長野県

塩本の棚田(長野市信州新町) 7月11日

長野市信州新町竹房にある塩本の棚田を訪れました。日本の棚田百選の一つで、犀川の流れや北アルプスの景色を眺めることができる場所にあります。
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地すべり地帯にあり、集水井工の施設がありました。
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集水井工(しゅうすいせいこう)は、縦穴をほり、深いところの地下水を井戸に集めたのち排除して地すべりを防止する工法です。









芦ノ尻道祖神 7月11日

長野市大岡丙にある芦ノ尻道祖神です。道祖神と彫られた石碑にワラをまいて作られています。
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『たくさんのふしぎ』2014年1月号「村を守るワラのお人形さま」(宗形慧 文・写真)に登場しています。
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※「道祖神祭り」は東松山地域では「フセギ」にあたります。東松山市のフセギについては、きらめき市民大学郷土学部Aグループ2011年度レポート「残そう東松山の民俗行事 “防ぎ”の調査と記録」に市内高坂地区と石橋地区のフセギについてまとめられています。「フセギ 東松山市」で、検索すればこのほか多くの記事を見つけることができます。

望月のフセギ行事について
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  (望月会館前案内板)

原田沖の棚田(長野市大岡丙) 7月11日 

原田沖棚田(長野市大岡丙)は県道12号線の下にある棚田です。電気柵に囲まれ、耕作放棄された田んぼもありました。1999年7月、農林水産省に認定された「日本の棚田百選」(日本全国117市町村、134地区)の一つです。
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長野市地域おこし協力隊ブログ』に「棚田って意外と写真を撮るのが難しいんですね。近くで見ようと下っていくと、平坦に見えてしまうので、上から見下ろせる場所を見つけてください。電柱や木などが手前に入ってしまうことも多く、そういう障害物が写らない角度を探すのが大変ですが、よいポイントを探すのも楽しいです。」とありますがその通りですね。

「沖」という地名:松本市の島田地区では、「村内地字三九件のうちそのほとんどが高綱沖・中沢沖など沖がつく」、薪村地区では、「地字は本郷沖・芝沢沖などの沖地名二一件」ある(『日本歴史地名大系』)そうですが、沖とはどのような意味があるのでしょうか。

粉豆腐 7月11日

道の駅あおきで売っていました。凍み豆腐(しみどうふ、高野豆腐)を作る際に出る割れた物や形状不良を粉にしたものです。信州では昔から食べていたそうです。
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「雪豆腐」は飯田市の株式会社信濃雪製造です。

半過岩鼻の崖 7月11日

千曲川左岸に100メートルも切り立ってそびえている大きな崖と千曲川の側方浸食によってえぐられた大きな穴があります。上田市大字小泉(旧小泉村下半過)にある半過岩鼻(はんがいわばな)です。
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1)「上田市誌自然編(1)『上田の地質と土壌』(2002年)の「第1章上田の地質」にその地質学的解説があります。
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2)かつて岩鼻より上流の小県郡(ちいさがたぐん)から南佐久郡にかけては大きな湖(海)があり、現在も残っている地名として湖の北端の「塩尻」(潮尻)、南端にあたる「海の口・海尻・海瀬」などがある。岩鼻は唐猫に追われた鼡(ねずみ)がかみ切ってできたもので、湖の水が北方へ流れ出してできたのが今の千曲川の流れ、塩田平や佐久平は湖底だったなど、さまざまな伝説が残っています(上田市誌民俗編(4)『昔語りや伝説と方言』(2003年)等)。
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※異説:「小海町」の名前の由来(小海町HP
 ……仁和3年(887年)あるいは仁和4年(888年)に起きたとされる八ヶ岳(天狗岳)の水蒸気爆発による大崩落によって千曲川の下の深山(現在の八那池洞門付近)が泥流によってせき止められ、海の口から、海尻にかけて大きな湖ができました。この時土村の除ヶ付近(現在の小海小学校付近)の相木川もせき止められ、相木の入口までの湖ができました(相木湖と呼ばれていた)。

海ノ口の湖水は寛弘8年(1011年)に決壊して無くなりましたが、相木湖はその後も残ったらしく、天正初期(1572年頃)古絵図にも記入されていますので、鎌倉時代の中頃(1300年頃)まであったと思われます。これが当時ここに入って来た人達によって「小海」と名付けられたものが小海の名前の起源と言われています。

【歴史、地理の自習の時間】 海なし県、長野県のJR小海線の「小海」の意味。
(←『ブログ高知』)佐久海ノ口駅。 海尻駅。小海駅。海瀬駅。


3)崖の上にある千曲公園からは、千曲川を中心に上田市全体が見渡せます。このあたりは千曲川の中流域にあたり多様な生きものの生息環境(すみ場)をそなえた川原が発達しています。岩鼻の崖には猛禽類のチョウゲンボウやハヤブサが営巣し、川原やまわりの田んぼ、堤防の法面、畑や水田、林縁をえさ場にして子育てしています。
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川原 この日本的な風景
   桜井善雄『水辺の環境学3 生きものの水辺』(新日本出版社、1998年)90頁
 地質構造が若く、急峻な山地からの石礫や土砂の供給が多いわが国の多くの河川では、それらが堆積する中・下流部の河道に広い川原が形成されるのは自然の成り行きであり、川原の存在は、日本の川の自然環境を考える時に忘れてはならない特徴的な要素である。
 さて川原は英語で“dry river bed”といわれるように、平水時や低水時には陸の一部のように見えても、本質的には水が流れる河床の一部である。
 自然の川の特性である流量の変動、とくに洪水によってもたらされる堆積と浸食の程度と頻度が、流路の中の場所によって、不均等に起こるのは当然である。そのため、低水時に水面の上に現れている川原の地表には、全くの石ころだらけの部分から、生育場所の乾湿、草丈の長短などさまざまな草本群落や、低木、亜高木の群落まで、多様な植生がみられる。そして、自然の原因による流量変動が続く限り、このような植生は極相に向かって一方的に遷移することなく、たえず退行と回復をくり返しているのである。
 このような川原は、まことに「日本的」とでもいえるような「移ろいの風景」を、もともとそなえている場所なのである。
激しく変わる川原の植物
   上田市誌自然編(3)『上田の動物と植物』(2001年)の第2章第3節5千曲川の植物(池田登志男)
 川原は砂や大小さまざまな石が多く、昔は洪水が出るたびに地形や水の流れが変わるので、植物も安定して育つことができませんでした。ですから、そういう所にも強いカワラヨモギやオオマツヨイグサなど限られた植物が多く見られました。
 河川の護岸工事や山地の植林が充実してきた現在は、洪水も少なくなり、川原の陸地化が進んできて、さまざまな植物が育つようになりました。各地にニセアカシヤやヤナギ類の林ができたり、畑や野球場・マレットゴルフ場も作られています。
 このように陸地化してきた場所もありますが、場所によっては水の流れや地形が絶えず変化し、生えている植物が変わっている所もあります。
 昔、川原一面に黄色い花を咲かせたオオマツヨイグサは消えて、それよりも花の小さいメマツヨイグサに替わりました。また黄色いじゅうたんを敷いたように見えるアブラナ科のハルザキヤマガラシ、場所によってはアレチウリやクワモドキの群生地も見られます。
 洪水によって植物が流され、その後に再び生え、また洪水で消える。こうしたことが繰り返されてきた川原こそ自然の姿で、陸地化し安定してきている現在の川原は、人間の力で作られた人工的な川原といえます。

上田 道と川の駅 おとぎの里 7月11日

千曲川左岸に100メートルも切り立ってそびえている大きな崖とえぐるようにあいた大きな穴にひかれて、「上田 道と川の駅 おとぎの里」に寄りました。
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「上田 道と川の駅」は、『道の駅』Vol.18(2016年夏号)で紹介されていました。
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……道の駅に登録されてからオープンまでなんと、12年!様々な紆余曲折がありました。建物すら無いところから始まって、ようやく食堂まで完成したのも2年前。その間、地元の人々が自ら動いて一つ一つ作り上げてきた道の駅です。……

『おとぎの里』のリーフレットのウラ表紙に沿革が書かれていました。
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     1998年4月17日 道の駅登録
     1998年6月11日 川の駅登録
     2002年4月1日  上田水辺プラザ施設供用開始
    [ 2010年4月1日  全国ではじめての“道と川の駅”としてオープン]
     2010年8月1日  おとぎの里飲食・物販開始
     2013年5月23日 飲食・物販施設開始
     2014年3月27日 河川協力団体指定
1998年に「道の駅」「川の駅」に登録されて2010年に飲食・物販開始までの12年間の「紆余曲折」は、2001年、『脱ダム宣言』の田中康夫県知事のもとでおこなわれた公共事業の見直しが契機となったようです。詳細はわかりません。

現在、おとぎの里の事業は、地域の皆さんが会員となって「持続可能な豊かな地域づくり」を目指して部会に分かれて活動を展開しています。安全・安心部会、あとりえ部会、ふるさと部会、農林水産物部会、あきない部会、企画・プロモーション部会、てらこや部会、食品部会の8部会です。

おとぎの里のめあて

■「コミュニティービジネス方式」により、収益事業とそれに支えられる公益事業の展開し“新たな公共の場づくり”を目指しています。
■“地域性・社会性+事業性・自立性”を伴った「地域事業」を展開しています。
■民(産)・学・官の連携と協働を推進しています。
■市民が主体となり、特徴ある持続可能な“豊かな地域社会の創造”を目指しています。

※参考:公共事業の見直し 小さく生んで大きく育てられる公共事業
        岩波ブックレット№589『市民がつくる公共事業』2003年)9~10頁
田中 札幌についで長野市もオリンピックを行いましたが、やったあとに「宴のあと」の悲しさを痛感してしまいました。かつて長野市は東京から時間的にはたいへん遠い県庁所在地でした。東京駅ではなく、上野駅から特急に乗って軽井沢へ行くまでには碓氷峠(うすいとうげ)を、かつてはアプト式というギザギザの電気機関車をつないで長野市まで三時間もかかっていました。四国や九州の県庁所在地は羽田から二時間で行けてしまう。けれども、現在新幹線ができて東京から長野市までは最短一時間二五分で行けます。これによって何がおきたかというと、ビジネスで来た人たちが日帰りで帰るようになってしまいました。観光客についても、もともと長野県というのは他の都道府県がお金を出しても買えないような軽井沢や上高地という得難い財産がありましたが、これを所与のものとして、県民があまりその貴重さを把握していなかったわけです。長野県民というのは生糸から精密機械を経てIT関連産業に、というように、議論をして物をつくるのは非常に得意なんですが、それをいかに営業したり接客したりするかということについては少なからず不得手な県民でございまして、気がついたらお客が来なくなっていたということです。みんな草津の温泉に泊まって志賀高原へバスで降りてきて、あとは善光寺を拝観してー最近では「拝観料」が無料なので県庁一階のガラス張りの知事室もご覧になって知事の名刺を一枚受け取ってお帰りになる方も多いのですがー、その多くの方が夕方の一六時台の新幹線に乗って東京に帰って、東京でご飯を食べるようになってしまいました。 このようなことを経て長野県の人たちは、バイパスができてしまうと「道の駅」には人が来るかもしれないが、自分たちの集落の商店街は空洞化してしまうことを感じたわけです。それはまさに物質主義から脱物質主義への転換だということです。脱物質主義の世の中といっても、これは一言では言えないわけです。橋やトンネルを造るというのは目に見えるものですから、お金をそこにかければ確かにできます。でも「豊かさ」は、そのことによってはどうももたらされない。……

フォッサマグナ発想の地(長野県南牧村平沢) 5月8日

佐久市から野辺山高原を訪れました。たまたま立ち寄った南牧村歴史民俗資料館の展示と『南牧村の地質』(南牧文庫、南牧村教育委員会発行)から飯盛山近くの「しし岩」がある平沢が、ドイツの地質学者ハインリッヒ・エドムント・ナウマンがフォッサマグナの発想を得た場所であることを知りました。ナウマン象は、日本の化石長鼻類研究の草分けでもあったナウマンにちなんで名付けられた和名です。
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しし岩展望台からは八ヶ岳や南アルプスの山々が一望でき、近くには国立天文台宇宙電波観測所もあります。

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※ナウマンについては、ウィキペディアの「ハインリッヒ・エドムント・ナウマン」の項の外部リンクにある山下昇氏が1990年から93年にかけて『地質学雑誌』に連載した「ナウマンの日本地質への貢献」が詳しいです。

※フォッサマグナについては、山下昇編著『フォッサマグナ』(東海大学出版会,1995年)。
 山下昇編著『フォッサマグナ』目次
  はじめに-問題は何か?
  序章 フォッサマグナとは何か
  1章 フォッサマグナの西縁、糸魚川-静岡構造線
   (1) 太平洋から日本海への横断路
   (2) 糸静線の概要
   (3) 姫川地域
   (4) 松本盆地
   (5) 宮川~釜無川地域
   (6) 駒ヶ岳山麓~早川地域
   (7) 静岡地域
  2章 フォッサマグナの東縁、直江津-平塚線
   (1) 東縁を追跡すると
   (2) 実在しない東縁断層
   (3) 東北日本の南限
   (4) 東北日本と西南日本の境界地域
   (5) 復元できない東縁
   (6) それでもフォッサマグナは存在する
   (7) フォッサマグナの定義
  3章 古期岩層-フォッサマグナ以前の岩層
   1. 西南日本の古期岩層
   (1) 帯状に延びた構造
   (2) 飛騨帯-ユーラシア大陸の断片
   (3) 飛騨外縁帯-日本最古の化石を含む混沌地帯
   (4) 美濃帯-プレートの沈みこみと付加作用
   (5) 領家帯-変成された美濃帯と花こう岩類
   (6) 中生代後期~新生代前期の花こう岩類と火山噴出物
   (7) 三波川帯-白亜紀の高圧変成帯
   (8) 秩父帯
   (9) 四万十帯-白亜紀と古第三紀の付加体
   2. 東北日本の古期岩層
   (1) 帯状構造とその意味
   (2) 各帯の特徴
   3. 信越-房豆地区の古期岩層
   (1) 関東山地
   (2) 嶺岡帯その他
  4章 中期岩層-フォッサマグナの発生と発展
   (1) 直前の状態-海岸山脈であった日本
   (2) 中期=フォッサマグナ時代の概要
   (3) フォッサマグナの地質区区分
   (4) 中期の時代区分
   (5) 第1期:フォッサマグナの始まり
        2500万年前~1700万年前(中新世前期)
   (6) 第2期:海底火山活動の始まり
        1700万年前~1500万年前(中新世前期末~中期初頭)
   (7) 第3期:海の拡大と第一次古代日本アルプス
        1500万年前~1150万年前(中新世中期)
   (8) 第4期:隆起の拡大と石英閃緑石の貫入
        1150万年前~600万年前(中新世後期)
   (9) 北部フォッサマグナの第5期:糸静線の始まり
        600万年~70万年前(中新世後期末~更新世前期)
   (10) シンシュウゾウとアケボノゾウ:氾濫する礫岩
   (11) 南部フォッサマグナの第5期
        600万年~70万年前(中新世紀後末期~更新世前期)
   (12) 伊豆半島の中期岩層 
  5章 大峰面-中期と新期の境界面
   (1) 大峰面とは?
   (2) 中期の終わり,新期の始まり
   (3) 大峰面の隆起
  6章 新期岩層-フォッサマグナの変容
   (1) 新期の特徴
   (2) 沈降する越後平野
   (3) 十日町盆地
   (4) 長野盆地
   (5) 生坂村の平坦面群
   (6) 安曇野-松本盆地北部
   (7) 筑摩野-松本盆地南部
   (8) 坂下町の段丘群
   (9) 濃尾平野
  7章 新期の火山
   (1) フォッサマグナと周辺の火山の概要
   (2) “乗鞍火山帯”の火山
   (3) “那須-鳥海火山帯”の火山
   (4) 北部フォッサマグナの火山
   (5) 南部フォッサマグナの火山
   (6) フォッサマグナ中央部の火山
  8章 フォッサマグナの温泉と地下資源
   (1) フォッサマグナと温泉
   (2) フォッサマグナと地下資源
  9章 フォッサマグナと人類
   (1) 人類の時代
   (2) 野尻湖の発掘
   (3) フォッサマグナ地域の遺跡
   (4) ナイフ形石器文化-3万年前~1万4000年前
   (5) フォッサマグナは石材の産地
   (6) 細石器文化-1万4000年前~1万3000年前
  10章  フォッサマグナの成因
   (1) ナウマンのフォッサマグナ成因説
   (2) 1930年代から1940 年代のフォッサマグナ成因説
   (3) 新しい地球科学の発展
   (4) 七島山脈
   (5) 関東平野の地下構造と柏崎-千葉構造線
   (6) 七島弧の本州弧横断
   (7) 島弧交差の諸相
   (8) 交差地域の構造の総括
   (9) 残る諸問題
  11章 ナウマン小伝
   (1) 悪意にみちたナウマン評
   (2) 大学を出るまで(0歳~20歳)
   (3) 日本滞在の10年(20歳~30歳)
   (4) ミュンヘン時代(31歳~44歳)
   (5) フランクフルト時代(44歳~72歳)
  付録1 岩石の古さ
   (1) どちらが先か?
   (2) 地層は「時」の系列を示す
   (3) 生物の進化現象を時間のものさしとした
   (4) 放射線元素の崩壊を利用して年数を測る
   (5) 地磁気の南北は逆転を繰り返した
   (6) 火山灰層は特定の時間を示す
   (7) さまざまな方法を組み合わせる
  付録2 用語解説

 『地学雑誌』104巻3号(1995年)に掲載されている有田忠雄さんの書評があります。

『フォッサマグナ』序章「フォッサマグナとは何か」(山下昇)
  フォッサマグナの位置
 フォッサマグナは、日本列島の中央部を横断して、日本海から太平洋へ突き抜けている細長い地帯である。そこには妙高山・八ヶ岳・富士山・箱根山・天城山など、たくさんの果山が日本列島を横断して南北に並んでいる。
 フォッサマグナの西縁は糸魚川(いといがわ)-静岡構造線という名の大断層である。略して糸静線(いとしずせん)という。……
 フォッサマグナの東縁には名前がない。そこで、仮に直江津(なおえつ)-平塚線(ひらつかせん)と呼ぶことにする。直江津は日本海岸の上越市の一部であり、平塚市は太平洋岸の街である。

  フォッサマグナの発見者、ナウマン博士
 フォッサマグナを発見し、命名したのはドイツ人地質家のエドムント・ナウマン博士(Edmund Naumann, 1854-1927)である。それは今から100年あまり前の1880年代から90年代にかけてのことであった。
 ナウマンは1875年(明治8)、20歳のときに日本に来た。以後10年間日本に滞在し、最初は開成学校から東京大学の教授、後半は地質調査所の所長格の技師長をつとめた。この間、日本国内を1万㎞も旅行した。
 フォッサマグナには3回旅行したと彼は書いている。第1回は日本に来て3ヵ月もたたない1875年11月のことであった。中山道から碓氷峠を越えて長野県に入り、南へ千曲川をさかのぼり、野辺山原(のべやまはら)を越えて平沢(ひらさわ)という小さい村に泊まった。嵐の一夜を過ごした翌日、11月13日の朝のこと、目の前には赤石(あかいし)山地北東縁の急崖がつらなり、左手には富士山が高く大きくそびえていた【実際には平沢の集落からは富士山は見えないそうです(引用者)。】。その印象はまことに強烈であったと彼は言っている。これが、ナウマンにとってフォッサマグナとの最初の出会いであった。

  フォッサマグナは大きな溝
 フォッサマグナはラテン語のFossa Magnaである。Fossaは溝、Magnaは大きいという意味である。だから、日本語にすれば「大きな溝」である。初めはドイツ語でグローセルグラーベンGrosser Grabenと名付けられたが、これも意味は同じである。
 富士山をはじめ高い山々が並んでいるこの地域を溝と呼んだのは何故か、富士山も八ヶ岳も、ここに並んでいるたくさんの高い山は火山だからである。火山は地中から噴出した溶岩や火山灰が地表に積み重なって山となったものである。だから、それを取り除くと、そこの地面はずっと低くなる。

  フォッサマグナの岩石は2500万年前~70万年前の地層
 フォッサマグナの岩石は新第三紀から第四紀更新世の前期まで。すなわち2500万年前~70万年前に堆積した地層である。この地層は泥・砂・礫などが固まってできた岩石、すなわち泥岩・砂岩・礫岩と、火山灰や溶岩から成っている。
 そこで、2500万年前より前を「古期」、2500万年前から70万年前までを「中期」、70万年前から現在までを「新期」と呼ぶことにする。そして、そえぞれの時期に形成された岩石や地層を古期岩層・中期岩層・新期岩層と呼ぶ。したがって、この区分でいうとフォッサマグナの岩石は中期岩層である。

  フォッサマグナは衝突の産物
 ナウマンは、フォッサマグナの前方に七島山脈が存在していることに注目した。日本列島が大陸側から太平洋側へ水平に移動したとき、前面にある七島山脈に衝突し、赤石山地や関東山地が北へ曲げられたと主張し、水平移動の距離を120㎞と算定した。
 フォッサマグナの出来方に関するナウマンの説は、現代のフォッサマグナ成因論の先駆けであった。

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