定例作業日。佐飛さん、細川さんと、11月18日に岩殿C地区から運んできた黒ダイズの脱穀をはじめました。棒で叩いたりして、莢(さや)から実を取り出しました。お昼はウドンを作って食べました。
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※府県のダイズ作は間作、畦畔、混作で手作業が主だった
「我が国におけるダイズ栽培の変遷は北海道と府県とでは大幅に異なる。北海道は1年1作として当初から、全面耕起-整地ー作畦ー施肥ー播種ー管理作業ー収穫(刈取り)ー脱粒ー調製といった作業体系で、人力と畜力利用の機械化で行われていた……
 府県のダイズ作はムギ間作やムギ刈り後の畦を利用した栽培および水田畦畔栽培や夏作物の間混作などで、播種、除草、中耕、培土、収穫、調製のいずれも手作業が主で機械の利用は一部にすぎなかった。……」(『農作業学』農林統計協会、1999年、200頁)

※ウツギの花が咲くころが蒔き旬(まきしん)、虫おくり

『新田町誌第5巻 特集編新田町の民俗』1990年、222~223頁
大豆……まきつけは、ウツギの花が花ざかりのころが旬。六月に小麦のさくの間にまく。手入れは除草くらい。収穫は十月の末。とってきて、逆さにして、天日に乾してから、棒でたたきおとした(木崎)。大豆は畑につくった(生品)。
 五月の上旬、ウツギの花の咲くころにまきつけ。収穫は稲刈り時分で、十月末から十一月のはじめにかけて(市野井)。
 むかし、盆がら(盆送りの翌日)に、虫送りをした。寺の庭にあつまって、数珠をまわした。昼間の行事で、「豆の虫を送るよ。豆の虫を送るよ」といいながら、数珠をまわした。大豆につく、ホウジャク退治のためにしたものだが、大豆をつくらなくなってやめになった(金井)。
 大豆は、五月の八十八夜から九十九夜のあいだにまいた。あまり早くまくと霜にやられるといった。収穫は十月の下旬のころ。根こぎにして、畑に干しておいて、さやがはねるころに、うちへ持ってきて、ふり棒でたたいた。それを唐箕でごみをふるいわけて、箕でころがして大豆をえりわけた。大豆は空缶に入れて保存した。普通は自家用だった(嘉祢)。

※サクヤブリ
『安中市史第3巻 民俗編』1998年、162~163頁
大豆 昔は、食用、味噌(後に醤油)の原料として大豆を必ず収穫した。
 大豆は、地力を消耗しない作物で、根につく根りゅう菌の力で地力を回復するので田んぼに蒔いて、田植え前に青刈りで鋤き込むこともある。
 田植え前に畑に蒔くが、小麦畑のサクイレとしてやることもあった。間隔を決めて、二粒ずつ蒔く。
 一部の家では、タノクロ(畦)に蒔いた。
 発芽後十日ごとに中耕と除草をかねて二・三回ほど草むしりをする。サクを切って根元に土をかけてやる。
 害虫のホウジャクやコガネムシなどが葉を食い荒らすが、虫捕りはしなかった。
 秋、葉が落ちると引き抜いて、逆さにして幾つかの豆の木で支え合うように立てて乾燥させる。乾燥したものを家に運び、時期をみてネコ(大きい莚)の上に広げ、棒で叩いて脱穀し、唐箕にかけて選別して、保存した。自家用である。
 マメ畑には、よくトウモロコシを蒔くことがあった。この時は、サクヤブリ、またはヨコガミヤブリに蒔く。それは、麦のサクを横切るようにして大豆種を蒔いたからの名称であろう。

※大豆はコサマメ
『伊勢崎市史 民俗編』1989年、361頁
 市域で作られてきた豆類としては、大豆、小豆、ササゲ、ウズラマメなどである。上植木間之原で単に豆といえば大豆のことである。大豆も小豆も五月ころに蒔くが、小豆については「ウツギの花ざかりが蒔きシン(旬)」と言い習わされている。どこでも、収穫は大豆が十一月、小豆が九月末から十月にかけて、ササゲとウズラマメが七月である。大豆のことを、馬見塚でコサマメという。コサとは日陰になる場所をさす言葉である。大豆はコサのような条件の悪い所でも収穫できるためで、「大豆は半コサでもよい」などと言った。

※柿の葉に鳩が隠れるくらいの時が蒔き旬(まきしん)
『鹿沼市史 民俗編』2001年、259頁
 大豆は、畑の周りや、水田のあるところでは田のヨセ(畦畔[アゼクロ]のこと)に作った。麦を刈り取った後の畑で、そのカボツ(切り株のこと)に沿って播き付ける人もあった。また、木を伐採して日当たりのよくなった山の斜面で大豆を栽培することも盛んに行なわれた。木の切り株の周りは土が柔らかく草も少なかったので、そのようなところに種を散らしておくと、大豆がよく育ったという。播種は六月中旬が盛りで、西大芦では「柿の葉がほき出して、枝にとまった鳩が隠れるくらいの時」が大豆の播き付けにはよいといわれる。収穫は、早生や晩生によっても差があるが、大体、秋彼岸過ぎから十月中旬にかけて行なった。