岩殿地元学

市民の森・石坂の森イベント中止 10月13日

明日、開催予定の東松山市・鳩山町共催『「市民の森・石坂の森」自然学習ウォーキング秋の森からの贈り物』は小雨決行となっていましたが、フィールドの状態が悪いため中止となりました。ネイチャークラフト体験(シイタケの駒打ち)に向け、この間ホダ木の準備をし、今日も明日の段取りをしていたので、開催できないことはとても残念です。

雨のため現場での作業は中止し高坂丘陵市民活動センターで、環境みらいフェアの取組みや今後の活動計画について話し合い、また、市民の森周辺の土地利用と森の変遷について3枚の航空写真(1961年、1970年、1975年)を見ながら学びました。参加者は芦田さん、金子さん、細川さん、三本さん、鷲巣さん、渡部さん、Hikizineの7人です。

1947年10月28日(米軍撮影)
岩殿1947

1970年頃の大東大キャンパス
大東大1970


大東文化大学東松山キャンパス 2011年2月

2011年2月20日、内田泰永さんがモーターパラグライダーから撮影した写真です。
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大東文化大学東松山キャンパス 1970年頃

大東文化大学東松山キャンパスが建設され、教養部がおかれたのは1967年(昭和42)でした。
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岩殿地元学(地図や航空写真で見る地域の変遷) 11月28日

岩殿会館を会場にして、午前10時と午後1時からの2回、90分の講座を行いました。参加者は16名でした。
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配布資料は『新編武蔵風土記稿』と『武蔵国郡村誌』の岩殿村部分。
会場の疊の上にひろげた地形図は、
 1/20,000明治前期測量フランス式彩色地図
 1/20,000の地形図 菅谷村、松山町、坂戸村、川越を貼りあわせた地図(1885)
 1/50,000の地形図 熊谷と川越を貼りあわせた地図(1910)
 1/25,000地形図 武藏小川、東松山、越生、川越北部の4枚を貼りあわせた地図(1957)
 東松山市 1/2,500白図28・29・34と鳩山町 1/2,500白図7の4枚をはりあわせた地図(2004)
の5組。
空中写真(航空写真)は、
 USA-R1378-22(1948.05.06)
 CKT-79-01-001-2(1979.10.14)
 CKT-90-01-018-17(1990.10.11)
 CKT-09-01-022-18(2009.04.29)
の4枚でした。
午前・午後の2回、参加してくださった方もあり、あれこれ話もはずみ、各回とも楽しい90分間でした。機会を見て続講を開催します。

ハイキングコース(赤沼林道~岩殿山~笛吹峠) 11月19日

日本統制地図株式会社発行の「赤沼林道より岩殿山笛吹峠へ」(家族向・第2集・丘陵編)のハイキングコースです。発行年はありません。東武東上線の坂戸駅から鳩山町の今宿までバスで来て歩き始めるコースです。
○赤沼林道・岩殿山・笛吹峠(表)
赤沼林道より岩殿山・笛吹峠へ
 徒歩行程:18キロ、5時間18分
 費用概算:2円35銭
 コース:池袋駅-(東上線1時間)-坂戸町駅ー(バス20分)ー今宿ー(0㎞ 13分)ーおしゃもじ山ー(2㎞ 30分)ー氷川神社ー(3㎞ 1時間)ー赤沼国有林を経てー物見山(岩殿山正法寺)ー(3㎞ 1時間)ー神戸越往還ー(1㎞5 25分)ー笛吹峠ー(2㎞ 30分)ー将軍沢ー(2㎞ 30分)ー(2㎞ 30分)ー鎌形八幡ー(1㎞5 30分)ー武蔵嵐山ー(3㎞ 50分)ー武蔵嵐山駅ー(東上線 1時間10分)ー池袋駅
 
 眺望に富むおしゃもじ山を振出しに岩殿山脈の尾根伝ひに赤沼林道を物見山へ行き、そこから笛吹峠を越えて武蔵嵐山へ下るコースはやゝ強行ではあるが、静かな一日の家族連れの歩行に好適である。
 バスで今宿橋を渡り小学校前で下車、坂を登ると右側におしゃもじ神社がある。おしゃもじ山は標高100米の丘ではあるが、西に笠山、堂平山を見、雲取、武甲、大嶽は指呼の間で、東南には入間川平野が遙かに望まれる。こゝから赤沼国有林につけられた快いプロムナードを辿って物見山へ、物見山三角点の北に坂東十番の札所として知られた岩殿山正法寺がある。本尊は千手観音と聞く。物見山からは遠く東京湾まで一眸憚るものもない。笛吹峠は正平の昔武藏野合戦の砌、新田義貞が屯した遺跡である。鎌形八幡の境内に湧く泉は木曽義仲産湯の井戸と伝へられる。武蔵嵐山は槻川の渓流がコの字形に屈曲した場所にある名勝地である。
 尚、笛吹峠へ降らずに、物見山から岩殿部落或は望月部落を経て高坂駅へ降りる径もあり、山から南へ石坂部落へ降って小山へ出てバスで坂戸駅へ戻る事も出来るから、疲れた場合の近路として覚えておいてよい。

ブログ『GO! GO! 嵐山』に「戦勝祈願とハイキングは池袋から東上線で 1930年代後半」 という記事があり、「戦勝祈願とハイキングは池袋から!!」という東武東上線のパンフレットを紹介しています。 1930年代はハイキングが世界的に流行した時代です。日本では1937年(昭和12)7月7日の盧溝橋事件以降、日中戦争が拡大し長期化する中で、38 年厚生省設置、39年体力章検定(スポーツテスト)、40年国民体力法公布。戦争に勝つための「体位向上」「心身鍛練」が叫ばれます。鉄道各社は国策に便乗し、割引運賃をセットして沿線の行楽地を健康と鍛練のハイキングコースとして宣伝します。こういった社会風潮になる前にこのハイキングコースは発行さ れたものなのではと推測しています。

※1930年代後半の比企郡内のハイキングコースの一例「武蔵嵐山、百穴・農士学校・嵐山・鍾乳洞ハイキングコース」、この時代風潮がわかる「体力向上、まず歩こう!」(『東京中心徒歩コース七百種』序文)などの資料もブログから見られます。

岩殿地元学(地図や航空写真で見る地域の変遷) 11月15日

11月28日(土曜日)に地元の皆さんと行う『岩殿地元学 地図や航空写真で見る地域の変遷』のチラシをつくりました。チラシに使っている絵葉書には「武州坂東十番比企巌殿山賽の河原より見たる巌殿村の景」とありあす。スタンプの「15.5.16」の年号は大正でしょうか?

S岩殿地元学チラシ(カラー版)
午後、岩殿の門前地区にチラシをポスティングしました。2名の方がその場で参加の申込をしてくださいました。
正法寺の住職さんからは、「賽の河原」や江戸時代に寺領であった草刈場が明治以後、官有地になった経緯などうかがえました。

都幾川を渡り岩殿観音に至る(『川越松山の記』1818年) 11月11日

岩殿観音 『川越松山の記 川越松山巡覧図誌抄』(県立松山高等学校内古文書を読む会、1975年)より

川越松山の記について
 竹村立義の著。文化十五年(1818)稿本。「川越松山巡覧記」「川越松山巡覧図誌」とも称し現在までに多数の写本がつくられ、今日に伝わっているが、著者の自筆本は現在内閣文庫にある。
 内容は立義が同行二人と共に、江戸から膝折、野火止等を経て川越に至り、さらに吉見、松山、岩殿、平の慈光寺から越生へぬけ、ふたたび川越城下に入って、三富、所沢から小金井に至り江戸に帰る紀行文である。この間、五泊六日の旅行で、沿道の名所古跡、神社仏閣を主に探訪し、又土地の風俗、産物、植物などにも目をとめており、私たちの郷土研究への興味をそえる。
 立義は本書の各所で文献資料を多く引用して、彼が博学な読書人であったことを示しているが、反面それが紀行文としての進行に難渋さを残す欠点ともなっている。
 この抄本では、この引用註釈のヶ所はカットし、すっきりした体裁のものとした。

都幾川を渡り岩殿観音に至る(13頁~15頁)
 川を越えて坂あり。高坂村、これより多くの田畑を越えて右の方にいと広きはげ山あり。漸くにして比企の町に至る。小登りにして四町余り、門前の茶屋奇麗なり。石坂をのぼりて右の方にいと大きなる古碑あり。文字摩滅してよみがたし。石坂すべて二百階、本堂三間四方にていと壮麗なり。(1)堂の後は山を削りなせり。ことごとく岩なり。境内に茶屋商人など出て、吉見よりは繁華なり。後山に愛宕の社あり。登り急にしてあやふし。辛くして登り、なほ奥の方、高き所に登り見れば四方はるかに眺望していはん方なし。奥の方はなほ一段高き山なり。そこら徐にみあるきて石坂を下り、橘屋といへる酒肴うる家に入る。あるじは久しく江戸に住みし者なりと念ごろに会釈す。ほどなく膳を持ち出る。ひらには、あわび、蛸魚、長芋、孟宗竹等にて味ひよく、かかる僻地にてはいとも不思議なるほどなり。主に慈光寺の道を問ふに
「これより四里八町御座候。そのほかに当御山の内、十八町山越にて四里八町のほかなり。日も余程たけ候へばはやくあゆませたまわずば日暮るべし。これより二里八町にして人市と申す宿御座候。これに御泊りあらば心安かるべし。」といふ。
「ぜひ慈光寺に泊るにあらでは帰路の都合あしく、さらば馬を雇ひ乗るべし。」といへば「さも侍らば安かるべし。」と、あるじそこら走りめぐりて、馬三疋やとひ来れり。
 かくして、馬に打ちのり観音山にそふて左りの方より後に至り山に登る。はじめ奥の方に見えし山にのぼり行き、山より山をつたふ。もっともながめよろし。(2)山をくだれば奥田村、次に須江村、山上に東光寺と云ふ寺見ゆ。竹本村、人市村ここ六斎に市ありて、にがはしかりしが、近歳は坂戸の市繁華して、ここの市廃れ今はさびしき村なり。……

(1)巡礼詠歌-もふでくるうき世の人をもらさじと誓の綱をひきの岩殿
(2)比企岩殿の境内東西四百十三町、南北十八町ほどありて、そのうち九十九谷あり。めぐり皆山にて中に原あり。十八ヶ村の草刈場にて一ヶ年少々の銭を納む。
※坂東三十三観音10番正法寺(岩殿観音)御詠歌
  のちの世の みちをひきみの 観世音 このよをともに 助けたまへや

武蔵国郡村誌 岩殿村 11月8日

武蔵国郡村誌 比企郡 岩殿村
 本村古事亀井庄松山領に属す

疆域
 東は本宿田木の二村と耕地及山林を接し西は神戸大橋の二村南は石坂村と原野山林を接し北は下唐子葛袋の二村と山林を接す

幅員
 東西三十丁南北十三町

管轄沿革
 天正十八年庚寅徳川氏に帰し十九年辛卯二十五石を正法寺領とす 風寛永十六年己卯旗下士横田次郎兵衛同甚左衛門の采地となる 田に高百五十石此分ケ七十五石宛横田次郎兵衛同甚右衛門知行外高廿五石正法寺領とあり 元禄十一年戊寅松平美濃守の領地となり十五年壬午代官支配に復す 宝永元年甲申村高を割き百七十一石八斗七升六合横田伝次郎九十五石五斗二升八合を中島孫兵衛の采地となし二世世襲す 延享三年丙寅新田を検し高九十石九斗二升四合は代官之れを支配す 明治元年戊辰正法寺領を除き悉く武藏知県事の管轄となり二年己巳三月品川県に入り十一月入間県に属し六年癸酉熊谷県の所轄となる

里程
 熊谷県庁より南方五里
 四隣 本宿村へ十五町 田木村へ十七町 石坂村へ三十五町 大橋村へ一里五町 神戸村へ二十四町五十間 下唐子村村へ十八町 葛袋村へ二十町
 近傍宿松山町へ一里十八町字岩海道を元標とす

地勢
 山巒西南北の三面を擁し東方は稍平坦なり運輸便利薪炭多し

地味
 色赤黒棟梁及ひ麦桑に応せり水利不便時々旱に苦しむ

税地
 田十六町九反六畝二十三歩 畑二十六町九反二畝五歩 宅地三町五歩 山林五十七町一反五畝十三歩 総計百四町四畝十六歩

飛地
 村の東方田木村の内田二反五歩 林二反六畝十四歩

字地
 岩海道 村の中央にあり東西六町三十間南北六町五十間 藤井岩海道の南に連る東西五町五十間南北四町五十五間
 藤井 岩海道の南に連る東西五町五十間南北四町五十五間
 雪見峠 藤井の西に連る東西六町十間南北十一町三十間
 稲荷穴 岩海道の東に連る東西五町二十間南北六町四十五間
 油免 稲荷穴の東に連る東西五町南北五町四十五間
 天明海 油免の南に連る東西七町二十間南北六町
 中里 天明海の東北に連る東西六町四十五間南北五町二十間
 火上場 中里の南に連る東西六町二十間南北二町三十間
 金谷 火上場の南に連る東西五町四十間南北三町

貢租
 地租 米五十九石七斗六升八合 金六十三円四十銭七厘五毛
 賦金 金一円九十一銭
 総計 米五十九石六斗六升八合 金六十五円三十一銭七厘五毛

戸数
 本籍七十三戸平民 社村社一座平社三座 寺四戸新義真言宗一宇天台宗二宇堂一宇 総計八十一戸

人口
 男百八十三口 女百八十四口 総計三百六十七口

牛馬
 牡馬十六頭

山川
 入山溝 平常流水なし源を村の西方より発し中央を東流して田木村に入る其間三十五町

森林
 林民有に属す村の西南北擁す反別五十七町一反五畝十三歩松樹多し

原野
 雪見峠 官有に属す村の西方にあり西南は石坂大橋の二村西は神戸村樹木なく唯茅草生す

湖沼
 傾城溜池 東西二十二間一尺二寸南北二十二間周回八十四間村の東方にあり
 入の台溜池 東西三十三間一尺南北三十間周回百二十六間村の東方にあり
 南新井溜池 東西三十六間南北三十一間周回百三十四間村の南方にあり
 宗門溜池 東西三十五間南北三十間周回百三十間村の中央にあり
 青木入溜池 東西二十五間南北二十三間周回八十間村の西方にあり
 入山溜池 東西五十間南北十五間周回百三十間村の西北にあり以上の池村の用水に供す

道路
 村道 村の東方本宿村界より西方大橋村界に至る長三十町巾八尺

掲示場
 村の中央にあり

神社
 熊野社 村社々地東西七間一尺二寸南北十三間面積九十四坪村の中央にあり伊弉册尊速玉男命熊野久須美命を合祀す祭日十一月一日
 比企社 平社々地東西六間南北五間面積三十坪村の南方にあり比企能員を祭る明治二年五月勧請祭日一月一日
 稲荷社 東西五間南北五間一尺二寸面積二十六坪村の東北にあり倉稲魂命を祭る祭日二月初午日
 天満社 東西七間南北十三間面積九十坪村の東南にあり菅原道真軻遇突智命を合祭る祭日二月二十五日

仏寺
 正法寺 東西五十三間南北二十二間面積千百六十八坪村の南方にあり新義真言宗醍醐無量寿院の末派なり養老元年僧逸海開基創建す建仁の頃より岩殿寺と称し明暦三年復正法寺と称す○風土記を按に岩殿観音は相模にもありて養老四年行基菩薩の開基なりと云東鑑にも岩殿観音のこと所々に出て将軍家信仰ありし由見えたりされど比企の岩殿のことは正治二年の条なとにもさらに沙汰なしはるかの後永禄十年九月上田能登守が楯籠れる当郡松山城責のとき兵火のために本堂以下坊舎に至るまでことごとく灰燼となり縁起古記録を失ひたりしを天正二年別当栄俊壇越を募りて旧観に復し同十九年二十五石の御朱印を附せらると云と載す
 正覚院 東西十一間二尺四寸南北二十間面積二百八十八坪村の中央にあり天台宗近江国園城寺の末派なり大宝元年僧行円開基創建す
 正存院 東西十六間南北十二間面積二百三坪村の中央にあり天台宗末寺正覚院に同し大宝元年僧秀長開基創建す
 観音堂 東西五十三間四尺八寸南北四十間面積二千百五十四坪正法寺の傍にあり坂東三十三所の一にして其第十番なり天平七年僧逸海創建大同元年坂上田村麻呂再建正治二年鎌倉二位尼再営天正二年僧栄俊中興すと云ふ

学校
 公立小学校 村の中央民家を仮用す生徒男二十三人女七人

役場
 事務所 村の東南戸長宅舎を仮用す

古跡
 足利基氏塁跡 本村中央にあり現今林となる○風土記に貞治八年八月基氏武州岩殿にて芳賀伊賀守高貞入道禅可と合戦ありし由此頃の塁跡なるへしと載す

物産
 繭十八石五斗 米二百三十六石六斗二升 大麦二百八石四斗八升 桑百八十駄

民業
 男女農桑採薪を専とす

       『武蔵国郡村誌』第6巻163頁~168頁(埼玉県立図書館発行、雄文閣印刷、1954年)

岩殿観音と門前集落 2/2 11月2日

東松山市文化財調査報告第14集東松山市の古建築調査報告
   岩殿観音と門前集落(東松山市教育委員会、1980年度)14頁

 第5章 門前集落(後半)
 次に岩殿門前集落の戸数と人口の消長、そして職業構成の変化を、先に挙げた原田節二氏の調査研究ノート「岩殿宿駅の研究」とその報告書「比企郡 岩殿調査」とによって見てみると次のようである。ただしその中に「望月」とあるのは、岩殿門前集落のすぐ近くにある部落で、岩殿部落とは血縁関係深く、いわば枝村であって、古くから岩殿とは一村として扱われているという。
 原田氏の調査によると、岩殿の戸数と人口は、新編武蔵風土記稿によると、その編集の中間年代を文政3(1820)年として、80戸(望月を含み、岩殿門前だけの戸数は不明)、大沢氏(東松山市市史編さん調査報告第5集)蔵の宗門人別帳によると弘化3(1840)年には30戸(望月を除いた岩殿門前だけの戸数らしい)、そして人口は男71人、女62人で合計133人である。また明治8年の戸籍によると38戸(望月を除いた岩殿門前だけの戸数で、内同居4戸となっており、望月を含めた戸数は72戸、人口は男169人、女171人で、合計340人)となっている。この数字で見る限り、岩殿部落は、門前集落だけをとってみても、あるいは望月部落を合わせても、江戸末期から明治にかけて、戸数、人口ともに停滞し、減少気味であって、門前集落の衰微を物語る。このような傾向はその後も続き、総門橋で限られたいわゆる「院内」は30余戸に保たれ、集落の輪郭と地割はほとんど変化しなかった。明治9年の地割図(正存院蔵)、明治中期の公図(東松山市役所税務課蔵)、および昭和46年の公図及び土地台帳(東松山市役所税務課蔵)を使って、その間の合筆、分筆、地目変更を調べた筆者らの調査では、その間、合、分筆はほとんど例外的にしか行われておらず、また地目変更も稀であって、明治9年に41区画あった宅地の中35区画が合、分筆なく昭和46年まで宅地利用されていることが分かった。しかし、戸数と人口、そして地割りに大きな変化がないとしても、岩殿集落の門前町としての衰微をより象徴的に示すのは集落各戸の職業構成の変化である。原田節二氏の調査研究ノートおよび報告書によると、多分江戸時代の末期だと思うが、江戸時代には宿屋17戸、小間物屋2戸、菓子屋、餅菓子屋、油屋、目薬屋、塗屋、運送屋、鍛冶屋、綿屋、粉屋、建具屋、大工が各1戸、不明もしくは農業が5戸で合計35戸であった。明治期には、それが僧1人、神官1人、他は全部農業となり、門前宿駅として盛んだった頃もまた半農半商だったとしても、ひどい零落だと原田氏は書いておられる。そして昭和29年現在では、農業29戸、半農(教員)、半農半商、警備員、公務員、団体職員、工員が各1戸、会社員が2戸、そして大工、疊工、無職が各1戸で、寺院を別にして40戸だったそうである。俸給生活者が増えたのは昭和の特徴だが、明治期はこの村も農業、とくに養蚕に大きく依存したのである。
■岩殿門前集落の戸数:弘化3年(1840)30戸、明治8年(1875)38戸、昭和29年(1954)40戸

岩殿観音と門前集落 1/2 11月1日

門前百姓村→門前町→農業集落(明治~)へ(原田節二氏)

東松山市文化財調査報告第14集東松山市の古建築調査報告
   岩殿観音と門前集落(東松山市教育委員会、1980年度)13~14頁
第5章 門前集落
 総門橋から岩殿観音正法寺の石段下までやや登り気味の参道が一直線に伸びて、いくらか門前の趣きはあるが、かつてここに宿屋が何軒もあって賑わっていた名残りはほとんどない。したがって江戸時代から明治期にかけてのこの門前集落の様子を復元するのはきわめて難しい。
 ところがさいわいなことに、まだ現在ほどには変り果てず、まだあ人々の記憶にも残っていた昭和29年に、当時川越高校に在職されたいた原田節二氏(現在川越西高校長)が、現地調査と文献、古文書調査を実施され、それをA1版1枚の手書きノート「岩殿宿駅の研究」(昭和29年)とそれをまとめたB4版横書き罫紙5枚に手書きされた報告書「比企郡 岩殿調査」として東松山市教育委員会に残されていて、すでに本報告書の第1章でも参照文献として挙げているように、筆者らはこの調査研究のもっとも難しい部分を氏の調査研究の成果によって埋めることができ、その成果の上に建築史的、集落史的な、いくばくかの調査研究を重ねることができた。そればかりでなく、この岩殿集落の歴史的変遷の大筋を理解する上で氏の見解は貴重であった。
 氏によれば「岩殿は、観音様によって発達した門前百姓村であるが」、「門前百姓村より門前町に」、明治以後「そして再び農業集落に転換した」のである。かつて総門橋の内、院内には正存院をはじめとする三院のほか三十六坊があり、総門橋の外に広がる正法寺の寺領を耕作する門前百姓がいて、寺に出入し寺の雑用をした。そして初期には川越屋を門前名主(門前百姓の頭)とする門前百姓8戸(内6戸本家、2戸分家)があったと原田節二氏は書いておられる。僧がおり、修験者が訪れ、参籠することがあっても、寺領の耕作を基礎とする門前百姓の経済生活を変えるまでには至らなかった。岩殿門前集落に、旅人に旅宿を供する木賃宿や、飲食をも供する旅籠ができたのは、やはり坂東三十三所観音霊場巡りが百姓、町人にまで普及した江戸時代のことであろうが、岩殿門前集落は、宿駅として宿屋をなした者が多いという。宿屋を主に、各種の商工業者の店ができて、門前百姓村は、土地の耕作に依存しない集落、つまり門前町に変った。新編武蔵風土記稿には、「……当所は名高き坂東札所の観音の建るを以て、参詣の人常につどひ、村民おのづからまづしからず、此辺古はかの観音領なりしにや、古文書等には古き領主の名は見えず」と富裕なさまが記されている。
 明治以後は事情一変して再び農業集落に逆戻りし、殊第二次大戦後に至ってほとんどの家は建て替り、家の位置も参道沿いから奥の方へ退ってしまったようである。かつての面影はほとんど失われた今、かつての門前町の盛況を知るよすがとなるものは集落の地割と家号とである。門前三院中の一院正存院が所蔵する明治9年の地割図の上に、原田節二氏が丹念に調査して書き留められた各戸の屋号を、苗字名前などを照合しながら書き込んだのが第14図【略】である。これらの屋号が商工業者として店を構えていたことの名残りである。また地割も、土地が道路に沿って、間口の狭い細長い敷地にほぼ等分割されており、これもまたここが商工業者の集落だったことを表わしている。家屋は、新編武蔵風土記稿の「岩殿観音図」(第13図)【略】からもうかがえるように、軒を接して街並をなしていたのではなかった。原田節二氏の調査ノート「岩殿宿駅の研究」には多分聞き込みによってと思うが、明治期の家屋の位置を調査し、図示されており、それによると大部分の家が、ちょうど筆者らが調査した丁字屋や、宇津木氏宅のように、(第14図)大体参道に沿って建ち、平入で参道に戸口を開いている。

新編武蔵風土記稿 岩殿村 10月31日

新編武蔵風土記稿 比企郡之六 岩殿村 附持添新田(東松山市大字岩殿)

岩殿村ハ江戸へノ行程十四里亀井庄松山領ニ属ス。民家八十軒、村の四隣、東ハ元宿村ニ境ヒ、西ハ奥田村ニ接シ、南ハ田木村、北ハ葛袋村ナリ。東西ノ径【ワタ】リ一里南北十六七町、総テ山丘ノ地ニシテ天水ヲ仰グ所ナレバヤヽモスレバ旱損ス。サレド当所ハ名高キ坂東札所ノ観音ノ建テルヲ以テ、参詣ノ人常ニツドヒ村民ヲノヅカラマヅシカラズ。此辺古ハカノ観音領ナリシニヤ、古文書等ニモ古キ領主ノ名ハ見エズ。寛永十六年横田次郎兵衛・同甚右衛門二人ニ賜ヒ、元禄十一年川越領主ノ領地トナリ、同十五年御料所トナリシヲ宝永ニ至リ又私領ニ復サレテ、横田伝次郎・中島孫兵衛二人ニ賜リ今モ子孫横田源太郎・中島政次郎知行シ、其余【ホカ】村内正法寺の領入会ヘリ。検地ハ寛永十六年横田家ニテ糺シ、元禄十一年川越領主ヨリ改メ、其後持添新開ノ地ハ延享三年四月御代官佐久間伊十郎・市川庄左衛門撿シテ本村ノ高結ト成リシト云ふ。此新田ハ御料所ナリ。
 高札場二ヶ所 一ハ観音ノ前 一ハ望月ニアリ。
  小名 望月
 物見山 入西十七ヶ村入会秣場ノ内ニテ雪見峠トモイヘリ。コレ古昔田村麻呂将軍悪竜退治ノ時、雪中此山ニ上リテ四方ヲ望ミシユヘ、物見山又ハ雪見峠ノ名ヲ得シト。爾後ノ観音堂ノ条ニモ載セタリ。
 旗塚 観音堂ノ東西一丁余ニアリ、小高キ塚ニテ数十基並ビテアリ。戦争ノ時旗ヲ立タル塚ナレバ呼名トナセリト云フ、イト覚ツカナキ説ナリ。
 判官塚 比企判官能員ガ追福ノ為ニ築キシモノト云ヒ伝フ。サレド由来詳ナラズ。
 入定塚 由来ヲシラズ。
 塁蹟 鎌倉基氏ノ陣畳ト云フ。按ニ『桜雲記』に貞治八年八月基氏武州岩殿山ニテ芳賀伊賀守高貞入道禅可ト合戦アリシ由ヲ載ス。此頃ノ畳蹟ナルベシ、又『梁田家譜』ニ公方基氏比企郡之内岩戸山一戦ニ利ヲ失ハレシ時、梁田右京亮経助粉骨ヲ抽デ翌日大利ヲ得タル功ニヨリテ下武藏小沢郷拝領ト見エタリ。此岩戸山ト書キシハ岩殿山ノ訛ナラン。
……

    新編武蔵風土記稿第16巻(新編武蔵風土記稿刊行会発行・修道社発売、1957年)

1990年頃の入山地区空中写真

1990年(平成2)頃の岩殿・入山地区の空中写真です。
岩殿・入山(88-90)

1985年頃の入山地区空中写真

1985年(昭和60)頃の岩殿・入山地区の空中写真です。
岩殿・入山(84-86)

1980年頃の入山地区空中写真

1980年(昭和55)頃の岩殿・入山地区の空中写真です。
岩殿・入山(79-83)

1975年頃の入山地区空中写真

1975年(昭和50)頃の岩殿・入山地区の空中写真です。
岩殿・入山(74-78)

田村麿の悪蛇退治

北條清一『武州このごろ記』(日本公論社、1935年7月発行)の122頁~124頁に収録されています。目次では、「田村麿の悪蛇退治(小谷野忍海氏)」となっていますと( )がついています。小谷野さんに取材した記事で、『東京日々新聞』埼玉版の一千字訪問シリーズに掲載されたものと思われます。見出しは悪蛇ですが、本文では悪龍です。「蛇」、「龍」、「龍蛇」もあるかもしれません。
   田村麿の悪蛇退治
 比企郡松山町在の岩殿山の千手観世音菩薩は、坂東十番の霊所である。春全山は新緑の粧ひをこらして、つつじが満開である。山の頂に佇んで眺むれば、真澄の空に関八州を一望し、脚下には新緑と真紅のつつじが溶け合って美観この上なし。
 この岩殿山麓を中心に、比企、横見、入間、高麗川、秩父地方に亘る方二十里ほどの部落では、毎年六月一日軒下に焚火をして、道行く人に『おあたりなさいまし……』といふ古い習慣が遺ってゐるといふ。セルか単衣の着物の肌に汗を覚えようといふ季節に、火を焚いて、おあたりなさいましといふ習慣は珍無類であるが、この伝説について、岩殿山正法寺住職小谷野忍海師は次のやうに語る。
 桓武天皇十年[790年、延暦九年]奧州の逆徒高丸を征伐に坂上田村麿が征夷大将軍として、軍卒を引き具して東国に進軍する途中、岩殿山の麓に差しかかった。ところが、この辺に悪龍が棲み土民に危害を加へたり、夏日に氷雪を降らすかと思へば、厳冬の候に雷雨を呼び起し、或は大風砂石を降らすといふやうに、農民を悩ましてゐた。これを聞いて田村麿は、岩殿山西方一里、今の笛吹峠に陣を張り付近の地理を究めて二夜を明かし、軍勢を繰出して山野を跋渉すといへども、天をかけるか地に潜んだか、悪龍は影も形も見せない。万策つきて岩殿山に上り千手観世音に詣で『我勅命を奉じて悪龍を退治せんと思へども、悪龍通力自在にして姿を見せず、眼に見ゆるものはいかなる強敵といへど、わが武術をもって征伐すべけれど、眼を遮るものは凡力をもって如何ともなし難く、願はくば大悲の神力をもって、われに君命をふづかしめ給ふな』と夜を徹して祈念した。暁の明星の出るころに一人の高僧現れ『明旦必ず神力により瑞相を示すであらう、夢疑ふ勿れ』といって、高僧の姿は煙の如くに消えてしまった。
 さてその翌日は、六月だといふのに忽ち指の千切れさうな寒さが襲来して、卯の刻から巳の刻にかけて一尺余も雪が積った。緑の山々は、忽ちにして白皚々[はくがいがい]の冬の山と化してしまった。田村麿はこれ大悲擁護の奇瑞と打ち喜び、士卒をはげまして岩殿山上より西方に眼を配れば、北の方に當って悪龍が姿を現はしたので、田村麿は南無観世音菩薩と念じながら、一殺多生の義箭[ぎせん]を放って、遂に悪龍を退治した。この悪龍の長さは二十余尋[ひろ]あったといふ。
 かくて田村麿は、付近農民の感謝に送られて東国指して出発した。村民は軒に火を焚いて田村麿将士を労を犒[ねぎら]ひ『おあたりませう』といったものだといふ。
※6月1日の行われる「ゲツアブリ」については、『嵐山町Web博物誌』7巻2章3節の「4.ケツアブリ」をご覧下さい。


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