2023年01月
市民の森グループで突然呼びかけて参加者を募集し、岩殿A地区の入山沼から流れて来る用水路に木橋をかけました。参加者は江原さん、金子さん、木庭さん、斉藤さん、新倉さん、細川さん、渡部さん、Hikizeの8名です。ありがとうございました。材料は昨日、市民の森で加工したコナラの伐採木です。
田んぼと畑の間の排水路の橋も架け直しました。
草刈りし、落葉を集め、畦シートを片づけて、水路周辺もきれいに掃除しました。
江原さんは岩殿C地区から市民の森の南向斜面を尾根に上る作業路の整備をしました。
昨日(29日)、市民の森の谷の道と尾根の道の合流する地点でクマの糞を見つけたという連絡があって、入山沼案内板の脇に熊出没注意の看板が立てられましたが、その後(31日)、別の目撃者からの聞きとりによりタヌキのため糞であったことが判明しました。
※福島県会津地方振興局『会津地方におけるツキノワグマ対策』(2014年1月)
ヒグマの糞
・ヒグマの糞は大きな俵形で、大きいものでは径7~8cm、全体の大きさが30cmくらいになる。
・ヒグマは消化能力が弱いため、糞には食べたものがそのままの形で出てくる場合が多い。
・臭いもそのままの場合が多いため、草本や果実を食べた時の糞には不快な臭いがほとんどない。
エゾタヌキの糞
・複数の個体が同じ場所に繰り返し糞をすることでできる「ため糞」は、一見大きく見えるため、ヒグマの糞と間違われることがある。
・径2~3cmの、新旧異なる糞が入り混じっている。
・独特の強い臭いがある。
渡部さんが玉切り(横引き)して尾根の道近くに置いていたたコナラの丸太をチェンソーで半割(縦引き)しました。
※「チェーンソーが縦引きが苦手な理由【ノコギリと切り屑から考えてみる】」(『きこりやろう』2020年6月記事)
市民の森保全クラブ定例活動日。参加者は芦田さん、新井さん、金子さん、木谷さん、鳥取さん、新倉さん、細川さん、渡部さん、Hikizineの9名でした。
ナラ枯れ枯死木(№171)伐採
ナラ枯れ枯死木(№249)伐採
雑菌が蔓延してしまったシイタケ原木を移動しました。
活動終了後、渡部さんの指導で木谷さんが伐倒実習をしました。南向き斜面の枯死木です。
※大畠流の伐木のコツ(2021/2/12記) (『森のボランティア茨城』掲載記事)
1.立ち位置
伐倒方向に平行に立つ。
2.受け口
2.1 下切り(水平切り)
・ガイドバーを水平に保つコツ…親指を使ったアクセルワーク。人差し指を使うとバーの先が下がりやすい。
・チェーンソーのフェリングマーク(伐倒線)を目安に、伐倒方向に対し直角に切る。
・深さの目安は直径の1/4(最初から1/3では修正ができない)。
・深さはガイドバーの幅(7~8㎝)でコントロール、直径20㎝であれば深さは5㎝、ガイドバーを半分ちょっといれる感じ。ガイドバーが全部入る深さ(8×4=32㎝)となる太さの木は素人はめったに伐りません。
2.2 斜め切り
・立ち位置は変えずに(これ大事)、トップハンドルの持ち位置を角の部分に持ちかえる⇒45度になる。
・自分の眼と会合線(下切りと斜め切りが出会う線)を結ぶ線上にガイドバーを置いて切る。
・一発で決まることはないので下切り線に会うように修正して、きれいな三角形を作る。
3.追い口
・追い口を入れる前に、会合線の脇をチェーンソーで樹皮を削ぐようにカットしておくと追い口を停める位置が分かり易い。
・追い口の高さは会合線+3㎝を目安に。受け口の高さの2/3なんてのは無視、素人にそんな細かい芸はできない。
・追い口の線と会合線が平行になるようにゆっくり切り進める。幹の向こう側のガイドバーの位置を確認しながら(大事)切る。
・ツルの幅は3㎝程度(指二本分)でいったん止め、その後微調整する。・ツルは帯状でなければならない、細すぎたり三角形ではツルの機能が不十分で伐倒方向が狂うことになる。
※「教員お気に入りのアイテム3:「伐倒方向の確認道具」杉本和也」(『岐阜県立森林文化アカデミー』活動報告記事)
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大舘勝治さんの『民俗からの発想』(幹書房、2000年)の「第4章 地域の中の子どもたち」を読みました。
第4章 地域の中の子どもたち
日本に伝統的地域社会が存在していた昭和30年代までは、地域の子どもたちは地域社会の一員として、労働力として、あるいは祭り・行事・芸能の担い手として重要な役割を果たしてきた。大人たちも将来地域社会の円滑な運営の担い手になる子どもたちに対し、優しくあるときは厳しく見守ってきた長い歴史がある。第4章 地域の中の子どもたち 目次
子ども社会の中では、たとえば小学生であれば、底学年から高学年までが一緒になって遊んだり、祭りや行事を彼らが中心となって執行するという機会が日常的にあった。こうした子ども社会には、年齢に応じてそれぞれの役割分担があり、上級生は下級生の面倒を見。下級生は上級生に従って行動し、知らず知らずのうちに子ども社会のさまざまなルールを学んできた。ところが、近年子どもたちが主宰する遊びや祭り行事が衰退し、子どもたちが集団で行動する機会がなくなり、単独で遊び行動をするようになった。テレビと相対してバーチャルリアリティーの世界で遊び、あるいはリモコンで自動車などを動かして遊ぶなど、現実の社会での身の処し方やルールを学ぶ機会が失われてしまった。
自然の豊かに残る山村の子どもたちでさえ自然の中で遊ぶことがなくなり、子どもの数が少ないこともあるが、親が子どものいる家まで送り届け、子どもは家の中でテレビゲームに夢中になっているというのである。
また、労働をとおして子どもと大人が接する機会がなくなり、労働の厳しさに立ち向かっている大人たちを見る機会もなくなった。自分の父親や母親が何をして働いているのかさえ知らない子どもが多いのである。「会社に行っている」くらいの認識が普通で、家族のために汗水流している父母の姿を見る機会も少ない。
本章では、「子どもと仕事」・「子どもと祭り・行事」・「子供と遊び」をとおして、現代の家庭や地域社会に失われている子どもたちの世界について考えてみる。(108~112頁)
1 子どもと仕事
(1)仕事で学ぶ
(2)お茶休み
(3)田植え休み
(4)蚕休み
2 子どもと祭り・行事・芸能
(1)獅子舞を担う子どもたち
(2)子どもの祭り・行事
1 衰退した子どもの祭り(事例1)「初午行事」
2 衰退した子どもの祭り(事例2)「厄除け獅子」
3 祭りを担う子どもたち「お雛粥」「天神マチ」「トーカンヤ(十日夜)」
(3)オヒナゲエ(お雛粥)
1 河原沢のオヒナゲエ(お雛粥))
①お雛粥の準備
②お雛粥の当日
2 と絶えたお雛粥
(4)田ノ頭集落の天神マチ、トーカンヤ(十日夜)
1 昭和59年の天神マチ
2 平成12年の天神マチ
(5)お雛粥・天神マチが教えるもの
3 自ら創造する遊び
(1)「遊びの野球」の復活
(2)べいごま・めんこの遊び
大舘勝治さんの『民俗からの発想』(幹書房、2000年)の150~152頁です。
(5)お雛粥・天神マチが教えるもの秩父郡小鹿野町の赤平川流域の集落には、お雛粥をはじめ天神マチ、十日夜など、子ども組が主宰する行事が行われてきた。天神マチは今でも続けられているが、お雛粥や十日夜の行事は姿を消してしまった。姿を消してしまった行事に対して、これらを経験してきた大人は昔を懐かしく思い、行事が失われたことを残念がっている。
天神マチなどを行っているときの子どもたちは、生き生きと自由な世界にひたっている。上級生は下級生をいたわり、下級生は上級生の始動に従い、秩序ある行動が取られている。行事の中の重要な難しい部分は上級生の役割であり、下級生には下級生の仕事がある。そして、いつでも上級生の持っている経験を通して得た知識は、仕事として下級生に伝えられる。例えば、お雛粥を煮ているときに「こういうふうにすれば火はよく燃える」などと、火の燃し方を教えている。学校や家庭ではえられない年齢を超えた連帯感が育まれる。
子ども組のまつりの楽しさは、普段と異なり、大人の指図を受けずに子どもだけで取りしきることだという。大人たちは、子ども組の祭りや行事に無関心かというと、そうではない。従って、祭りや行事の重要な部分については関与しないが、側面からの援助は惜しまない。天神マチの寿司作りには、自分の子どもがいるいないにかかわらず、宿に当たる家の隣組の親たちが手助けをする。また、トーカンヤ(十日夜)の藁鉄炮を作れない子どもには大人が作ってあげる。そして、子どもたちの集団が庭を叩きに来るころには、玄関を開けて待っているなど、非常に協力的である。子のように、地域の大人たちは、子ども組の祭りや行事を暖かく見守っている。
子ども組の祭りや行事は、子どもが主体的にかかわるが、地域全体から見れば地域共同体の下部組織としての子ども組の祭りや行事である。大人の指図を受けない自由はあっても、組織を逸脱した行為は許されないということを子どもたちはよく理解している。地域社会に密着した子ども組は健全そのものであり、子ども組が担う祭りや行事は決して野卑なものではないのである。そこには、子どもの社会教育の原点がある。今、子どもの教育に求められるものは、地域における教育であり、子どもの祭りや行事がその核となり得る要素を十二分に持っているはずだ。地域が子どもを育てていくことが大切である。大舘勝治『民俗からの発想』(幹書房、2000年)150~152頁
秩父郡小鹿野町三山にある田ノ頭集落の天神マチ(天神講)。大舘勝治さんの『民俗からの発想』(幹書房、2000年)144~147頁です。
平成12年[2000年]の天神マチ
2000年(平成12年)1月22日(土曜日)、この地の天神マチを訪ねてみた。田ノ頭の耕地の様子は、16年前に見たその時と同じような静かな山間のムラで、長い時の流れもなかったかのように瞬時にタイムスリップしている自分に気付いたのである。
天神マチの会場は、旧田ノ頭支所(役場旧三田川出張所)の2階である。午後1時過ぎ、会場の支所の2階へ子どもたちが三々五々集まってくる。平成6年[1994年]、会場がここになるまでは、中学3年生のオヤカタと称すリーダーの家を会場に行ってきた伝統がある。
この日集まった子どもたちは、幼稚園児から中学生までの18名である。戸数18戸の耕地にしては若いお嫁さんが比較的多いこともあって、子どもも他の地区に比べて多いという。中学生5名、小学生11名、幼稚園児2名が正式のメンバーであるが、そのほかに母親と一緒の乳飲み子もいる。
子どもたちのほかに数人の大人がいるが、大人は天神マチのオヤカタになっている子どもの両親が当番として出席しているほか、小さい子どもが参加している母親が数人出ている。
2階の会場の広間には、天神様に奉納する習字を書く机が用意され、小さい子から順番で1人3枚ずつ掛け軸風の小さな短冊にそれぞれの願いを書く。中学生の子ども(男子)がつきっきりで面倒を見て、3枚書かせる。
順番を待つ子どもたちは、会場で思い思い遊んでいる。大きい子から小さい子までがにぎやかに会場を所狭しと遊び回り、あたかも18人兄弟の大家族の家庭にいるかのごとくである。遊びに夢中で「オシッコ」と慌てる子どもには、誰彼となくそこにいる母親がトイレに連れていく。日本の良き伝統的地域社会「地域が子供を育てる」という光景の一こまを見る思いである。
3枚の小さな短冊が書き終わると、最後に、書き初め用紙3枚をつなぎ合わせた長い短冊に、昔からお手本とされる漢詩を皆で一字ずつ書き、皆の名前を添書きする。
こうしてすべての習字が終わると、裏山の中腹に祀られている諏訪神社(天神様が合祀されている)に向かう。すでに太陽は山の端に隠れて寒さが身に沁みる時刻である。社殿の前にあらかじめ用意されている大きな笹竹の笹に願い事を書いた短冊をつるし、長い大きな短冊は竹の上の方につるし、立ち木を利用して立てられる。まるで冬の七夕様である。子どもたちはそれぞれ天神様を拝んで会場に戻る。
皆で夕食をとり、お菓子を食べ、夜遅くまで楽しく遊ぶ。遊びの企画は上級生の中学生によるもので、「肝だめし」などが盛り込まれている。
秩父郡小鹿野町では、2000年1月現在このような子どもたちの天神マチが田ノ頭の耕地のほかに上飯田、松坂、栗尾、和田耕地で行われている。少子化社会で、各地の貴重な伝統行事の存続が危ぶまれる中で、田ノ頭耕地の天神マチは行事の一部は簡略化されたが15、16年前と同じように続けられ、地域に機能して生きていることに感動した。そこにはかつて地域のどこにでもあった子どもたちの年齢を超えた交流、親と子の交流、地域が子どもを育てた民俗の心がある。天神マチは子どもたちが社会性を身につける地域教育の場であり、また地域文化を創造していく原点でもある。大舘勝治『民俗からの発想』(幹書房、2000年)147~150頁
秩父郡小鹿野町三山にある田ノ頭集落の天神マチ(天神講)。
大舘勝治さんの『民俗からの発想』(幹書房、2000年)144~147頁です。
昭和59年[1984年]の天神マチ
昭和39年[1964年]ごろまでお雛粥の行事が行われていた秩父郡小鹿野町三山の田ノ頭の集落は、戸数18戸ほどの小さな村である。この集落には、現在、小学生から中学生までの子どもが十数人いて、子どもの伝統的な行事、天神マチ(天神講)を行っている。
天神マチは、1月25日に行われるのが一般的であるが、ここでは、現在25日に近い土曜日から日曜日にかけて行われている。土曜日の晩にオコモリといって一泊しても、翌日が日曜日でのんびりできるというのが変更の理由である。
天神マチを行う子どもたちは、小学校1年生から中学校3年生までの男女である。数年前までは男女別々に行っていたが、子どもが少なくなったために合同で行うようになった。また、昭和58年[1983年]の天神マチから、同じ理由でその年に小学校へ入学する幼稚園児も加入できるようになった。上級性の子どもが「天神マチに入って下さい」とお願いに来るので加入するのである。
上級性の一人がカシラ(オヤカタ)になって采配を振るい、その他の上級生は補助役となって行事は遂行される。
天神マチの準備は、天神マチが行われる一週間前の日曜日に、上級生が子どものいる家を回って、寿司を作る米を集めることから始める。以前は前日に集めたという。集める米の量は、1人につき3合であるが、子どもが4人いても2人分出せば良い。古くは、1人につき5合で、一家で子どもが3人参加するとなると1升5合の米を出す習わしであった。
この米で寿司を作るが、寿司を作るのは上級生の母親たちである。以前は子どもがいるいないにかかわらず、天神マチの宿になる家の隣組5軒の母親が集まって寿司を作るしきたりであった。つまり、地域の行事として行われていたが、子どもがいないのに準備に出てもらうのは頼みにくいということになり、上級生の子どもの母親が出て寿司を作るようになった。天神マチを伝承する基盤が変化を生じたのである。
天神マチの寿司はたくさん作り、米を出した分だけ子どもの家に届ける。したがって、子ども一人につき5合の米を集めていた時代は、兄弟で何人も参加していると、大量の寿司が届けられたという。今では寿司もそれほど喜ばれなくなり、集める米も少なくしたといわれる。
母親たちが集まって寿司を作る家は上級生の家で、その家を「天神マチの宿」という。子どもたちは、土曜日の午後からこの宿に全員が集まる。母親たちが夕食に食べる寿司を作っている間、子どもたちは習字を習って天神様にあげる旗を書く。この旗は「書き上げ」といって、一本の竹に全員の習字をつるして天神様へ奉納するのである。
夕食の準備ができると、母親たちはかえってしまい、後は子どもたちだけの時間となる。楽しく夕食を済ませると、歌を歌ったりトランプなどをして遊ぶ。そしてその晩は、オコモリといって宿の家に泊まるのである。オコモリができるのは2年生から上で、幼稚園児や1年生は夜10時ごろ、上級生に送られて家に帰る。
この夜は、近隣のどこの集落でも天神マチが行われていて、他地区の子どもたちが御馳走を持って遊びに来る。子どもたちは互いに御馳走を交換して食べたり、トランプなどをして一晩楽しく過ごす。
田ノ頭地区では、むかしから寿司を作るが、近隣の和田、栗尾地区では餅を作り、この夜、互いに交換して食べる習慣がある。なお、他地区に遊びに出かけられるのは上級生だけである。
天神マチに必要な経費は、以前は子どもたちが行う夜番(夜警)謝礼金とトーカンヤ(十日夜)の祝金ですべて賄っていた。夜番も十日夜の行事もなくなってからは、地区の大人の新年会の席で寄付を集めて、この金を子どもたちに渡している。
子どもたちが行ってきた夜番とは、12月1日から2月末までの夕方6時から鉦を鳴らしながら地区内を回る夜警の仕事である。2人1組で交替で行い、謝礼を得ていた。しかし、地区の子どもが減少してから、順番がすぐに回ってくるのでかわいそう、ということで中止になった。同じ夜番でも大人の方は今でも行われている。
天神マチの経費に使われた十日夜の祝金は、旧暦10月10日の秋の収穫祭である十日夜の行事を行っていただいたものである。
十日夜の行事は、天神マチに参加する男女の子どもたちが、藁鉄炮を持って地区内の各家々の庭を叩いて回る行事である。「トーカンヤをはたかしてください」といって各家に断り、上級生を先頭に並び、号令を発して藁鉄炮を打つ。
「トーカンヤ、トーカンヤ、十日の晩はいい晩だ 朝ソバキリに昼団子 ヨーメシ食ったらひっぱたけ 貧乏神をはたき出せ 福の神をはたき込め」と唱和して藁鉄炮を打つ。
各家では祝い金を子どもたちに出すが、祝い金が多いと最後の文句を2回唱和して志に応える。この祝い金を翌年の天神マチの費用に充てるのである。天神マチを男女別に行っていた当時は、十日夜の祝い金を男女等分にして天神マチの経費に充てたという。
その十日夜の行事は、昭和40年代前半に[1960年代後半]に学校からの指導により、やむなく中止したといわれる。その理由は、十日夜の行事で子どもたちが藁鉄炮を叩いて祝い金をもらって歩くことが「下卑た振る舞い」との評価からである。
ムラの人たちは、古くから行われてきた行事が中止になったことに驚いたという。十日夜に子どもたちが訪れて来るのを親たちも楽しみにしていたからで、今でも十日夜の行事がなくなったことを残念に思っている人が多い。
子どもたちの祭りや行事を調べてみると、学校からの指導により中止になったというものが、思いのほか多いのに気づくのである。大舘勝治『民俗からの発想』(幹書房、2000年)144~147頁
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』11号 (1960年3月発行)、12号(1961年4月発行)に掲載されている天神講をテーマにした中学生の作文です。
どきょうだめし 一年B組A・K
いよいよ冬休みだ。ぼくたちは冬休みに、はいるとすぐ天神講をする。宿は三年生の家でし、終ってからどきょうだめしをすることにした。
ぼくたち一、二年生は、おどかされる方で、三年は、おどかす方である。三年でもあんがいおくびょうものがいる。ぼくたちはそれよりこわかったにちがいない。宿の家から出て百メートルばかり右にいき、それから、こんどは五〇メートルぐらい坂を登る。その坂はまわりから大きな木がかぶさりまっ暗である。登りきるとそこにお墓がある。そこには、まだこのあいだ死んだばかりの人の墓がある。三年生は、そこから、ゆうれいが出るとぼくたちをおどかした。ぼくたちはもうこわくてこわくてしかたがない。その墓をすぎるとまた登り坂である。そこを、まっすぐいくとそこに小さなお堂がある。そこにいって、あめをとってくるというわけである。
時計が八時をうつ。三年生はみんなをおどかしにいった。第一にTがいくことになった。Tは、あんがいおくびょうであるが口先では、「なあにおっかなくないさ。」といっていた。いよいよ三年のあいずがあったのでTは出ていった。
あとにのこったY、U、U、Wに僕である。つぎつぎと番はすすむ。いよいよぼくの番である。空には、月がなく星だけがきらきらと光っている。きゅうにUが、「流れ星だ。」と言った。流れ星というのは、なんてきもちのわるいものだなあと思った。ぼくは出発した。まっ暗な道をぐんぐんいくと登り坂にかかった。あたりは、しいんとしてただ遠く犬の鳴く声と、ぼくの歩く足音がするだけである。まっ暗で何も見えない。かんでぐんぐん進む。ときどきほりにおちたり石につまずいたりして、やっと明るい所に出た。そこがお墓である。ぞっと、せなかに水をかぶったようないやな感じがした。そこから、もどろうと思ったが、みんなにわらわれるのが、はづかしいので、しかたなく行った。五〇メートルばかりむこうに、あかるい所が見える。そこにお墓があるのだ。いよいよ墓である。星の光があたって石塔が青白く光って見える。墓所のそばをとおる時からだが、あつくなるのを感じた。そこは、かしの木がおおいかぶさって目がいたいほど暗い。遠くにぼんやりと火の花が見える。お堂の所においてあるちょうちんの光である。そこをめざして歩っていくと、、ぼくは「あっ」と大きな声をだした。なにかぶつかったようにかんじた。よく見ると、三年のはったなわである。声をだすまいと思ったが声を出してしまった。しばらう行くと、お堂についた。そこには、あめがおいてある。ぼくはそれをとるとまた歩き出した。こんどは前よりも暗く、遠くに家のあかりがぼんやりと見えるだけで、なにも見えない。風が葉のないくぬぎの木をならしている。かおがあうとほど寒い。ぼくはめくらめっぽう歩いた。そして大きな松の木の横をまがって、しのやぶへはいった。そこには細い道がでこぼこしていて歩きにくい。きゅうにへっこんでいるので、かくんとする。あっちにつまずき、こっちにつまづいて、やっと家のあかりが見えて来た。
しばらく歩いてやっと家についた。家にはいったら目がきゅうにかるくなった。そして口々にこわさをいいあった。冬の夜は、星が青白く光り北風が木立をならし、寒さをよけいきびしくかんじる。冬の夜はとてもさびしいものである。菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』11号 1960年(昭和35)3月
今年の冬休み 一年D組 長島正美
暮れのうちと、いっても、冬休みに、入ってすぐの頃は、とてもたいくつだったが、三十日の朝、もちをついてからは、本を整理したり、庭の掃除を、したりして、とてもたいくつといって、いられなくなった。
三十一日の夜、兄と弟はとなりの家へテレビを、見にいったが、ラジオの歌の日本シリーズが聞きたかったのでいかないで、ラジオを聞いて、風呂に、入ってすぐねた。十二時少し過ぎた頃目がさめた。そうしたら除夜の鐘がなっていて、兄たちも帰ってきていた。
一日の朝も今年は、祝賀式もないので、朝おそくまで、ねていた。二日間は、なにもなく三日に、親類の人が子供を一人連れてきた。それで急に、にぎやかになった。四日目は、天神講である。朝、九時に始まるので、八時頃から、隣の子と、野球やバトミントンを、して遊んで、九時頃、家を出発して、宿(やど)へいったが少しみぞれがふってきた。八幡様へ行く時も、途中で休んだりして、すっきりしないで、あまり面しろくなかった。昼からは、晴れたが、庭がぬかっていたので外で、遊べないので、しかたなく中で、台つぶれや、トランプ、かるたなどをして、じきに帰った。六日に東京から、大人一人、子供二人が、きた。二人とも男の小学生で、野球をしたり、ゴルフ場へいったりして、次の日の十一時頃、帰った。後の残りの日は、のんびりと、遊んだ。今度の冬休みは小学の時の、冬休みと、たいして、かわりなかったが、しいて、いえば、漢字帳を、書いたことである。いつもだら、何もしないで遊んでしまうものを……。菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』12号 1961年(昭和36)4月
天神講 三年B組 長島睦子
一月四日。これは私達の長い伝統を持つ天神講である。
朝八時頃集まって、皆、手に筆を持って、「天満天神宮」などと書いて、神社へお参りするのである。それが終って昼食、前年までは、「あんこもち」のお昼であったが、今年から私達の要望した「寿司」に変った。これはまあ、私達にとれば前年より変化があり良かったと思う。その次三時になると「お茶」、茶菓子とお茶などが、個人に配られる。飲み、食べ、遊んで六時に開散と、ざっとこんな内容である。小学校時代には、天神講と意味も知らずに、ただ遊ぶだけのおもしろさだった。ところが中学生になると意味が、ちょっと解りかけてきたと同時に、「つまらない、おもしろくない。」というようなよけいな考えが育ってしまった。小さい頃のまちどうしいどころではなく、日が近づくに従っていやになる。こんな始末だ。よくない考えだ。今年は、中学三年生。しかも下級生を指導する立場におかれる親玉となるわけだ。しかし、私は身分ばかりで任務は何一つ果せないのである。下級生に対して、申し訳のない次第だ。
当日「つまらないなあ。」と言いながら出掛けようとすると兄が、「おまえが皆をおもしろくさせなければならないのだ。」と言われたものの、朝は遅刻してしまい、遊び時間は、部屋の片隅で、数人でトランプなどして遊んでという自分勝手な行動。しかし、小さい子はそれなりにふざけあったり、にぎわったりしている。それを見てほっとする。
残念ながら、皆一緒になって楽しく遊ぶことが出来ないうちに短い一日は終ってしまった。
こんなだから、すなわち、自分達で自分をつまらなくしているようなものだ。
今年で天神講というものは、私達三年生にとって最後だった。今考えて見ると、今年はもちろん、九ヶ年間やって来たが思い出深い事はあまりない。来年度からはもっと楽しいものにしていただきたい。菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』12号 1961年(昭和36)4月
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 (1956年3月発行)、9号(1958年3月発行)に掲載されている天神講をテーマにした中学生の作文です。
一月四日 三年三組 大野トク
いつものくせで今日もつい朝寝坊をしてしまった。ふすまの間から射しこんでくる光で目がさめた。床に少し入っていたが、ふと「そうだ、今日は天神講だったっけ」と思いついたので、はね起きた。そして隣りの部屋に行って見ると、川口から来たお客と、小岩と、高坂から来たお客と一緒に妹はもう目をさましたまま、まだ床に入っていた。
「幸子、今日は天神講だから、早く起きないとおくれるよ、もう七時だよ」といって、急がせて起こしてしまった。
顔を洗いに行くと、もう太陽は東の空に気持よく上っていた。
「今日も又、良い天気でありますように」朝日はお祈りしながら、歯をみがいていた。朝飯をすましてから又も妹を急がせた。
「早く半紙を三枚出して、半分に切ってくれよ」妹に云ったら母が「どうせ幸子が切ったんじゃだめになってしまうから、自分で切った方が早いよ」といわれたので、しかたなく、「じゃあ、すずり箱を出してみ」といったら妹はすぐもって来た。
「そうだ、母ちゃん重箱は?」
「母ちゃんは手伝いに行くんだから、忙しいからおばあちゃんに出してもらいな」といって出かけてしまった。
私はもうおそいと思って気が気でなかった。でもすぐ出してくれたのでよかった。これで大体仕度がそろったので、私と妹は出かけた。宿の家に行くと、もう男の子が五、六人女子が三人で、たき火をしていたので「もう篠は取った?」と聞くと「もうとっくだよ!」と云われたので安心した。
「たけおさん、もう八時になった?」
「もう八時はすぎたよ」との答えだったが、まだ幾人も集っていなかった。でも少したったら大体集合した。
そこで天神様に供える習字を書いて、八幡様に納めにいって来た。それからは遊んだりお茶を飲んだり、トランプなどをしたりして楽しく過した。そして最後に、
「私達三年生は、もう最後だから『螢の光』を歌おう」といって、全員(三十一名)で歌った。
このようにして最後の天神講を楽しく、ほがらかにすごしたのである。菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』7号 1956年(昭和31)3月
天神講 一年 中島敏子
私たちの一年中で最も楽しい天神講は一月五日だ。待ちに待った天神講の日がやって来た。朝寒い頃から、小さい子供達は、うれしくてしかたがないのか、私の家に、
「もう行ってもいい。」
とまちどうしいように言って来た。私が、
「まだ早いよ。」
と言っても、きかずに私をむりやりに宿の家まで連れて来てしまった。私は、半紙を切ったりする。
千枝子ちゃん達は、すみをすって書く用意をしている。そのうちすみもしだいにこくなったので小さい子から順番に書き始めた。
全部で人数は二十一人です。やがて書いているうちに全部書き終りました。書き終って、十五分ぐらいで男と女で羽根つきをし、八幡様へ全部で納めに行って来てから、又さっきの続きをした。
男子がとうとう勝った。もう昼近くなったので、おぜんを並べてぼたもちを配ばったり、とうふ汁を配った。くばり終ってから、小さい子をみんな呼んで昼食を食べた。昼も食べ終ってじゅうばこを取りに行った。帰ってきたら羽根つきをしていたので羽根つきにまじった。
羽根つきもあきたので、私と正子ちゃんで男子が、べいごまをしているのを見に行った。なかなかおもしろいので見ているうちに、三時ちかくなってしまった。三時のお茶休みには、茶菓子が出る。
その菓子は、天神講が五日なので四日に買いに行くことになっている。毎年男子が買いに行くのだが、今年だけ女子が買いに行った。菓子を買って来てから千枝子ちゃんの家で分けた。男は、大豆、あずき、米、茶菓子を集めた。
そのうち、お茶休みも終わり、皆と県道の方へ行った。すると、二人ばかりのイラン人が通りかかった。小学生はイラン人がめずらしいのか、イラン人の後をぞろぞろとついて行った。私たち中学生も、後の方からついていった。ちょうど通りかかったところから、五〇〇メートルぐらい行ったところに井戸をほっていた。イラン人は、立ち止まって、何かしきりにわけのわからない、イラン語【ペルシャ語】で話していたが、やがて井戸を掘っているのを手伝っている人達に、
「さよなら。」
と言って立ち去った。その時私は、
「このごろイラン人はなかなか日本語が上手になってきたなあ。」とつくずく感じた。なぜと云えば、ハーモニカで、「お手々つないで」とか、いろいろ童謡を吹いたり、歌ったりしているのを聞いたからです。と思っているうちに皆がもとの天神講の宿の家まで引き返して行ってしまったので、私もいそいで帰った。庭でみんなが集まって何だか話をしている。近づいて行くと、かんけりをする相談をしていた。話がまとまり、かんけりを約三十分位したが、ある人が、こんどは千枝子ちゃんの家の前の坂でやろうと言いだしたので、そこへ行くことになった。でも十分位遊んでいるうちに、あたりは薄暗くなったので中学三年の守ちゃんが、
「もう帰るか。」
と言ったので帰った。
帰ってから、すぐトランプをしているうちに夕飯の仕度をした。夕飯も終わったので、こんどは小さい順に歌を歌った。
審査員は中学二年の栄さんと中学三年の守ちゃんです。かねを四つもらった人はキャラメルを四ついただけることに決めた。私は二個いただいた。キャラメルを四つもらった人は三、四人だった。又トランプをした。そのうちにマラソンを終えて、進さんが帰って来て、こんどは、
「歌った人には、キャラメルを二つずつくれるよ。」
と言ったので、皆歌って、キャラメルをいただいた。歌い終ると、進さんが、記念写真を撮って下さいました。
全部で写そうとしたけれど、残念なことに少しの人が入らないので、男女別にしました。最初女の子が写し、その次に男全部で写した。その後で、私と、とみちゃんと正子ちゃんで写していただいた。まだ他に写していただいた人もいた。
ふと時計を見ると九時近くになるところだった。予定では九時だけれど写真を写していたので少しおそくなってしまった。
宿の人と別れて五、六人一緒で家へ帰った。夜道は明るく、歩く足音は昼間とちがってとても大きく聞こえた。
皆寒いのか背中をまるめて、いそいで歩いて行く。
もう家もすぐ目の前に近づいて来た。菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』9号 1958年(昭和33)3月
天神講 一年 杉田けい子
天神様と言うのは菅原道真を祭ってあるのであって、字がじょうずになるように(天満天神宮とか天神様)と字を書く。そし又字がじょうずになるだけでなく、文学、たとえば勉強ができるようになる。だから天神様をすることは結構なことであります。
と校長先生がおっしゃいましたが、私の方でもその天神様を五日にしました。
宿は私の家です。では前の日からお話しします。
中学生の女子が四人手伝いに来てくれました。寒いうちに米二合、あづき、さとうなどを集めて来て、ちょうど十時ごろだったので母が、
「どうもすみませんでした。じゃあお茶を入れますから。」
と言って、まもなく持ってきて、
「どうぞ。」と言った。けれども皆んな遠慮してなかなか飲まないから私が茶碗を一人、一人わたしてやりました。休みにすこしバトミントンをして遊ぶと二年生のゆき子ちゃんが、
「けい子ちゃん、芋洗いなんかするんだべ。」と言った。
「私は知らないから母に聞いてくらあ。」
といって家にかけこんだ。
「かあちゃん、皆んなが芋洗いなんかするんか、と言ったけれどどうする。」
と言うと母が、
「皆んながしてくれると言った。」
「うん。」
と言うと、
「じゃあ、してもらうか。」
と言った。そして私は「庭へ行ってたるに、こんぶがふやかしてあるんだけれど洗って出してくれる。」と言って、私が野菜かごを持って井戸ばたに行った。たるに入れてあった水はとても冷たいので汲みたての水ととりかえて洗い始めた。
四人で洗ったからあっと言う間に洗いきってしまった。それが、すむとこんどは芋洗いでしたので、私が芋出しに行き母に、
「芋はどのくらい出したらいい?」と聞くと母が、
「バケツ二はいぐらいでたくさんだよ。」と言った。
皆んな一生懸命仕事をしてもらったので母はおおだすかりと言っておりました。又芋むきまでもしてくれた。これで終ったので皆んなに、
「ありがとね。」と言った。
皆んな昼になったので家へ、家へと足を進めた。半日すぎていよいよ夜になると母は煮物でいそがしそうだ。私は風呂に入り八時ごろ寝床につきました。けれども色々なことが考えられて眠れません。習字も書いてないし、作文も書いてない。こんなことを考えると天神様なんかしたくなくなってしまう。
その二日間のうちに習字と作文くらい書ける。私はついに声を出して、
「天神様なんかしたくない。」
と言ってしまった。そして、いつの間にか眠ってしまった。朝の明けたのも知らず起きたら七時をすぎていた。
父に「鼻がつまって風邪をひいちゃった。」と言うと父は、
「おまえはよわいな。一年に何回風邪をひくのか。」
といわれた。でも起きて御飯を食べて掃除が終ったら、庭でバトミントンをつく音が聞こえたので出て見たら、千代子ちゃんが来ていたので、母にもう遊んでいいと聞いたら、
「掃除をしたのかい。」
「うん、掃除はしたよ。」と言うと、
「じゃ皆んなと遊びな。」と言った。
皆んなとバトミントンをしたり、うしろむきなどしているうちに十時ごろになってしまったので、私が墨とすずりを出してえんがわですみをすってもらった。そのうちに私が筆を用意して書き始めた。小さい順に書かせた。一、二年生は、「てんじんさま」とひらがなで書き、初めは、大きい人が手を取って書かせた。それから三、四、五年生は「天神様」と漢字で書き、もう三、四、五年生になると自分でざっさと書いてしまう。
いよいよ私たちの番になったので私は「天満天神宮」と書いた。これで全部書き終ったので、こんどは書いた紙にしのをまきつけて、その上のまん中に穴をあけて糸を通して竹につるす仕事をした。
これはだいたい大きい子がしのをはりつける。小さい子が竹につるす。こう言うふうにしてからすぐに終ったので、八幡様へ納めに行くのです。その途中ぬまで氷すべりを四、五人の男の子がしていた。ここの氷すべりは私が六年生の時に先生から注意されたのですが、まだしておりますが、氷すべりと言うのは面白いのでしょう。
こんなことを思っているうちに、お寺の近くになった。男の子がお寺から台を借りて運んで行く所だったので女の子も皆んなして手伝って家まで運んでやった。
そして又仲よく遊んでいるうちにお昼近くになったので中学生はお膳や皿など洗ってくれたので、早く昼食ができました。皆んなで楽しそうに食べ始めたが、二人こない人があったので、私たち大きい生徒が迎えに行ったら、どこかへ行ったと話を聞いたので、私たちも食べ始めた。千代子ちゃんの母がお給仕をして下さった。皆んな、ぼたもちや色々食べて嬉しそうでした。
食べ終ると、トランプやすごろくをして遊んでいる時、小さい子がトランプにまぜないとか、悪口をいったりしてけんかをしてしまった。
だから私が小さい子の面倒をみながらバトミントンをして遊ばせました。その時、私の父は白菜を運んでいたら、歌子ちゃんが、
「小さい子はトランプにまぜない。」
と言ったら父は、
「どうして。」
とただひとこと言っただけでした。こんなことをしているうちに三時になったのでお茶にしようとかたづけた。
昼から男の子は一人残っているだけで、玉川会館に映画を見に行ったから、人数が、少なくなってしまった。私たちは、お茶、お菓子、煮物など食べながら、歌を歌ったりとてもにぎやかだった。まさ子ちゃんなんか勇気があって、
「おれ歌うよ。」
と言って、じょうずに歌ってくれた。小さい子はふざけることもあるがしんけんに歌うこともある。中学生はただだまっているだけでした。又、
「菓子七円、みかんが十五円だから二十二円。おらあちは三人だから六十六円。ほれ。」
と、私に百円さつを出した子もいた。だから私は、
「お金はいいんだよ。」
と言った。
そのうち楽しいお茶休みもすみ、皆んなでかんけりをしていると、男の子が映画を見に行って帰ってきたので、私は、
「タイム。」
といって、お茶をわかして男の子に出しました。そのころ時刻は四時ごろだったので、まだ羽根つきをして遊んだ。
ふと県道を見たら、イラン人が通るのに気がついた。皆んなが見に行こうといってかけだした。県道についてすこし待っていたらきて、イラン人に皆んなが、
「さようなら。」
と言ったら背の高い方の人が手を振って、かた方の人がちょっとアクセントがちがうが、
「さようなら。」
と言った。イラン人をずっと見ていたら立ちどまってなんとか言っているようすでした。そこへ弟が自転車できて、
「いまイラン人が人参をさして、『これ人参でしす』と言ったよ。」
と話した。
そして、又私の家にもどってきて、皆んなが私の母に、
「ごちそうさまになりました。」
と言ってから、すこし「アウトおに」をして帰りました。
夜になって私は天神講の反省をしました。
一、お茶の時などすこしうるさかった。でも小さい子が多かったからやむをえないかとも思った。
又小さい子の遊びがなかったため、家に帰ってしまった子が二人あった。来年からは小さい子の遊びを考えたいと思います。菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』9号 1958年(昭和33)3月
市民の森保全クラブで、休憩時に「天神講」が話題になったことがあるので、『東松山市史 民俗編』(東松山市、1983年発行)を取り出して読んでみました。
天神講 1月25日、上唐子地区は大字の行事として執り行われた。また、これを「天神祭」ともいわれた。その当時は、「奉納天満天神宮」と書いた書き初めを小学生全員で村の鎮守様(天神宮が合祀されている)に数多く奉納された。そして子供達は6年生の家(比較的恵まれている農家)に集まり、その家の親が手伝ってくれて、各人の持ち寄った米5合(約0.9リットル)、小豆2合(約0.36リットル)位のもので、にぎやかに食べながらケンチンジルと少しのお菓子などでカルタなどで夜9時頃まで遊んだものである。下岡地区では、24日6年生が先になり字の下級生と、米2合、醤油、砂糖、野菜などを集め宿(6年生の家が持ち回る)でご馳走を作ってもらい皆で食べる。この時「奉納天満天神宮威徳御菶殿」と書き方練習をし翌25日に天神様に奉納した。なお明治大正の頃は宿の家におこもりして翌日奉納したという(習字が上手になるようにと旗を書き天神様に上げた)。日吉町、本町一丁目、元宿の子供達は、25日書き方練習をして元宿の天神様に奉納した。(習字が上手になるように「奉納天満天神宮」と書いて納める)。天神講は子供たちにとって、習字を書いたり御馳走をたべたり、子供たちの信仰と社交と娯楽を兼ねた行事だった。(『東松山市史 民俗編』1983年、295頁)
東松山市の隣にある嵐山町菅谷の天神講について紹介します。1995年に田幡憲一さんがまとめたものです。1940年代前半、戦時中の天神講体験者の回想で、12月24日・25日に行われています。
菅谷上組の天神講 田幡憲一
菅谷の子供の楽しみの一つに天神講があった。十二月二十四日、俺たち小学校【菅谷村立菅谷尋常高等小学校。現嵐山町立菅谷小学校】の一年生になった者は、風呂敷に包んできた通信簿を座敷に放りだして、天神講だと言って家を駆け出して行く。今年から天神講に参加できると喜んだものだ。高等二年の上級生、高等一年、小学六年、皆大きくたくましく兄貴のようだった。上級生が学校から帰るのを待ち構えていた。昭ちゃん、良平さん、秀夫さん、みんなが帰ってきた。さあこれから天神講だ。
高等二年、一年、みんなで米を入れる袋、醤油ビン、油のビン等をもって、天神講に参加する子供の家を廻る。米二合、人参一本、又次の家では米と大根一本、醤油茶飲み茶碗一杯、油茶飲み茶碗一杯、ゴボウ一本……。上級生の後ろについて歩きながら家々を集めて歩き、今年の宿(やど)をしてくれる家につくころには、荷物が一杯集まった。
そして子供達も大勢集まり、上級生の命令で、これから山に薪を集めに行くものと、笹竹取りに行くものとに別れて出掛けて行く。皆協力して枯木を集めて縄でいわいて運ぶ。夜と朝との自分たちで使う物はみんなで共同で集めて、宿をしてくれる家へもって行き、宿のおばさんに渡した。
宿をしてくれる家では、二部屋続きの座敷を開放して、子供たちに自由につかわしてくれた。子供たちは共同ではたらき、今晩の天神講の宿での、一同に会しての晩飯を楽しみにしながら、上級生の指示に従い、髪と筆、 硯、紙も小さい子供には初めての唐紙(トウシ)という長い紙でした。その紙に上級生がお手本を
奉納 天満天神宮
と書いてみせて、下級生の手をとりながら書いて行く。全員書き終わり墨が乾くまで、座敷いっぱい並べて、うまく書けた子、書けない子、うるさいこと……。
その間にも、年上の子供たちは先程取ってきた笹竹を適当な長さに切り揃え、長いものと旗の頭につけるものとに分けている。そして乾いた紙の頭に糊をつけて笹竹に丸く張り付けて、竹の両方の端を糸で結び、長い笹竹につるしてできあがり。
そろそろ先程集めたゴボウ、大根、ニンジン、いろいろのものを宿のおばさんが料理している匂いがしてくると、子供たちはなんのご馳走ができるのかとひそひそ話。その間にも、上級生たちは習字の道具を片付けたり、掃除をしたりして、宿をしてくれる家に迷惑の掛からぬ様にと気を使っている。自分たちの事だから自分たちでするのが当り前だ。
夕方近くなると上級生の命令で、みんなが家に帰り、ご飯茶碗と箸を持ってくる。上の人たちは、ご飯のちゃぶ台を借り集めて持ってくる。いよいよ待ちに待った夕ご飯。それぞれの絵のついた茶碗に、おいしくできた五目ご飯をよそる。宿のおばさんが一番大変だ。急に子供が十六人。おいしいおいしいとお代わり。もう五杯もたべた。俺は四杯。豆腐のつゆもうまい。食欲旺盛だ。みんなで食べれば何でもうまい。おばさんの作った五目ご飯はすぐになくなる。皆満腹だ。
いじめなどない、塾もない。皆、上級生の命令に従いついて行く。そして、自分も早く大きくなって下のものの面倒をみるのがたのしみだ。
またまた、上級生の命令がでる。今夜泊まるものは布団一枚、家からもって来るようにと。小さい子供は母親が布団をもってくる。布団を敷き、これから上級生のこわい話。雨の夜、土葬の墓の上で青い炎が燃える話。これは、亡くなった人のリンがたち昇る、いや死んだ人の身体からでる油だとゆう話……。又小学校の南西二百メートルぐらいの、山の中の焼場のこわい話。昭和十六年(1941)頃まで使用していた伝染病や肺結核で亡くなった人を火葬したところ。薪に油をかけてもやしていた話……。皆布団の中から首をだして先輩たちの話に長い夜を過ごした。そしていつしかいびきが多くなり眠りについた。
朝六時に起床。顔を洗い、皆寒い寒いと震えている。泊まらなかった子供たちもみんな集まってくる。昨日作った天満天神宮の旗をこれより神社へ奉納しに行くのだ。みんなそろって旗を持ち神社まで行進する。神社には上組・中組・下組、それぞれの子供たちが旗を収め、頭がよくなりますようにと天神様を拝む。
宿へ帰り、宿のおばさんが作った朝ご飯を食べてから全員で遊び、夕方それぞれ解散。子供たちは一年一回のこの天神講をどれほど楽しみに待っていたかがよく分かる。(1995年8月記)
市民の森保全クラブ第4日曜の活動日です。参加者は芦田さん、新井さん、金子さん、木谷さん、木庭さん、鳥取さん、新倉さん、細川さん、丸山さん、鷲巣さん、渡部さん、Hikizineの12名。小松さんが差し入れしてくださいました。ありがとうございます。
ナラ枯れ枯死木(№154)伐採
YouTubeのkirin伐刀採【林業チャンネル】にレールカットをしている動画がありました。
ナラ枯れ枯死木(№251)伐採
今日の焚き火と焼きいも担当は金子さんでした。
焼く前に8%の食塩水に1時間~半日浸けておくと甘くなるそうです。焼き上げてから食べるまでの間は保温しておくなどの配慮があり感心しました。
“厳しい実体験”からのみ伐木技術を学ぶことは、そのリスクほどの価値はない
多くの伐木作業者たちが、伐木作業の経験が浅い時期に“危機一髪”を切り抜け、今日まで生きのびているのは不思議なことです。彼らには、失敗話や傷跡がありますが、それは伐倒という極めて危険な作業をするにもかかわらず、適切なトレーニングを受けてこなかったという証でもあるのです。一方、幸運に恵まれなかった人も多数います。新聞や業界誌には、熟練あるいはまだ経験の浅い伐木作業者の伐倒作業中の死亡事故の記事が定期的に載ります。前者の傷跡と後者の早すぎる死は、経験の浅い人たちへの戒めと忠告です。すなわち、まず最初に指導やトレーニングを受け、そこから学ぶ方がいい、ということです。“厳しい実体験”からのみ伐木技術を学ぶことは、そのリスクに値するほどの価値はありません。ジェフ・ジェプソン『伐木造材術』(全国林業改良普及協会、2012年)15頁
今日から1年で最も寒い頃とされる二十四節気の「大寒」です。来週前半は雪や雨が降りやすい天気に、中頃にかけて寒さが一段と厳しくなり風がつよまるという予報が出ています。今回の寒波は西日本では2016年、東日本では2018年なみだとも言われています。当ブログの2016年、18年1月下旬の記事を見直してみました。
学びの道の残雪や、氷結は心配です。現場に入れなくなります。
学びの道と岩殿D地区上段~I 地区下段の間の刈り草を燃して片付けが終わりました。
今日もゴミを集めました。
藪状になっていたアズマネザサの根元にあった白色のかたまり(ハンペン・はんぺん、放線菌)。
※Facebook 微生物談義第3回「放線菌」の働き
(農業革命!サンビオティック 2020年12月28日記事)
今日はお昼頃から雨が降るという予報でしたがそのとおりになりました。12日の続きでクワの大木のところまで片づけました。
ゴミが多い場所で、捨てやすかったのでしょうか。一升瓶やジュース缶、栄養ドリンク、衣類や生活雑貨、コンクリート片など捨てられて何年も経ったものが出てくるとガッカリします。
2023年最初の活動日。参加者は芦田さん、新井さん、江原さん、金子さん、木谷さん、木庭さん、斉藤さん、鳥取さん、新倉さん、細川さん、丸山さん、鷲巣さん、渡部さん、Hikizineと小松さんの15名でした。
ナラ枯れ枯死木№215の伐採をしました。
YouTubeの市民の森チャンネルで斉藤さん撮影の動画[市民の森保全クラブ(20230113) 9分17秒]を公開しました。
尾根のアカマツは樹勢回復のためにルートカラー(根株・根張り)が見えるように管理します。今年は夏季に作業ができなかったので落ち葉に埋もれていますが、刈払機をかけました。
今日は江原さん、斉藤さんが火をおこして、新井さんが焼きいもを担当しました。次回は22日(第4日曜日)は金子さんが焼きいも担当です。
岩殿I地区下段と学びの道の間の斜面の笹苅りと土水路の泥上げをしました。
根茎が横に広がっているのが判ります。岩殿では毎年開花前に花茎を切り取って種子散布による分布拡大を防止してきましたが、いまだ眼にみえるような効果は出ていません。
退治方法
①掘り出す :土の中に太い根っこ、根茎(こんけい)が横に長く埋まっている(生姜に少し似ている)。種から育ったばかりの若い株であれば葉の部分を持って引き抜ける。大抵はしっかり根付いているので葉だけがちぎれてしまう。根から引き抜くのはコツが必要だが、駆除及び根絶のためには欠かせない作業。
②花を落とす :湿原全体に広がってしまった外来種を全て短期間で抜くのは困難。よって、これ以上の拡大を防ぐために花を鋏などで切り落とす。その個体は種子を残せないので、新しく増えることがない。もちろん根茎は残っているため、来年も花を咲かせる可能性はある。しかし外来種とのイタチごっこを終わらせるためには必須の作業である。鋏で手軽にできることもポイントが高い。
※中嶋佳貴「外来水生植物キショウブの繁殖特性と適切な管理法」(『岡山大学農学部学術報告』111巻、2022年)
はじめに
キショウブについて
キショウブ(Iris pseudacorus L.)はアヤメ科アヤメ属の多年生抽水植物で、自然高は0.4~1.5 m に達し、 4 ~6 月に鮮黄色の美しい花を咲かせて、湖沼や河川の沿岸帯に美観を創出する)。岡山市民の憩いの場である西川緑道公園のキショウブ群落も、開花期には散歩する市民の目を癒している。朔果は断面がほぼ三角形をした4.0~7.5 ㎝程度の長楕円形をしており、 9 ~11月に成熟して裂開し、種子を散布する。秋季には新しい分蘖が出現し、越冬後、春季には一部の分蘖から花茎が伸長し始める。繁殖力は旺盛で、高い窒素要求性を有するため、富栄養化の進んだ水域環境下でも多く見出される。
ダム貯水池のように貯水量の増減に伴って大きく水位変動が生じ、冠水条件や乾燥条件が繰り返される水辺環境でも生育することが可能である。耐乾性や、水中の窒素・リン除去及び重金属除去などの水質浄化能にも優れた特性を有している。地下部は直径 1 ~ 4 ㎝の根茎を有し、不定根を地表面付近でマット状に発達させるため護岸の土壌浸食も抑制できる。
原産はヨーロッパから中央アジアであり、日本には明治時代に園芸植物として導入され、現在では全国各地の湖沼、ため池、河川、水路などに帰化している。世界ではヨーロッパ全土に分布し、特にイギリスやアイルランドでは河川や湖沼の水辺緑化に利用されている事例が多い。また、北アメリカ全土、アジアではコーカサス地方、シリアやシベリア地方、さらに北アフリカや、南半球のニュージーランドまで分布が広がっている。これらの地域の大部分が日本と同じように、当初は園芸用として導入された経緯がある。
我が国では植生護岸を始めとした水辺緑化において、景観形成を特に期待する場合、花の美しさを水辺のアクセントとして盛んに利用されてきた。しかし、2005年に制定された外来生物法において、重点対策外来種(旧要注意外来生物リスト)にリストアップされた。
キショウブの開花特性
キショウブの種子繁殖特性
キショウブの栄養繁殖特性
キショウブの耐冠水性
お わ り に
既に日本全土に分布が拡大している現在、制定された法律上、注意すべき存在とはいえ、修景効果などのメリットを尊重しなくてよいのでしょうか。今後、キショウブ群落が他の生物に対して与える生態的影響については継続的に評価を続けます。それを踏まえて、これまでに得た繁殖特性の知見を活用することで、適切な管理によってその場で許容される群落が維持されることを期待しています。……[注番号は略]
岩殿D地区中段と学びの道の間の斜面で刈り残っていたアズマネザサを刈り、下の土水路の泥上げをしました。
萌芽しているコナラ
風が吹いていましたが、入山沼下は午前中は陽当たりがよいので、快適に作業できます(鳩山アメダスの日最高気温9.6℃、日最大風速9.2m/s。12:00では気温8.7℃、風速6.8m/s。昨日9日の日最高気温14.5℃、日最大風速4.4m/s。12:00では気温12.5℃、風速1.2m/s)。入山沼下と違って、岩殿C地区は午前中は日影、午後になって陽が差してきます。
今日は岩殿B地区の上の池の泥と落ち葉をあげました。
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