2022年12月
岩殿I地区の上段で刈草と落葉を燃しました。
ついでに焼き芋もしました。
2022年9月3日から11月27日まで三芳町歴史民俗資料館で企画展『三芳とさつまいも』が開催されていました。江戸時代の焼き芋の歴史について進藤つばらさんの「レシピが123種類も!? 江戸時代の「焼きいもブーム」がアツすぎる!!」(『日本文化の入り口マガジン和楽web』10月26日記事)はビジュアルでわかりやすいです。Wikipediaの「焼き芋」の参考文献から井上浩「わが国の焼き芋関係年表」。
第1次ブーム:文化・文政期(1804年)~明治維新(1868年)第2次ブーム:明治時代~関東大震災(1923年)第3次ブーム:1951年~大阪万博(1970年)第4次ブーム:2003年~現在
いも類振興会理事長矢野哲男さんの「最近の焼きいもの動向」(「野菜情報」2022年10月号)
国内での焼きいもの歴史さつまいもは約400年前にわが国に伝来したとされるが、いつの時点から焼きいもが誕生したかは定かではない。地域によって、人と焼きいもとの接点はさまざまであったと思われるが、文献として確認できるのは、1719年(享保4年)の朝鮮通信使の記録で、京都郊外の道端で焼きいもを売っている情景が記述されている。
その後、江戸時代には商品として庶民に広く親しまれるようになり、300年の時を経て、現在ではスーパーやコンビニエンスストアの店頭で誰もが気軽に買えるようになった。現在にいたるまで4回ほどあった「焼きいもブーム」については、東京を中心に以下のように整理している。
【第1次ブーム】 江戸時代後期の文化文政期(1800年頃)から江戸末期まで
・木戸番屋(町ごとに警備のために設けられた詰め所)で、甘くておいしく、値段が安い焼きいもが売られ、人気を博した。
・原料のさつまいもは、新河岸川で結ばれる川越と、海路がある幕張から大量に送られてきた。
・土のかまどに焙烙(素焼きの平たい土鍋)を載せていもを丸ごと、あるいははす切りにして並べ、蒸し焼きにした。
【第2次ブーム】 明治維新(1868年)から関東大震災(1923年)まで
・東京の人口が急増し、低所得者も多かったため、安価な焼きいもが大人気となった。
・大きなかまどを幾つも並べた大型専門店が続々現れ、最盛期には2000軒を数えた。
・関東大震災を境に食習慣がパンや洋菓子に移り、かまど焼きの焼きいもは衰退した。
【第3次ブーム】 太平洋戦争後の食糧事情がやや緩和して、さつまいもの統制が解除された頃(1950年)から大阪万博(1970年)まで
・墨田区向島の三野輪万蔵氏が「石焼きいも」を考案、リヤカーで「引き売り」を開始。
・これが東京中に広まり、冬場の出稼ぎに来た売り子は1000人以上に達した模様。
・しかし、大阪万博を機にファストフードやコンビニエンスストアに押されて、売れなくなった。
【第4次ブーム】 2000年初頭から現在まで
・甘くてねっとり系の「安納芋」の焼きいもが若い女性を中心にスイーツ感覚で注目され、2007年に公表された食味の良い品種「べにはるか」の登場でブームに一気に火が付いたとされる。
・この背景には、電気式焼きいも機が開発されてスーパーやコンビニエンスストアなどに設置され、ねっとり系の焼きいもが気軽に購入出来るようになったことが大きな要因としてある(写真1)。
・寒い時期のみならず夏でも人気の「冷やし焼きいも」が定着するなど、季節を問わず一年を通じて国民生活に浸透している。
市民の森保全クラブ、2022年最終活動日です。参加者は芦田さん、新井さん、片桐さん、金子さん、木谷さん、鳥取さん、新倉さん、細川さん、丸山さん、鷲巣さん、渡部さん、Hikizineと大東文化大学研究生の顧[顾・Gù]さんの13名でした。
2022年度ナラ枯れ枯死伐採・剪定木のうち、尾根の道沿いの2本を伐採しました。
№30(樹齢38)
№202(目通り直径45㎝、樹齢45)
タープの横に大きくはみ出していた単管パイプを交換して短くしました。
修理のため、12月9日に頂戴したリヤカーの大きいほうのタイヤを外しました。
今日の焼き芋は焚き火を維持できず、途中で消してしまい焼き上げられませんでした。
師走も押し迫った12月23日、岩殿入山谷津を探訪、画像レポ、ご報告いたします。市民の森保全クラブのメンバーとご一緒に入山谷津の冬の姿、楽しむことができました。歳末、寒冷の谷津田の姿は初めてで、発見も多々、ありがとうございました。霜の結晶が落葉や冬越しが植物に付着、自然がつくる造形美など、良いものを見せて頂きました。冬の岩殿入山谷津の姿、ご覧ください。
クサイチゴ、コナラ
ワラビ
ケキツネノボタン
セリ、コナラ
アズマネザサ、コナラ、ヘビイチゴ
二宮さん、小野さんと木谷さん、丸山さんで入山谷津の植物観察・調査をしました。
冬至梅:野生の梅の系統の早咲き品種です。
ノガリヤス(イネ科)
野刈安は野に生えるカリヤスの意味。(牧野富太郎『新日本植物図鑑』)
野刈安は野にはえて刈りやすい草の意味。サイトウガヤは西塔茅の意味で、初め本種を比えい山[比叡山]、西塔の付近で採ったためこの名がつけられた。(笠原安夫『日本雑草図説』)
和名は野刈安で、茎葉がカリヤスに似ているが、利用されないためで、また別名西塔茅は、比叡山西塔の付近に多いため。(平凡社『日本の野生植物』Ⅰ)
和名は野刈安で、茎葉がカリヤスに似ているが、利用されないためで、また別名西塔茅は、比叡山西塔の付近に多いため。(平凡社『日本の野生植物』Ⅰ)
カリヤス:古名はカイナで、オウミカリヤス(近江刈安)ともいう。有名な黄色の染料植物で、栽培もされ、江戸時代まで利用されたという。(平凡社『日本の野生植物』Ⅰ)
ノガリヤス〈野刈安/別名サイトウガヤ〉:染料植物として知られるススキ属のカリヤスに似ていて、野に生えることからつけられた。刈安は刈りやすいの意味。別名は西塔茅で、比叡山の西塔付近ではじめて採集されたことからつけられたという。(山渓ハンディ図鑑『野に咲く花』)
※近江刈安
【長浜農業高校】伝説の近江刈安復活!新たな特産品ここに誕生!!~長浜浜ちりめん製袱紗完成!米原市にて販売開始へ!!~(滋賀県教育委員会「お知らせ」2021年3月11日)
長浜農業高校食糧生産分野では、課題研究の一環として、古くから染料作物として伝わる近江刈安(別名:伊吹刈安)を活用したプロジェクト活動を実践してきました。昨年度は米原市環境保全課の協力により、近江刈安の栽培管理に古くから携わってこられた森壽郎様ご夫妻やその普及活動に携わってこられた工房いぶき野の的場いつ子様をお招きし、近江刈安に関する講演と染物交流会を実施してきました。三日月大造滋賀県知事や平尾道雄米原市長にも学習成果の報告を行い、県民の皆様への情報発信も行いました。昨年度は特産品開発と普及活動の実践を目の前に、新型コロナウイルス感染症により、活動の中断を余儀なくされましたが、試行錯誤の結果、長浜市の特産である浜縮緬を使用した袱紗が完成しついに販売が実現となりました。最終的には東北部工業技術センターにてJIS規格による品質検査を実施し、すべての項目において基準値を大きく上回る品質の高い商品ができあがりました。つきましては、販売窓口となります米原市商工会の米原市特産品市場 orite CONSE にて新商品開発の紹介を行います。また、3月14日には伊吹山文化資料館にて一般向け講習会も予定しております。故郷の伝統文化を継承し、地域に新たな息吹を吹き込む高校生の取り組みにご期待ください。……
「刈安(かりやす)」について(『花邑の帯あそび』2012年10月25日記事)
さて、このススキに姿が良く似たものに、「刈安(かりやす)」とよばれるイネ科の植物があります。
ススキと同じように晩夏から初冬にかけて穂をつけ、ススキに比べ、穂の数が少なく、少し丈が低いのが特徴です。この刈安は、黄色系の色調をあらわす染料として、古来より重宝され、着物文化にもたいへん縁の深い植物です。
今日は、この刈安についてお話ししましょう。刈安の産地は、日本列島の中部と近畿地方です。
その中でも、琵琶湖近くに位置する伊吹山(いぶきやま)で収穫されるものはとくに「近江刈安」とよばれ、「正倉院文書」にもその名前が残っています。正倉院に伝えられた宝物の織物のうち、黄色系に染められたものの多くは、この刈安が染料になっています。また、平安時代に記された「延喜式」には、刈安を用いた染色方法が記されています。刈安を用いた染色では、穂が出る前に刈り取った刈安を乾燥させ、乾燥させたものを熱湯で煮だして染液とします。刈安は黄色系だけではなく、藍と併用することで、緑系の色を染める染料としても用いられます。
この刈安という名前の由来には、「刈りやすい草」という意味合いがあり、他の染料に比べ、染色が容易だったことから、庶民が着る衣服の染料として、広まりました。
刈安は染料のほか、薬草としても用いられました。江戸時代の頃には、消化を助けたり、腫れ物の消毒する医薬品として、各地で栽培されていました。
八丈島には、刈安と同じイネ科の「こぶな草」が多く自生していますが、こちらも黄色系の染料として用いられ、「八丈刈安」とも呼ばれています。この「八丈刈安」で染めた糸を用いて織られた紬は黄八丈と呼ばれ、江戸時代の頃に粋な着物として、人気を博しました。
明治時代以降になり、化学染料が用いられるようになると、刈安の栽培は少なくなり、現在では、特定の地域で栽培されるのみとなりました。しかしながら、「八丈刈安」で染めた刈安色の黄八丈は、現代でも人気が高い紬のひとつです。…
横山正「伊吹山の刈安」( 大垣地方ポータルサイト西美濃の連載『大垣つれづれ』2014年6月16日記事)
……イネ科ススキ属の刈安による黄色には、わずかながら緑味があって、黄色の染め以外にも、古くから深緑色に染める際に、藍との交染で用いられてきたという。この刈安について伊吹山産のものが古来、高名というのも、吉岡さんのご本で知ったのである。
吉岡さんの書かれた本のひとつに『日本の色を歩く』というのがある。雑誌の連載を編集した新書だが、その中に伊吹山の刈安について書かれた一章がある。それによると伊吹山の中腹の斜面に刈安の群生があり、吉岡さんの工房ではこれを毎年、大事に使っておられるとのことである。吉岡さんのご本の内容を受け売りすると、黄色の色素のもとになっているのはフラボンという成分で、これが紫外線を調節する役目を果たしており、標高が高く紫外線を遮る高木が無い伊吹山腹のようなところでは、とくに多量のフラボンが蓄積されて黄の発色が鮮やかになるのだそうだ。奈良時代の正倉院文書にも「近江苅安」とあり、また平安中期に制定された「延喜式」に黄色に染める材料として「苅安草」とあるが、これまた同じ近江刈安、すなわち伊吹山の刈安であろう。収穫の場所としては美濃にあたる部分も含まれようが、名称は京に近い近江で統一されていたのであろう。
「延喜式」の「縫殿寮」(ぬいどのつかさ)の項には染めに必要な分量などが細かく規定されており、それによれば椿の灰が発色のための媒染材に用いられたことも分かる。古来から深黄(ふかきき)、浅黄(あさきき)以外に、深緑の染めにも用いられたのは先述の通りである。17世紀の初頭、イエズス会の宣教師が編纂した日本語辞典、通称『日甫(にっぽ)辞書』にも、「カリヤス。この名で呼ばれる草で、緑がかった黄の色合いに染める染料として用いられる」と出ている。刈安は一見したところススキに似るが、穂の出方、葉のつき方、背丈などで見分けられる。ススキは硅酸化合物が葉の縁に付くので、葉を引張って指が切れたらススキ、葉が千切れたら刈安というおそろしい見分け方を記した本もある。もちろん吉岡さんの著書ではない。吉岡さんによれば正倉院文書には「苅安紙」という記述があるそうで、布だけでなく紙を染めることもあったようだ。黄蘖やウコンの染めは防虫効果があるようだが、刈安の黄も色ゆえに同様に考えられたのだろうか。もちろん漢方薬として用いられることはあったようだが。
市民の森保全クラブ活動日。参加者は芦田さん、江原さん、金子さん、木谷さん、斉藤さん、鳥取さん、新倉さん、細川さん、丸山さん、渡部さん、Hikizineと大東文化大学の学生ボランティアの藤原さん、松本さんの13名でした。
ナラ枯れ枯死木№19を伐採しました。
カシノナガキクイムシの孔道です。
ナラ枯れ枯死木№134(目通り直径52㎝、樹齢52)は高所作業で伐採しました。
YouTubeの市民の森チャンネルで斉藤さん撮影の動画[市民の森(202212116) 4分56秒]を公開しました。
斉藤さんはドローンで入山谷津と市民の森も撮影しました。尾根の道と四阿
ドローンから撮影した入山沼下の岩殿A・B、D、E地区
今日は細川さんが育てた児沢産の紅はるか40本を焼き芋にしました。
市民の森保全クラブ定例活動日。参加者は芦田さん、新井さん、江原さん、片桐さん、金子さん、鳥取さん、橋本さん、細川さん、丸山さん、渡部さん、Hikizineと小松さん、解散時に到着した鷲巣さんの13名でした。
コナラ枯死木№27(目通り直径32.5㎝、伐採面直径35㎝、樹齢58)を伐採しました。
はじめに
1 生きるために食べる
2 朝の屁祭り1 生きるために食べる
3 反省しないで生きる
3の補論 「反省しないで生きる」を日本人はどう捉えたか4 熱帯の贈与論
6 ふたつの勃起考
7 慾を捨てよ、とプナンは言った
9 子育てはみなで
10 学校へ行かない子どもたち
11 アナキズム以前のアナキズム
12 ないことの火急なる不穏
13 倫理以前、最古の明敏
14 アホ犬の末裔、ペットの野望
15 走りまわるヤマアラシ、人間どもの現実
16 リーフモンキー鳥と、リーフモンキーと、人間と
おわりに 熱帯のニーチェたち
今日のニーチェ
ニーチェとプナン
プナン社会では、与えられたものを寛大な心ですぐさま他人に分け与えることを最も頻繁に実践する人物が、最も尊敬される。そういう人物は、ふつうは最も質素だし、場合によっては、誰よりもみすぼらしいふうをしている。彼自身は、ほとんど何も持たないからである。ねだられたら与えるだけでなく、自ら率先して分け与える。何も持たないことに反比例するかのように、彼は人々の尊敬を得るようになる。そのような人物は、人々から「大きな男」、すなわちビッグ・マンと呼ばれ、共同体のアドホックなリーダーとなる。そうしたリーダーのあり方は、高級なスーツを身にまとったり、高価な時計を腕に着けたり、ピカピカの高級車を乗りまわしたり、平気で公金を私的に流用したりする先進国の(一部の)リーダーたちとなんと違っていることか。(69 ~70頁)
逆に、彼が個人的な慾に突き動かされるようになり、与えられたものを独り占めして出し惜しみし、財を個人の富として蓄えるようになれば、彼が発する言葉はしだいに力を失っていく。それだけではなく、人々はしだいに彼のもとを去っていく、その時、ビッグ・マンはもはやビッグ・マンではなくなっている。プナンは、ものを惜しみなく分け与えてくれる男性のもとへと集うのである。(70頁)
ものをもらった時、何かをしてもらった時に、相手に対して感謝の気持ちを伝える「ありがとう」という表現は、プナン語にはない。ふつう、贈り手に対しては、その場では、何の言葉も発しない。他方で、「ありがとう」に相当する言い回しとして、「よい心」という表現がある。それは、「よい心がけ」であると、贈り手の分け与えてくれた精神性を称える表現である。感謝されるのではなく、分け与える精神こそが褒められるのである。
その意味で、ビッグ・マンは、「よい心がけ」という言い回しによって表わされる文化規範の体現者でもある。熱帯の狩猟民は、有限の自然の資源を人間社会の中で分配するために、独自の贈与論を生み出してきた。(71頁)
プナンの小宇宙では、こうした持つことと持たないことの境界が無化された贈与と交換の仕組みが深く根を張っていて、貨幣を介して、持ちものやお金をためこもうとたくらんで外部から滲入してくる資本主義をばらばらに解体しつづけているのである。(72頁)5 森のロレックス
6 ふたつの勃起考
7 慾を捨てよ、とプナンは言った
個人的に所有したいという慾への初期対応の違い。8 死者を悼むいくつかのやり方
一方は、所有慾を認め、個人的な所有のアイデアを社会のすみずみにまで行き渡らせ、幸福の追求という理想の実現を、個人の内側に掻き立てるような私たちの社会。他方は、個人の独占慾を殺ぐことによって、ものだけでなく<非・もの>までシェアし、みなで一緒に生き残るというアイデアとやり方を発達させてきたプナンの社会。
プナン社会では、個人的な所有が前提ではなかった。それゆえに、そこでは、概念としての「貸し借り」は、長い間存在しなかったのである。(127頁)
9 子育てはみなで
10 学校へ行かない子どもたち
11 アナキズム以前のアナキズム
12 ないことの火急なる不穏
13 倫理以前、最古の明敏
14 アホ犬の末裔、ペットの野望
15 走りまわるヤマアラシ、人間どもの現実
16 リーフモンキー鳥と、リーフモンキーと、人間と
おわりに 熱帯のニーチェたち
今日のニーチェ
ニーチェとプナン
ユニークな趣向の『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のことを教えてくれた』[原田マリル、ダイヤモンド社、2016年]の主人公アリサは言う。「人生は無意味だから、自由に生きてやれというニーチェの言葉に感じたのが真新しさだった。“人生には、生まれてきたことには必ず意味があるから、大切に生きようね”というような言葉は耳にしたことがあったが、無意味だからこそ、自由に生きるという発想は、いままでの私にはなかったからだ」。ニーチェは私たちの常識をひっくり返す。人生は無意味だからどうでもいいと考えるのではなく、力強く、快活に生きなければならないと言う。私たちが「永遠回帰」を生きているのだとすれば、そのニヒリズムを受け入れ、「超人」になるべきだと説く。熱帯の大いなる正午
そのように、ニーチェが近代的自我に対して別の生の可能性を提起したのだとすれば、プナンもまたニーチェと同じように私たちに別の生の可能性を示してくれているのだと言える。プナンが日々の暮らしの中で示す振る舞いや態度は、天才的な閃きによって生の本質に迫ろうとしたニーチェの思想に部分的に交差し、それに匹敵するような衝撃を私たちにもたらしてくれる。プナンの生き方は、現代の日本に生きる私たちが、これまであまり立ち入って考えてこなかった事柄を立ち止まって考えてみることを促す。
私たちは、一生をかけて何かを実現したり、今日の働きで何かが達成されたりすることをひそかに心に描いて働いている。あるいは、現在の暮らしの水準を維持するために働くということがあるかもしれない。ところが、プナンは、これこれのことを成し遂げるために生きるとか、将来何かになりたいとか、世の中をよくするために生きるとか、生きることの中に意味を見出すことはない。生きることに意味を見出すことがないプナンの生き方は、ニーチェのいう「永遠回帰」の思想に通じる。
永遠回帰とは、あらゆる出来事が永遠に繰り返されることである。それは、第一に、何かをしても何もしなくても、明日には今日と同じ日がやって来て、そのことが永遠に繰り返されることである。第二に、ある一日がどんなにつらい日であっても、いつかは終わりが来ると信じて、その日をやり過ごすことができるが、それには終わりが決して来ないということである。
プナンは、こうしたぐるぐると繰り返す「円環的な時間」を無意識のうちに生きているのかもしれない。そうだとすればプナンは、向上心や反省心を持ち、人間としての完成に近づいていくという「直線的な時間」を生きている私たちとは異なる時間形式を生きていることになる。「反省しない」ことは、永遠回帰を生きる人々にとっての生きるための技法だったのではあるまいか。(320~322頁)
ニーチェは「大いなる正午」[『ツァラトゥストラ』]という比喩を用いて、価値感をめぐる根源的な問いに気づくことの大切さを説いている。それは、「真上からの強烈な光によって物事がすみずみまで照らされ影が極端に短くなり、影そのものが消えてしまった状態」[飲茶『飲茶の「最強!」のニーチェ』水王社、2017年]のことである。「影が消える」とは、世界から価値感がすべてなくなってしまった状況である。「影が見える」から「明るい部分」と「暗い部分」が生じ、「これは善い」「あれは悪い」という善悪の価値判断が現れる。大いなる正午とは、真上から強烈な光に照らされて影の部分がない、善悪がない状態である。
ニーチェを踏まえて、森の民プナンと暮らして彼らの考えや物事の捉え方を知ることがいったい何であったのかを考えてみよう。「大いなる正午」とは、世界には固定された絶対的な価値感が存在しないということを、体験を通して理解することに他ならない。私にとって、ボルネオ島の森でプナンと一緒に暮らすことは、「大いなる正午」を垣間見る経験だった。それは、「すべての価値感、すべての意味付け、すべての常識が消え去り、何ひとつ『こうである』と言えるものがない世界」に触れることへの入り口だったのではあるまいか。そうだとすれば、人類学とは、別の世界の可能性を、私たちの日常の前にもたらすことによって、私たちの当たり前を問い直してみることや、物事のそもそもの本質的なあり方に気づくという、これまでよく言われてきたこととはやや趣が異なる知的な営為なのではあるまいか。
剥き出しの自然に向き合う中で、数々の困難を乗り越え、知恵を紡ぎ、物事の見方ややり方を築き上げてきた森の民が示してくれる、現代世界に生きる私たちの生活とは異なる別の生の可能性のようなものは、たしかにあるのだと感じられる。それらは、熱帯の森でデカルトを経由せずに象[かたど]られた自我の振る舞いから構成される。しかしそれらが、私たちのやり方に比べて、善きものであるとか、素晴らしいものであるとか、美しいものであると言うことは一切できない。人類学者がフィールドで暮らしてあれこれ考えてみることは、世界から価値感がなくなってしまう「大いなる正午」に出くわす経験に近いのだ。
とは言うものの、何ひとつこうだと言えるものがないということに気づき、そのニヒリズムを受け入れたとしても、ニーチェ流に考えるならば、無意味だからどうでもいいといののではなく、何の意味もないのだからむしろ力強く、積極的に考え、そして生きてみなければならないことになるのではないだろうか。過失に対して一切ごめんなさいと言わないことを不思議がるのと同じように、ごめんなさいと次から次へと公的な場で謝る自分を私たちはもっと不思議がってもいいだろう。ありがとうという言葉や概念がないことの背後に謝意を示す仕組みがないことを知りえたのであれば、私たちが使うありがとうの意味をより明瞭にする事もできるだろう。プナンと暮らして考えたもろもろのことは、ニーチェ的に言えば、何ひとつこうであるということができない、あらゆる価値感が消失した世界の発見へとつながっている。だがそれでもやはり、いやだからこそ、それらには、ストレスをためこんで将来に対する言いようもない不安を抱えながらも、自らのうちに閉じ籠もってしまう社会状況に生きていると薄々感じている私たちに届いて、より自由になって考え、力強く、愉しく生きてみるための手がかりが埋もれているのだと感じられてならないのである。(327~329頁)
※西牟田靖「森の民と狩猟生活をともにした人類学者がどうしても食べられなかった「極上の獲物」とは(『メシ通』2020年8月28日記事)
奥野克巳さんの『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房、2018年6月)を読みました。ボルネオ島のマレーシア・サラワク州ブラガ川上流域で暮らす狩猟採集民プナンの集落での共同生活とフィールドワークから見えてきたこと。豊かさ、自由、幸せとは何かをニーチェの思想にからませて、日本社会のあたりまえを問い直しています。


はじめに
1 生きるために食べる
私たち現代人は、食べ物だけでなく、あらゆる必要なものを外臓[体の外側に備蓄]する世界に生きている。そのため、それらの財を交換によって入手するために必要な貨幣を手に入れる手立てをまずは確立せねばならない。その手立てには、人間が生きがいや生きる意味を見出すプロセスが伴ってくる。そこでは、ニーチェが言うように、仕事の悦びなしに働くよりは、むしろ死んだほうがましだと考える人間も出てくる。2 朝の屁祭り
現代に生きる私たちは、生きるために食べるのではない。生きるために食べるために、それとは別個のもうひとつの手続きを踏むことによって生きている。それに対して、狩猟採集民は生きるために日々、森の中に、原野に、食べ物を探しに出かけるというわけだ。(19頁)
3 反省しないで生きる
或るいっそう偉大な個人か、たとえば社会・国家という集団的個人かが、個々の人々を屈服させ、したがって彼らの孤立化から引きずり出して一つの団体に秩序づけるとき、そのときはじめてあらゆる道徳性のための地盤が整えられるのである。道徳性には強制が先行する、それどころか道徳性そのものがなおしばらくは、人が不快を避けるために順応する強制なのである。後になるとそれは風習になり、さらに後になると自由な服従となり、ついにはほとんど本能となる。そのときそれは、長い間に馴れて自然のようになったあらゆるものと同様、快と結びついているー―そして今や徳とよばれる。フリードリッヒ・ニーチェ『人間的、あまりに人間的Ⅰ』
私自身が、プナンのフィールドワークの初期段階で抱えていた違和感のひとつは、「プナンは日々を生きているだけで、反省のようなことをしない」というものだった。私が町で買って持ち込んだバイクを貸すと、タイヤをパンクさせても、何もいわずにそのまま返してくる。バイクのタイヤに空気を入れるポンプを貸すと、木材を運搬するトレーラーに轢かれてペチャンコになったそれを、何も言わずに返却してくる。こうした様々な体験がその違和感に含まれる。
プナンは、過失に対して謝罪もしなければ、反省もしない人たちだと言うのが、私の居心地の悪さに結び付いていたのである。(39頁)
ここからは私の経験によるあて推量であるが、出来事を悔いたり、やり方について思い悩んだりするというやり取りは、ふつうプナン同士ではしない。ある出来事の未達や間違いを残念であった、悔やんでいると述べるようなことは、たまにあるように思う。しかし、プナンが、「~しなければならない/しなければならなかった」といういい方をすることは、実際にはほとんどない。(49頁)
言い換えれば、プナン人たちは、「後悔」「残念」という感情を持つけれども、「~しなければならなかった」「~したほうがよかった」という言い回しを用いて、反省へと向かわないようなのである。後悔と反省とは違う。後悔は悔やむことで、反省とは、後悔をベースにして、ああすればよかった、こうすれば適当だった、次回同じようなことがあったらこうしようなどと思いめぐらすことを含む。(50頁)
プナンは、後悔はたまにするが、反省はたぶんしない。なぜ反省しないのか。いや、その問い自体が変なのかもしれない。実は、私たち現代人こそ、なぜそんなに反省するのか、反省をするようになったのかと自らに問わなければならないのかもしれない。しかし、とりあえず今、プナンがなぜ反省しないのか、しないように見えるのかについて考えてみれば、以下の二つのことが考えられる。
ひとつは、プナンが「状況主義」だということである。彼らは、過度に状況判断的である。その時々に起きている事柄を参照点として行動を決めるということをつねとしていて、万事うまくいくこともあれば、場合によっては、うまくいかないこともあると承知している。そのため、くよくよと後悔したり、それを反省へと段階を上げたりしても、何も始まらないことをよく知っているのである。
もうひとつは、反省しないことは、プナンの時間の観念のありように深く関わっているのでなないかという点である。直線的な時間軸の中で、将来的に向上することを動機づけられている私たちの社会では、よりよき未来の姿を描いて、反省することをつねに求められている。そのような倫理的精神が、学校教育や家庭教育において、徹底的に、私たちの内面の深くに植えつけられている。私たちは、よりよき未来に向かう過去の反省を、自分自身の外側から求められるのである。しかし、プナンには、そういった時間感覚とそれをベースとする精神性はどうやらない。狩猟民的な時間感覚は、我々の近代的な「よりよき未来のために生きる」という理念ではなく、「今を生きる」という実践に基づいて組み立てられている。(50~51頁)
……私たちは、プナンと違って、日々反省するように動機づけられている。反省することは風習であり、自由な服従であり、本能であり、そして今や徳でもあるのだ。(51頁)3の補論 「反省しないで生きる」を日本人はどう捉えたか
反省することは、果たして、人間に本来的に備わっている思考と行動のパターンなのだろうか。いや、自らを再帰的に振り返るという思考と行動が、ある時から出てきたのだろうか。そうだとすれば、人類は反省することを、いったいどの時期に手を入れたのか。そうした想定が正しいものだとすれば、私たち人間は反省する文化を持つようになったのだと言える。個人的な反省ではなく、集団的な反省のようなものがあって、人類の生存価が高まったのかもしれない。集団が先か、個人が先か、反省とは個的な行為なのか、あるいは社会的な行為なのか。
私たちはふだん、反省することがいかなることなのかを顧みることなく、何かにつけ反省をしている。私たちは、ある意味息苦しい、反省することの世界の外へいったん出てみることができるのか、できないのか。(62頁)
ヤマウルシ(ウルシ科)
ウルシは鋸歯がなく、ヤマウルシは「成木の葉は全縁または1〜2個の歯牙がある。幼木の葉は鋸歯が多く目立つ。」(『松江の花図鑑』ヤマウルシ)とありますが、そのとおりですね。
カマツカ(バラ科)
ヤマコウバシ(クスノキ科)
ボタンヅル
オニノゲシ、ノゲシ(キク科)
ネジキ(ツツジ科)
ゲジゲジシダ(ヒメシダ科)
1回羽状複葉
スギゴケ(コケ植物スギゴケ科)
ケヤキフシアブラムシ
アカシデメフクレフシ
ツマグロオオヨコバイ
※コケとはどんな植物(国立科学博物館標本・資料データベース「コケ類コレクション」)
「コケ」という名前はいろいろな植物のなかまに使われていますが、本来のコケのなかまをさす正式な名称はコケ類(または、コケ植物、蘚苔類)で、分類体系では普通一つの門として扱われています。コケ類には、セン類、タイ類、ツノゴケ類の3つのグループがあります。では、これらのグループに共通したコケ類の特徴とは何でしょうか。
コケ類は種子をつくらず、胞子でふえるのでキノコやシダに似ています。しかし、緑色をしていることから分かるようにコケ類は葉緑体をもっていて光合成を行うので(独立栄養)、葉緑体をもたず他の生物に栄養を依存する(従属栄養)キノコやカビの仲間とはだいぶ異なります。
では、野外で同じようなところに生えているシダ類と比較しながら、コケ類の生活史を見てみましょう。
私達が普段目にしているコケ類の本体は配偶体(染色体数がn)と呼ばれるもので、シダ類の前葉体がそれに対応していることがわかります。一方シダ類の本体は胞子体(染色体数が2n)です。コケ類の胞子体は配偶体の上に発達し、一生配偶体から離れることはありません。さらに、シダ類と種子植物をまとめて維管束植物と呼ぶように、シダ類の体には水や養分を運ぶ維管束が発達していますが、コケ類には見られません。
「コケの付きが悪く今年のアユはいまいち」などと魚釣りの好きな人は言いますが、この場合のコケは今回の主人公のコケ類ではなく、水中の岩に付着する珪藻などのソウ類です。ソウ類の中でも緑藻はコケ類の先祖として考えられているグループです。しかし、緑藻は生殖器官が単細胞であることや、陸上植物に共通した特徴である胚をもたないことなどがコケ類と大きく異なっています。
まとめますと、胞子で増え、光合成を行い、その本体は配偶体で、維管束を持たず、造精器や造卵器などの多細胞でできた生殖器官をもつ生き物がコケ類であるといえます。
※コケ植物の観察 スギゴケとゼニゴケ 2:41(YouTubeのYanoteaチャンネル)
コケをじっくりと観察したことはありますか?
いろいろな形をしていて、見ていると時間が経つのを忘れるかも知れません。
今回は、「スギゴケ」と「ゼニゴケ」を観察してみます。
コケ植物は、一般的にはあまり日当たりの良くないジメジメと湿っている場所に見られます。
これは、種子植物やシダ植物にはある維管束がないために、体の表面で水分を常に吸収しないと体が乾いてしまうからです。
また、仲間をふやすときに、雄株でつくられた精子が雨の日に雌株まで泳いでいくというのも湿っていることと関係ありそうです。
二宮さんが11月28日に実施した晩秋の林縁観察会で撮影した画像を提供して戴きました。ありがとうございます。
久々に古刹正法寺、岩殿観音を訪れ、大イチョウの巨樹の神秘なる存在感、息を飲む黄葉の美しさに感動。みなさん一同で石坂の森(テーダマツの実生の林地点まで)、林床の植物、雑木、つる植物など観察、市民の森ではテーダマツの4葉、5葉探し、ボッシュ林では幼木のヤマウルシ、アカシデの紅葉、アオハダの黄葉観察、青木の入へと丘陵を下りました。そして入山谷津の林縁めぐり、マント群落の低木、つる植物の色とりとりどりの木の実、草の実を観察。くまなく林縁を巡り、岩殿の谷津を満喫しました。参加者はガイドなかま、秋ヶ瀬のメンバー、都内の植物愛好者らで、晩秋の岩殿の素晴らしさを体験、感激しておりました。来季は春、秋にメンバーを募って観察会をと考えています。その折には市民の森保全クラブのスタッフの方々も交えて、丘陵、谷津田の魅力を学びたいと考えています(二宮靖男)。
坂東第10番岩殿観音正法寺(正法寺HP)
------------------------------------------------------------
左:15.5.16のスタンプがあります。昭和15年(1940)でしょうか。
中:1947年10月28日撮影の航空写真(米軍)
右:1978年10月撮影の空中写真(国土地理院)
※ハイキングコース(赤沼林道~岩殿山~笛吹峠)(2015年11月19日記事)市民の森保全クラブ、12月最初の活動日です。参加者は芦田さん、江原さん、片桐さん、金子さん、木谷さん、木庭さん、鳥取さん、新倉さん、細川さん、丸山さん、鷲巣さん、渡部さん、Hikizineの13名で、芦田さんが復帰しました。
11月19日のイベントの慰労も兼ねて大谷石のピザ釜でピザを焼いて岩殿C地区で軽食会をしました。ピザやサイドメニューは木庭さん、新倉さん、細川さん、丸山さん、ピザ釜とカマドの火の番は江原さん、片桐さん、金子さんが担当しました。
食事の準備に併行して、積み上げたまま放置していた伐採残材の片付け、土橋の橋板増設、駐車スペースの排水溝掘りなどの作業もしました。
市民の森尾根の道入口の休憩スポットも補修しました。
QRコード
記事検索
最新記事
カテゴリ別アーカイブ
月別アーカイブ
タグクラウド