油屋さんに15日の切干し大根・豆腐づくりの打合わせに行った時、子供の頃(戦前、1930年代)近くに豆腐屋さんがあって買いに行っていたという話がでました。その頃は、どこの家でも、味噌や醤油は自家製でした。醤油は仕込んでおいたものを、高坂や鶴ヶ島の方から醤油屋さんが来てしぼってくれました。

岩殿観音の門前、参道の家々には家号の標札が出ています。その中に「豆腐屋」がありました。「支那事変ころまで豆腐屋を營業していたが、その後参詣者の減少や食糧難などのために廃業した」とあります(『比企岩殿観音とその門前町』埼玉県立博物館、1993年、40頁)

人里離れた不便な土地のたとえとして「酒屋へ三里、豆腐屋へ二里」ということばがありますが、江戸時代の川柳「ほととぎす自由自在にきく里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里」の一節です。『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「豆腐屋屋」の項には、「豆腐造り職人(豆腐師)が豆腐を製造し商う店。豆腐が庶民の食品となるにつれて、15世紀には女性の露天での豆腐売りが現れた。豆腐造りもそのころは専業化していたものであろう。17世紀には店売りが始まった。油揚げをつくるものもあった。18世紀には都市ばかりでなく周辺の村落にもできた。男性の、半切桶(はんきりおけ)に入れて天秤(てんびん)棒で担ったり、女性の、半切桶を頭上にのせたりする振り売りもあった。店売りと振り売りは今日も同じである。らっぱを吹いての担い売りは19世紀終わりごろからという。[遠藤元男]」とあります。振り売りの豆腐屋さんを詠んだものに、「豆腐屋は時計のように回るなり」、「豆腐売り貧乏寺の時計也」、「豆腐売り此秋の日を三度ずつ」などもあります。毎日、きまった時刻に豆腐屋さんが売りに来ていました。

江戸時代の豆腐料理書『豆腐百珍』が出版されたのは天明年間(1780年代)でベストセラーになりました。岩殿の豆腐屋さんの創業の年代はわかりませんが、江戸時代、坂東札所の巡礼者たちも、十番岩殿観音で門前の茶屋や旅籠で豆腐料理を食べていたのではないでしょうか。

※現代の豆腐百珍:『とうふ百珍2014』(相模屋HP)
 明治22年(1889)に出版された『豆腐百珍:手軽料理』(国立国会図書館近代デジタルライブラリーで公開)