新編武蔵風土記稿 比企郡之六 岩殿村 附持添新田(東松山市大字岩殿)
新編武蔵風土記稿第16巻(新編武蔵風土記稿刊行会発行・修道社発売、1957年)
岩殿村ハ江戸へノ行程十四里亀井庄松山領ニ属ス。民家八十軒、村の四隣、東ハ元宿村ニ境ヒ、西ハ奥田村ニ接シ、南ハ田木村、北ハ葛袋村ナリ。東西ノ径【ワタ】リ一里南北十六七町、総テ山丘ノ地ニシテ天水ヲ仰グ所ナレバヤヽモスレバ旱損ス。サレド当所ハ名高キ坂東札所ノ観音ノ建テルヲ以テ、参詣ノ人常ニツドヒ村民ヲノヅカラマヅシカラズ。此辺古ハカノ観音領ナリシニヤ、古文書等ニモ古キ領主ノ名ハ見エズ。寛永十六年横田次郎兵衛・同甚右衛門二人ニ賜ヒ、元禄十一年川越領主ノ領地トナリ、同十五年御料所トナリシヲ宝永ニ至リ又私領ニ復サレテ、横田伝次郎・中島孫兵衛二人ニ賜リ今モ子孫横田源太郎・中島政次郎知行シ、其余【ホカ】村内正法寺の領入会ヘリ。検地ハ寛永十六年横田家ニテ糺シ、元禄十一年川越領主ヨリ改メ、其後持添新開ノ地ハ延享三年四月御代官佐久間伊十郎・市川庄左衛門撿シテ本村ノ高結ト成リシト云ふ。此新田ハ御料所ナリ。
高札場二ヶ所 一ハ観音ノ前 一ハ望月ニアリ。
小名 望月
物見山 入西十七ヶ村入会秣場ノ内ニテ雪見峠トモイヘリ。コレ古昔田村麻呂将軍悪竜退治ノ時、雪中此山ニ上リテ四方ヲ望ミシユヘ、物見山又ハ雪見峠ノ名ヲ得シト。爾後ノ観音堂ノ条ニモ載セタリ。
旗塚 観音堂ノ東西一丁余ニアリ、小高キ塚ニテ数十基並ビテアリ。戦争ノ時旗ヲ立タル塚ナレバ呼名トナセリト云フ、イト覚ツカナキ説ナリ。
判官塚 比企判官能員ガ追福ノ為ニ築キシモノト云ヒ伝フ。サレド由来詳ナラズ。
入定塚 由来ヲシラズ。
塁蹟 鎌倉基氏ノ陣畳ト云フ。按ニ『桜雲記』に貞治八年八月基氏武州岩殿山ニテ芳賀伊賀守高貞入道禅可ト合戦アリシ由ヲ載ス。此頃ノ畳蹟ナルベシ、又『梁田家譜』ニ公方基氏比企郡之内岩戸山一戦ニ利ヲ失ハレシ時、梁田右京亮経助粉骨ヲ抽デ翌日大利ヲ得タル功ニヨリテ下武藏小沢郷拝領ト見エタリ。此岩戸山ト書キシハ岩殿山ノ訛ナラン。
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新編武蔵風土記稿第16巻(新編武蔵風土記稿刊行会発行・修道社発売、1957年)