『新編 高崎市史 民俗編』(高崎市、2004年3月)72頁~76頁にある水田の呼称。地名(小字名)になっているものもあります。
ヒッコシダ(引っ越し田):水が周囲の田から滲み出すなどして自然と流れ込み、水が引っ越す田
カゴッタ(籠田):水はけがよすぎて、水を入れてもすぐ抜けてしまう田
テンスイダ(天水田):天水(雨)に頼らないと田植えも出来ない田
ヤツダ(谷田)・ヤチッタ・ヤツッタ:丘陵部の谷の田
ヒエタ(冷田)・ヒエッタ:冷たい水の掛かる田
シケッタ(湿気っ田):低湿な田
ヒドロ・ヒドロッタ:周囲から水が差して常にじくじくと水がある湿田
天水田(『新編 高崎市史 民俗編』73頁~74頁から引用)
市域の各地に天水田あるいは単に天水(てんすい)と呼ばれる田が存在する。天水というのは天からの水、すなわち雨のことで、天水田は、用水量が不安定で降雨に頼らないと田植えもできない水田のことである。寺尾町舘では、天水に対して河川を堰き止めて揚げる用水を「上水(じょうすい)」といって区別していた。
丘陵部にある舘の天水田は、ヤツと呼ばれる谷の沢水を簡単な施設によって引き入れている田であった。少しでも用水量を確保するために、谷水を集めるツツミ(堤)と称する小規模な溜池を造った。同じく丘陵部にある鼻高町(はなだかまち)上鼻高でも、やはり谷にあった水田が天水と呼ばれ、「おてんとうさま次第」で大雨が降らないと田植えができなかったという。ここでも用水不足を補うためにツツミが造られていた。……(中略)
市域の天水と呼ばれる水田は、谷の沢水、湧き水、規模の小さい河川など、その用水源はさまざまであるが、水量の不安定さと降雨への依存度の大きさから「天水」という共通した名称が付けられていたのである。
ヤツダ(『新編 高崎市史 民俗編』74頁~75頁から引用)
用水量が不安定な天水は、大きな河川を堰上げた水を引くことができない丘陵地の谷筋に多くあった。ヤツ(谷)の水を引く丘陵地の水田はヤツダと呼ばれた。寺尾町舘、鼻高町の天水田はいずれもヤツダであり、山名町の丘陵部山の上にもヤツダがあった。谷を流れる沢の水は、水量が不安定な上に水温も低かった。直接、田の水口から稲に掛けると、半分くらいの稲に実が入らなくなってしまう。そのため、田のクロ(畦)に沿った内側に土手をつけてヒエボリという溝を作り、そこに沢水を通して水温を上げてから稲に掛けた。冷たい水が掛かる田はヒエッタ(冷え田)とも呼ばれる。
しかし、ヤツダは丘陵部の谷筋にだけあるとは限らない。倉賀野町西部の粕川やそこに流れ込む川沿いの深く窪んだところもヤツと呼ばれ、ヤツにあった水田はヤツダと呼ばれた。裏作の麦は作れたが、低温でシケッタ(湿気っ田)だったといい、土地の価格も低かった。
湧き水を伴う水流沿いの水が滲みて湿気った田もヤツダと呼んだ。市域北部の行力町にもヤチッタとかヤツッタと呼ばれる田があった。行力町では湧き水が弁天池と呼ばれる池を作っていたが、そこから流れ出る水路の近くに水が滲みて湿気った田があり、これたヤチッタであった。土が重く、作業しづらい田だった。また、弁天下りと呼ばれる弁天池から流れ出る水は水温が摂氏16度程度と冷たく、やはり水田の畦の内側に稲一株分の水路を作り、そこに水を通して温めた。これをマワシミズ(廻し水)といい、そうしないと、「アオサに立つ」といって稲が肥料を吸収せずに、青いままで実が入らなかった。
貝沢町では道木堀という水路が清水と呼ぶ湧き水があり、周囲から水が差してヤチ(谷地)のようだったといい、その水が掛かる字八反田の水田は湿田で、「ヤチッタみたいなものだ」といわれていた。ここも地価が低かったという。
※岩殿の谷津田で「ヒエボリ」「マワシミズ」というような田んぼに入る水を温めるための溝を掘っていたところがあったのか、農家に尋ねてみましょう。「ツツミ」と呼ばれる溜池の大きさはどの位なのでしょうか。現地で確かめたいものです。
ヒッコシダ(引っ越し田):水が周囲の田から滲み出すなどして自然と流れ込み、水が引っ越す田
カゴッタ(籠田):水はけがよすぎて、水を入れてもすぐ抜けてしまう田
テンスイダ(天水田):天水(雨)に頼らないと田植えも出来ない田
ヤツダ(谷田)・ヤチッタ・ヤツッタ:丘陵部の谷の田
ヒエタ(冷田)・ヒエッタ:冷たい水の掛かる田
シケッタ(湿気っ田):低湿な田
ヒドロ・ヒドロッタ:周囲から水が差して常にじくじくと水がある湿田
天水田(『新編 高崎市史 民俗編』73頁~74頁から引用)
市域の各地に天水田あるいは単に天水(てんすい)と呼ばれる田が存在する。天水というのは天からの水、すなわち雨のことで、天水田は、用水量が不安定で降雨に頼らないと田植えもできない水田のことである。寺尾町舘では、天水に対して河川を堰き止めて揚げる用水を「上水(じょうすい)」といって区別していた。
丘陵部にある舘の天水田は、ヤツと呼ばれる谷の沢水を簡単な施設によって引き入れている田であった。少しでも用水量を確保するために、谷水を集めるツツミ(堤)と称する小規模な溜池を造った。同じく丘陵部にある鼻高町(はなだかまち)上鼻高でも、やはり谷にあった水田が天水と呼ばれ、「おてんとうさま次第」で大雨が降らないと田植えができなかったという。ここでも用水不足を補うためにツツミが造られていた。……(中略)
市域の天水と呼ばれる水田は、谷の沢水、湧き水、規模の小さい河川など、その用水源はさまざまであるが、水量の不安定さと降雨への依存度の大きさから「天水」という共通した名称が付けられていたのである。
ヤツダ(『新編 高崎市史 民俗編』74頁~75頁から引用)
用水量が不安定な天水は、大きな河川を堰上げた水を引くことができない丘陵地の谷筋に多くあった。ヤツ(谷)の水を引く丘陵地の水田はヤツダと呼ばれた。寺尾町舘、鼻高町の天水田はいずれもヤツダであり、山名町の丘陵部山の上にもヤツダがあった。谷を流れる沢の水は、水量が不安定な上に水温も低かった。直接、田の水口から稲に掛けると、半分くらいの稲に実が入らなくなってしまう。そのため、田のクロ(畦)に沿った内側に土手をつけてヒエボリという溝を作り、そこに沢水を通して水温を上げてから稲に掛けた。冷たい水が掛かる田はヒエッタ(冷え田)とも呼ばれる。
しかし、ヤツダは丘陵部の谷筋にだけあるとは限らない。倉賀野町西部の粕川やそこに流れ込む川沿いの深く窪んだところもヤツと呼ばれ、ヤツにあった水田はヤツダと呼ばれた。裏作の麦は作れたが、低温でシケッタ(湿気っ田)だったといい、土地の価格も低かった。
湧き水を伴う水流沿いの水が滲みて湿気った田もヤツダと呼んだ。市域北部の行力町にもヤチッタとかヤツッタと呼ばれる田があった。行力町では湧き水が弁天池と呼ばれる池を作っていたが、そこから流れ出る水路の近くに水が滲みて湿気った田があり、これたヤチッタであった。土が重く、作業しづらい田だった。また、弁天下りと呼ばれる弁天池から流れ出る水は水温が摂氏16度程度と冷たく、やはり水田の畦の内側に稲一株分の水路を作り、そこに水を通して温めた。これをマワシミズ(廻し水)といい、そうしないと、「アオサに立つ」といって稲が肥料を吸収せずに、青いままで実が入らなかった。
貝沢町では道木堀という水路が清水と呼ぶ湧き水があり、周囲から水が差してヤチ(谷地)のようだったといい、その水が掛かる字八反田の水田は湿田で、「ヤチッタみたいなものだ」といわれていた。ここも地価が低かったという。
※岩殿の谷津田で「ヒエボリ」「マワシミズ」というような田んぼに入る水を温めるための溝を掘っていたところがあったのか、農家に尋ねてみましょう。「ツツミ」と呼ばれる溜池の大きさはどの位なのでしょうか。現地で確かめたいものです。