真澄の空に関八州を一望し、脚下には新緑と真紅のつつじが溶け合って美観この上なし。
 この岩殿山麓を中心に、比企、横見、入間、高麗川、秩父地方に亘る方二十里ほどの部落では、毎年六月一日軒下に焚火をして、道行く人に『おあたりなさいまし……』といふ古い習慣が遺ってゐるといふ。セルか単衣の着物の肌に汗を覚えようといふ季節に、火を焚いて、おあたりなさいましといふ習慣は珍無類であるが、この伝説について、岩殿山正法寺住職小谷野忍海師は次のやうに語る。
 桓武天皇十年[790年、延暦九年]奧州の逆徒高丸を征伐に坂上田村麿が征夷大将軍として、軍卒を引き具して東国に進軍する途中、岩殿山の麓に差しかかった。ところが、この辺に悪龍が棲み土民に危害を加へたり、夏日に氷雪を降らすかと思へば、厳冬の候に雷雨を呼び起し、或は大風砂石を降らすといふやうに、農民を悩ましてゐた。これを聞いて田村麿は、岩殿山西方一里、今の笛吹峠に陣を張り付近の地理を究めて二夜を明かし、軍勢を繰出して山野を跋渉すといへども、天をかけるか地に潜んだか、悪龍は影も形も見せない。万策つきて岩殿山に上り千手観世音に詣で『我勅命を奉じて悪龍を退治せんと思へども、悪龍通力自在にして姿を見せず、眼に見ゆるものはいかなる強敵といへど、わが武術をもって征伐すべけれど、眼を遮るものは凡力をもって如何ともなし難く、願はくば大悲の神力をもって、われに君命をふづかしめ給ふな』と夜を徹して祈念した。暁の明星の出るころに一人の高僧現れ『明旦必ず神力により瑞相を示すであらう、夢疑ふ勿れ』といって、高僧の姿は煙の如くに消えてしまった。
 さてその翌日は、六月だといふのに忽ち指の千切れさうな寒さが襲来して、卯の刻から巳の刻にかけて一尺余も雪が積った。緑の山々は、忽ちにして白皚々[はくがいがい]の冬の山と化してしまった。田村麿はこれ大悲擁護の奇瑞と打ち喜び、士卒をはげまして岩殿山上より西方に眼を配れば、北の方に當って悪龍が姿を現はしたので、田村麿は南無観世音菩薩と念じながら、一殺多生の義箭[ぎせん]を放って、遂に悪龍を退治した。この悪龍の長さは二十余尋[ひろ]あったといふ。
 かくて田村麿は、付近農民の感謝に送られて東国指して出発した。村民は軒に火を焚いて田村麿将士を労を犒[ねぎら]ひ『おあたりませう』といったものだといふ。
※6月1日の行われる「ゲツアブリ」については、『嵐山町Web博物誌』7巻2章3節の「4.ケツアブリ」をご覧下さい。