読書ノート

稲の自然乾燥の方法 9月18日

児沢の田んぼでは、10月2日、8日に稲刈りを予定しています。のこぎり鎌で刈った稲を束にして稲架に掛けて自然乾燥します。刈った稲を干す方法はいくつかあります。クリップ NHK for School の総合(小学3~6年)「稲の自然乾燥」は、2分弱の動画です。番組のナレーションを引用しておきます。視聴して下さい。
 刈り取った稲には、水分がまだたくさん残っているので、乾燥させなければなりません。稲の自然乾燥には、地域によって、いろいろなやり方があります。
 これ は束立て(そくたて)や、地干しと呼ばれるやり方です。地面に稲の束を立て、風と地面の熱を利用して乾燥させます。
 田んぼに組んだ棒は、はさや稲木などと呼ばれます。 この棒に稲の束をかけていく作業は、はさ干しなどと言われます。
 日当たりが良すぎるところでは、日陰に向けて干すこともあります。米が割れないようにする ためです。
 日本海側の湿気が多く、風通しも良くない地域では、6段から9段もある高いはさを作るところもあります。大人の背ぐらいの高さの棒に、稲の束を かける棒がけというやりです。かわいた気候の地域でよく利用される方法です。
 風とおしをよくするために、らせん状にする棒がけもあります。稲の干し方に は、地域ごとに地形や風向きにあったやり方が工夫されています。
※当ブログの過去の記事では、「タナガリ・ベタガリ 滑川町水房」、「稲刈りと乾燥 読書ノート」、「稲の干し方あれこれ」、「稲架あれこれ」などがあります。

「川とそこにすむ生物を見る」目次 9月14日

リバーフロント整備センター編著『まちと水辺に豊かな自然をⅡ 多自然型川づくりを考える』(山海堂 1992.3)の第Ⅰ編の目次です。
まちと水辺に豊かな自然をカバー

Ⅰ.川とそこにすむ生物を見る

 1.川を見
  川の形を見る
  ●流れ下る川の姿
  ●川の流れの作用
  ●河床の変動を知る
  ●河床の姿をみる
  ●ミクロな川の姿
  (コラム)わが国の河川特性

  瀬と淵を見る
  ●自然の川には瀬と淵がある
  ●河川生態学から見た瀬・淵の類型
  ●砂州と瀬・淵

  水環境を見る
  ●流れる川の水を見る
  ●水量を知る
  ●水質を知る
  (コラム)正常流量と環境基準

 2.川にすむ生物を見る
  川にすむ生物
  (コラム)植物・動物
  (コラム)川にすむ生物の調査法

  川の魚
  ●川の魚の分類
  ●分布
  ●川の魚の生活
   (1)生活のサイクル
   (2)餌のとり方
   (3)産卵
   (4)休息・避難場所など
  ●魚に必要な川の環境

  川の植物
  ●川の植物群落の分類
   (1)群落の区分
   (2)植生の分類
  ●群落の分布と環境
   (1)自然植生の成立ち
   (2)半自然植生の成立ち
   (3)帰化植物群落の成立ち
  ●植生に必要な河川環境

  川の鳥
  ●川の鳥の分類
  ●分布
  ●川の鳥の生活
   (1)生活のサイクル
   (2)餌のとり方
   (3)繁殖
   (4)ねぐら(塒)
  ●鳥に必要な川の環境

  その他の川の動物
  ●分類
   (1)水中の動物
   (2)川辺の動物
  ●その他の川の動物の生活
   (1)生活のサイクル
   (2)餌のとり方
   (3)繁殖
  ●その他の川の動物に必要な川の環境


Ⅱ.生物にやさしい川の姿/多自然型川づくりを考える

 1.多自然型川づくりの理念と背景
 2.海外における多自然型川づくり
  スイスやドイツにおける多自然型川づくり
  カナダにおける遡河回遊魚のための川づくり
 3.伝統的河川工法
 4.多自然型川づくりを考える
  (コラム)ビオトープ
  (コラム)河道内の樹木

Ⅲ.多自然型川づくりの事例

Ⅳ.多自然型川づくりを始めるにあたって

参考資料 スイスの多自然型河川工法

まちと水辺に豊かな自然を18頁

ぐんまの魚の生息環境を考える日本一のアユを取り戻す会 公式ホームページから)

  (1)ぐんまの魚の生息環境を考える
  (2)川の流量について
  (3)河川水の水質について
  (4)(5)河川水の水温について
  (6)瀬と淵について
  (7)淵と瀬を取り戻す
  (8)川岸を考える
  (9)河床を考える
  (10)ヤリタナゴの小溝
  (11)おわりに

水野信彦『魚にやさしい川のかたち』目次

比企の川づくり協議会は、週末17日(土曜日)9時~「都幾まるごと再生事業整備後生き物調査」をときがわ町玉花菖園前の都幾川で実施します。河川改修や洪水によって淵や川原、生きものの生息環境がどう変わったのかなど調べます。今日は秋雨で農作業はお休みして水野信彦『魚にやさしい川のかたち』(信山社, 1995.11)を読んでみました。
魚にやさしい川のかたち

 魚にやさしい川のかたち 水野信彦著
1.瀬と淵
 1.1 淵と瀬は夫婦
 1.2 夫婦は一心同体
 1.3 淵の現状と漁場価値
2.淵の水深の重要性
 2.1 淵を消失させる理由
 2.2 淵の保全策
3.淵の水深の重要性
 3.1 深い淀みと浅い淀み
 3.2 トロを淵に変える
 3.3 淵と早瀬の一体性など
4.淵の型およびR型の淵
 4.1 淵のいろいろな型
 4.2 R型の淵と大石の除去
 4.3 巨石の投入事業A
 4.4 巨石の投入事業B
5.S型の淵と魚
 5.1 S型の淵と床止めの堰堤
 5.2 魚道は不要
6.堰堤とS型の淵の活用
 6.1 長野県農具川の例
 6.2 高知県新別川の例
 6.3 欧米での例
7.堰の平面図と流れの関係
 7.1 堰の平面形と流れの関係
 7.2 島根県髙津川の例
8,川岸の形と護岸
 8.1 三方護岸
 8.2 用水路の三方護岸
 8.3 用水路での問題点
 8.4 急勾配河川での三方護岸
9.側方護岸の魚巣ブロック
 9.1 側方護岸の漁業被害
 9.2 河道と護岸
 9.3 魚巣ブロック
10.木と石の護岸
 10.1 木と石の護岸
 10.2 近自然河川改修法
 10.3 樹木の効用
11.魚の移動と魚道
 11.1 川魚は移動する
 11.2 魚道を不要にする工夫
12.魚道の問題点
 12.1 アユのためだけでない魚道
 12.2 魚道の前後の問題
13.おわりに
 13.1 欧米の河川改善
 13.2 欧米と日本との相違

資料(Ⅰ)淵の造成と漁場
資料(Ⅱ)河川改修の影響予測
資料(Ⅲ)魚類調査
資料(Ⅳ)淡水魚の生態
資料(Ⅴ)淀川下流域の水質汚濁と魚類の分布
 8月23日午後4時半頃の現場(前の日は台風9号が通過。ときがわ町の降水量は211.0㎜)
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イネの収穫適期とは? 9月1日

9月になりイネの収穫作業の日程が具体化してきました。9月下旬から10月初旬が収穫時期です。児沢の田んぼは8月10日前後(5月29日に田植えをした上の奥の田んぼ、6月5日の手前の田んぼ、下の田んぼ)に出穂しています。出穂(しゅっすい)とは穂の先端の籾(もみ)が1粒でものぞいた状態、出穂して数日後に穂の大半が葉鞘(ようしょう)からできった状態になります。出穂期とは水田全体の40~50%が出穂した時、穂ぞろい期とは80~90%が出穂した時をいいます。
 収穫適期を判断する方苞として、(1)出穂後日数で判断する方法(2)籾の色相変化による帯緑籾歩合(%)方法(3)出穂した後、日平均気温を和した登熟積算気温による方法があります。(2)は、モミを手でこぎ落とし、白い紙などの上に落として青みが残っている籾の割合で、青味籾率ともいいます。収穫適期は青味籾率が25~5%です。籾の大多数が黄化するのを待つと刈り遅れとなります。
 2012年、東松山市石橋の田んぼでは、田植え6月12日、出穂期8月12日、積算温度1,162度で9月26日に収穫しています。

米粒の形成(『作物栽培の基礎』農文協、183~184頁)
 受精した子房は、発達をはじめ、図のような経過をたどって登熟する。開花7~10日後には胚の形はほぼできあがる。いっぽう、胚乳組織は、開花7日後には形ができ、以後は茎葉から送られてきたでんぷんの蓄積がさかんにおこなわれる。
 米粒は、はじめ長さを増し、ついで幅を、最後に厚さを増す。25日頃に玄米の大きさが決まるが、このときは、果皮に葉緑体を含むため緑色をしている。30日頃からは、内容の充実につれて水分も減少し、粒の容積もわずかに小さくなり、緑色が消えて、玄米本来の半透明になってくる。ふつう45日ころ、内花えい・外花えいも緑色を失い、光厳色となって完熟期をむかえる。
開花184

刈り取り時期
(『作物栽培の基礎』農文協、191~192頁)
 登熟のすすみぐあいは穂によってちがい、また、同じ穂でも、もみの位置によてちがう。はやく実ったもみが雨や日光にさらされて乾湿の変化をくり返すと胴割れ米が発生し、反対に未熟もみを収穫すると青米(果皮に葉緑体が残っているため緑色をしたもの)になる。そこで、胴割れ米と青米の両方の発生率が最小に近くなった時期を刈り取りの適期とする。この時期は、大部分のもみが黄色になり、1~2割のもみが緑色を残しているころと考えてよい。
 また、もみは、登熟がすすむほど重さがふえ、水分は低下するので、収穫・乾燥作業上などからは、おそ刈りのほうが有利である。しかし、おそ刈りすると脱粒や倒伏などによる損失が多くなるので、やはり適期収穫が大切である。
収穫192

館ヶ丘団地(東京都八王子市) 8月8日

境川の多自然川づくり見学の帰路、車窓から「舘ヶ丘団地名店街」の看板をみて買いものをしようとハンドルをきりました。名店街はシャッター商店街化しており、ダイエー系列のグルメシティ館ヶ丘団地店は8月末で完全閉店で売りつくしセールをしていました。団地ができた時に開業したスーパーです。
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館ヶ丘団地は1975年に住宅公団によって高尾山の麓の29㏊(東京ドーム6個分)に建設された総⼾数2848⼾の⼤型団地です。住民は1万人をこえていた時代もありましたが、現在およそ3,500人、65才以上の割合は51%、その内70%以上が独り暮らしです。団地内にあった小学校2校、中学校1校は統合されて小中学校1校となっています。

八王子保健生協が市から事業委託を受けて運営する「八王子市シルバーふらっと相談室館ヶ丘」のウィンドウに館ヶ丘団地おむすび計画・熱中症予防対策のチラシが貼ってありました。
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おむすび計画は2011年からスタートした高齢者の熱中症予防を、主な目的とした地域活動です。「おむすび」とは、団地の中で人と人との輪を結ばれる、そんな願い込めて名付けられたそうで、子供から大人まで幅広い世代の参加できる多世代型の活動です。

人がふれあう場をつくる ーつながりでくらしを豊かにー 八王子保健生協(日本医療福祉生活協同組合連合会『comcom』2014年8月号)
高齢者を支える「舘ヶ岡団地」の取り組み(TBSラジオ『人権トゥデイ』2016年7月9日放送)

境川上流の蛇行流路を見学 8月8日

町田市(東京都)と相模原市(神奈川県)の境を流れる境川上流部の蛇行流路を見学しました。
多自然川づくりの参考事例、多自然型工法として紹介されている場所です。
境川(多自然川づくり参考事例集10)境川(多自然川づくり参考事例集11)多自然型工法

相模原市立宮上小学校北側は川幅が広く川原やワンドがあり、こどもが川に入って遊んでいました。
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写真7・8・9が宮上小北側です。
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写真4・5の蛇行部分
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この地域の境川の河道の航空写真はヤフーマップがおすすめです。


蛇行部分は上流の西側、地図を左に移動してください。

多自然型川づくりの事例:境川(相模原市)

多自然川づくりの事例としてとりあげられることが多い境川は、東京都、神奈川県を流れ相模湾に注ぐ2級河川です。上流部は概ね東京都と神奈川県の境を流れており、かつての武藏国と相模国との国境を流れることから境川、八王子街道(大山街道、国道16号線))が境川をわたる橋は両国橋、橋の南側にある宿は橋本(相模原市緑区橋本地区)と命名されています。

島谷幸宏『河川環境の保全と復元 多自然型川づくりの実際』(鹿島出版会、2000年)は多自然川づくり分野の基本図書です。
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「第4章保全・復元の際の基本的考え方」にのコラムで川の蛇行部と河畔林を残すことができた例として境川が取り上げられています。

 コラム6 治水計画と自然環境保全の例(境川)
 現在の環境が良好な場合は、その環境をどのようにして保全するのかが重要となる。河岸に河畔林が残っている境川を例に考えてみたい。境川は神奈川県と東京都の境界の洪積台地上を開削して流れる、神奈川県が管理する掘込み河川である。以前は相当の区間で河畔林があったが、現状では2㎞の区間のみが河畔林が存在する区間になっている。また大きな蛇行部が存在することも特徴である。この河畔林の保全をめぐって、河畔林管理者である神奈川県と境川の斜面緑地を守る会の間で議論がなされた。当所の計画案は計画流下能力60立米/秒を確保するために河道を直線化し、断面の拡幅、護岸を設置する計画であった(図4-1)
 当所の改修計画のインパクトとしては、河畔林やニリンソウなどの林床植物の生育地になっている天然河岸の消失、魚類のハビタットとしての重要な湾曲部の喪失かあげられる。これらのインパクトは、河畔林からの落ち葉や落下昆虫など餌物質を減らすことにもつながり、エネルギーフローにも影響を与える。また河畔林の伐採は、光環境を変え林床植物に影響を与える。元凶の環境が良好なときのインパクト軽減策としては、回避、低減が基本である。境川では、なるべく蛇行部や河畔林を残すことを基本に、いくつかの代替案に対して流下能力の詳細な検討がなされ、天然河岸の強度がどのくらいあるかを調べるためのボーリング調査が行われ、蛇行部分がほとんど残ることになった(図4-3)。一部河畔林が伐採される林床植物は移植されることとなったが、河川沿いの樹林地の樹木を間引き光環境を改善してから移植することとなった。(39~40頁)
図4-1 当初案(河道の直線化、断面の拡幅、護岸の設置により、天然河川の湾曲部が消滅する)
図4-2 ショートカット案
図4-3 決定案(川の蛇行と河畔林を残すことができた。黒い部分が拡幅する部分)
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境川は図の右側から左側に流れ、右側に国道16号線、両国橋、中央の蛇行部に計画された「管理橋」は現在、「横町橋」となっています。
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「多自然型川づくり」は型がとれて現在は「多自然川づくり」となり、『多自然かわづくりポイントブックⅢ 中小河川に関する河道計画の技術基準;解説 川の営みを活かした川づくり ~河道計画の基本から水際部の設計まで~ 』(日本河川協会、2011年)で、境川は18、29、30、55、97頁などでとりあげられています。

NPO法人境川の斜面緑地を守る会のホームページ

「谷津田を維持して暮らしが成り立つ社会・経済的な裏づけ」 8月3日

桜井善雄さんの『水辺の環境学④ 新しい段階へ』 (2002年)の「第3章水辺のあれこれ」の「谷戸(谷津)-この日本的な自然」(174~177頁)の後段です。

 さて、1960年代から始まったわが国の農村整備事業は、一区画の水田の面積を大きくして、農作業の機械化を可能にし、生産性の向上に大きく貢献したが、その反面、伝統的な農村の多様な自然環境は消滅し、何百年もそれに依存して人間と共存してきた野生生物は、驚異的な速度で減少した。それでも、上記のような国および農家にとって投資効果の小さい谷津田は、改造から免れた。しかしそれも、あるいは放棄されて荒れ放題となり、あるいは開発されて、今はみる影もないまでに減少した。

 今、わが国の野生生物の多様性の回復が叫ばれているが、そのためには、まず、その土地固有の昔から存在した生息環境を保全・復元しなければならない。谷津田こそまさにその重要な対象である。しかし、その回復と維持は、農家の献身的な努力ではもはや不可能である。都会の人びとのボランティア活動も意義があり重要であるが、根本的には、谷津田を耕し、維持することによって暮らしが成り立つ社会・経済的な裏づけがなければならない。1999年に改正された農業基本法によって、国はその道を開いてくれるだろうか。(強調は引用者)
この本が出版されて15年近くたちましたが、「谷津田を維持して暮らしが成り立つ社会・経済的な裏づけ」はますます必要になっています。岩殿満喫クラブも模索しています。

「谷戸(谷津)-この日本的な自然」 8月3日

桜井善雄さんの『水辺の環境学④ 新しい段階へ』 (2002年)の「第3章水辺のあれこれ」の「谷戸(谷津)-この日本的な自然」(174~177頁)の中段です。

 谷戸は、山裾の扇状地や火山噴出物が堆積した台地を、水流が浸食・開析して形成した、小規模な浸食谷である。日本列島の若い地質構造とモンスーン気候による高い降水量が、このような特徴ある地形を、全国にきめ細かくつくり出したのであろう。
 谷戸の浅い谷底には、狭いながら下流側に傾いた平場が堆積によって形成され、谷の奥や左右の崖の基部には、湧水(ゆうすい)をみることが多い。少しでも多くの米がほしかったわれわれの祖先は、このような自然条件を利用して、営々とここに棚田を拓いた。そして用水の安定確保と、稲の生長のために少しでも水を温めようと、谷頭に温水溜池を設けていることが多い。
 谷戸は、関東地方では「谷津」とも呼ばれ、単に「谷」と書いて「やと」と読む地方もある。谷戸の水田は、谷津田、谷戸田、谷地田などのほか、中国地方では棚田、迫田(さこた)などとも呼ばれる。このような呼び名は、全国の地名や人びとの姓にも多くみられ、谷戸と日本民族とのかかわりが、いかに永く深いものであるかを物語っている。

 谷津田には、昔から人間と共存してきたさまざまな野生生物の多様な生息環境がある。一年中水を湛(たた)えた谷頭の溜池や山裾のしぼり水の小川、そのまわりの湿地や湿田、夏には一面水を湛えた湿地となる水田とその畦畔(けいはん)、棚田の三方を囲む斜面や崖をおおう森林と、その裾を取り巻く低木の藪等々、さまざまな小さなハビタットを含むビオトープがモザイク状に入り組み、全体として特徴のあるビオトープシステムを形成している。
 農村地域にすむ野生生物の生態とその保全理論について優れた業績をあげている守山弘さんは、季節と、代かきや田植えなどの農作業によって移りゆくこのような谷津田の生息環境を、さまざまな昆虫、両生類、魚類などの、北方系の種類と南方系の種類が、時期的にうまくすみ分けて利用している状況を解き明かしている(守山弘『水田を守るとはどういうことか-生物相の視点から』農文協、1997)。
 また、このような小動物とそれを取り巻く環境は、わが国ではすでに野生から姿を消したトキやコウノトリにとっても、欠くことのできない餌場と繁殖環境を提供していた。日本列島の自然と人間の営みによってつくりだされた谷戸の環境は、まさにわが国特有の、管理・利用型の生息環境の代表ということができるだろう。

不自然型川づくりがみられる理由 8月1日

桜井善雄さんの『水辺の環境学④ 新しい段階へ』 (2002年)の「第2章新しい仕事」の「多自然型川づくりの道程」(81~85頁)からです。

 わが国の河川は、その自然性と社会性からみて実に多様である。したがって生きもののためにせよ、地域社会のためにせよ、その川の環境の特性を生かした整備をおこなうには、かなり高度の知識とセンスが必要である。このような事業が始まってもう10年以上も経過するのに、いまだに上記[土砂で埋まった魚道、渓流の脇に渓流をまねた水路、ホタルが住めないホタル水路、埋まった人工ワンド、浮遊物がたまって腐敗したワンド]]の類いの不自然型川づくりがみられる理由としては、

①担当者の交代が頻繁過ぎて対象水域の特性の理解が不十分のまま、計画が民間業者まかせになりやすい
②対象河川についての生態学的情報が不十分か、またはあっても活用されず、さらに生態の専門家の一貫した協力がない
③理にかなった事業から予算が決まるのではなく、予算が事業の規模・内容を決めることもある
④生態学や川の自然の法則からみて、その場所にとって必然性のある計画や工法を選ぶのではなく、自然らしく見せたいという思いつきが先に立つ

 また地方の市町村などでしばしば聞くことであるが、

⑤首長や議員などの有力者が、思いつきや地元への点数稼ぎのために、担当者としては無視することができない素人考えの口出しをし、時には圧力をかける
⑥その事業を遂行するために、地域や水路の利用権をもつ関係団体からの不合理な意見を取り入れざるをえないこともある

等々があげられるように思う。(84~85頁、強調は引用者)

川の環境民主主義 8月1日

桜井善雄さんの『水辺の環境学④ 新しい段階へ』 (2002年)の「第1章新しい視点を」の「川の環境民主主義(33~37頁)からです。

 ついひと昔前まで、ごく身近な不都合でもない限り、人びとは川の改修や管理について、積極的な意見をもつことも言うこともなく、すべて管理者すなわち御上まかせであった。しかし近年になって国海外の環境問題の激化を反映して、わが国でも、川の自然環境を守ろうという意識が急速に高まり、そのような時代の背景の中で、河川管理に住民の意見を反映させるという条項が、新しい河川法[1997年改正]に盛り込まれた。
 前の節[「脱ダム宣言」]で環境民主主義という言葉を使ったが、最近の関連した出来事[2000年吉野川第十堰の可動堰化の是非を問うた住民投票]をめぐって、このことをもう一度考えてみたいと思う。(33頁)

 したがって、この種の事業の可否に関する民主的な判断には、河川管理者と住民が、洪水による災害の可能性とその防御に関する情報と理論を共有し、その対応策をさまざまな選択肢の中から選ぶ過程が、どうしても必要である。このような過程は、新しい河川管理計画の検討に意識的に取り入れられるべきものであり、本来それは、河川管理者と住民の間に置かれた白紙から出発し検討されるものであるから、そこに討論はあっても、根本的な対立は原則としてありえないはずである。
 とはいえ、どんな水系でも、環境保全との折り合いを模索しながら総合的な治水・利水計画を立てるには、かなりの専門的な知識と基礎データが必要である。ここでは、住民がそれをすべて理解しなければならないと言っているのではない。河川管理者には、このことについて十分かみ砕いて説明する責任があるし、住民もまた客観的な立場にある専門家の協力をえて、積極的に理解につとめ、それにもとづいて地域の河川管理計画の策定に参加し、発言してゆくのでなければならない。説明が不十分な一方的な押しつけや思い込みの強い狭量な発言は、このような双方の努力を撹乱し妨げこそすれ、貢献するところは極めて少ない。最初から白か黒かの立場にこだわった議論ではなく、そこには民主的な討論を通じて合理的な折り合い点を見つけ出す、大乗的な議論がなければならない。
 民主主義は、国民すべての主権の保証と、社会の意思決定への平等な参加が保障される社会のあり方であり、当然一方では義務の自覚が求められる。環境民主主義もその埒外(らちがい)にはない。(34~36頁、強調は引用者)

 さらにもう一歩踏み込んで考えなければならない大切な問題がある。それは、河川管理という目的が明白な事業に対して、なぜ、場合によっては、見当違いな批判や反対が生まれるのか、ということである。
 わが国の公共事業や国際協力事業には、嘆(なげ)かわしいことに、いまだに手を変え品を変えた政治家と業界の癒着と汚職が跡を絶たない。そのことが、公共事業全般について、心ある国民に不信を抱かせる原因になっており、その不信が必要な河川事業に対しても人びとを反対運動に駆り立て、共通の課題であるべきはずの事業そのものについての、もっとも本質的な対話と議論を妨げているのではないだろうか。目の前の現象に惑わされずに物事の本質を見抜く、より広くより深い思考が、今私たちに求められているように思う。(37頁、強調は引用者)

環境民主主義を育てる「政策」 8月1日

桜井善雄さんの『水辺の環境学④ 新しい段階へ』 (2002年)の「第1章新しい視点を」の「脱ダム宣言」(22~32頁)からです。

 わが国の地質、地形、気候、土地利用(国民生活、産業、社会資本などの立地)等の欧米諸国とは著しく異なった特性を考えると、洪水に対する対応の仕方には、画一的でなく、水系あるいは地域ごとに個性があるのは当然です。その地域に降った雨のどれだけが流出するか、それは雨の強度と継続時間によってどう変わるか(これについては、地球温暖化のために降雨が時間的および地域的に集中する傾向が表れ始めていることも考慮する必要がありましょう)。それによってどの程度の高水(こうすい)がどんな頻度で予測されるか[基本高水]。当面それをどの程度まで防ぐ必要があるか。その高水を現在の河道で排除できないならば、その水系と流域にどんな対応の仕方が考えられるか-河道の拡幅か、掘り下げか、堤防の嵩(かさ)上げ補強か。それらがいずれも不可能なら、洪水のピークを下げるための遊水池や調節池の設置はどうなのか。また、洪水調節に加えて水資源や電力も得られる多目的ダムの建設を選ぶのか。もし多目的ダムとするならば、そこに安易な選択はないか、水資源や電力の開発を需要の単純なトレンド主義で考えていないか。さらにダムそのものの安全性や、ダムという巨大な人工構造物の建設が、当然周辺の自然環境や社会環境に与えるであろう影響について問題はないか。あるとすればその代償的な解決の方策はあるか。そして考えられるすべての方式について、費用に対する総合的な効果はどうか、等々の諸問題を、基礎になる資料と数値と検討のプロセスを公開し、時間がかかりまた煩(わずら)わしくても、最初から広く住民の意見を聴き、それを反映させながら検討して、社会全体の共同責任において結論を求めてゆく方式をとることが望ましいのではないでしょうか。(26~27頁)

 しかし忘れてならないのは、このような仕事にはかなりの専門的な知識と長い間の経験の集積が必要であって、簡単にフィーリングで決められるような問題ではないということです。住民参加を形骸化させないためにも、基礎データの提供だけでなく、並行してそのような知識の啓発と支援は欠くことが出来ません。
 このような過程を踏むことによって、住民ははじめて自分自身の安全と、完璧には避けることができない自然の脅威に対する対応の仕方について、主体的に考える姿勢をもつことができ、環境全般の管理に対する行政まかせ、御上まかせでない責任感も生まれると思うのです。それこそが環境民主主義を育てる政策であると、私は考えます。(27~28頁、強調は引用者)

※基本高水(こうすい、たかみず):洪水防止計画を立てる際の基本となる高水のこと。その水系の過去の高水の実績、対象地域の重要度、経済効果などを総合的に考慮して決められる。これにもとづいてさまざまな選択肢の中から洪水の被害を防ぐ具体的な対策が選定される。

すみ場地図を基礎にしておこなう生態系保全の方式 3/3 7月31日

すみ場地図の作成と活用
 さて、実際の作業の場面では、まず一方で、対象地域とその周辺の必要とする範囲について動植物相の調査を実施し、そのリストから注目すべき種と群集を抽出する。そして他方で、表①に示したようなすみ場の階層のハビタットないしビオトープのレベルのすみ場に着目して現地の踏査をおこない、その結果を地図上に落として“すみ場地図(ハビタットマップ)”を作成し、それぞれのすみ場について生活史および季節全般にわたる上記の注目種および群集の利用との関係を整理しておく。なお、注目すべき植物の種の限られた生息場所や注目すべき動物の種の産卵場所、営巣場所などのような重要なすみ場については、マイクロハビタットのレベルについても地図の中に記入する。
 次に、このようなすみ場地図と事業の計画図を重ねあわせ、その事業を実施した場合、すみ場を消失させるかあるいは劣化させることによって、対象地域に生息する生物種および群集に与える影響を検討・予測する。そしてその影響が容認できる範囲であれば問題はないが、好ましくないと判断される場合には、くりかえして計画の見直しをおこない、その事業計画と対象地域に生息する生物種、群集、ないしは対象地域の生態系の保全との折り合い点を見つけ出すのである。前述のようにこの見直しの結果には、その事業計画の大幅な変更ないしは中止も含まれていなければならない。
 以上にあらましを述べたような、事業の対象となる地域とその周辺地域について作成されたすみ場地図を基礎にしておこなう生態系保全の方式は、河川、湖沼、湿地などに限らず、生息環境保全一般に広く活用できるものである。このような方式を、野生生物の生息環境に影響をおよぼす多くの事業に活用することが望まれる。(20~21頁、強調は引用者)
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すみ場地図を基礎にしておこなう生態系保全の方式 2/3 7月31日

土木と生態が一緒に仕事をするテーブルづくり
 ここでいう“テーブル”には二つの意味がある。一つは河川事業をおこなう土木分野の人々と野生生物の保護を任務とする生態分野の人びとが一緒に仕事をするための、文字通りのテーブル(机)のことであり、もう一つは、両者が同じカテゴリーに属する情報を交換し共有するための、図あるいは表などに整理された資料のことである。すなわち、このような二つのテーブルを共有し、次項で述べるような作業を共同でおこなうことによって、土木事業(ここでは河川管理事業)を担当する専門家と生態分野の専門家が、知恵を出しあい、協力して、効果的な生息環境の保全を考えた河川事業(計画・工事・管理)をすすめるための条件づくりが、はじめて具体的に可能になるのである。
 河川事業は、治水や利水のための目的に応じて、川や湖の一定の広がりをもった特定の場所で、特定の季節に、地形を改変し、何らかの人工的な構造物を設け、場合によっては流量、流速、水位、あるいはそれらの時間的な変動に変化を与える仕事である。つまりその計画にかかわる情報は、特定された場所と、その場所における面積、構造、機能、質、および季節にかかわるものである。
 その事業に関連して、対象地域の野生生物の保護と保全を考える場合、そこに生息する動植物の種のリストが提示され、貴重種や重要種が指摘されるだけで、それらのすみ場の特性や正存に必要な環境条件に関する情報がともなわないならば、野生生物の生態を専門としない河川の管理者としては、効果のある対策を考えることはできない。この場合、野生生物の生息場所、生息環境にかかわる情報もまた、さきに述べたように、特定の場所と、その場所における面積、構造、機能、質、および季節(すべての野生生物の生活は季節と強い関係をもっている)にかかわる情報にほかならない。
 このような、同じカテゴリーに属する情報、いいかえれば共通の言葉で表現された情報を、土木と生態の両分野から一つのテーブルの上に提出し、重ねあわせることによって、はじめてその事業と野生生物の生息環境保全にかかわる問題点や合理的な両立点を探る議論ができることになる。
 すなわち、その事業を初期計画どおりにおこなった場合には、その場所に本来存在したすみ場の何が失われ、野生生物のいかなる種あるいは群集の生存にどの程度の損傷を与えるか、また、影響が予想される場合、それをどのような戦略(その事業の計画の見直し)あるいは戦術(設計や工法の見直し)によって回避ありいは代償できるか、あるいはさらに事業計画そのものを根底的に見直すべきか、等々の対応策が、共通のテーブルの上で、具体的に論議できるのである。
 以上のような仕組みを要約すれば、図④のようになる。(17~19頁、強調は引用者)
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すみ場地図を基礎にしておこなう生態系保全の方式 1/3 7月31日

7月11日に訪れた長野県上田市の半過岩鼻の崖には猛禽類のチョウゲンボウやハヤブサが営巣し、川原やまわりの田んぼ、堤防の法面、畑や水田、林縁をえさ場にして子育てしています。千曲川中流域のこのあたりには、チョウゲンボウの生存を支えるビオトープシステムが存在することを、桜井善雄さんの『川づくりとすみ場の保全』(信山社サイテック、2003年)から学びました。
 桜井善雄さんの著作に『水辺の環境学』シリーズ4册(新日本出版社、1991~2002年))があります。
   『水辺の環境学 生きものとの共存』 1991年
   『続・水辺の環境学 再生への道をさぐる』 1994年
   『水辺の環境学3 生きものの水辺』 1998年
   『水辺の環境学④ 新しい段階へ』 2002年

『水辺の環境学④ 新しい段階へ』の巻頭の「土木と生態が協働するテーブル」(11~21頁)で語られている「すみ場地図を基礎にしておこなう生態系保全の方式」は多自然川づくり活動だけでなく、市民の森保全クラブや岩殿満喫クラブの里山保全活動にも有益なものだと考えます。

土木と生態が協働するテーブル
 水辺は一般に、保全と再生を必要とするもっとも重要な野生生物の生息環境あるいは生息場所と言われている。わが国の国土の自然と人間による利用の特性を考えた場合、そのような水辺としては、小川や大きな河川の流路、川原および河畔地の草本・木本の植物群落、湖沼・ダム湖・池の沿岸帯、湿地、湧水とその周辺、水田およびそれに付随する溜池と用排水路、河口の干潟などがあげられる。
 このようなさまざまな水辺は、わが国の地形・地質、気候などの特性から、世界的にもまれにみる変化に富んだ自然景観をそなえており、その中に大小の多様な野生生物の生息場所、すなわちすみ場をもっている。
 しかし、このようなわが国の水辺の自然環境は、近年、とくに第二次世界大戦後になって、国、地方自治体、あるいは民間企業がおこなうさまざまな社会整備と開発の事業によって著しく変化し、野生生物の生息環境は、わが国のこれまでの歴史の中でかつてなかったほどの速度で、広い範囲にわたって消失し、または変化してきた。
 水辺は、陸地と水域が相接する場所である。自然の状態であれば、両者の間には程度の差はあれ環境のゆるやかな移りゆきがみられ、野生生物の成育・生息の条件が徐々に変化する推移帶(エコトーン)をつくっている。そこには湿生植物や水生植物、動物では、魚類、両生類はもちろん、環形動物、軟体動物、甲殻類、水生・陸生の昆虫類、鳥類、哺乳類などきわめて多様な野生動植物のすみ場が存在し、生物多様性の発達と維持にとって、きわめて重要な役割を果たしてきたのである。……
     [中略]
 水辺の自然環境の劣化が進行する一方で、その保全の施策にも、この10数年ほどの間に著しい進展がみられた。地方自治体や国の出先機関による小規模な保全事業もあるが、国の施策としてまずおこなわれたのは、国土交通省による「多自然型川づくり」である(通達は1990年)。その後も国土交通省は、河川の生物相の定期調査である「河川水辺の国勢調査」や維持流量の確保など、水環境の改善に前向きな施策を講じてきたが、1997年(平成9年)の河川法の改正によって、河川の環境保全が、治水および利水と並ぶ河川管理の目的の一つとして法的にも位置付けられることになった。
 さらに各種の事業が自然環境に与える影響を対象とする「環境影響評価制度」においても、生態系の保全を目的とする手法の検討が進められてきた。二、三の地方自治体は早くからこの面で先進的に取り組んできたが、国においても環境影響評価法の施行(1990年)にともない、水辺の環境を含めて、生態系に対する影響評価の理論と技術の検討が進められた。
 以上のような経過は、わが国のそれまでの状況に比べて、水辺の自然環境保全の分野においても著しい前進である。しかしながら、自然環境を改変するさまざまな事業から野生生物の多様なすみ場を保全しなければならない“現場”において必要とするのは、生態学的な理論や情報だけでなくーもちろんそれは重要であるが、保全すべき対象と、その場所でそれを改変する事業の両者の実体を、同じカテゴリーに属する情報としてつき合わせ、その事業を計画通りに実行した場合に失われるすみ場と保全しなければならないすみ場の、合理的な折り合い点を検討するための手法である。……(11~14頁、強調は引用者)

河川におけるすみ場の存在様式
 河川の流路とそのまわりの河畔地に生息する生物群集の構成種は、それぞれの正存のための要求をもっているが、群集の正存を支えている生息環境の全体は、個々の構成種のすみ場の単純な寄せ集めではない。体が小さく行動範囲が狭くて寿命が短い生物のすみ場の規模は小さいが、体が大きくて寿命が長い、あるいは植物連鎖の上位に位置する、季節的な移動をするなど、広い行動圏をもつ生物のすみ場は、当然その中に多くの下位の小さなすみ場を包含しながら、大きな面積を占める。このようなすみ場の総合的な存在の仕組みを「すみ場の階層構造」と呼ぶ。……(14~17頁)

芦ノ尻道祖神 7月11日

長野市大岡丙にある芦ノ尻道祖神です。道祖神と彫られた石碑にワラをまいて作られています。
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『たくさんのふしぎ』2014年1月号「村を守るワラのお人形さま」(宗形慧 文・写真)に登場しています。
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※「道祖神祭り」は東松山地域では「フセギ」にあたります。東松山市のフセギについては、きらめき市民大学郷土学部Aグループ2011年度レポート「残そう東松山の民俗行事 “防ぎ”の調査と記録」に市内高坂地区と石橋地区のフセギについてまとめられています。「フセギ 東松山市」で、検索すればこのほか多くの記事を見つけることができます。

望月のフセギ行事について
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  (望月会館前案内板)

半過岩鼻の崖 7月11日

千曲川左岸に100メートルも切り立ってそびえている大きな崖と千曲川の側方浸食によってえぐられた大きな穴があります。上田市大字小泉(旧小泉村下半過)にある半過岩鼻(はんがいわばな)です。
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1)「上田市誌自然編(1)『上田の地質と土壌』(2002年)の「第1章上田の地質」にその地質学的解説があります。
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2)かつて岩鼻より上流の小県郡(ちいさがたぐん)から南佐久郡にかけては大きな湖(海)があり、現在も残っている地名として湖の北端の「塩尻」(潮尻)、南端にあたる「海の口・海尻・海瀬」などがある。岩鼻は唐猫に追われた鼡(ねずみ)がかみ切ってできたもので、湖の水が北方へ流れ出してできたのが今の千曲川の流れ、塩田平や佐久平は湖底だったなど、さまざまな伝説が残っています(上田市誌民俗編(4)『昔語りや伝説と方言』(2003年)等)。
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※異説:「小海町」の名前の由来(小海町HP
 ……仁和3年(887年)あるいは仁和4年(888年)に起きたとされる八ヶ岳(天狗岳)の水蒸気爆発による大崩落によって千曲川の下の深山(現在の八那池洞門付近)が泥流によってせき止められ、海の口から、海尻にかけて大きな湖ができました。この時土村の除ヶ付近(現在の小海小学校付近)の相木川もせき止められ、相木の入口までの湖ができました(相木湖と呼ばれていた)。

海ノ口の湖水は寛弘8年(1011年)に決壊して無くなりましたが、相木湖はその後も残ったらしく、天正初期(1572年頃)古絵図にも記入されていますので、鎌倉時代の中頃(1300年頃)まであったと思われます。これが当時ここに入って来た人達によって「小海」と名付けられたものが小海の名前の起源と言われています。

【歴史、地理の自習の時間】 海なし県、長野県のJR小海線の「小海」の意味。
(←『ブログ高知』)佐久海ノ口駅。 海尻駅。小海駅。海瀬駅。


3)崖の上にある千曲公園からは、千曲川を中心に上田市全体が見渡せます。このあたりは千曲川の中流域にあたり多様な生きものの生息環境(すみ場)をそなえた川原が発達しています。岩鼻の崖には猛禽類のチョウゲンボウやハヤブサが営巣し、川原やまわりの田んぼ、堤防の法面、畑や水田、林縁をえさ場にして子育てしています。
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川原 この日本的な風景
   桜井善雄『水辺の環境学3 生きものの水辺』(新日本出版社、1998年)90頁
 地質構造が若く、急峻な山地からの石礫や土砂の供給が多いわが国の多くの河川では、それらが堆積する中・下流部の河道に広い川原が形成されるのは自然の成り行きであり、川原の存在は、日本の川の自然環境を考える時に忘れてはならない特徴的な要素である。
 さて川原は英語で“dry river bed”といわれるように、平水時や低水時には陸の一部のように見えても、本質的には水が流れる河床の一部である。
 自然の川の特性である流量の変動、とくに洪水によってもたらされる堆積と浸食の程度と頻度が、流路の中の場所によって、不均等に起こるのは当然である。そのため、低水時に水面の上に現れている川原の地表には、全くの石ころだらけの部分から、生育場所の乾湿、草丈の長短などさまざまな草本群落や、低木、亜高木の群落まで、多様な植生がみられる。そして、自然の原因による流量変動が続く限り、このような植生は極相に向かって一方的に遷移することなく、たえず退行と回復をくり返しているのである。
 このような川原は、まことに「日本的」とでもいえるような「移ろいの風景」を、もともとそなえている場所なのである。
激しく変わる川原の植物
   上田市誌自然編(3)『上田の動物と植物』(2001年)の第2章第3節5千曲川の植物(池田登志男)
 川原は砂や大小さまざまな石が多く、昔は洪水が出るたびに地形や水の流れが変わるので、植物も安定して育つことができませんでした。ですから、そういう所にも強いカワラヨモギやオオマツヨイグサなど限られた植物が多く見られました。
 河川の護岸工事や山地の植林が充実してきた現在は、洪水も少なくなり、川原の陸地化が進んできて、さまざまな植物が育つようになりました。各地にニセアカシヤやヤナギ類の林ができたり、畑や野球場・マレットゴルフ場も作られています。
 このように陸地化してきた場所もありますが、場所によっては水の流れや地形が絶えず変化し、生えている植物が変わっている所もあります。
 昔、川原一面に黄色い花を咲かせたオオマツヨイグサは消えて、それよりも花の小さいメマツヨイグサに替わりました。また黄色いじゅうたんを敷いたように見えるアブラナ科のハルザキヤマガラシ、場所によってはアレチウリやクワモドキの群生地も見られます。
 洪水によって植物が流され、その後に再び生え、また洪水で消える。こうしたことが繰り返されてきた川原こそ自然の姿で、陸地化し安定してきている現在の川原は、人間の力で作られた人工的な川原といえます。

夜刀神社(愛宕神社) 茨城県行方市 7月1日

茨城県行方市(なめがた)の夜刀神社(やとじんじゃ)を訪問しました。霞ヶ浦と北浦の間にあり(旧玉造町)、愛宕神社に合祀されています。
駐車場の脇に椎井池(しいいのいけ)があり鳥居の奥で水が湧いていました。池のほとりに夜刀神(やとのかみ)を退治した壬生連麻呂(みぶのむらじまろ)の小さなブロンズ像(宮路久子さん製作)が建っています。
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『常陸国風土記』行方郡の条は、古代における耕地開発の歴史を語ったものとして有名で、社会科の歴史の教科書のコラムで取り上げられていたことがあったと思います。
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常陸の国の地域史と教育」(『保立道久の研究雑記』より)
「常陸国風土記」の行方郡の条は、古代における耕地開発の歴史 を語ったものとして歴史家の間では有名なものである。「風土記」の伝えるところでは、継体天皇の時代に、箭括氏麻多智【やはずのうじのまたち】という男が、行方郡の谷地を開発しよ うとして「夜刀の神」といわれる蛇体の神と闘争し、「山の口」に掘った「堺の堀」に堺の印となる棒杭を立てて「神の地」と「人の田」の境界とし、蛇神のた めには神社を設けて祭ったという。そして、孝徳天皇の時代には茨城の国造の地位にあった壬生連麻呂【みぶのむらじまろ】が、この谷に池を築いてさらに本格的な開発に乗り出し、 「池の辺の椎の樹」に昇り集まって抵抗する蛇体の神を排除して池堤の構築を完成させたという。
 この「夜戸」・ヤトの神とは「谷戸」の神、つまり 谷に開けた湿地の神のことをいうのだろう。常陸にはどこにもそういう谷地が多い。人間の力が及ぶ前は、そこは、当然、山蛇の栖【すみか】だったのである。「風土記」 の説話には、そのような「谷戸」の開発を経験した奈良時代の民衆がもっていた伝承がはっきりと現れている。
夜刀神社は愛宕神社の本殿の隣に合祀されていますが、かつては、現在地の南200m程隔たった台地の縁辺、字滝の入に鎮座していたそうです。
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なめがたファーマーズ・ヴィレッジ 7月1日

さつまいものテーマパークとしてテレビや雑誌で紹介されている「なめがたファーマーズ・ヴィレッジ」に行きました。2013年に廃校となった大和第三小学校の校舎や周辺耕作放棄地を合わせた10万坪で東京ドーム7個分の広さ。運営を担うのは白ハト食品工業JAなめがたと農家が出資した資本金3億円の農業生産法人、株式会社なめがたしろはとファームです
広大な敷地には、サツマイモ農園やレストラン・カフェ、マルシェ(直売施設)、ミュージアムファクトリーなどがあり、「学び」、「食べて」、「育てる」体験ができるテーマパーク。農業の『ディズニーランド』×『キッザニア』×『DASH村』をめざしています。
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「日本の農業をステキにしよう!」がコンセプト。生産から製造、販売まで行う6次化産業に加えて、「観光」と「教育」、「IT(農業)」、「地域貢献(障碍者雇用)」、「子育て」、「交流」の6つを加えた12次化。従来の「汚い、きつい、危険」という3K農業を、「きれい、気持ちいい、格好いい」、新3K農業へ。朝は畑で農業をして、午後はミュージアムの受付やレストランのウエイトレスとして働くといった「半農半Xスタイル」など提案しています。

水津陽子「地元の農業を結実させたテーマパークで人を呼ぶ なめがたファーマーズ・ヴィレッジ
   (『日経ビジネスオンライン 日本人が知らない新・ニッポンツーリズム』2016年1月7日)
     「さつまいものテーマパーク」実現への道、成功要因はどこに?
     ただ「来てくれ」じゃない!JAがこだわった地域貢献への思い
     企業と地域、互いの強みを⽣かす「ステキな農業」のビジネスモデル
今のところ、核となる事業はあくまでさつまいもの加工工場で、農業体験などの観光交流事業はスタートラインに立ったところですが、オーナー制の貸農園「ロイヤルファームオーナーズクラブ」は行方市のふるさと納税の返礼品に組み込まれるなど、行方ファンづくりに向けた動きも始まっています。オーナーになると自分畑を持ち、プロの農家のサポートを受けられるほか、会員専用のBBQ施設の使用や和栗の木やブルーベリーなどのオーナー権が与えられます。茨城県は北海道に次ぐ農業王国で、栗やメロンでは日本一の生産量を誇っていますが、農家民宿や農家レストランなどの事業体数は北海道はもとより長野や新潟にも遠く水を開けられ、群馬や栃木にも及びません。
これを機に自然豊かな農と食のイメージが定着することを願うところですが、今のところ唯一のネックは、東京からのアクセス。最寄りの水郷・潮来へは高速バス便が充実しているものの、そこからのアクセスはタクシー以外の選択肢がなく、片道数千円とコストも高いため、車がないと利用は難しいのが現状です。茨城県の観光入込客のトップは千葉県。東京都からの入込が少ない理由の一つはこのアクセスの悪さがあります。

「なめがたファーマーズ・ヴィレッジ」プロジェクトの概要と今後の展望」
   (『なめがたネット放送局』2015年1月6日UP、2015年新春対談、行方市長、白ハト食品工業社長、JAなめがた組合長)

※「産地とメーカーの英知を結集させた サツマイモのテーマパーク」『地上』2016年8月号(家の光協会)
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2月からは、はとバスツアーの立ち寄り地となり、大手旅行代理店のツアーバスが続々と訪れるようにもなった。「熟成焼き芋」に「大学芋」「熟成干し芋」といったサツマイモスイーツのメニューが人気を呼び、来場者数を着実に増やしているという。
平日で約8000人、土・日・祝日は一日で2000人弱が訪れる。昨年秋のオープンから今年5月までの総来場者数は18万人となった。目標来場者数は年間40万人だという。
※はとバスツアー『 【トイレ付きバス・レガートで行く】 300品種で日本一!優雅に巡るハス観賞舟&山百合祭りとなめがたファーマーズヴィレッジ』 

※特集「サツマイモは進化している」(『NHK趣味の園芸 やさいの時間』2016年6月号)
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   知る いも掘り サツマイモの種類 焼きいもの移り変わり サツマイモの貯蔵 シルクスイート開発秘話 サツマイモの雑学
   食べる サツマイモの天ぷら 塩釜蒸し焼き さつまだんご


国環研シンポ『守るべき未来と「環境」の今~地球・生物・循環・安全・社会の半歩先を語ろう~』 6月24日

国立環境研究所の公開シンポジウム2016『守るべき未来と「環境」の今~地球・生物・循環・安全・社会の半歩先を語ろう~』に参加しました。会場は港区の芝公園・増上寺近くのメルパルクホールで、489名の参加者がありました。
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講演1 三枝信子「地球をめぐる温室効果ガス—どこでどれだけ減らせるか?—」
講演2 角谷拓「生物分布の変化を予測し保全に活かす」
講演3 鈴木規之「環境における安全とはなにか?」
講演4 大原利眞「東日本大震災後の災害環境研究で学んだこと、そしてこれから」
講演5 田崎智宏「実践!地域のリサイクルシステムを構築する」
講演6 松橋啓介「社会の持続可能性と個人の幸福」

大原利眞さん「東日本大震災後の災害環境研究で学んだこと、そしてこれから」
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 ※デジブック『被災地の環境回復と創生のための災害環境研究Q&A 2015』
  「災害研究サマリー2014 被災地の環境回復と創生のために」(PDF)

田崎智宏さん「実践!地域のリサイクルシステムを構築する」

  ※自治体職員など実務者向けガイド
     「物語で理解するバイオマス活用の進め方 ~分別・リサイクルから利用まで~」

山古志の棚田(養鯉池)(新潟県長岡市) 6月17日

新潟・中越地方は全国有数の地滑り地帯です。長岡市山古志地区には水を張った棚田(養鯉池)が続いていました。
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6月17日に撮影した写真です。2004年10月23日に発生した中越地震から11年8ヶ月たちました。地震発生時の人口は2,167人、翌年、長岡市と合併し、今年6月1日現在の人口は1067人です(『ガバナンス』2016年7月号、144頁)。

対談:棚田と米と文化財(田村善次郎+真島俊一)から
(真島)……棚田は棚田だけを単純に見ていてはわかりません。棚田が村全体にとってどういうふうに必要であったかを理解していないと、棚田のことはわからない。例えば、周りに落葉林や竹林があるのはなぜか、その意味がわからないと、棚田を理解したことにはならないわけです。今となっては村の竹林を誰が植えたか忘れられているが、竹の再生力は見事で、食用やたくさんの民具の材料になる。棚田へ水を引く樋、稲のハザ木、ザル、ミノなどの農具になる。村の周りにある樹林に何一つ無用なものはないのです。こうした棚田の村全体の構造は、時間をかけないとなかなか見えてこない。
 村全体を見ていく一方で、技術的に見ていくことも必要です。棚田はたくさんの部分の集積であるからです。…【石垣、土坡】…もう一つ棚田を技術的に調べるうえで重要なことは、水をどう使っているかということです。それも調べる。
 そうやって次々に調べていくと、どうやら棚田というのは一気にできたものではなくて、少しずつ土地の条件に合わせて、可能な限り時代の技術でつくり続けてきた。その重なりを今、僕たちは見ているのだということがわかってきます。(百の知恵双書001『棚田の謎 千枚田はどうしてできたのか』(田村善次郎・TEM研究所、CM出版発行、農文協発売、2003年)69~170頁)
(田村)……千枚田といわれるようなかなり規模の大きい棚田は全部いっぺんにできたわけではないですから、やはり拓きやすい、水の得やすいところから始めて、ある時期にかなり集中的に労力を投入して、水利を整理して広げて言ったのでしょう。あまり細かく調べてはいないけれども、新潟の山古志はおもしろいところですね。
(真島)あそこはすごい千枚田ですね。
(田村)棚田ばっかりでね。水の湧くところは、山のいちばん上でなくて、ちょっと下がったところですね。そこに横穴を掘って、ちょろちょろ流れる水を小さい池をつくっていったん溜めてから下の田んぼに配る方法が多いようです。おそらく最初は横穴も何もなくて、水の湧くところに、少し何枚かつくっていたのだと思います。それを少しずつ増やしていったのでしょうね。……
 山古志の田んぼを見たときに、最初はそういうふうにして、みんなシコシコつくっていって、その集積が千枚田の風景なんだろうと思いました。その後、横穴を掘って水路を引き、池に溜めてという、ある程度組織的な拓き方をする時期が訪れたのでしょう。
(真島)水の湧くところというのは、山の中腹ですね。いちばん上には湧かない。いちばん下に湧くところもあるけれど、それでは田んぼをつくれない。
(田村)だから、棚田の場合は水の湧くところから下に拓いていったものが、比較的多いのではないかという感じがしますね。(『同上』171頁)
長岡市、小千谷市は錦鯉の生産が盛んなところです。錦鯉が初めて出現したのは19世紀前半(江戸時代の文化・文政のころ)、新潟県の二十村郷(にじゅうむらごう。長岡市太田、山古志、小千谷市東山、川口町北部の一帯)で、食用として飼われていた鯉に突然変異で色のついた「変わりもの」が現れたのが最初といわれています。その後、研究と改良が重ねられ、 現在のような見事な観賞魚となりました。
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小千谷市錦鯉の里で撮影

アメリカザリガニによる田んぼの畦の漏水対策 6月13日

児沢の上の奥の田んぼの畦シートと畦の間にいました。田んぼの教室の生きもの観察で、こども達が目を輝かせるのは、アメリカザリガニ、ドジョウ、メダカや、ヤゴ、オタマジャクシを見つけた時です。まっかちんが田んぼを救うという記事が日経ビジネスオンライン(2014年6月27日)にありますが、アメリカザリガニには子どもを田んぼに引き寄せる大きな力があります。(マッカチンとはアメリカザリガニのこと。日本の固有種のザリガニ(ニホンザリガニ)は、現在、北海道と北東北にのみ分布する。関東地方にいる茶色や黄土色のものも皆アメリカザリガニです。)

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田んぼの日常管理では、アメリカザリガニは畦に穴を掘って田んぼの漏水を引き起こす厄介者です。ふさいでもふさいでも穴が開けられ、そこから田んぼの水が水路に漏れ出しています。

若杉晃介さんの論文「アメリカザリガニによる水田漏水の実態と対策(『農業および園芸』88巻・ 8号、2014年2月、養賢堂)の結言によると、
6.1 アメリカザリガニの掘削について
 現地踏査や水槽実験、ライシメータ実験から、アメリカザリガニの棲管掘削について以下のことが明らかになった。
 ① アメリカザリガニの掘削穴(棲管)は田面に対して垂直方向に掘削される。
 ② 畦畔際の掘削穴が排水路まで貫通すると漏水は著しく多くなり、さらに洗堀されることでより大きな穴となる。
 ③ 畦畔際の掘削穴でなくても耕盤層よりも深くなることで漏水が大きくなる。
 ④ 湛水していな状態での土壌硬度が20kg/cm2程度においても、アメリカザリガニは湛水条件下  では穴を掘削することが可能である。
 ⑤ 現地踏査では掘削穴は最深で100cmとなり、平均でも25cm程度になった。
 ⑥ l週間程度で約50cmの掘削穴を掘ることが可能である。
 ⑦ アメリカザリガニの掘削能力から、一般的に行われている畦塗りや畦シート埋設ではアメリカザ リガニの掘削による漏水は防ぐことができない。
 ⑧ 水田の水位(地下水位)に応じて掘削穴の深さが変化する。
 ⑨ 中干しや間断濯慨を行うことで掘削穴が増加し、地下水位が低くなるとより深い掘削穴となる。
とあり、「一般的に行われている畦塗りや畦シート埋設ではアメリカザリガニの掘削による漏水は防ぐことができない」ようです。アメリカザリガニによる漏水対策技術として3つあげられています。

6. 2 アメリカザリガニによる漏水対策技術について
 (1 )畦シートの埋設
 アメリカザリガニの掘削能力から、一般的に用いられている30cm幅の畦シートでは防ぐことはできない。そこで、畦畔からの漏水対策技術として、90cm幅の畦シートを排水路側にパックホーで掘削し、田面から70cm、畦畔に20cm埋設することで、畦畔から排水路に掘削される穴からの漏水を防ぐ 。アメリカザリガニの掘削は地下1m程度までの掘削が確認されているが、地下70cmまで対策することで、現地ほ場踏査で確認した全303個の掘削穴の約98%に対応することができる。

 (2)水田の地下水位コントロール
 アメリカザリガニの掘削穴は畦畔際でなくても耕盤層よりも深くなることで漏水が多くなる。また、地下水位が低くなると共に掘削穴も深くなることから、水田の地下水位をコントロールすることで掘削穴の深さを制御する。
一般的な暗渠排水整備の水閑(暗渠排水管の出口)は開閉しか出来ないため、中干しなどで地下排水を行うと、暗渠管埋設深である-60~-80cmまで地下水位が下がってしまう。そこで、暗渠管の出口に立ち上がり管を設けるサイフォン式暗渠(井上ら、1994)にすることで、暗渠の水閑を聞けても過度な地下水位の低下を防ぐことができる。
 また、近年は湛水深~地下水位まで任意の水位をコントロール可能な地下水位制御システムが開発されている(若杉ら、2009)。
本システムは水口側と水尻側にそれぞれ水位をコントロールすることができる装置が備わっており、水稲作付け時は水管理労力の軽労化や転作時では湿害と干ばつの回避などによる安定多収が期待できるシステムである。
なお、本システムの導入にはコストが掛かることから、圃場整備事業などの公共事業による導入が望ましい。

 (3)個体数の削減
 アメリカザリガニは特定外来種には指定されていないが、水田内において多くの問題を引き起こす生物である。水田漏水はそのうちの一つであるが、これらの問題を解決するにはアメリカザリガニの個体数を減らすことが重要である。通年湛水したビオトープでは異常な個体数の生息が確認されたが、このような良好な越冬地があることで、港銃期に田に移動して生息する可能性が高い。まずはこのようなアメリカザリガニが繁殖する場所を設けないこと、または過密して生息する時期を選んで駆除することによって個体数を削減することが重要である。 【図・写真は略】
 90㎝の畦シートを入れることや、水田の地下水位コントロールシステムを導入することは無理なので、当面、根気よく田んぼの漏水箇所を埋めながら、アメリカザリガニの個体数削減に努力していくほかなさそうです。

ジャガイモの実

児沢の上の畑のジャガイモ(キタアカリ)の実です。小さい時のトマト(同じナス科)の実にそっくりです。男爵やメークインは受粉の能力が低く実ができませんが、男爵から品種改良されたキタアカリは実がつきやすい品種だそうです。
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※板倉聖宣著・楠原義一画『ジャガイモの花と実』(福音館書店、1968年初版)
 『ジャガイモの花と実』-これは、ジャガイモについての知識の本ではありません。ジャガイモの花と実という、ふだんは全く問題にもされないものを一つの手がかりにして、自然のしくみのおもしろさと、それを上手に利用してきた人間の知恵-科学のすばらしさを描き出そうとしたものです。……(あとがきより)

魚類資源保護のための石倉設置 5月17日

昨日、東松山県土整備事務所(河川砂防部)と比企の川づくり協議会の打ち合わせ会議がありました。配布された比企の川づくり協議会事務局の活動記録を読むと、都幾川「石倉見学」と里川たがやし作業(2015年5月6日)があり、石倉設置による生き物の棲み家づくり、隠れ場所づくりが行われていることや川たがやしによる魚類の餌になる水生昆虫の増殖や産卵場所を提供する試みが実施されていることが分かりました。
埼玉県漁業協同組合連合会のHPによると、2014年8月29日に埼玉県水産多面的機能発揮対策地域協議会(埼玉県漁業協同組合連合会が主体)がときがわ町の都幾川新玉川橋下流に於いて魚類資源の保護を目的とした石倉の設置実演会を開催し、その後11月10~13日、都幾川流域地区活動組織(埼玉県、武藏漁業協同組合が主体)が、ときかわ町玉川地区の都幾川の岸沿いの水中に、プロショップ白石、平生産森林組合、明善友好会の協力を得て「石倉」を設置しています。その取り組みは2015年5月25~29日11月16~18日、20日にも継続されています。

ウグイのマヤ漁(秩父・柴崎精助さんの話)石倉漁(栃木県鹿沼市荒井川漁業協同組合)石塚漁(川尻稔「千曲川に於ける石塚漁業に就て」1952)、ウナギをとる石倉かご(蛇カゴ+石倉漁法、「石倉かごの設置で河川環境は改善する」)など伝統的な漁法が、現在では「内水面水産資源の生育又は内水面生態系の保全に資する取組」に継承されています。




雑魚をめぐる水産業(片野修『河川中流域の魚類生態学』(学報社、2014年)「第11章河川中流域の水産業とその未来」178~180頁)
 河川中流域において、アユが水産業にとってもっとも重要な魚種だとすれば、ウグイ、オイカワ、フナ類などは雑魚といわれる魚である。しかし、これらの雑魚も地域によっては欠かすことのできない役割を担ってきた。私の住む長野県では、海がないために、川や湖の魚は貴重な蛋白源として古くから利用されてきた。信濃川や天竜川に大型ダムが造られ、サケ・マス類やアユの遡上が妨げられた後には、その内水面水産業はアユやサケ・マス類の法流か雑魚の漁獲に頼らざるをえなくなった。これらの河川では、4~5月にはアユ種苗を放流し、6~10月には成長したアユを漁獲する。したがって、アユが成長するまでの期間は、渓流域に生息するヤマメやイワナのほかには、コイ科の雑魚を利用するしかない。渓流魚の放流は活発に行われているが、それは主に遊漁のためである。これに対して、ウグイやオイカワは漁獲の対象となり、川魚料理店や河川敷の小屋などで提供されて入る。
 雑魚のうちウグイは、投網などでも捕獲されるが、長野県では「附場」と言われる人工産卵場におびきよせて漁獲する手法がよく知られている。【以下付場の解説部分略】
 1950年には上田市と旧丸子町を管轄する上小漁業協同組合の管内で合計18tのウグイが漁獲され、そのうち約30%は附場で漁獲されたいた。このほか千曲川では、投網、曳網、四ッ手、釣りなどの漁法でウグイが漁獲されていたが、とくに興味深いのは石塚漁法である。この漁法では、水の流れがあり砂礫底で、水深が1.2~1.5mほどの場所に、人頭大あるいはその2~3倍の大きさの石をまんじゅう型に積み重ね、石塚をつくる(川尻、1952)。石塚の高さは90㎝、底部の直径は1.8~2.1mほどであった。水が流れる一ヶ所を除いて他はワラで覆い、その上に平石を並べ、砂礫で目つぶしをして、そのまま1~2ヶ月放置する。魚は隠れ場所を求めて自然に石の間に入るというわけである。捕獲の際には石塚を網で囲ってから、その中にもんどりや網を入れて回収する。
 石塚は千曲川だけで1,000個を超えて設置されたことがあり、1個の石塚で魚が350㎏以上捕れたこともあったらしいが、1930年代の初めには多くても70㎏くらいに減ってしまったという(川尻、1952)。一般的に10月~12月頃に石塚を設置して、1~3月に魚を捕獲した。この漁法は魚が捕れすぎるという理由で、1946年以降11月1日から4月1日までの間禁止されるようになり、現在では通年禁止されている。
 ウグイ漁業は、長野県に限らず群馬県、埼玉県などの内陸県で盛んに行われ、1940年代の始めには全国で2000~2500tの漁獲があった。石塚漁法は千曲川では行われなくなっており、附場の数も上田市全域で、10ヶ所余りに減少してしまったが、そこで捕れたウグイは現在でも河川敷の附場小屋で利用されている。
 オイカワは千曲川では昭和4年に始まった琵琶湖産アユ種苗の放流にともなって拡まり、漁業の対象種として利用されてきた。中村(1952)によると、オイカワの漁獲量は1940年代にはウグイとほぼ同量であり、多い年には千曲川全体で60tにも達していた。オイカワの移入により生態系にマイナスの影響が生じたという報告はなく、偶然に移入したとはいえ、千曲川の水産業には大いに寄与したと考えられる。投網などで漁獲されたオイカワは、唐揚げや白焼き、甘露煮などに調理され利用されてきた。雑魚といわれるオイカワやウグイが、かつて大量に漁獲され利用されてきたことは明らかであり、それはアユとともに内水面の漁業を支えてきたのである。

人工産卵床について水産庁HPの内水面に関する情報より
  内水面漁業・養殖業をめぐる状況について

  コイ・フナの人工産卵床のつくり方
  ウグイの人工産卵床のつくり方
  オイカワの人工産卵床のつくり方

  渓流魚、アユ、コイ・フナ、ウグイ、オイカワの人工産卵床の増殖指針(PDF:725KB)
   産卵場を河川に1ヶ所設置すると稚魚放流の何匹分に相当するか、造成経費の比較

フォッサマグナ発想の地(長野県南牧村平沢) 5月8日

佐久市から野辺山高原を訪れました。たまたま立ち寄った南牧村歴史民俗資料館の展示と『南牧村の地質』(南牧文庫、南牧村教育委員会発行)から飯盛山近くの「しし岩」がある平沢が、ドイツの地質学者ハインリッヒ・エドムント・ナウマンがフォッサマグナの発想を得た場所であることを知りました。ナウマン象は、日本の化石長鼻類研究の草分けでもあったナウマンにちなんで名付けられた和名です。
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しし岩展望台からは八ヶ岳や南アルプスの山々が一望でき、近くには国立天文台宇宙電波観測所もあります。

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※ナウマンについては、ウィキペディアの「ハインリッヒ・エドムント・ナウマン」の項の外部リンクにある山下昇氏が1990年から93年にかけて『地質学雑誌』に連載した「ナウマンの日本地質への貢献」が詳しいです。

※フォッサマグナについては、山下昇編著『フォッサマグナ』(東海大学出版会,1995年)。
 山下昇編著『フォッサマグナ』目次
  はじめに-問題は何か?
  序章 フォッサマグナとは何か
  1章 フォッサマグナの西縁、糸魚川-静岡構造線
   (1) 太平洋から日本海への横断路
   (2) 糸静線の概要
   (3) 姫川地域
   (4) 松本盆地
   (5) 宮川~釜無川地域
   (6) 駒ヶ岳山麓~早川地域
   (7) 静岡地域
  2章 フォッサマグナの東縁、直江津-平塚線
   (1) 東縁を追跡すると
   (2) 実在しない東縁断層
   (3) 東北日本の南限
   (4) 東北日本と西南日本の境界地域
   (5) 復元できない東縁
   (6) それでもフォッサマグナは存在する
   (7) フォッサマグナの定義
  3章 古期岩層-フォッサマグナ以前の岩層
   1. 西南日本の古期岩層
   (1) 帯状に延びた構造
   (2) 飛騨帯-ユーラシア大陸の断片
   (3) 飛騨外縁帯-日本最古の化石を含む混沌地帯
   (4) 美濃帯-プレートの沈みこみと付加作用
   (5) 領家帯-変成された美濃帯と花こう岩類
   (6) 中生代後期~新生代前期の花こう岩類と火山噴出物
   (7) 三波川帯-白亜紀の高圧変成帯
   (8) 秩父帯
   (9) 四万十帯-白亜紀と古第三紀の付加体
   2. 東北日本の古期岩層
   (1) 帯状構造とその意味
   (2) 各帯の特徴
   3. 信越-房豆地区の古期岩層
   (1) 関東山地
   (2) 嶺岡帯その他
  4章 中期岩層-フォッサマグナの発生と発展
   (1) 直前の状態-海岸山脈であった日本
   (2) 中期=フォッサマグナ時代の概要
   (3) フォッサマグナの地質区区分
   (4) 中期の時代区分
   (5) 第1期:フォッサマグナの始まり
        2500万年前~1700万年前(中新世前期)
   (6) 第2期:海底火山活動の始まり
        1700万年前~1500万年前(中新世前期末~中期初頭)
   (7) 第3期:海の拡大と第一次古代日本アルプス
        1500万年前~1150万年前(中新世中期)
   (8) 第4期:隆起の拡大と石英閃緑石の貫入
        1150万年前~600万年前(中新世後期)
   (9) 北部フォッサマグナの第5期:糸静線の始まり
        600万年~70万年前(中新世後期末~更新世前期)
   (10) シンシュウゾウとアケボノゾウ:氾濫する礫岩
   (11) 南部フォッサマグナの第5期
        600万年~70万年前(中新世紀後末期~更新世前期)
   (12) 伊豆半島の中期岩層 
  5章 大峰面-中期と新期の境界面
   (1) 大峰面とは?
   (2) 中期の終わり,新期の始まり
   (3) 大峰面の隆起
  6章 新期岩層-フォッサマグナの変容
   (1) 新期の特徴
   (2) 沈降する越後平野
   (3) 十日町盆地
   (4) 長野盆地
   (5) 生坂村の平坦面群
   (6) 安曇野-松本盆地北部
   (7) 筑摩野-松本盆地南部
   (8) 坂下町の段丘群
   (9) 濃尾平野
  7章 新期の火山
   (1) フォッサマグナと周辺の火山の概要
   (2) “乗鞍火山帯”の火山
   (3) “那須-鳥海火山帯”の火山
   (4) 北部フォッサマグナの火山
   (5) 南部フォッサマグナの火山
   (6) フォッサマグナ中央部の火山
  8章 フォッサマグナの温泉と地下資源
   (1) フォッサマグナと温泉
   (2) フォッサマグナと地下資源
  9章 フォッサマグナと人類
   (1) 人類の時代
   (2) 野尻湖の発掘
   (3) フォッサマグナ地域の遺跡
   (4) ナイフ形石器文化-3万年前~1万4000年前
   (5) フォッサマグナは石材の産地
   (6) 細石器文化-1万4000年前~1万3000年前
  10章  フォッサマグナの成因
   (1) ナウマンのフォッサマグナ成因説
   (2) 1930年代から1940 年代のフォッサマグナ成因説
   (3) 新しい地球科学の発展
   (4) 七島山脈
   (5) 関東平野の地下構造と柏崎-千葉構造線
   (6) 七島弧の本州弧横断
   (7) 島弧交差の諸相
   (8) 交差地域の構造の総括
   (9) 残る諸問題
  11章 ナウマン小伝
   (1) 悪意にみちたナウマン評
   (2) 大学を出るまで(0歳~20歳)
   (3) 日本滞在の10年(20歳~30歳)
   (4) ミュンヘン時代(31歳~44歳)
   (5) フランクフルト時代(44歳~72歳)
  付録1 岩石の古さ
   (1) どちらが先か?
   (2) 地層は「時」の系列を示す
   (3) 生物の進化現象を時間のものさしとした
   (4) 放射線元素の崩壊を利用して年数を測る
   (5) 地磁気の南北は逆転を繰り返した
   (6) 火山灰層は特定の時間を示す
   (7) さまざまな方法を組み合わせる
  付録2 用語解説

 『地学雑誌』104巻3号(1995年)に掲載されている有田忠雄さんの書評があります。

『フォッサマグナ』序章「フォッサマグナとは何か」(山下昇)
  フォッサマグナの位置
 フォッサマグナは、日本列島の中央部を横断して、日本海から太平洋へ突き抜けている細長い地帯である。そこには妙高山・八ヶ岳・富士山・箱根山・天城山など、たくさんの果山が日本列島を横断して南北に並んでいる。
 フォッサマグナの西縁は糸魚川(いといがわ)-静岡構造線という名の大断層である。略して糸静線(いとしずせん)という。……
 フォッサマグナの東縁には名前がない。そこで、仮に直江津(なおえつ)-平塚線(ひらつかせん)と呼ぶことにする。直江津は日本海岸の上越市の一部であり、平塚市は太平洋岸の街である。

  フォッサマグナの発見者、ナウマン博士
 フォッサマグナを発見し、命名したのはドイツ人地質家のエドムント・ナウマン博士(Edmund Naumann, 1854-1927)である。それは今から100年あまり前の1880年代から90年代にかけてのことであった。
 ナウマンは1875年(明治8)、20歳のときに日本に来た。以後10年間日本に滞在し、最初は開成学校から東京大学の教授、後半は地質調査所の所長格の技師長をつとめた。この間、日本国内を1万㎞も旅行した。
 フォッサマグナには3回旅行したと彼は書いている。第1回は日本に来て3ヵ月もたたない1875年11月のことであった。中山道から碓氷峠を越えて長野県に入り、南へ千曲川をさかのぼり、野辺山原(のべやまはら)を越えて平沢(ひらさわ)という小さい村に泊まった。嵐の一夜を過ごした翌日、11月13日の朝のこと、目の前には赤石(あかいし)山地北東縁の急崖がつらなり、左手には富士山が高く大きくそびえていた【実際には平沢の集落からは富士山は見えないそうです(引用者)。】。その印象はまことに強烈であったと彼は言っている。これが、ナウマンにとってフォッサマグナとの最初の出会いであった。

  フォッサマグナは大きな溝
 フォッサマグナはラテン語のFossa Magnaである。Fossaは溝、Magnaは大きいという意味である。だから、日本語にすれば「大きな溝」である。初めはドイツ語でグローセルグラーベンGrosser Grabenと名付けられたが、これも意味は同じである。
 富士山をはじめ高い山々が並んでいるこの地域を溝と呼んだのは何故か、富士山も八ヶ岳も、ここに並んでいるたくさんの高い山は火山だからである。火山は地中から噴出した溶岩や火山灰が地表に積み重なって山となったものである。だから、それを取り除くと、そこの地面はずっと低くなる。

  フォッサマグナの岩石は2500万年前~70万年前の地層
 フォッサマグナの岩石は新第三紀から第四紀更新世の前期まで。すなわち2500万年前~70万年前に堆積した地層である。この地層は泥・砂・礫などが固まってできた岩石、すなわち泥岩・砂岩・礫岩と、火山灰や溶岩から成っている。
 そこで、2500万年前より前を「古期」、2500万年前から70万年前までを「中期」、70万年前から現在までを「新期」と呼ぶことにする。そして、そえぞれの時期に形成された岩石や地層を古期岩層・中期岩層・新期岩層と呼ぶ。したがって、この区分でいうとフォッサマグナの岩石は中期岩層である。

  フォッサマグナは衝突の産物
 ナウマンは、フォッサマグナの前方に七島山脈が存在していることに注目した。日本列島が大陸側から太平洋側へ水平に移動したとき、前面にある七島山脈に衝突し、赤石山地や関東山地が北へ曲げられたと主張し、水平移動の距離を120㎞と算定した。
 フォッサマグナの出来方に関するナウマンの説は、現代のフォッサマグナ成因論の先駆けであった。

森林景観づくり事業の実践 5月5日

奥啓一、香川隆英、田中伸彦編著『森林景観づくりガイド ツーリズム、森林セラピー、環境教育のために』(全国林業改良普及協会 2007年)の「事例Ⅳ 森林景観づくり事業の実践」(田中幸雄)。

 森林景観づくり事業―地域ニーズに応えた事業実施―
  はじめに/森林景観づくり/森林景観整備事業の合意形成
  森林景観整備事業の内容/おわりに

はじめに
 ・森林景観づくりとは何か
 ・事業の合意形成はどうすればよいのか
 ・事業の実施内容は何か
 ・事業の進め方や実施上の留意点は何か

森林景観づくり
 ・景観
  景観は「どこから」「何を」見るかが重要
 ・森林景観
  森林や山などの自然からなる景観だけではなく、それらに道路や橋などの人工物も含んだ総合的な景観として森林景観をとらえる(展望台からの眺望)

 景観づくり(景観整備
  ・見通しの確保
    「どこから」「何を」見るかを決めて、見通しを遮る樹木だけを伐採、それ以外はできるだけ残す
  ・視点の設定及び眺める場所の整備
   視点の設定=眺める場所を決める
   眺める場所の整備(見通しの確保に劣らず重要)
    ベンチを置く、説明板を設置する、ゴミを片づける、周りの藪を整理する
    眺める場所が分かるよう案内標識を設置する
   
   樹木については
    ①見通しを遮る樹木の伐採
    ②藪の整理
    ③林縁の樹木の伐採が重要
 ③は、眺める場所の近くの林縁に茂った草木を取り除いて林内が見通せるようにし、林内感を高めてやること。林内感とは林の中にいると感じられることであり、林縁にいても林の中が見通せると得られる。林内感があると人は安らぎを感じることができる。
  ・眺める対象の整備
    眺める対象の整備は概して難しい(多くの時間と労力)
    森林整備と森林景観整備の違いをよく認識して行う(景趣木の植栽は慎重に)

森林景観整備事業の合意形成

 関係者からなる検討会を設置し、議論する
 現地で検討会を開催する
 マスコミを辻手市民に情報発信する

 森林景観整備検討会の設置および進め方
 ・検討会委員の構成
 ・検討会の進め方(事業者が事業内容などを説明し、それについて議論する、3~4回)
  ①森林景観づくりの考え方
  ②現地(事業予定地)の状況、特に景観上の課題
  ③事業の内容(景観整備、特に見通しを確保するための伐採)
    「どこから」「何を」眺めるのか、見通しを遮る木はどれか
 ・説明の内容と主な意見
   「景観」および「森林景観」
   「見通しを確保するための伐採」
   「藪の整理」
   「林縁木の伐採」(眺める場所に面したところ) 実際にみて話合う
 ・マスコミを通じた情報発信
   PR文書の作成
    ①森林景観整備をキーワードとしてPRする
    ②事業内容が正しく伝わるよう努める
    ③表題(タイトル)を工夫する
   マスコミへの情報提供

森林景観整備事業の内容
 ・既設の展望台からの見通しの確保
 ・眺める場所の設定およびその整備

 事業の進め方
  ・事業のスケジュール
  ・伐採にあたっての留意点
 ①伐採は、葉が茂っているときで、かつ観光客の少ないとき、すなわち6~7月か9~10月に行う。落葉すると見通しを遮る木が解りにくくなり、また、見通し確保の効果が実感できなくなるので、避けた方がよい
 ②伐採する木が多いときは、伐採を2回以上に分けて行う。伐採した木は片づける。
 ③伐採手は少人数とし、時間をかけて行う。
おわりに

森林景観を保全するとは 5月5日

奥啓一、香川隆英、田中伸彦編著『森林景観づくりガイド ツーリズム、森林セラピー、環境教育のために』(全国林業改良普及協会 2007年)の「序 森林景観をつくるには」(奥敬一、田中伸彦)。

あらためて森林景観とは
 森林景観を取り巻く状況
 二つの「景観」(心理的な景観と生態的な景観)
  美しさや快適性、楽しさ-人の視角、心理や社会の文化性と結びつく「景観」-「風致」「風景」「レクリエーション」「ツーリズム」-心理的な景観

  広がり、スケール、異質な生態系の組み合わせや配置といった生態学、地理学にかかわる空間の記述の仕方としての「景観」-「景域」「形相」「ランドスケープ・エコロジー(景観生態学」「ビオトープ」「パッチ・コリドー」-生態的な景観


 森林景観をまもり、つく
  森林景観をまもる(保全する)ということは、単純に今、目の前に見えている姿をずっと変わらないようにとどめることではない。その景観を成り立たせてきた、直には目に見えない仕組み(時には自然の力、時には人の働きかけによる)を持続させていくことによって、同じ景観を見ることのできる機会を将来に引き継いでいくことである。そしてそれは、森林そのものだけではなく、その森林を見る視点や人間が活動する場所をうまく引き継ぐことも含んでいる。同じように、新たな森林景観をつくる(創造する)には、単に一時的な「きれいな景観」をつくることよりも、その景観が続いていくための仕組みや、将来にわたって継続的に利用される活動の場を提供することが重要と言える。

 景観の評価

森林景観を理解するためのキーワード
 森林景観の構成要素
  視点、視点場、主対象、副対象、対象場
  図と地
 森林と森林を見る人との関係
  林内景観と林外景観
  シーン景観、シークエンス景観、場の景観
  視距離、仰角、俯角、視線入射角
  テクスチュア(肌理)
  立木密度と林床植生
  スケールに応じた計画
  地域特性を生かした計画
  ゾーニング
  時間に伴う変化
  里山と文化的景観
  森林の療養的利用

ブラタモリから魅力ある森林景観づくりを考える 5月4日

4月30日、NHKGのブラタモリは「京都・嵐山~嵐山はナゼ美しい!?~」でした。おとなり嵐山町の武蔵嵐山(むさしあらしやま)、嵐山渓谷と重ねながら番組を視聴しました。武蔵嵐山は1928年に菅谷村のこの地を訪れた本多静六林学博士が京都の嵐山に似ているというので「武藏嵐山」と名付け、現在の町名「嵐山町」の由来となっています。嵐山町の都幾川沿いの桜は、都幾川・槻川、外秩父産地の大平山、塩山などを借景としていて美しく感じます。現在の武蔵嵐山を京都の嵐山に重ねると、槻川橋【千手堂橋】(渡月橋)、嵐山BBQ【嵐山渓谷バーベキュー場】(中ノ島)、槻川(桂川【大堰川(おおいがわ))、嵐山渓谷(保津峡)となるでしょうか。(武蔵嵐山にかかわる記事・写真は『GO! GO! 嵐山3』のカテゴリ-「武蔵嵐山」に80数点あります。)

番組は渡月橋からスタート。最初の案内人・京都大学准教授(造園学)の深町加津枝さん。「人が目でみて風景を美しいと感じる範囲は上下左右30度の範囲と限られている。その範囲の中に嵐山は美の要素が収まっている」。亀山地区の嵐山公園の展望台に移動して渓谷美をのぞむ。平安時代に京のみやこに暮らしたひとびとが大自然の美を感じられた場所。
一行は天龍寺の庭・曹源池(そうげんち)庭園へ移動。2人目の案内人は京都高低差崖会崖長の梅林秀行さん。天龍寺を作った夢窓疎石がつくった庭で「借景」が特徴(前景:池、中景:斜面、後景:山)。借景は断層崖。夢窓疎石は1346年、「天龍寺十境(じっきょう)」を選定。
大堰川に移動。平地と斜面が出会う「縁(へり)」を感じることができ、急な斜面で1本1本の木がよく見える。嵐山国有林(59㏊保)でサクラを植林。3人目の案内人は京都教育大学名誉教授(地質学)の井本伸廣さん。保津峡の至るところにある岩、チャートに嵐山が急な斜面になっているヒントがある。2億年前に赤道の辺りで出来たチャートはプレートの動きで大陸の近くまで運ばれ、泥や砂と混じり現在の地層となった。この辺りの山々が東西の断層に押されて出来た時にチャートが地表に出てきたのだ。
4人目の案内人は龍谷大学教授(考古学)の國下多美樹さん。6~7世紀頃につくられた秦氏の古墳(狐塚古墳)の石室に入る。秦一族は3世紀ごろ土木や養蚕など当時最先端の技術を持ってきた渡来人。5世紀後半、渡月橋の上流にある一の井堰(葛野大堰(かどのおおい))の原型を築き、桂川の右岸に水を引いて耕地を開拓した。秦氏は嵐山の美のパイオニアだった。


最初の案内人深町加津枝さんの論文を読んで見ました。奥啓一、香川隆英、田中伸彦編著『森林景観づくりガイド ツーリズム、森林セラピー、環境教育のために』(全国林業改良普及協会 2007年)収録の「嵐山から都市近郊林の景観保全を考える」(都市近郊林としての嵐山/嵐山の景観をつくってきた仕組み/嵐山らしい森林景観を探る/都市近郊林の魅力を発揮させるために-嵐山の教訓から-)です。図の出典はは近畿地方整備局淀川河川事務所の桂川嵐山地区河川整備検討委員会(第2回資料)「桂川嵐山地区の歴史的変遷について」(2012年12月)です。

都市近郊林としての嵐山
 京都市西郊に位置する嵐山は、日本を代表する都市近郊の景勝地である。それを特徴づけるのは、渡月橋、大堰川、そしてその周辺にある森林である。嵐山の森林を構成する樹木は、アカマツやヤマザクラ、イロハモミジなどであり、四季折々に美しい景観を織りなしてきた。その景観は各地の森林景観を主体とした名所の原型とも言える。
 嵐山の景観が優れているポイントは、これまでも多く指摘されてきたとおり、(1)森林の一本一本の樹木が作り出すテクスチュァ(肌理)を見るための適度な距離感、(2)適度な見上げ感のある山の形状、(3)渓谷と堰が作り出す多様な水辺の形態や伝統的形態の橋など他の良好な景観構成要素との組み合わせ、(4)比較的急斜面の傾斜であることによる植生の見えやすさ、といった点に集約されている。しかし、これらの地理的、物理的な要因だけでなく、長期間にわたるさまざまな人の働きかけや社会の仕組みが、今日の嵐山の景観を作りあげてきたのであり、このことを抜きに都市近郊林としての嵐山の景観の将来を考えることはできない。(以下略)
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近代以前の景観

 平安時代以前までさかのぼれば、嵐山はおそらく周辺に住む農民たちの薪・柴や生活資材を提供する、まさしくどこにでもある里山だったと考えられる。平安時代に入り、京都が政治・文化の中心となり、貴族たちによる国風文化が形成されるにつれ、嵐山はその景観を楽しむべき場所としての新たな位置づけがなされる。そこでは船遊びが定期的に催され、和歌という形でその景観に対する評価が蓄積されていった。周辺には貴族たちの別荘も営まれるようになった。中世に入ると、亀山上皇が後の天龍寺となる場所に別荘を造営(1255年)し、また吉野から数百本のサクラを移植し、嵐山の一層の名所化が図られた。夢窓国師による天龍寺の作庭(1346年)では、嵐山を借景とし、吉野からサクラの移植を進めるとともに、禅宗思想を一帯に写し十境を定めた。禅の世界観を示す十境には周辺の重要な視点や視対象が選ばれ、それぞれ「曹源池」「萬松洞」といった名前が付けられた。現在に残る「渡月橋」の名前もこの時に付けられたものである。
 江戸期に入り社会が安定すると、嵐山は一般の人々にも開かれた名所となっていく。京都の町人たちの花見の場として相当にぎわったことを、多くの絵図や資料からうかがい知ることができる。禅宗の信者のみならず参詣者や見物客、有力者らは、このような花見の場としての嵐山の景観を保つために、苗木を寄進した。一方、依然として、周辺の住民にとっては生活資源採取のための山林であることに変わりはなかった。天龍寺などの文書記録からは、嵐山では天龍寺管理のもと、建築資材の供給やマツタケの収穫が行われたことや、周辺住民が燃料や緑肥の採取を行っていたことが読み取れる。こうした利用形態が、嵐山のマツ林を持続的に形成する要因になっていたことは容易に推測できる。このように、近代以前においては、寺社の経営や住民の生活のための資源利用、宗教的な世界観を現世に写し出す行為、都市に暮らす人々の遊山といった、それぞれ異なる動機付けが渾然一体となって、嵐山の名所としての景観が形作られてきたのである。
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近代の保全制度の変遷
 明治に入り、天龍寺領であった嵐山は上地され国有林となった。近代国家としてさまざまな法制度が整備されていく中で、嵐山国有林にも多様な保全制度が指定されていくことになる。河川法に基づく河川保全区域にはじまり、別々の官庁ごとに異なる観点からの保全制度が、いくつも重複してかけられた。これらの制度は植生による土地被覆の保護を目的にしたものである。1915年に風致保護林として指定されて以降、昭和初期まで、原則禁伐という扱いが続き、その後も現在にいたるまでかなり厳しい施業制限が条件付けられている。近代以降に現れた公的制度による保全の枠組みは、保全対象とする林地の機能や目的が細分化され、個々には単純化された管理体系を持つものであった。そして、人間活動による干渉を排除する方向のみに制度指定が行われ、森林を文化的に作られてきた景観として保全するという立場で見ると機能しにくいものであった。
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現在の景観:計画と現実
 昭和初期になると、保全制度では対応しきれない嵐山の森林景観の変化についての問題が指摘され始めた。そして、消極的な保護策のためサクラやアカマツが消失してきたことへの対策として、景観保全のための特別な計画が策定された。そお嚆矢(こうし)は、1931年に大阪営林局(当時)により策定された「嵐山風致施業計画」であり、立地条件を考慮した画伐や風致樹植栽など、先駆的かつ積極的な「風致施業」を導入する計画がなされた。……この方針は戦争によりいったん途絶えたが、戦後になりおおよそ引き継がれた。しかし、1953年の台風被害により伐採が見合わせられ、孔隙地(こうげきち)での補植を中心とした施業方針が1983年まで続いてきた。1960年代になると観光資源として自然景観の重要性が認識されるようになり、嵐山国有林においても各種の調査が実施された。この時期以降、マツ枯れ被害や被圧されたサクラの枯損などで森林景観はさらに変化していった。1971年の施業計画では、老松の自然枯死を極力防止する、自然発生的な孔隙を利用してアカマツの生育に適した環境を造成するなど、マツ枯れ対策を前面に出した基本方針が示された。そして、景観上重要な被害跡地にはアカマツやサクラなどが、谷筋にはスギやヒノキが植栽されたが、大部分は自然の推移にまかされていた。
 1980年の土砂流出防備保安林への指定に伴い、治山とセットで風致施策を行うという方向性がより明確となった。1982年には嵐山国有林の防災・風致対策が示され、往時の嵐山の姿を80年後に復元することを目標とした施業計画が策定された。そして毎年2月25日を「嵐山植林育樹の日」と定め、京都営林署と地元の嵐山保勝会とが共催する植樹祭が開始された。1989年には、植樹祭と組み合わせて0.05㏊の群状択伐によるサクラの植樹試験地が設置され、成育状況等の調査が始められた。以後、この方式による植樹と林相改良が定着し、現在まで継続している。(後略)

歴史的な嵐山らしさ
 歴史的には、冒頭の平安時代の船遊びの例や、あるいは1931年の計画書にも「当初京洛の地を踏む外人にして保津川下りの奇勝を探らざるものなしといわれし程なり、まことに嵐山は大堰川を得てその山容を飾り、大堰川は嵐山を得てその水態を美化せるものと言い得べし」とあるように、嵐山の森林景観は渓谷域とセットでとらえられている。また、明治期から昭和初期にかけては嵐山を借景とした別荘の多くが嵐山対岸の亀山公園周辺から上流部にかけて分布していた。嵐山を眺めるための重要な視点は現在よりも広く分布し、またその視点場に対応して視対象となる山の側にも、「一目千本」と呼ばれるようなサクラを集中的に植栽した地点が存在していたのである。このように本来嵐山は、やや上流の渓谷域まで含んだ「嵐山峡」としてのとらえ方がなされていた。
 ところが戦後以降、渡月橋周辺の観光開発が進むに従って、次第に単なる「嵐山」へとイメージが縮小してきている。国有林の施業の方針も「原則として下から眺める山として取り扱う」というものであり、風致施業箇所も渡月橋からの眺めを想定して配置・実施されている。そのため確かに「嵐山らしさ」は渡月橋周辺で突出しているのだが、上流の渓谷地周辺の景観にも良好な印象評価の地点が多くあり、むしろ好ましさの麺から言えば、渡月橋周辺の景観よりも高いものも多い。渡月橋のようなランドマークはないものの、周辺の社寺や旅館などのつくりや眺望視点との関係は良好なので、嵐山らしさのポイントである人工物との調和に関しても、十分印象づけることができる。
 歴史的な森林景観を提供するという視点からも、この渓谷域を嵐山峡としてアピールし、周辺の眺望視点を意識した風致的な施業を実施していくことも必要であろう。
都市近郊林の魅力を発揮させるために-嵐山の教訓から-
 嵐山は、都市近郊の名所を形作る重要な森林景観として、それぞれの時代ごとの背景をその姿に反映してきた。特に近代以降、公的な枠組みによる森林景観の保全と創出に関しては、先駆的な役割を果たしてきたのだが、そこには常に限界もあったと言える。
 すなわち、人為干渉の制限を目的とする、細分化、単純化された管理体系だけでは、時間とともに変化していく森林景観を、本来あるべき姿にとどめることを困難にしてしまう場面が多かったのである。このような近代的保全制度からすり抜けてしまう部分の存在に対して、今後どのような形で対処していくべきなのかは、現在も行われている地域との協働関係を進めながら、より広い議論の中で考えて行く必要があるだろう。
 また、天橋立の事例とも共通するが、森林以外の周辺要素との適切な組み合わせとその洗練は、嵐山の森林景観を「嵐山らしく」魅せる上で欠かせない重要なポイントである。都市近郊の森林景観は、必ず森林以外の要素とどのように折り合いを付けるのかという問題を内包している。森林管理者だけにとどまらない幅広い協力関係が、ここでも求められるのである。
 そして、現代の嵐山らしさの認識から失われてしまっているものの、優れた部分を再発見する余地があることについても述べてきた。嵐山が本来持っていた景観的魅力を引き出すためには、これまでとは別の視点を開拓することも必要であろう。都市近郊という変化が非常に激しい場所では、見ていた場所、見られていた場所も変化していく。視点と視対象の関係を、時間をさかのぼって考えることは、その都市近郊林が本来持っている景観の魅力を伝えていくための大事な作業プロセスと考える。

多くの生き物を大切に見守る活動 4月15日

一宮町憩いの森と洞庭湖の間の松子の田んぼに立ててあった一宮ネイチャークラブの掲示板にありました。「私たちは地域の人たちとともに、様々な生き物たちが住む松子地区の自然環境を守る活動を続けています。メダカやホタルたちだけでなく多くの生き物を大切に見守る活動に、ご理解、ご協力を頂けるようお願いいたします。」(一宮ネイチャークラブ・一宮町東部地域保全会)
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※FaceBook『一宮ネイチャークラブ

※根本正之編著『身近な自然の保全生態学 生物の多様性を知る』(培風館、2010年)「第8章生物多様性を自分で観察する知恵」(引用部分は渡辺守さん執筆)
.8.2.6 保護と保全管理
 かつての「種の保護」という考え方は、絶滅の危機に瀕している種に限定され、とくに日本では「手を触れないこと」が保護であるとして、その種の生活史や生息環境の変動を無視した対策がとられることが多かった。極相に生息しているK-戦略者ならば「手を触れないこと」が保護になっても、遷移の途中相に生息している種では、「手を触れないこと」は遷移の進行を招いてその種にとっての生息環境を悪化させてしまい、保護をしたことにはならない。とくに里山景観に生息する種の多くは遷移の途中相を生息場所としているので、里山景観を維持するという「管理」が必須となる。このような視点で、生息環境の保護・保全・管理が考えられるようになったのは最近のことである。さらに、近年、絶滅危惧種や環境指標種のみを保護の対象にせず、いわゆる「普通種」の生息も保全すべきであると考えられるようになってきた。個々の種ではなく群集の視点が重要であることに気がついたからである。自然界における複雑な植物網が解明されればされるほど、どの種も生態系の構成要素のひとつであり、欠かすことのできないことも強調されてきた。したがって、あるひとつの種の生活史を取り出しても、その種を主体とした生態系の考え方から出発せねばならない。たとえばトンボのように水中と陸上の両方を生活場所としている場合、考えねばならない生態系は少なくとも2種類はあるので、「複合生態系」あるいは「景観」という概念が必要となる。
 トンボの成虫は、水田をはじめとするさまざまな場所を飛び回りながら小昆虫を捕らえており、それらの多くが害虫であると思われたため、トンボは益虫と認識されてきた。確かに、蚊や蠅、ブユなどをトンボの成虫は食べるが、これらの餌すべてが害虫とは限らない。もっとも現在の日本では、これら「見ず知らずの虫たち」は「不快昆虫」と名付けられているので、そのような立場からトンボは益虫という地位を保つことができる。しかし、生態系の中での食う-食われるの関係を思い起こせば、トンボの餌になる小昆虫は、トンボの個体数よりもはるかに多量に存在せねばならないのは自明である。とすれば、益虫のトンボがたくさん生息する場所には、それを上回る数の不快昆虫や害虫がそこに生息していてもらわねばならないのである。トンボ池を作って「自然を呼び戻す」運動が、そこまでの覚悟をもっているようには思えない。(185~186頁)

8.2.7 啓発
 近年、自然環境の保全を求める社会情勢で、全国的に「ビオトープの創生」や「トンボのいる公園作り」などが盛んになってきた。しかし、これまでに報告されてきた多くの「ビオトープの創生」は、生態学の基礎知識が不足しているためか、主体とした種の生活空間の拡がりや植生環境を量的・質的に考慮してこなかった。高木層のみを植栽して下層植生を無視した「雑木林の創生」が何と多いことか。また、水を溜め、γ-戦略者の典型であるウスバキトンボがやってきただけで「トンボ池の成功」と信じてしまったり……。【以下略】(186頁)

発酵の里こうざき 4月3日

3月29日、千葉県香取郡神崎町の「発酵の里こうざき」に行きました。2015年4月29日に開業した道の駅で、圏央道神崎インターチェンジから車で数分の利根川沿いにあり、24時間営業のファミリーマート、野菜いろいろ新鮮市場、発酵専門店発酵市場、喫茶・お食事オリゼがあります。
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写真の発酵市場は全国の発酵関連商品(味噌・醤油・日本酒・ワイン・ビール・パン・漬物・鰹節・干物・ピクルス・納豆・キムチなど400点)の展示・販売、情報コーナーがありにぎわっていました。
微生物が醸(かも)し出す発酵をテーマに様々な試みが近年、各地でもりあがっているようで、『ソトコト』186号(2014年12月)は「おいしい伝統食の最前線! 発酵をめぐる冒険」を特集しています。神崎町は2009年から二つの蔵元で始めた酒蔵まつりの成功を背景に、2013年、「発酵の里こうざき」を商標登録し、それが道の駅プロジェクトのまちづくり発展したようです。

1993年に103駅で始まった道の駅は、2015年11月現在1079駅が登録されています。2015年1月、国土交通省は、地域活性化の拠点として特に優れた全国モデル「道の駅」6ヶ所と、将来性の高い重点「道の駅」35ヶ所を選定しました。全国モデル「道の駅」6カ所は、地域外から活力を呼ぶ「ゲートウェイ(入り口)型」と地域の元気を創る「地域センター型」に分類されました。関東地方で選ばれた全国モデル3駅はすべて「ゲートウェイ型」に属しています。栃木県茂木町の道の駅「もてぎ」、群馬県川場村の道の駅「川場田園プラザ」、千葉県南房総市の道の駅「とみうら」です。道の駅「発酵の里こうざき」は重点「道の駅」(ゲートウェイ型)に選ばれ、成田国際空港との至近距離を活かし、ユネスコ無形文化遺産に登録された「和食・日本人の伝統的食文化」をイメージとした「発酵文化」を世界に向けてPRし、海外からの観光客を誘致するインバウンド観光を促進する「道の駅」として期待されています。今後、まちづくりの拠点としての「道の駅」に注目していこうと思います。

石田東生「全国「道の駅」シンポジウムin田辺 道の駅 地方創生への期待と課題」(2015年11月17日)

石川雄一・四童子隆・小島昌希「「道の駅」による地域活性化の促進―重点「道の駅」制度の創設」『観光文化』225号特集・観光の経済波及効果を高めるには(日本交通公社、2015年4月)

秋山聡「「道の駅」による地域の活性化」『JICE REPORT 第27号』特集・地方創生-地方創生の方向性(国土技術研究センター、2015年7月)

「農業・加工体験の安全管理のポイント」研修会 3月23日

熊谷市立商工会館で開かれた埼玉県農業ビジネス支援課「都市農山村交流実践研修会 ~安全で充実した体験活動にするために~」に参加しました。講師はまちむら交流きこうの花垣さんで、事故の予防(予見義務、回避義務、事故を予防する事前準備、事故の予防につながる指導方法)、事故発生時の初期対応、受入後の記録・反省についてでした。
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※5S活動
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※アウトドアの「事故ゼロ!」を目指すポータルサイト『SAFETY OUTDOOR』「関連リンク

※自然体験の「技」を学ぼう『森の達人アーカイブ』「自然体験での危険予知と対処法

NPO法人自然体験活動推進協議会(CONE)『自然体験活動指導者安全管理ハンドブック』、「薪割り

国立環境研「実験水田を用いた農薬の生物多様性への影響変化」

3月17日の『朝日新聞』に、「農薬 トンボへ悪影響」「水田実験で生息数に差 国立環境研」という記事が掲載されていました。国立研究開発法人国立環境研究所生物・生態系環境研究センターの記者発表・配布資料(3月16日)もとづくものです。
  国立環境研究所は実験水田を用いて、ネオニコチノイド農薬など浸透移行性殺虫剤が、トンボ類を含む水田の生物相に対してどのような影響を与えるのかを調べました。
   その結果、以下のことが明らかになりました。

①フィプロニルが使用された水田で一部のトンボ種の発生に強い負の影響が見られたこと

②試験薬剤であるクロチアニジン、フィプロニル、及びクロラントラニリプロールはそれぞれ使用された水田内において、その水中濃度は適用後3か月以内に検出限界程度に減少するが、土壌中では栽培シーズン終了時まで比較的高濃度で検出されること

   本研究成果は、現在、国内でも広く使用される浸透移行性殺虫剤が土壌に吸着しやすく、長く留まる傾向が強いことを示すとともに、一部の殺虫剤は水田中においてトンボ相に深刻な影響を及ぼすリスクがあることを示しています。このことは、現在の農薬登録の枠組みにおいて審査を通過した農薬であっても、一部の野生生物に予期せぬ影響をもたらす可能性があることを意味しています。そのような予期せぬ影響をいかに予測可能へと近づけるかが今後の課題であり、種の多様性や生態系の多様性を考慮した農薬のリスク評価システムを構築して行くことが重要であると考えられます。
   この研究成果をまとめた論文が、2016年3月16日(日本時間午後7時)に英国科学誌(オープンアクセスジャーナル)「Scientific Reports」に掲載されました。
以下、配付資料は、1.背景、2.方法、3.結果と考察(①農薬濃度、②水田生物群集への影響、③ショウジョウトンボ、及びシオカラトンボの発生数の比較)、4.今後の課題、5.問い合わせ先、6.発表論文、7.参考論文、と続きます。
4. 今後の課題

   2004年以降、国立環境研究所では、実験用水田を用いたメソコズム試験を通じて、農薬など、化学物質が生態系に及ぼす影響の評価を行ってきました(例えば、参考論文2-4)。これまでの結果から、薬剤によっては環境中で速やかに分解するもの、あるいは逆に環境中に長く留まるものもあり、その特性によって、影響を受ける生物が異なることや、僅かな薬剤成分でも水田中の生物多様性に大きな変化が生じることを示してきました。

   今回の研究では、近年特にその環境影響が議論されている水稲用浸透移行性殺虫剤についてメソコズム水田における生物相への影響を調べましたが、これまでの研究成果と同様に、剤によって水田の生物相に及ぼす影響が異なることが明らかになりました。特に今回調査した薬剤の中では、ネオニコチノイド系殺虫剤であるクロチアニジンよりも、フェニルピラゾール系殺虫剤のフィプロニルの方がトンボ類に対して強い影響を示すことも判明しました。これまでにもフィプロニルがトンボ類に影響を及ぼすことは指摘されてきましたが(例えば、参考論文1, 5)、今回のメソコズム試験の結果は実際の水田により近い環境条件において、トンボに対する顕著な影響を実証したことにより、これまでの結果を大きく前進させるものです。また、今回調査したいずれの農薬も水田中の土壌に吸着して長時間土壌中に留まることが示されました。今後、この土壌中に残った成分が次年度以降にどのような動態を示すのか、またその結果生物群集にどのような影響を及ぼすのかという、長期間の生態影響についても追跡して調べる必要があります。

   メソコズム試験によって複雑な生態系における農薬の生物相に対する影響を検証することが可能となりました。ただし、メソコズムはあくまでも限られた空間に設計された実験生態系になります。そこで観察された生態影響が実際の野外の水田環境で起こっている生物多様性の変化にどのように反映されるのかを知るためには、さらなる詳細な実験と調査が必要とされます。特に、近年減少が懸念されているアキアカネは今回のメソコズム試験では調査対象とすることができなかったため、本研究で示されたトンボ類への影響がアキアカネでも同様に生じるかについては今後の研究課題となります。

   農作物の栽培において殺虫剤は害虫の発生をコントロールするために必要な資材であり、今後可能な限り、生態系や生物多様性に対する影響に配慮しながら活用していくことが望まれます。そのような生態系への影響に配慮した農薬の活用を実現するためには、今回の研究で示されたような科学的知見の集積が必要となります。今後、生物多様性に対する負荷を軽減できる農薬やその施用方法を選択する手法を開発するために、本研究で行なったメソコズム試験のさらなる活用が期待されます。

   なお、本研究は環境省 環境研究総合推進費2013年度開始課題4-1303「農薬による水田生物多様性の総合的評価手法の開発」(課題代表者:林 岳彦 国立環境研究所 主任研究員)により実施されました。
※『Scientific Reports』に掲載された論文「A. Kasai, T. I. Hayashi, H. Ohnishi, K. Suzuki, D. Hayasaka and K. Goka. (2016) Fipronil application on rice paddy fields reduces densities of common skimmer and scarlet skimmer

※ネオニコチノイド系7種(アセタミプリド、イミダクロプリド、クロチアニジン、ジノテフラン、チアクロプリド、チアメトキサム、ニテンピラム)と、フィプロニル、クロラントラニリプロールなどを含有する農薬の商品名については、独立行政法人農林水産消費安全技術センター(FAMIC)の「農薬登録情報提供システム」で検索、ダウンロードできます。

※当ブログの「ネオニコチノイドを含む記事」、「トンボを含む記事」。

市民環境会議 3月13日

東松山市環境基本計画市民推進委員会「市民環境会議」が総合会館で開催されました。事例発表は東松島市副市長古山さんの「協働による復興まちづくり」、東松山市エコタウン推進課「市民協働で進める環境まちづくり」でした。
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※東松島市の「市民協働のまちづくり」(東松島市HPより)
東松島市の市民協働のまちづくり
東松島市では、平成17年度より、市民協働のまちづくりに取り組んでいます。
将来にわたり住み良いふるさと「ひがしまつしま」を維持していくために、地域に直接かかわる具体的な課題について、市民が主体的にまちづくりに取り組み、地域単位でまちづくりの立案運営を可能となるような自助自立型のまちづくりを目指しています。
◆市民協働とは・・・
1.市民協働の領域
2.市民協働の取り組み方
◆協働の基礎知識(Q&A)
Q1.市民協働とは?
Q2.なぜ協働が求められているのですか?
Q3.経費削減のために協働するのですか?
Q4.協働によって期待される効果は?
Q5.どんなことから始めるとよいですか?
Q6.協働のまちづくりのスケジュールはどうなってるの?
Q7.地域に丸投げなの?
◆東松島市の市民協働
1.取り組みのきっかけ
2.協働にふさわしい事業は?
3.市の推進体制
4. 地域担当職員の設置
5. まちへ出よう市職員 マイセルフカードの発行
◆市民協働を進めるための制度と取り組み
1.東松島市まちづくり基本条例
2.東松島市地域まちづくり交付金制度
3.公民館から市民センターへ
4.東松島市まちづくり市民委員会
◆各地区の自治協議会組織 【略】
 平成21年度から、各協議会組織が指定管理者となり、市民センター(旧公民館)を管理運営しています。このことにより、地域自治活動の拠点施設として、施設の有効活用も図られます。
 東松島市の協働のまちづくり推進の3つの原則
(1)市民公益活動及び地域のコミュニティ活動の自立を目指し、その活動の主体性を尊重すること。
(2)市民の自主的な市政への参画が保障されること。
(3)市民、市議会及び市が情報を共有すること
協働のまちづくり基本的な取り組みの方針
   協働のまちづくりの取り組みにあたっては、特に「市民と市民」、「市民と行政」の協働について環境整備を重点的に行っています。
 具体的には、①生活地域単位で考え活動するための地域自治組織の育成、②地域自治組織が活動するための財源確保の仕組みづくり、③地域自治組織が活動するための拠点施設(事務所)の確保、を行い、地域主体のまちづくり活動を実現するための仕組みづくりを段階的に行っています。
 将来的にはNPO(非営利活動団体)や事業者との協働も視野に入れながら、その準備も進めていきます。

市民協働について
1.市民協働の領域
 市民の果たす役割と行政が果たす役割をしっかりと認識した上で、市民が市政に関わる機会を広め、市民の主体性を引き出すことが、協働の度合いを高め、本質的な「自治」につながることになります。
今後の事業展開や課題解決にあたっては、最適な協働の関係を把握・検討することで、事業をより効果的に進めることができます
協働の範囲

2.市民協働の取り組み方
協働は、市民と行政が、相互の理解と信頼のもとで目的を共有し、連携・協力しながら地域の課題を解決する取り組みです。 「誰かがやる、やってくれる」という受身ではなく、職員・市民みんなが主役であるという意識を持って、協働の取り組みを進めることが必要です。

 1)できることからはじめよう
協働は難しいことではありません本市では、従来からコミュニティ活動や分館活動など、市民のまちづくりへの参加が活発な地域です。
しかし、「協働」の考え方については、今後本格的な取り組みを開始するもので、市民の理解や、参画の機会もまだ十分とはいえません。
地域の役員の方々や行政が今後「協働」に取り組む際は、多くの市民は、まちづくりへの参画に慣れていないという前提に立ち、楽しく、参加しやすいシナリオづくりを心がけ、まず、できることから始めることが大切です。

 2)関わる人の輪を広げよう
関わる人の輪を広げよう 協働の取り組みを進めるためには、最初は、地域の役員の方々等を中心とした組織づくりを行ったのち、時間をかけながら、市民や広く様々な分野で自主的な活動をするボランティア、NPO など、幅広い視点で考え、人の輪が大きく広がるような工夫も必要です。
実際に協働の機会をつくることにより、市民自らが主体となってまちづくりに関わることで、やりがいや楽しさ、さらには満足感や達成感が得られ、関わる人の輪が広がっていきます。

 3)理解を広めながら進めよう
協働が定着するまでには、新たな取り組みに加えて、ある程度の時間が必要です。
先進事例では、制度定着までに4年~5年程度かかっている自治体が多くみられます。
協働の取り組みについては、様々なケースが考えられ、画一した方法がないことから、実践を重ねながら少しずつ定着を図ることが大切です。
地域に理解を広げるため、実際にモデル的な事業を行うなどの、部分的な事業展開も有力な方法の一つとなります。

 4)役割を明確にしよう
 まちづくりは、行政だけが担うものでも、特定の市民だけが担うものではなく、様々な市民との連携・協力により進めていくものです。
参加しやすい場ができれば、次は、それを実施するための役割を明確にし、具体的に作業を分担することが大切となります。

 5)評価改善しながら進もう
関連する事業を実施した後は、相手方や参加者に意見や感想を求めるなど、次へのステップにつながるよう、実態把握や評価する機会を取り入れることが必要です。
改善していくことが、次のステップの住み良いまちづくりにつながります。

 6)情報を公開しよう
市民協働は、目的に対する相互理解と共通認識づくりが欠かせません。
そのためには、地域住民が判断できる情報を多く提供し、疑問や意見に対して、説明することが必要となります。市民や参加する側の視点に立って、情報を分かりやすく、積極的に公開する姿勢が欠かせません。
協働の基礎知識
Q1.市民協働とは?
市民協働とは、市民と行政とが対等のパートナーとして、地域の公共的課題の解決に向けて共に考え、協力して行動することです。
行政が市民に肩代わりしてもらう発想では協働とはいえません。あくまでも市民の自主性を尊重しながら目的を共有し、互いに役割と責任を明確にして取り組むことが協働の基本となります。

Q2.なぜ協働が求められているのですか?
少子高齢化や厳しい財政状況など、行政を取り巻く環境は大きく変化しています。そして、今後もこれまで行政が担ってきた役割のすべてを担い続けることは極めて難しくなっています。
一方で、地域の公共的課題の解決を行政任せにするのではなく、自ら取り組もうとする市民やNPOなども増えています。地域課題や多様化する市民ニーズに的確に対応するためには、市民の発想や創造力、得意分野を活かしながら、ともにまちづくりを進める「協働」が求められています。

Q3.経費削減のために協働するのですか?
三位一体改革の影響等により、市町村の財政は非常に悪化しており、東松島市も例外ではありません。東松島市の財政予算のうち、皆さんから直接お預かりしている税金の占める割合は約1/3で残りの2/3は国や県から交付されていますが、地方交付税などの削減が急激に進む中で、歳入の増加は期待できない状況となっています。
こうした中で、市役所においても、行政改革大綱を定め、市職員の削減や事業の効率化など、あらゆる方面から行政改革に取り組んでいますが、限りある財源を無駄なく効果的に活用するためには、行政管理による市域一律の事業展開だけでは限界があります。また、市民や地域のニーズが多様化し、公共サービスへの要求が以前にも増して大きくなっています。
こうしたことから、公共サービス低減と住民ニーズのギャップを埋める手法として「協働」が新たな公共を担う概念として注目されており、経費削減を主眼とするものではありません。
例示すると、今までは「公共サービス」≒「行政」でしたが、今後は「公共サービス」≒「行政」+「協働」という考え方が基本となるものと考えています。

公共サービス概念の移り代わり

Q4.協働によって期待される効果は?
既にボランティアやNPOなどは、柔軟で自主的な活動により、行政では手の届きにくい専門的なサービスを実践しています。このような市民協働は、将来は公共の分野に関わる多様なニーズに対応していくことも可能とされています。
さらに、各地域における協働の進展は、地域への愛着が一層深まるとともに、地域コミュニティや防災への備えなど、多方面にわたって相乗効果が得られるものと期待されています。

Q5.どんなことから始めるとよいですか?
まずは、地域課題の把握や地域の資源を認識することから始めることがベターといわれています。例えば、市民ワークショップやアンケートなどを実施して情報収集を行うなど、情報の共有化や共通理解が大切です。
次の段階として、地域ごとに「地域のまちづくり計画」を策定することを、お勧めしています。地域まちづくり計画は、地域でまちづくりに取り組むときの共通目標です。計画書は地域の課題や、希望をまちづくり委員会で話し合ってとりまとめます。 市では地域計画を基礎資料として、調整しながら市の実施計画を立てていきます。

Q6.協働のまちづくりのスケジュールはどうなってるの? 【略】

Q7.地域に丸投げなの?
基本的な考え方は、「地域でできることは地域で、市役所がやるべき事は市役所が」という役割分担の考え方にたちますが、市民センターが地域の拠点としてまちづくりを積極的にバックアップし一緒にまちづくりを進めます。
決して、「丸投げ」にすることはありませんが、「全て行政がやってくれる」こともありません。主役はあくまでも地域の皆さんです。

過去のような管理ができない里山二次林の管理(環境林)

市民の森保全クラブの作業エリアは1ヘクタールという小さい面積ですが、市民の森(31.9㏊の東松山市の公園)と谷津の耕作放棄地(民有地)を含めてどのように保全していくのか考えながら保全作業をおこなっています。須藤隆一さん編『環境修復のための生態工学』(講談社、2000年)の第3章 森林生態系の保全と管理(鈴木和次郎さん執筆)を読んでみました。
   第3章 森林生態系の保全と管理(鈴木和次郎)
 3.1 森林生態系とは何か
  A.時間的・空間的にとらえた森林生態系
  B.森林生態系の特性と機能
 3.2 自然生態系の保全
  A.保護区(国立公園、自然環境保全地域、世界遺産)の設定
  B.生態的回廊の確保
 3.3 森林の生態系管理
  A.人工林地帯における生態系管理
  B.二次林の生態系管理
   a.木材生産を担う広葉樹二次林
   b.景観の保全と生物多様性を担う里山二次林(環境林)

     3.3Bb.景観の保全と生物多様性を担う里山二次林(環境林)
 農用林として農業肥料、燃料の提供を担ってきた平野部の広葉樹二次林は、利用目的を失い、次々と放棄され、都市化、宅地化の波にのまれていった。その結果、こうした二次林は面積的にも減少するだけでなく、虫食い状態に開発され、孤立・断片化の傾向を強めていった。また、かつての肥料・燃料利用を目的とする落葉かき、林床植生の刈り払いが行われなくなったため、ネザサの進入が著しくなり、本来の二次林特有の植物相が消失し、種多様性が減少している。そうした結果、都市近郊の二次林は荒廃が進み、人間活動の中で形成され、調和をもって維持されてきた二次林の生態系が急速にそこなわれている。こうした中で、これまでの二次林の利用管理ではなく、都市近郊の森林公園、ないしは環境林として二次林を位置づけ、保全・管理する動きが各地に見られる。この中で問題となるのは、かつてのような利用目的がなくなる中、同様の人為的撹乱をどのように加え、人為の影響の下で、二次林(里山)を維持させてゆくのかということである。現在、このような取り組みは、都市部を中心に行われている。その主なものは、森林公園化し、徹底的に人的管理におくものである。その結果、通常の公園管理の手法が導入され、利用者にとっての便宜やアメニティーが優先され、生態系としての森林を念頭においた管理が放棄され、無視されるケースが増えている。もう1つの流れは、市民のボランティア活動として取り組まれている里山の再生事業である。これは、短伐期に伐採と萌芽更新、林床処理によりかつての二次林(里山)の姿を取りもどそうというもので、部分的に炭焼きシイタケ栽培などを目的とする伐採も取り組まれ、さらには、広葉樹材を利用したバイオマス発電なども提唱されている。しかし、こうした取り組みは、林分管理の段階にとどまっており、二次林の開発行為に伴う孤立・断片化の問題は解決されていない。
 ドイツをはじめヨーロッパ諸国では、都市近郊林を積極的に環境林として位置づけ、その保全と再生に取り組む姿が見られる。しかも、これは人間の居住空間をよりよくするための目的のみならず、こうした森林が生態系として機能し、人間の活動が森林生態系の一部として機能する社会をめざすものである。そこでは、森林が生態系として機能するためのさまざまな試みがなされている。都市近郊林で問題となる森林の孤立・断片化に対しては、林分を開発から守るばかりでなく、孤立化した林分を植林などにより結びつけるコリドー(回廊)の造成も積極的に取り組まれている。
 日本においても、かつての里やまの姿を維持するというだけではなく、環境林としての生態系の健全性や安定性、生物多様性を確保する二次林の管理を考えるという視点が必要である。その手立てとして、過去のような管理ができない多くの二次林については、むしろ恒例の広葉樹林への誘導を考えるべきである。この際、留意すべきは、一般に農用林、薪炭林として、維持されてきた里山の二次林が同齢の萌芽再生林であることから、上木の階層構造が単純で種多様性が低いことである。こうした点を改善する方法として、小面積の伐採を繰り返し行い、全体として空間的なモザイク構造をつくりだし、さらに伐採面での新たな樹種の進入を期待すること、さらに、林冠の閉鎖が強まった段階では、ネザサの進入を許さない程度の間伐を実施することがあげられる。このような管理の下で、50~100年後に、高齢の比較的種の多様な環境林を都市近郊に創出してゆくことが可能となる。
 一方、従来の二次林も里山自然景観、あるいは文化的景観として重要であり、人為的管理の下で維持されてきた特異な生物相の生息場所を確保するという点からも、部分的には保全、配慮する必要がある。こうした二次林について、可能であれば、農用林的利活用が望ましいが、そうでなければ、二次林の保全目的だけの徹底的な人為管理(短伐期の萌芽更新と落葉落枝の採取)を行う必要がある。このような二次林は、景観的には、屋敷林、社寺林、針葉樹人工林はもとより水田、畑地などと一体となった管理が望まれる。その中で里山の生態系、生物相が総体として保全されることになる。(同書71~72頁、注略)
 筆者の鈴木和次郎さんは、森林総合研究所退職後、福島県南会津郡只見町のブナセンター長として活躍しています。

東松山市環境基本計画、笑顔プロジェクト、ゴミ処理フローシートなど

第2次東松山市環境基本計画(2011年4月)、環境年次報告書を東松山市のホームページからダウンロードして読みました。

 環境基本計画は、自然と人が支えあう「いのち」輝く笑顔つながるまちづくりを基本理念として、①将来世代の豊かさを守る持続可能な暮らし、②恵みをもたらす里山、農地水辺の保全、③市民、地域のチカラが発揮される協働のまちの3つの目標、目標実現のための7つのプラン(笑顔プラン)からなっています。

 笑顔プランは、
  1 ごみ・無駄・危険をなくす「ゼロ・ウェイスト宣言」にチャレンジする。
  2 エネルギーの自給を目指し、自然エネルギーを活用する。
  3 里山・緑地を楽しみ、守り、育てる。
  4 食と農の暮らしの理解を深め、地産地消で農業を支える。
  5 水辺の豊かさを取り戻し、まちづくりにいかす。
  6 “ないものねだり”から“あるものさがし”へ 地域の魅力を発信する。
  7 環境まちづくりで人づくりと地域おこし の仕組みをつくる。
の7本で、市民と市が一緒に進める協働のプランです。

 笑顔プランの構成は次のとおりです。
  ① 取組方針
     「環境×まちづくり=笑顔プラン」に掲げる、市民と市が一緒に進める協働の取組方針を定めます。
  ② 現状と課題
     現時点での状態や課題を整理します。
  ③ 10年後の“こうあってほしい姿”
     計画期間が終了する平成32年度の“こうあってほしい姿”のイメージを文章で表現します。
  ④ 成果を測る注目指標
     “こうあってほしい姿”を客観的に数値で把握できる「注目指標」を設定し、その推移を観察します。
  ⑤ 市の施策
    取組方針に沿って、市がやるべきこと(施策)を掲げます。
  ⑥ 市民プロジェクト
    取組方針に沿って、市民ができること(市民プロジェクト)を掲げます。

 市民プロジェクトの位置づけは、
  「環境×まちづくり=笑顔プラン」に掲げる「市民プロジェクト」は、計画づくりに参加した市民の意見を集約し、“市民が主体的に考え、実践できること”として、市民策定委員会が整理したものです。とりわけ、第2次環境基本計画に示している市の施策と連動し、協働で取り組むことによって、大きな成果を得られると想定される取組を列挙しています。
 今後10年間の計画期間中に、取組主体の組織化も含め、実施体制が整った市民プロジェクトから、順次、行動に移していくものであり、次の視点で検討されています。
  ◆市の施策に連動しています。
  ◆はじめの一歩となる具体的な内容です。
  ◆多くの市民や事業者の参加を期待します。
  ◆進捗状況に応じて、内容の追加や訂正を行います。

 笑顔プラン1の 「ごみ・無駄・危険をなくす「ゼロ・ウェイスト宣言」にチャレンジする。」について、2013年の市民プロジェクトは3本あり、次の事業が登録されています。
 No1「ごみダイエット作戦プロジェクト」~一人一日100グラム、家庭からごみを減らそう~
   4Rアクション 〔実施主体:4Rアクション実行委員会〕
   目標!ゼロウェイスト 〔実施主体:ゼロウェイスト研究会〕

 No2「生ごみ資源化プロジェクト」~生ごみから堆肥をつくり活用しよう~
   生ごみの削減と生活雑排水等の浄化 〔実施主体:生ごみの削減と生活雑排水の浄化プロジェクト〕
   EM菌による生ゴミ堆肥化プロジェクト 〔実施主体:大岡地区EM研究会〕

 No3「有害化学物質削減プロジェクト」~合成洗剤から「せっけん」へ、身近な環境リスクを減らそう~
   楽しく!せっけん 〔実施主体:えがおプロジェクト〕
   福島の原発事故から、暮らしと環境を考え行動するプロジェクト〔実施主体:子ども未来・東松山〕
   生活を科学しよう! 〔実施主体:生活クラブ生協比企支部〕

成果を測る注目指標として、市民一人一日当たりのごみ排出量(g)ごみの資源化率(%)埋立て処分量(t/年)があげられています。2013年度の市民一人一日当たりのごみ排出量は938g、ごみの資源化率15.80%、埋立て処分量3565.76tとなっています。この指標の元になっている数値、計算式はどのようなものなのでしょうか。
 環境省「一般廃棄物処理事業実態調査」の2013年度調査結果の埼玉県のごみ処理の状況(2013年度実績)から算出した東松山市のごみ集計結果では、
 収集ごみ(混合ごみ+可燃ごみ+不燃ごみ+資源ごみ+粗大ごみ+その他)=26,620t/年
 計画収集量(収集ごみ+直接搬入ごみ)=30,221t/年
 ごみ総排出量(計画収集量+集団回収量)=30,895t/年
 ごみ処理量(直接最終処分量+直接焼却量+焼却以外の中間処理量+直接資源化量)=30,153t/年
 1人1日あたりごみ排出量(ごみ総排出量/総人口)=946g/人日
 リサイクル率([資源化量合計+集団回収量]/[ごみ処理量+集団回収量])=20.36%
 中間処理による減量化量(施設処理量-施設処理後資源化量-施設処理後残渣処分量)=21,089t/年
です。

※東松山市のゴミ処理フロー(埼玉中部広域清掃協議会「薪ごみ処理施設整備構想」2014年3月、3頁)
東松山市のゴミ処理フロー
※東松山市合計処理量(2013年度実績) ごみ処理フローシート(環境省「一般廃棄物処理事業実態調査」から埼玉県集計結果(ごみ処理状況)のゴミ集計結果シート(東松山市のコード番号:11212)
東松山市ゴミ集計結果(2013年度)

※東松山市合計処理量(2013年度実績) ごみ処理フローシート((環境省「一般廃棄物処理事業実態調査」から埼玉県集計結果(ごみ処理状況)のゴミフローシート)
東松山市ゴミ処理フローシート(2013年度)

千本松牧場(栃木県那須塩原市)の松林 12月4日

東北道西那須野塩原インターチェンジを降りて2分、那須野原台地にある千本松牧場(那須塩原市千本松799)と、接骨木地区(にわとこ)のマツ林を見学しました。
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※「千本松」命名について(「せんぼんまつ牧場のひみつ」より引用)
 この地域は、古くは「那須野」、江戸時代には「那須野原」、明治初期より「那須野が原」と呼ばれていました。那珂川・蛇尾川・箒川などが那須連山から運んだ土砂が堆積した扇状地で、水に乏しく原っぱや雑木林ばかりだったようです。人も住まないことから「九尾の狐」の伝説も生まれたといいます。鎌倉時代初期の建久4(1193)年には、ときの将軍 源頼朝が1万人を使い巻狩を行ったと「吾妻鏡」に記されています。
 明治13(1880)年、伊藤博文や松方正義の薦めにより開拓が始められました。開拓に不可欠な水を確保するため、印南丈作や矢板武らの努力により、那珂川上流より水をひくことに成功しました。「那須疏水」の開通です。 那須疏水は、福島県の「安積疏水」と京都「琵琶湖疏水」と並び、日本三大疏水と称されて、今も那須千本松牧場の南端を東西に流れています。
総理大臣を2度務めた松方正義公が、明治26(1893)年にこの地を那須開墾社より譲り受け、大農具を導入して欧米式の農場を開きました。これが、那須千本松牧場のはじまりです。……
この地には、天然のアカマツが密生繁茂していたので、松方正義公は「千本松」と命名し、それがそのまま地名となりました。現在でもたくさんのアカマツが群生しており「栃木の景勝100選」にも選ばれています。……
※高度経済成長期の施業で千本松牧場の平地林は広葉樹林からアカマツ優占林となる(犬井論文参照)
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※接骨木地区の放置された平地林
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犬井正「那須野原台地における平地林利用の変容」(『人文地理』40巻2号、1988年)
  Ⅰ はじめに
  Ⅱ 那須野原台地西原の概況
  Ⅲ 平地林の伝統的利用法
   (1) 農業の再生産資材としての落葉の利用
   (2) 農家の生活資材としての林産物の利用
  Ⅳ 塩原町接骨木地区における平地林利用の変容
   (1) 高度経済成長期以前の営農形態と落葉採取利用
   (2) 高度経済成長期以降の平地林と農業の分離
  V  西那須野町千本松地区における平地林利用の変容
   (1) 高度経済成長期以前の平地林の利用形態
   (2) 高度経済成長期以降の農用林野的利用の消滅
  Ⅵ むすび

※千本松農場における林業経営(犬井論文78~79頁から引用)
第二次世界大戦後, 千本松農場は蓬莱殖産株式会社が会社組織により酪農と平地林の育成林業に主力を置いて農場経営を行なった。1946 (昭和21) 年に酪農経営を取り入れ北海道から乳牛10頭を導入し, 生乳の生産とともに1949年にはバター製造所を建設し, バターの生産を開始した。1956年には農場の作業を馬等の畜力中心からトラクター・自動車等の大型機械へと転換した。1961年には乳牛飼育頭数が100頭に増加したためにそれに必要な牧野造成を開始した。1965年には乳牛飼育頭数が200頭になり, 採草地を造成拡大して接骨木地区に建設された地方競馬全国協会にも飼料用干草の販売を開始した。1973年には乳牛飼育頭数が300頭に増加し, 観光農場部門も併設された。1985年現在, 乳牛350頭と耕地・牧草地215haの規模に成長した。
 一方1960年代の高度経済成長期以降, 燃料革命により全国的な薪や炭の需要減少の影響を受け, それまで農場の大きな収入源だった平地林からの薪炭材の生産量は減少した。同時に,「落葉・生草利用組合」の組合員農家の平地林の利用面積も漸減したので, 農場は順次広葉樹から針葉樹へと平地林の樹種転換をはかっていった。植林等に要する造林経費は酪農部門で得た収益によって補填した。
 長い間の落葉採取慣行のため林地の地力消耗が著しかったので, 林業用固形肥料等を施用してアカマツへの転換を積極的に図るとともに,適地には小面積ながらスギ・ヒノキも植林した。その結果かつて最も広大であったクヌギ等の広葉樹林の面積は減少した。それに替わってアカマツが528.8haと大半を占め, スギ・ヒノキは24.1haである。アカマツは40~50年生を中心に高度経済成長期以降, 土木建築用材として材木業者に立木で売却し高収益を得てきたので, 毎年計画的に造林されてきたために他の樹種に比べ畜積量が非常に多い。スギ, ヒノキは1960年代以降に造林をしたものが大部分のため20年生以下の若齢級の林分が多い。全国的な国内材の売れ行き不振の影響を受けてスギ・ヒノキの販売量は少ない。61年生以上のスギ・ヒノキは農場社屋や畜舎の周辺に仕立てた防風林である。広葉樹林は大部分アカマツ林との二段林になっており, コナラを中心にしいたけ栽培のホダ木原木として20~30年伐期で伐採し販売している。
 接骨木地区の農家保有の平地林は保有規模が小さいとともに, 個々の農家の資本畜積が小さいため平地林を林業用地へ転換することは困難であった。しかし, 千本松地区は600haに及ぶ広大な平地林を千本松農場が単独で保有してきたので, 酪農部門で得た収益を林業部門に補填しつつ造林を可能にしてきたのである。その結果, 古村と同様に高度経済成長期以降, 農用林野としての機能を喪失しても, 不動産業者等による平地林の蚕食を防ぎ大規模な育林地に転換できた特殊な事例と考えられる。

坂東20番札所西明寺・高舘山(益子町) 11月27日

益子県立自然公園・益子の森は丘陵地にある31㏊の里山林でアカマツ林がありました。
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その入り口にあるフォレスト益子に立ち寄り、展示から益子県立自然公園の中にある標高302mの高館山と坂東20番札所西明寺の植生について知りました。高館山周辺は、栃木県内で最も暖かい地域なので他の地域ではあまり見られないカシ・スダシイ・ツバキなどの暖地性常緑広葉樹林がみられます(※)が、高館山北斜面ではカシ類、スダジイ等に混じってブナ・イヌブナ・オオウラジロノキなどの冷温帯性植物がところどころに自生しているそうです。ブナとスダジイが共存している高舘山(原正利「関東地方におけるブナおよびイヌブナの分布と生態について」)を歩いてみたいと思いましたが時間がありません。高舘山の中腹にある西明寺だけ見学することにしました。
西明寺の参道の両側のシイ林では、アカガシ、アラカシ、シラカシ、ウラジロガシ、ツクバネガシなど栃木県内で見られるほとんどのカシ類を見ることができ、本堂前のツバキとコウヤマキはどちらも県内で一番太いもので、両方とも県指定天然記念物になっているそうです。
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   スダジイの大木と本堂裏手のイチョウの落葉
獨鈷山普門院西明寺(とっこさんふもんいんさいみょうじ)は真言宗豊山派に属し、本尊は十一面観音菩薩、坂東20番札所です。御詠歌は「西明寺 ちかひをここに 尋ぬれば ついのすみかは 西とこそきけ」。
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楼門と三重塔は国指定重要文化財、閻魔堂には「笑い閻魔」があります。

※:『とちぎの植生(植物群落)』(栃木県自然環境基本調査2002)には、これまでの植生調査で明らかにされた植物群落が整理されていて、高舘山はスダジイ林、シイ・アラカシ群落、アカマツ林(二次林)、スダジイ-ヤブコウジ群集、スダジイ・アラカシ林、シイ-アラカシ林でリストアップされています(23~47頁)。

都幾川を渡り岩殿観音に至る(『川越松山の記』1818年) 11月11日

岩殿観音 『川越松山の記 川越松山巡覧図誌抄』(県立松山高等学校内古文書を読む会、1975年)より

川越松山の記について
 竹村立義の著。文化十五年(1818)稿本。「川越松山巡覧記」「川越松山巡覧図誌」とも称し現在までに多数の写本がつくられ、今日に伝わっているが、著者の自筆本は現在内閣文庫にある。
 内容は立義が同行二人と共に、江戸から膝折、野火止等を経て川越に至り、さらに吉見、松山、岩殿、平の慈光寺から越生へぬけ、ふたたび川越城下に入って、三富、所沢から小金井に至り江戸に帰る紀行文である。この間、五泊六日の旅行で、沿道の名所古跡、神社仏閣を主に探訪し、又土地の風俗、産物、植物などにも目をとめており、私たちの郷土研究への興味をそえる。
 立義は本書の各所で文献資料を多く引用して、彼が博学な読書人であったことを示しているが、反面それが紀行文としての進行に難渋さを残す欠点ともなっている。
 この抄本では、この引用註釈のヶ所はカットし、すっきりした体裁のものとした。

都幾川を渡り岩殿観音に至る(13頁~15頁)
 川を越えて坂あり。高坂村、これより多くの田畑を越えて右の方にいと広きはげ山あり。漸くにして比企の町に至る。小登りにして四町余り、門前の茶屋奇麗なり。石坂をのぼりて右の方にいと大きなる古碑あり。文字摩滅してよみがたし。石坂すべて二百階、本堂三間四方にていと壮麗なり。(1)堂の後は山を削りなせり。ことごとく岩なり。境内に茶屋商人など出て、吉見よりは繁華なり。後山に愛宕の社あり。登り急にしてあやふし。辛くして登り、なほ奥の方、高き所に登り見れば四方はるかに眺望していはん方なし。奥の方はなほ一段高き山なり。そこら徐にみあるきて石坂を下り、橘屋といへる酒肴うる家に入る。あるじは久しく江戸に住みし者なりと念ごろに会釈す。ほどなく膳を持ち出る。ひらには、あわび、蛸魚、長芋、孟宗竹等にて味ひよく、かかる僻地にてはいとも不思議なるほどなり。主に慈光寺の道を問ふに
「これより四里八町御座候。そのほかに当御山の内、十八町山越にて四里八町のほかなり。日も余程たけ候へばはやくあゆませたまわずば日暮るべし。これより二里八町にして人市と申す宿御座候。これに御泊りあらば心安かるべし。」といふ。
「ぜひ慈光寺に泊るにあらでは帰路の都合あしく、さらば馬を雇ひ乗るべし。」といへば「さも侍らば安かるべし。」と、あるじそこら走りめぐりて、馬三疋やとひ来れり。
 かくして、馬に打ちのり観音山にそふて左りの方より後に至り山に登る。はじめ奥の方に見えし山にのぼり行き、山より山をつたふ。もっともながめよろし。(2)山をくだれば奥田村、次に須江村、山上に東光寺と云ふ寺見ゆ。竹本村、人市村ここ六斎に市ありて、にがはしかりしが、近歳は坂戸の市繁華して、ここの市廃れ今はさびしき村なり。……

(1)巡礼詠歌-もふでくるうき世の人をもらさじと誓の綱をひきの岩殿
(2)比企岩殿の境内東西四百十三町、南北十八町ほどありて、そのうち九十九谷あり。めぐり皆山にて中に原あり。十八ヶ村の草刈場にて一ヶ年少々の銭を納む。
※坂東三十三観音10番正法寺(岩殿観音)御詠歌
  のちの世の みちをひきみの 観世音 このよをともに 助けたまへや

武蔵国郡村誌 岩殿村 11月8日

武蔵国郡村誌 比企郡 岩殿村
 本村古事亀井庄松山領に属す

疆域
 東は本宿田木の二村と耕地及山林を接し西は神戸大橋の二村南は石坂村と原野山林を接し北は下唐子葛袋の二村と山林を接す

幅員
 東西三十丁南北十三町

管轄沿革
 天正十八年庚寅徳川氏に帰し十九年辛卯二十五石を正法寺領とす 風寛永十六年己卯旗下士横田次郎兵衛同甚左衛門の采地となる 田に高百五十石此分ケ七十五石宛横田次郎兵衛同甚右衛門知行外高廿五石正法寺領とあり 元禄十一年戊寅松平美濃守の領地となり十五年壬午代官支配に復す 宝永元年甲申村高を割き百七十一石八斗七升六合横田伝次郎九十五石五斗二升八合を中島孫兵衛の采地となし二世世襲す 延享三年丙寅新田を検し高九十石九斗二升四合は代官之れを支配す 明治元年戊辰正法寺領を除き悉く武藏知県事の管轄となり二年己巳三月品川県に入り十一月入間県に属し六年癸酉熊谷県の所轄となる

里程
 熊谷県庁より南方五里
 四隣 本宿村へ十五町 田木村へ十七町 石坂村へ三十五町 大橋村へ一里五町 神戸村へ二十四町五十間 下唐子村村へ十八町 葛袋村へ二十町
 近傍宿松山町へ一里十八町字岩海道を元標とす

地勢
 山巒西南北の三面を擁し東方は稍平坦なり運輸便利薪炭多し

地味
 色赤黒棟梁及ひ麦桑に応せり水利不便時々旱に苦しむ

税地
 田十六町九反六畝二十三歩 畑二十六町九反二畝五歩 宅地三町五歩 山林五十七町一反五畝十三歩 総計百四町四畝十六歩

飛地
 村の東方田木村の内田二反五歩 林二反六畝十四歩

字地
 岩海道 村の中央にあり東西六町三十間南北六町五十間 藤井岩海道の南に連る東西五町五十間南北四町五十五間
 藤井 岩海道の南に連る東西五町五十間南北四町五十五間
 雪見峠 藤井の西に連る東西六町十間南北十一町三十間
 稲荷穴 岩海道の東に連る東西五町二十間南北六町四十五間
 油免 稲荷穴の東に連る東西五町南北五町四十五間
 天明海 油免の南に連る東西七町二十間南北六町
 中里 天明海の東北に連る東西六町四十五間南北五町二十間
 火上場 中里の南に連る東西六町二十間南北二町三十間
 金谷 火上場の南に連る東西五町四十間南北三町

貢租
 地租 米五十九石七斗六升八合 金六十三円四十銭七厘五毛
 賦金 金一円九十一銭
 総計 米五十九石六斗六升八合 金六十五円三十一銭七厘五毛

戸数
 本籍七十三戸平民 社村社一座平社三座 寺四戸新義真言宗一宇天台宗二宇堂一宇 総計八十一戸

人口
 男百八十三口 女百八十四口 総計三百六十七口

牛馬
 牡馬十六頭

山川
 入山溝 平常流水なし源を村の西方より発し中央を東流して田木村に入る其間三十五町

森林
 林民有に属す村の西南北擁す反別五十七町一反五畝十三歩松樹多し

原野
 雪見峠 官有に属す村の西方にあり西南は石坂大橋の二村西は神戸村樹木なく唯茅草生す

湖沼
 傾城溜池 東西二十二間一尺二寸南北二十二間周回八十四間村の東方にあり
 入の台溜池 東西三十三間一尺南北三十間周回百二十六間村の東方にあり
 南新井溜池 東西三十六間南北三十一間周回百三十四間村の南方にあり
 宗門溜池 東西三十五間南北三十間周回百三十間村の中央にあり
 青木入溜池 東西二十五間南北二十三間周回八十間村の西方にあり
 入山溜池 東西五十間南北十五間周回百三十間村の西北にあり以上の池村の用水に供す

道路
 村道 村の東方本宿村界より西方大橋村界に至る長三十町巾八尺

掲示場
 村の中央にあり

神社
 熊野社 村社々地東西七間一尺二寸南北十三間面積九十四坪村の中央にあり伊弉册尊速玉男命熊野久須美命を合祀す祭日十一月一日
 比企社 平社々地東西六間南北五間面積三十坪村の南方にあり比企能員を祭る明治二年五月勧請祭日一月一日
 稲荷社 東西五間南北五間一尺二寸面積二十六坪村の東北にあり倉稲魂命を祭る祭日二月初午日
 天満社 東西七間南北十三間面積九十坪村の東南にあり菅原道真軻遇突智命を合祭る祭日二月二十五日

仏寺
 正法寺 東西五十三間南北二十二間面積千百六十八坪村の南方にあり新義真言宗醍醐無量寿院の末派なり養老元年僧逸海開基創建す建仁の頃より岩殿寺と称し明暦三年復正法寺と称す○風土記を按に岩殿観音は相模にもありて養老四年行基菩薩の開基なりと云東鑑にも岩殿観音のこと所々に出て将軍家信仰ありし由見えたりされど比企の岩殿のことは正治二年の条なとにもさらに沙汰なしはるかの後永禄十年九月上田能登守が楯籠れる当郡松山城責のとき兵火のために本堂以下坊舎に至るまでことごとく灰燼となり縁起古記録を失ひたりしを天正二年別当栄俊壇越を募りて旧観に復し同十九年二十五石の御朱印を附せらると云と載す
 正覚院 東西十一間二尺四寸南北二十間面積二百八十八坪村の中央にあり天台宗近江国園城寺の末派なり大宝元年僧行円開基創建す
 正存院 東西十六間南北十二間面積二百三坪村の中央にあり天台宗末寺正覚院に同し大宝元年僧秀長開基創建す
 観音堂 東西五十三間四尺八寸南北四十間面積二千百五十四坪正法寺の傍にあり坂東三十三所の一にして其第十番なり天平七年僧逸海創建大同元年坂上田村麻呂再建正治二年鎌倉二位尼再営天正二年僧栄俊中興すと云ふ

学校
 公立小学校 村の中央民家を仮用す生徒男二十三人女七人

役場
 事務所 村の東南戸長宅舎を仮用す

古跡
 足利基氏塁跡 本村中央にあり現今林となる○風土記に貞治八年八月基氏武州岩殿にて芳賀伊賀守高貞入道禅可と合戦ありし由此頃の塁跡なるへしと載す

物産
 繭十八石五斗 米二百三十六石六斗二升 大麦二百八石四斗八升 桑百八十駄

民業
 男女農桑採薪を専とす

       『武蔵国郡村誌』第6巻163頁~168頁(埼玉県立図書館発行、雄文閣印刷、1954年)

岩殿観音と門前集落 2/2 11月2日

東松山市文化財調査報告第14集東松山市の古建築調査報告
   岩殿観音と門前集落(東松山市教育委員会、1980年度)14頁

 第5章 門前集落(後半)
 次に岩殿門前集落の戸数と人口の消長、そして職業構成の変化を、先に挙げた原田節二氏の調査研究ノート「岩殿宿駅の研究」とその報告書「比企郡 岩殿調査」とによって見てみると次のようである。ただしその中に「望月」とあるのは、岩殿門前集落のすぐ近くにある部落で、岩殿部落とは血縁関係深く、いわば枝村であって、古くから岩殿とは一村として扱われているという。
 原田氏の調査によると、岩殿の戸数と人口は、新編武蔵風土記稿によると、その編集の中間年代を文政3(1820)年として、80戸(望月を含み、岩殿門前だけの戸数は不明)、大沢氏(東松山市市史編さん調査報告第5集)蔵の宗門人別帳によると弘化3(1840)年には30戸(望月を除いた岩殿門前だけの戸数らしい)、そして人口は男71人、女62人で合計133人である。また明治8年の戸籍によると38戸(望月を除いた岩殿門前だけの戸数で、内同居4戸となっており、望月を含めた戸数は72戸、人口は男169人、女171人で、合計340人)となっている。この数字で見る限り、岩殿部落は、門前集落だけをとってみても、あるいは望月部落を合わせても、江戸末期から明治にかけて、戸数、人口ともに停滞し、減少気味であって、門前集落の衰微を物語る。このような傾向はその後も続き、総門橋で限られたいわゆる「院内」は30余戸に保たれ、集落の輪郭と地割はほとんど変化しなかった。明治9年の地割図(正存院蔵)、明治中期の公図(東松山市役所税務課蔵)、および昭和46年の公図及び土地台帳(東松山市役所税務課蔵)を使って、その間の合筆、分筆、地目変更を調べた筆者らの調査では、その間、合、分筆はほとんど例外的にしか行われておらず、また地目変更も稀であって、明治9年に41区画あった宅地の中35区画が合、分筆なく昭和46年まで宅地利用されていることが分かった。しかし、戸数と人口、そして地割りに大きな変化がないとしても、岩殿集落の門前町としての衰微をより象徴的に示すのは集落各戸の職業構成の変化である。原田節二氏の調査研究ノートおよび報告書によると、多分江戸時代の末期だと思うが、江戸時代には宿屋17戸、小間物屋2戸、菓子屋、餅菓子屋、油屋、目薬屋、塗屋、運送屋、鍛冶屋、綿屋、粉屋、建具屋、大工が各1戸、不明もしくは農業が5戸で合計35戸であった。明治期には、それが僧1人、神官1人、他は全部農業となり、門前宿駅として盛んだった頃もまた半農半商だったとしても、ひどい零落だと原田氏は書いておられる。そして昭和29年現在では、農業29戸、半農(教員)、半農半商、警備員、公務員、団体職員、工員が各1戸、会社員が2戸、そして大工、疊工、無職が各1戸で、寺院を別にして40戸だったそうである。俸給生活者が増えたのは昭和の特徴だが、明治期はこの村も農業、とくに養蚕に大きく依存したのである。
■岩殿門前集落の戸数:弘化3年(1840)30戸、明治8年(1875)38戸、昭和29年(1954)40戸

岩殿観音と門前集落 1/2 11月1日

門前百姓村→門前町→農業集落(明治~)へ(原田節二氏)

東松山市文化財調査報告第14集東松山市の古建築調査報告
   岩殿観音と門前集落(東松山市教育委員会、1980年度)13~14頁
第5章 門前集落
 総門橋から岩殿観音正法寺の石段下までやや登り気味の参道が一直線に伸びて、いくらか門前の趣きはあるが、かつてここに宿屋が何軒もあって賑わっていた名残りはほとんどない。したがって江戸時代から明治期にかけてのこの門前集落の様子を復元するのはきわめて難しい。
 ところがさいわいなことに、まだ現在ほどには変り果てず、まだあ人々の記憶にも残っていた昭和29年に、当時川越高校に在職されたいた原田節二氏(現在川越西高校長)が、現地調査と文献、古文書調査を実施され、それをA1版1枚の手書きノート「岩殿宿駅の研究」(昭和29年)とそれをまとめたB4版横書き罫紙5枚に手書きされた報告書「比企郡 岩殿調査」として東松山市教育委員会に残されていて、すでに本報告書の第1章でも参照文献として挙げているように、筆者らはこの調査研究のもっとも難しい部分を氏の調査研究の成果によって埋めることができ、その成果の上に建築史的、集落史的な、いくばくかの調査研究を重ねることができた。そればかりでなく、この岩殿集落の歴史的変遷の大筋を理解する上で氏の見解は貴重であった。
 氏によれば「岩殿は、観音様によって発達した門前百姓村であるが」、「門前百姓村より門前町に」、明治以後「そして再び農業集落に転換した」のである。かつて総門橋の内、院内には正存院をはじめとする三院のほか三十六坊があり、総門橋の外に広がる正法寺の寺領を耕作する門前百姓がいて、寺に出入し寺の雑用をした。そして初期には川越屋を門前名主(門前百姓の頭)とする門前百姓8戸(内6戸本家、2戸分家)があったと原田節二氏は書いておられる。僧がおり、修験者が訪れ、参籠することがあっても、寺領の耕作を基礎とする門前百姓の経済生活を変えるまでには至らなかった。岩殿門前集落に、旅人に旅宿を供する木賃宿や、飲食をも供する旅籠ができたのは、やはり坂東三十三所観音霊場巡りが百姓、町人にまで普及した江戸時代のことであろうが、岩殿門前集落は、宿駅として宿屋をなした者が多いという。宿屋を主に、各種の商工業者の店ができて、門前百姓村は、土地の耕作に依存しない集落、つまり門前町に変った。新編武蔵風土記稿には、「……当所は名高き坂東札所の観音の建るを以て、参詣の人常につどひ、村民おのづからまづしからず、此辺古はかの観音領なりしにや、古文書等には古き領主の名は見えず」と富裕なさまが記されている。
 明治以後は事情一変して再び農業集落に逆戻りし、殊第二次大戦後に至ってほとんどの家は建て替り、家の位置も参道沿いから奥の方へ退ってしまったようである。かつての面影はほとんど失われた今、かつての門前町の盛況を知るよすがとなるものは集落の地割と家号とである。門前三院中の一院正存院が所蔵する明治9年の地割図の上に、原田節二氏が丹念に調査して書き留められた各戸の屋号を、苗字名前などを照合しながら書き込んだのが第14図【略】である。これらの屋号が商工業者として店を構えていたことの名残りである。また地割も、土地が道路に沿って、間口の狭い細長い敷地にほぼ等分割されており、これもまたここが商工業者の集落だったことを表わしている。家屋は、新編武蔵風土記稿の「岩殿観音図」(第13図)【略】からもうかがえるように、軒を接して街並をなしていたのではなかった。原田節二氏の調査ノート「岩殿宿駅の研究」には多分聞き込みによってと思うが、明治期の家屋の位置を調査し、図示されており、それによると大部分の家が、ちょうど筆者らが調査した丁字屋や、宇津木氏宅のように、(第14図)大体参道に沿って建ち、平入で参道に戸口を開いている。

新編武蔵風土記稿 岩殿村 10月31日

新編武蔵風土記稿 比企郡之六 岩殿村 附持添新田(東松山市大字岩殿)

岩殿村ハ江戸へノ行程十四里亀井庄松山領ニ属ス。民家八十軒、村の四隣、東ハ元宿村ニ境ヒ、西ハ奥田村ニ接シ、南ハ田木村、北ハ葛袋村ナリ。東西ノ径【ワタ】リ一里南北十六七町、総テ山丘ノ地ニシテ天水ヲ仰グ所ナレバヤヽモスレバ旱損ス。サレド当所ハ名高キ坂東札所ノ観音ノ建テルヲ以テ、参詣ノ人常ニツドヒ村民ヲノヅカラマヅシカラズ。此辺古ハカノ観音領ナリシニヤ、古文書等ニモ古キ領主ノ名ハ見エズ。寛永十六年横田次郎兵衛・同甚右衛門二人ニ賜ヒ、元禄十一年川越領主ノ領地トナリ、同十五年御料所トナリシヲ宝永ニ至リ又私領ニ復サレテ、横田伝次郎・中島孫兵衛二人ニ賜リ今モ子孫横田源太郎・中島政次郎知行シ、其余【ホカ】村内正法寺の領入会ヘリ。検地ハ寛永十六年横田家ニテ糺シ、元禄十一年川越領主ヨリ改メ、其後持添新開ノ地ハ延享三年四月御代官佐久間伊十郎・市川庄左衛門撿シテ本村ノ高結ト成リシト云ふ。此新田ハ御料所ナリ。
 高札場二ヶ所 一ハ観音ノ前 一ハ望月ニアリ。
  小名 望月
 物見山 入西十七ヶ村入会秣場ノ内ニテ雪見峠トモイヘリ。コレ古昔田村麻呂将軍悪竜退治ノ時、雪中此山ニ上リテ四方ヲ望ミシユヘ、物見山又ハ雪見峠ノ名ヲ得シト。爾後ノ観音堂ノ条ニモ載セタリ。
 旗塚 観音堂ノ東西一丁余ニアリ、小高キ塚ニテ数十基並ビテアリ。戦争ノ時旗ヲ立タル塚ナレバ呼名トナセリト云フ、イト覚ツカナキ説ナリ。
 判官塚 比企判官能員ガ追福ノ為ニ築キシモノト云ヒ伝フ。サレド由来詳ナラズ。
 入定塚 由来ヲシラズ。
 塁蹟 鎌倉基氏ノ陣畳ト云フ。按ニ『桜雲記』に貞治八年八月基氏武州岩殿山ニテ芳賀伊賀守高貞入道禅可ト合戦アリシ由ヲ載ス。此頃ノ畳蹟ナルベシ、又『梁田家譜』ニ公方基氏比企郡之内岩戸山一戦ニ利ヲ失ハレシ時、梁田右京亮経助粉骨ヲ抽デ翌日大利ヲ得タル功ニヨリテ下武藏小沢郷拝領ト見エタリ。此岩戸山ト書キシハ岩殿山ノ訛ナラン。
……

    新編武蔵風土記稿第16巻(新編武蔵風土記稿刊行会発行・修道社発売、1957年)

農業分野の気候変動適応策 10月29日

ぎょうせい発行の月刊誌『ガバナンス』2015年10月号は、気候変動に「適応」した地域づくりを特集しています。

  石郷岡康史「農業分野の適応策」(32~34頁)の水稲の部分に注目して読んでみました。

・気候変動の影響を強く受ける農業分野

・品質低下が深刻な水稲
 ……品質の指標である一等米比率は、特に西日本において低下が著しいが、米粒が白く濁る“白未熟粒”の発生による等級落ちが主な原因の一つである。白未熟粒は、稲の出穂後の登熟期前半に高温・低日照の気象条件で発生しやすくなることが知られており、近年の夏季の高温傾向により発生が頻繁になっているといえる。夏季の平均気温が観測史上最高となった10年には、北海道を除く殆どの地域で一等米比率が低下するなど、各地で深刻な品質低下が見られた。特に、新潟県や群馬県、埼玉県等では一等米比率が最近30年間で最低レベルとなった。さらに、群馬県と埼玉県においては規格外米が多く発生し、作況指数の大幅な低下がみられた。
 予測されたいるように今後さらに温度上昇が継続すれば、収量への影響も懸念される。高温による水稲収量への影響に関しては、高温で発育が早まることで全発育期間が短縮し光合成によるバイオマス蓄積量が減少すること、開花期に極端な高温に曝されると受精障害による不稔が増加することの二つが減収の大きな要因とされている。……

・地域の特性等を踏まえた適応策
……高温影響軽減のための適応技術としては、作物が高温に曝されることを回避する技術(高温回避型)と、作物の高温に対する耐性を高める技術の2種類に大別される。前者には、高温に対する感受性の高い発育ステージが高温になりやすい時期に当たらないように栽培時期を調整する、あるいは作物体の温度を下げるような処置を施すといったことがあり、後者には、適切な土壌・肥培管理による高温耐性の増強や、高温耐性品種の育成と導入、さらには作目の転換(栽培作物の種類を替える)などがある。
 水稲の白未熟粒は出穂後の登熟期前半の高温が主要な原因と考えられているため、現行の栽培スケジュールにおいては登熟期が高温期に当たりやすい地域では、田植えの時期を移動する、早晩性の異なる品種を導入する、あるいは直播により発育を遅らせることで、登熟期を高温期から回避させる方法が有効と考えられている。……
 西日本の暖地では、早期栽培による高温回避の方法も有効な適応策と考えられている。……
 移植後の高温影響回避策としては、土壌や水管理を徹底することで稲体の活力を維持し、高温耐性を高めることが重要である。また高温期に十分な灌漑水が得られる地域では、掛け流し潅漑による直接稲体温度を下げることで、品質低下を抑制することも可能である。
 白未熟粒の発生は、高温のみではなく登熟期の低窒素状態も原因の一つである。特に近年では食味重視のため施肥量が削減されてきており、生育期後半の窒素不足に高温ストレスが加わり、白未熟粒が発生しやすくなっている可能性が高い。……

・注目される高温耐性品種への転換
 高温環境における栽培においても品質低下等の影響を受けない高温耐性品種への転換は、現在モットも注目されている適応技術といえる。……九州沖縄農研で育成された「にこまる」、山形県の「つや姫」、富山県の「てんたかく」、福岡県の「元気つくし」、熊本県の「くまさんの力」、千葉県の「ふさおとめ」などがあり、……

・実効性のある適応策導入のために
 温暖化は我が国の農業に対して深刻な影響を与えうることが明らかになってきているが、一方で冷害の減少や栽培可能期間の拡大、新たな暖地作物導入の可能性が広がる等、プラスの影響も期待できる。……
……温暖化が無条件でメリットとなるわけではない点にも注意が必要である。
……水稲の作期移動の場合、比較的低コストで実施できる適応策といえるが、水利慣行や労働力確保の観点から、大幅な移植期移動が困難な場合もあるなど、効果や重要性が高い適応策でも容易に導入できない可能性も存在する。
 適応策導入にかかわる制約要因は地域特有の社会的特性により異なるため、適応策社会実装には自治体が主体となることが重要……

※森田敏「温暖化に対応したイネの栽培技術改変」(日本学術会議・農学委員会・農学分科会、農業生産環境工学分科会『気候変動に対応した作物栽培技術の現状と展望』2014年8月7日掲載)
高温登熟障害の対策技術を高温への対峙のしかたによって分類すると、まず、高温回避型と高温耐性型に分類できる。また、別の視点として、作付け時からあらかじめセットしておく予防型技術と、栽培の途中で高温が発生してからあるいは高温が予測されてから施す治療型技術に分類できる。例えば、すでに多くの県で進められている遅植えは、作付け時の選択であるため予防型であり、また登熟気温の低下を狙った高温回避型であるが、同時にイネの形態・生理の変化を通した高温耐性型である可能性もある。品種も予防型であり、近年育成された耐性品種の品質向上効果が実証され、普及が進んでいる。治療型かつ高温耐性型の技術は、インフルエンザに例えると発症後に処方される抗ウィルス薬に相当し、高温障害においてもこのような処方箋があれば、生産者にとって大きな安心につながると思われる。現状では、生育後半の窒素施肥が治療型かつ高温耐性型の有望技術の一つと考えられ、九州沖縄農業研究センターでは気象庁による確率予報情報と葉色測定などの生育診断とを組み合わせて窒素追肥の判断を行う「気象対応型栽培法」の確立に向けて試験を重ねている。将来的には、インターネットを活用した情報発信に結びつけたいと考えている。
森田敏「イネの高温登熟障害の克服に向けて」(『日本作物学会紀事』77(1)  1~12頁、2008年)

埼玉県は環境科学国際センターが専門的な知見を整理する役割を担って、早くから気候変動の適応策の情報整理や計画策定を行ってきた先進県だそうです。
荒川 誠・石井博和・大岡直人「2010年の埼玉県における水稲白未熟粒多発の要因」(『埼玉農総研研報』(11) 27~31頁、2011年)
埼玉県の水稲は35、800ha作付けされ、早生種を用い、9月上旬までに収穫する早期栽培、5月末までに移植を行う早植栽培、6月以降に移植を行う普通栽培に分類される。それぞれの作型別割合は、早期栽培30%、早植栽培45%、普通栽培25%(2006~2010年の平均、埼玉県農業支援課調べ)である。
このことは、天候による作柄変動に対するリスク回避に有効であり、1993年の冷害では全国平均作況指数74に対して、埼玉県は93で全国9位と被害が少なかった。しかし、2010年の夏期の異常高温では、作況指数は県西部85、県東部87、県計86、全国46位、水稲うるちの一等米比率は24.4%と極めて低い水準となり、作期分散で被害を回避することはできなかった。
特に出穂時期が遅いために、高温耐性をあまり必要としなかった晩生、中晩生の水稲うるち品種「彩のかがやき」、「彩のみのり」では、一等米比率が1%未満となり、2等以下への格付け理由の多くは白未熟粒であった。……
埼玉県環境科学国際センター「緊急レポート・地球温暖化の埼玉県への影響 概要版」(2008)

埼玉県「ストップ温暖化・埼玉ナビゲーション2050(改訂版)埼玉県地球温暖化対策実行計画」(2014)

白井信雄「気候変動の地元学」により、気候変動を自分事化しよう」
 (ブログ『サステナブル・スタイル ~白井信雄のブログ 地域の足もとから、持続可能な社会を目指して』2015年6月13日記事)


育苗箱施用農薬の水生生物への影響

家の光協会発行の『地上』に連載されているコラム、松永和紀「食と農を科学する EBRのススメ!」の12回「育苗箱施用の農薬は悪いのか? 国立環境研究所が調査」が2015年10月号(80頁)に掲載されています。EBR:Evidence Based Agriculture(科学的根拠に基づいた農業)
 農薬の安全性は、食べる人、使う人への影響を極力小さくすることに加え、「ターゲットの病害虫以外の生き物への影響」を検討しなければなりません。自然界には数えきれないほどの生物種がいて、すべての事前チェックは不可能。でも、農薬を使わなければ、食料の安定生産は難しい。そのジレンマのなかで、農薬開発は行われています。
 稲作での殺虫剤の使用は作業が楽で効き目が長く続く育苗箱施用が一般的。作物の根や葉から成分が吸収されて作物の体内に移行し、葉を食べた虫が死ぬ(浸透移行性)。
国立環境研究所の実験用のミニ水田で、ネオニコチノイド系のイミダクロプリド(製品名:アドマイヤー)とフェニルピラゾール系のフィプロニル(製品名:プリンス)を用いて、殺虫剤を使用した群としていない群を比較する試験を3年間行った結果、二つの殺虫剤共に複数年にわたって使用すると水生昆虫への影響が大きくなり昆虫が減っていくことがわかってきた(特にフィプロニル)。動物プランクトンやイトミミズ類などの底生生物の数は一時的に影響を受けてもまた戻った。メダカへの影響は死亡率には変化はないものの、体が小さくなった(殺虫剤の影響か餌のプランクトンの一時的減少のためなのか、詳細はまだ不明)。
 農薬は、水生生物にたいしても問題がないことが試験で確認したうえで登録されていて、販売や使用が始まります。しかし、その方法はOECD(経済協力開発機構)が決めた国際的なルールに基づくもの。藻類、ミジンコ、魚類の三種をそれぞれ容器で飼い、水に農薬を溶かし込んで影響をみます。イミダクロプリドもフィプロニルも、この試験はパスしています。しかし、実際の水田の影響はとても複雑。環境研究所の研究者により、OECDの方法では不十分であることがわかってきたのです。
 二つの殺虫剤を禁止した時に使われる殺虫剤(たとえば有機リン系農薬)がよりよいものなのか、環境研究所は研究を継続。実際の田んぼでの調査もすすめている。
……どの農薬をどのように使うのが、多くの生物と共存しながら食料生産を維持できる方法なのか。科学者の模索はずっと続いているのです。
※2015年7月15日、国立環境研究所で公開シンポジウム『ネオニコチノイド系農薬と生物多様性〜 何がどこまで分かっているか? 今後の課題は何か?』が開催され、OECDルールの問題点が議論された。

群馬県の県木がクロマツになった理由

海岸にはクロマツが多く生え、内陸にはアカマツが多く生えている。海なし県の群馬県の県の木がクロマツなのはなぜだろう。前橋市(旧富士見村)に、1951年4月4日の第2回全国植樹祭のお手植えのクロマツがある。
DSCN9877DSCN9878

全国植樹祭の植栽樹にクロマツが選ばれた理由は、上毛カルタの「ろ」の札の船津伝次平(ふなつでんじべい、1832-1898)が赤城山麓にクロマツを植林したことにあるようだ。
老農・船津伝次平

自治研報告書集(第29回地方自治研究全国集会 「徳島市」2002年10月29日~31日)に「赤城山に造林されたマツについて(中間報告)」がある。
   4.船津伝次平のマツの植林について
(1)船津伝次平について
船津伝次平は、1832年に生まれ、1858年(27歳)で、名主となり、植林を行う、また、農業関係で数々の功績を残し、1898年(明治31年)に永眠した。

(2) 船津伝次平が植林した当時の森林の状態について
富士見村教育委員会「郷土の偉人船津伝次平」では、「当時、赤城の山頂から、南のふもと一帯は前橋藩、大胡藩などの138ヵ所村の入会地(共有地)のはぐさ場(草刈り場)でした。夏になると、ふもとの村の人たちは、馬を引いて、馬の飼料にする草刈りにいきました。それが堆肥の原料になりました。秋になると屋根ふき用の萱刈りをしたり、冬には草を焼いて肥料用の灰を集めました。また、来年よい草が茂るようにと、わざわざ野火をつける者もあり、毎日のように山火事があったので……略……このように山全体が草山でしたので、大雨が降りつづくと、白川などがあふれて大洪水となり、ひでりががつづくと、川の水が減って、田植えの出来ないような年がありました。」と、当時の状況を説明している。

(3)牧野和春著「森林を蘇らせた日本人」による赤城の植林の抜粋
船津伝次平は、1858年原之郷の名主に選ばれた。……(略)……伝次平は、水不足からの争いの愚かさを感じ、周囲の名主に呼びかけ、赤城山麓の植林の必要性を説いたのである。すなわち、白川の水源を確保するためには、広大な原野に植林し、涵養林としての機能を果たさせるしかないとの判断からである。彼は、各名主を説得し、前橋藩に届け出て許しを受け植林に着手した。……(略)……
松苗については、「造林功労者事績」によれば「伝次平の意見としては郷土付近の自然生苗を疎植せむとせしに、藩は東京西ヶ原より養成苗を運び来り密植し繁茂につれこれきる方法を用ひしめ着手より3年の日子を要して之を完成せり」と記述している。なお、東京とあるは、当時、まだ江戸のはずである。これに対し、「船津伝次平」(昭和58年、富士見村教育委員会刊)という小冊子によれば「苗木は特別に仕立てたものでなく、並木のそばの雑木林や、松の木の下に自然に生えたものを根に土をつけたまま堀とって運んだのですから、各村から労役に出た者の苦労は大変なものでした」とあり、食い違いが見られる。
植え方は、一反歩(約1,000平方メートル)あたり75本、苗木と苗木のあいだを十分にとった植え方が採用された。これは、従来どおり、まぐさ用の下草を刈り取りための余地を残したのである。
その結果、3年間かけて完成。芳賀、富士見、北橘、横野の村にまたがる400町歩(約400ヘクタール)の広大な植林が誕生し、白川の水源涵養林としての機能を果たすことになった。

(4)なぜクロマツを植林したのか?
1858年以後、数年で植栽されたマツは、現在、100年生以上になっているはずである。赤城白川を下流から上流に向け、クロマツを求めて歩いてみると、龍蔵寺町近くで約100年生のクロマツの伐根を1本発見できた。同様な太さの松が、周辺にあった。クロマツは、海岸に多いマツで内陸には少ない樹種である。なぜ、船津伝次平は、クロマツを植えたのであろうか?
既に記したように、牧野和春著「森林を蘇らせた日本人」では、
 ①植栽したクロマツは、江戸からクロマツの苗木を運んで植栽
 ②赤城参道には、クロマツの並木があったことから、その実生苗を堀取り植栽
の2説の記録が紹介されている。
植栽本数は、75本/1,000平方メートルなので、400haでは、75万本必要となり、3年間で植栽したので、1年間では、25万本の苗木が必要となる。25万本を、江戸から運ぶのも、実生で掘り取り、植栽するのも容易なことではない。また、マツは、早春に植栽しないと、活着が悪い樹種なので、3月から5月の2ヵ月間程度で植栽したものと推察できる。クロマツの苗木は、江戸から持って来たのか? 並木近くから掘り取ったのか? 本年度は、結論が出なかった。
県内でクロマツを捜すと、敷島公園や前橋城跡にクロマツの大木があることから、何かアカマツではなくクロマツを選択する意味が存在したはずである。この問題は、今後の検討課題とする。……
富士見かるたの「め」の札は「明治の老農船津翁」。船津伝次平は上野国勢多(せた)郡原之郷(はらのごう)村(→富士見村)出身である。
明治の老農・船津翁

※群馬県以外でマツを県木に指定している県: 岩手県(ナンブアカマツ)、福井県(マツ)、島根県(クロマツ)、岡山県(アカマツ)、山口県(アカマツ)、愛媛県( マツ)、沖縄県(リュウキュウマツ) 。

誘蛾灯によるニカメイガの誘殺 9月17日

  誘蛾灯によるニカメイガ成虫の誘殺 宮下和喜『ニカメイガの生態』(1982年7月)より
 誘蛾灯による成虫の誘殺も、古くより有力な防除手段になると考えられてきた。1877年(明治10)、青森県で起った大発生の時には、篤農家楠美勇助という人が、ボンボリによる成虫の誘殺を考えている。その後、明治年代の中頃からはカンテラ灯が用いられるようになり、熊本県では、1894年(明治27)頃からサンカメイガの防除のため、数ヶ村にわたって多数のカンテラ灯による誘殺が実施されている。また、これによる発生消長の調査も1887年(明治10)頃より始められている。
 誘蛾灯は、光源がカンテラであろうと電灯であろうと、実際に多数の成虫を殺すのが目に見えるので、防除効果も高いに違いないと信じられやすかった。そのため、農林省もこれによる防除を奨励し、使用数は大正年代から昭和年代のはじめ、さらには第二次世界大戦終了直後まで増えつづけた。大正年代から昭和年代のはじめにかけては、主として誘蛾灯の構造や光源の改良が研究の対象となり、ついて光源の種類や点灯時間、あるいは面積当りの点灯数などについての様ざまな検討が行なわれた。第二次世界大戦がたけなわであった1942年(昭和17)での全国における誘蛾灯の設置数は、電灯約6万、アセチレン灯3万、石油カンテラ25万にも達し、対象面積は32万ヘクタール余にもなったが、大戦の戦局悪化につれてアメリカ空軍の本土爆撃に対する防空上の必要から、全面的に中止されるようになった。……[109~110頁]
……この頃[大正年代]から誘蛾灯の光源を従来の石油ランプから電燈に切り代える場合の必要性から、光源の光の性質や照度と走光性との関係が実験的に大変くわしく調べられはじめた。……そしてそれらの結果は、鏑木らによって取りまとめられ、1939年に発表された[鏑木外岐雄ら 螟虫に関する研究(第3報) 二化螟虫の生態特に趨光性及び趨化性に就いて 農事改良資料第140号]。……誘蛾灯としての光源は、燭光数が大きくしかも近紫外部分の光線を多く発するものが望ましいということになる。
 そのため、この方向にそった光源の開発が行なわれ、水銀灯。青色蛍光灯、ブラックライトなどが次つぎと現われた。とくに青色誘蛾灯は、従来の60W白熱電灯の3.5培も多くメスを誘殺できたことから、第二次世界大戦終了直後の食糧難時代における害虫防除の花形兵器として、1947年(昭和22)には全国で約2万5000灯、1948年(昭和23)には、6万8000灯、1949年(昭和24)にはじつに14万灯もの多くが点灯された[石倉秀次・小野小三郎、1959年、イモチとメイチュウ、富民社]。石倉は、各種の誘殺成績を検討し、青色蛍光灯の有効半径は127~145メートル、つまり有効面積は約5ヘクタールにも及び、夏世代幼虫による被害を約40%程度も減少させうると推定した。ところが、この当時わが国はまだ連合軍による占領下にあったため、連合軍総司令部の農業部は、誘蛾灯の大量点灯が害虫と一緒に多種類の天敵をはじめとする益虫を多く殺すという理由もあって、効果に批判的見解を表明し、農林省に奨励を止めさせてしまった。そのため、点灯数は1949年(昭和24)を境にして急激に減ってしまった。[60~61頁]
蛍光誘蛾灯をつけませう
   イネのニカメイチュウ
        蛍光誘蛾灯をつけましょう
ニカメイチュウは、毎年どこにでも出ていますが、昨年はこのため全国で200万石以上の減収がありました。この害虫の駆除には、本田の採卵と葉鞘変色茎(さやがれ)の切り取りをていねいに行えば、非常に効き目があります。  また、最近発明された蛍光誘蛾灯(5町歩に1灯)は、驚くほど効き目があります。この設備をぜひ共同で早く行いましょう。
[1953年(昭和28)、岩手県の岩谷堂普及所(現・奥州農業改良普及センター)が、農業技術(主に病害虫防除)指導のために作成・使用した手書きの巻物風資料](岩手県農業研究センター第48回・企画展「農業改良普及事業創成期の技術資料」)

『トンボ入門』 9月13日

新井裕さんの『トンボ入門』(どうぶつ社、2004年7月、141頁、1,600円)を読みました。トンボ観察の基本書です。新井さんは寄居町にあるNPO法人むさしの里山研究会の代表で、昨年の10月4日の田んぼの学校では、田んぼでトンボの勉強会の講師をしていただきました。今年は、児沢、岩殿の田んぼでアキアカネが孵化・羽化しているのか等を調べる「児沢・生きもの豊かな田んぼづくりプロジェクト」でお世話になっています。
 新井裕『トンボ入門』目次
 ステップ1 トンボに出会う
 ステップ2 トンボのからだ
 ステップ3 自分流の写真術
 ステップ4 トンボ採りと標本作り
 ステップ5 ヤゴを飼う
 ステップ6 トンボの一生
 ステップ7 彼らの暮らし
 ステップ8 新発見に挑戦しよう
 ステップ9 トンボを呼ぶ
 ステップ10 トンボの雑学
 ステップ11 トンボを見分ける
 ステップ12 ヤゴ(抜け殻)を見分ける
 ステップ13 次へのステップ
トンボを見分ける
・調べたいトンボと巻頭の全32頁のカラーページの識別ポイントとをよく見くらべて、「絵合わせ式」で見分ける。(117頁)
・調べる順序 ①まず、調べたいトンボが均翅亜目(きんしあもく)なのか、不均翅亜目なのかを確認する。②カラーページをめくって、よく似たトンボを見つける。③識別ポイントをチェックしたり解説文を読み、記述に該当するかどうかを確認し、種類を判断する。④もし、記述が該当しなければ、よりくわしい図鑑で調べる。(118頁)
・いっぺんにはわからなくても、見慣れてくると識別眼が養われてくるが、一人で調べるよりも、トンボにくわしい人に手ほどきを受けること。(119頁)

ヤゴ(抜け殻)を見分ける
・125~127頁の写真をみて、おおざっぱな科の区別をする。
  均翅亜目 からだが細く、きしゃな感じ・腹部の先端に3本の尾鰓(びさい)。
       カワトンボ科・イトトンボ科。
  不均翅亜目 からだつきが、がんじょうで尾鰓がない。
       平べったいもの、筒状など、様々な体型。
       トンボ科・エゾトンボ科・ヤンマ科・オニヤンマ科・サナエトンボ科。
・よく似た種類を見分けるのは初心者には至難の業。
  抜け殻を見つけた場所・環境(止水か流水)・時期をヒントにする。
  よく見つかる15種類のヤゴの抜け殻の見分け方の写真・ポイント(125~132頁)。

『博士たちのエコライス -いのちをはぐくむ農法で米作り-』 9月9日

小池恒男さんの『博士たちのエコライス -いのちをはぐくむ農法で米作り-』を読みました。琵琶湖岸の平場の圃場での米作り8年間の奮闘記で、耕作放棄された谷津田を再生し、市民の利用に供するという「岩殿市民田んぼ事業」を推進している岩殿満喫クラブとして、「ビジネスモデル」として検討、活用していきたいと思いました。

滋賀県立大学環境ブックレット8 小池恒男『博士たちのエコライス -いのちをはぐくむ農法で米作り-』(サンライズ出版、2015年7月、83頁、800円)
農学博士たちが大学近くの田んぼを借りて、無農薬で化学肥料を使わない「理想の農法」での米作りを始め、学生たちも田植えや草刈り、収穫などに初チャレンジ!利益之出る農業をめざした8年間の奮闘の記録。

1 稲のごく「普通」の作り方
慣行作のバリエーション
私にとっての稲の慣行作
そして今日のいわゆる慣行稲作

2 「いのちをはぐくむ農法」とは何か
農法とは何か
稲作を取り囲む自然環境
私たちがめざした稲作とその農法
 -開出今教育研究圃場プロジェクトのめざしたもの-

3 ざっと見、稲作の1年
稲作の基本にある圃場の整備
 -田んぼがなければ稲作はできません-
開出今の圃場がかかえていた問題
稲作にとっての水と土
元肥施肥から収穫作業まで

4 ビジネスモデルは実現できたか
収量はどのように推移してきたか
食味なんてあてにならないか
なぜ経営成果が問われるのか

5 私たちがめざした農法とその評価
何ができて何ができない
冬季湛水はなぜ行きづまった
不耕起栽培はなぜ行きづまった
紙マルチ田植え技術

6 米作りは誰にでもできますか
「自家栽米」について考える
わが家ではどれだけお米を食べるか
「自家栽米」は可能か
「マイ田んぼ」「オーナー制度」という形もあります
 -「可能な限り自ら生産に取り組みましょう」という呼びかけについての意味-
生活空間や山々と混在してある日本の田んぼ
日本農業の比較優位から見えてくるもの

7 あとがき
冒険の記録、絶望の記録、驚きの記録、そして希望の記録
お世話になったみなさんへ

私たちがめざした稲作とその農法
 ー開出今教育研究圃場プロジェクトのめざしたもの-
●農法としての成立と経営としての成立
 開出今[かいでいま]教育研究圃場プロジェクトの基本は、2.40㏊の水田[20a区画の圃場2枚、30a区画の圃場4枚、40a区画の圃場2枚]で、無化学肥料・無農薬・、通年湛水・不耕起(収穫後の田畑を耕さずに種をまいたり苗を植えたりする。土壌浸食の防止や作業の省力化などの利点がある)等を内容とする農法での稲作栽培です。同時に、このような農法による稲作が経営的に成立するものでなければ現実的な意味は半減するわけですから、もう一つの課題としては、当然のことながら経営としての成立条件の確保が求められます。つまり、農法としての成立と経営としての成立という二つの条件についての検討が求められます。
 さらに、農法の課題に加えて付随的技術として、慣行作より作期を遅らせる(田植えの時期を、慣行作の5月初旬を6月初旬に)、疎植にする(苗箱採用量を慣行作の22箱を16箱に、1株1~2本植え、株間・畝間広幅植え)技術の採用があります。
 経営としての成立という課題にかかわって、生産されたお米の特長(セールスポイント)としてさらに主として消費者向けには、①犬上川の冷たい伏流水で育てた、②無化学肥料・無農薬で育てた、③「魚のゆりかご水田」[ニゴロブナ]で育てた、④「花咲く景観水田」[畦畔に花を植えつけ]で育てた、⑤良食味を求めて育てた、等々の点をアピールすることにしました。
 そしてビジネスモデルとしてわかりやすく、①「いのちをはぐくみ農法」で、②単收(10a当たりの収穫量)8俵(480㎏)とって、③食味80以上を獲得して(静岡製機食味計)、④1俵3万円で売る、の四つの目標をかかげることにしました。「いのちをはぐくむ農法」とは、ここでは無化学肥料・無農薬と通年湛水・不耕起栽培の二本柱の技術的条件と、二つの付随的技術と、五つのセールスポイントのすべてを含む概念として設定しました。……(20~21頁)

●「自家栽米」はもともと農家でない人の「わが家で食べるお米の栽培」のこと(68頁)

●年間1人当たりのお米の購入数量は25㎏(2013年、「家計調査年報」)。10a当たり480㎏(8俵)の収量だとすると、5人家族で3.5a(35m×10m)の広さの田んぼがあれば十分。(69頁)

●「自家栽米」は可能!
 この程度の耕作であれば、トラクターも、田植機も、コンバインも要りません。すべて手作業で可能です。耕起も代かきもトラクターがなくても手作業でできます。田植えも、稲刈りも手作業で可能です。乾燥は「はさ架け」でよしとして、精米も近所にあるコイン精米でできます。残るは苗と収穫後の籾摺り(籾から玄米にかえる工程)です。苗は買い求めるとして、問題は籾摺りですが、この作業は近くの大規模農家に任せるのが一番です。
 ということで、大型機械のないことが米づくりのできない理由にはなりません。また「田んぼがないから」も、「わが家で食べるお米の栽培」ができない理由にはなりません。なぜならば今日では、田んぼを貸してくれる人が周囲にたくさんおられるからです。むしろ問題は3.5aの小さな田んぼをさがすのがむずかしいということかもしれません。まわりを見渡せばほとんどの田んぼは圃場整備されていて、サイズは30a(30m×100m)とかなり大きいのです。……(69~70頁)
●「自家栽米」を成り立たせる七つの条件
……自家栽米に取り組むということになりますと、まず田んぼがなければなりません。加えて、作業(農業機械)、先立つ資金、栽培技術、用水の確保、「集落農政」等々の壁をクリアしなければなりません。しかし、あれやこれやの工夫と柔軟な対応が求められますが、結論として言えることは、「自家栽米」はできるということです。肝心なことは、あたりまえのことですが、原点として「やりたい、やり抜く」という強い意思があることです。意思まで加えますと、「自家栽米」を成り立たせる七つの条件です。その上であえて確認をしておきたいのは、地域に維持されている本隊としての稲作があってこその「自家栽米」だという点です。「自家栽米」はあくまで「コバンザメ」栽培であって、本隊の稲作あっての「自家栽米」です。(71頁)

『減るバッタ 増えるバッタ』 9月8日

台風18号の影響で昨晩から雨が降っているので、外の作業をよして内田正吉さんの『減るバッタ 増えるバッタ -環境の変化とバッタ相の変遷-』を読みました。9月3日、新宿小学校3年生の市野川応援隊を支援した時、吉見の百穴前の市野川の河原にバッタがたくさんいるのに気づき、どんな種類がいるのか確かめてみたくなりました。内田さんの本を先に読んでしまいましたが、河原でバッタを採集してみます。

内田正吉『減るバッタ 増えるバッタ -環境の変化とバッタ相の変遷-』((資)エッチエスケー、2005年12月、141頁、1,200円)

はじめに

第1章 バッタが減っている
 減った半自然草原のバッタ
  クルマバッタの減少が意味すること/高度経済成長とバッタの減少/クルマバッタの生息環境/再進出のきざし

 山地草原のバッタとなったイナゴモドキ
  寒冷地のバッタ/標本による分布調査/東京産のイナゴモドキ/同じ場所にすんでいたバッタたち/半自然草原としてのススキ草原/牧による草原の維持/草葺屋根の材料/土地利用の変化とススキ草原の減少/姿を消していった草原性の昆虫たち

 二種のイナゴの栄枯盛衰 -ハネナガイナゴはなぜ減ったのか?-
  水田のバッタ/コバネイナゴの生息地/水田以外の生息地/乾燥した草原にも生息/ハネナガイナゴの過去の記録/ハネナガイナゴの生息環境/分布記録の杜絶と殺虫剤散布/追い打ちをかけた乾田化/人と昆虫との関わりの変容/均質化された水田/湿性草原に生息するツマグロイナゴ/重ならない分布域

第2章 増えているバッタ
 マダラバッタは開発とともに?
  分布域の広いバッタ/戦前は東京では稀/海岸付近での採集例/埋め立て地からの記録/泥質の潟が本来の生息地か/東京湾の埋め立て地/内陸部への進出/急増する記録/2タイプの生息環境/埋め立て地との共通点/河川敷の造成と分布拡大の関係/内陸部への浸入のストーリー/クルマバッタとの違いは?

第3章 すみかから見えてくるバッタの素顔
 ショウリョウバッタはなぜ「ハの字型」なのか?
  脚を開いて止まるバッタ/ショウリョウバッタモドキとの区別点/ショウリョウバッタの生息場所/意外なところに/ショウリョウバッタの餌場/複数の葉に体重分散?/ショウリョウバッタが優先する理由

 縦じまの複眼が意味するもの
  生息地が局地的なバッタ/生息地の特徴/バッタの多様性が高い環境/高低二つの群落を使い分ける/複眼が縦じま模様である意味/セグロバッタの生息環境/局限される理由

 カワラバッタと河川の増水
  石ころだらけの河原に生息するバッタ/意外に長い発生期間/生息地の特異性/台風前夜の観察/カワラバッタの生息地予測/カワラバッタが減ったわけ/砂利採取の影響/荒川での砂利採取の歴史/大規模ダムの影響/カワラバッタの食性/トンボの翅を食べる/気になる荒川のカワラバッタの今後

第4章 河原とバッタ
 荒川に沿って
  荒川の昆虫調査/バッタ調査のメリット/調査方法/各調査地の概要/荒川本流を5区に分ける/バッタにも適合する区分け/独自性の高いA流区/丘陵地のバッタが多く見られるB流区/乾燥草原を好む種が多いC流区/広分布型のバッタが多いD・E流区/多様な環境をもつ中流域

 利根川のバッタ
  利根川のバッタ調査/河川敷の環境の相違/荒川との類似性/単調か環境の下流域/荒川との相違点

第5章 バッタから見える地域の環境

おわりに

参考文献

高度経済成長、都市化・開発の中でバッタの生息環境の変化、河原や草原の減少、その中での新たな生息地の拡大など、丹念な文献調査と標本調査から明らかにされており、一気に読了しました

宮下和喜『ニカメイガの生態』 9月1日

宮下和喜『ニカメイガの生態』(1982年7月) 自費出版、136頁
まえがき
第Ⅰ章 ニカメイガは何処からきたか?
第Ⅱ章 研究のエポック
第Ⅲ章 生態に関する研究の進展
 1.発育と繁殖
  1卵の発育、2幼虫の発育と令、3蛹の発育、4成虫と繁殖、5成虫の発育
 2.幼虫と成虫の習性
  1幼虫の習性、2成虫の羽化と交尾、3産卵習性、4走光性
 3.発生の経過とイネの栽培条件
  1発生の経過とイネの栽培条件、2越冬と休眠、3発生数の変動
第Ⅳ章 イネの被害と防除のうつり変り
 1.イネの被害の特徴
 2.防除のうつり変り
第Ⅴ章 なぜ最近になって勢力が衰えたか?
あとがき

日本応用動物昆虫学会誌 26(2)(1982年)に掲載されている釜野静也さんの新刊紹介によれば、「1章は、食草としてのマコモやイネの分布とニカメイガの分布・拡大との関係を考察している。2章は、明治以後のニカメイガ研究の概要を解説している。3章は、発生・繁殖・習性・発生経過などニカメイガの生態をイネの栽培との関連で取扱い、本書の中心の章である。4章は、ニカメイガ幼虫の加害によるイネの複雑な被害の現れ方およびその防除の歴史が述べられている。5章は、最近ニカメイガが著しく減少しているが、その原因をいろいろの角度から考察している。」

ニカメイガの発育経過 昆虫が1年間に何世代を繰り返すかを化性といいますが、ニカメイガ(二化螟蛾)は、北海道・東北のような寒冷地では年1回、ほかの地域では初夏と晩夏の年2回、沖縄では年4回発生するので、「ニカメイガあるいはニカメイチュウという名は科学的にみて正しいとはいえない」(日本大百科全書ニッポニカ)と書かれていたりします。

「 幼虫は、イネの藁や株内で越冬し、5月ごろに蛹(さなぎ)となり、第1回目の成虫が6月ごろに現れる。夜行性でよく灯火に飛来する。ガは、苗代や田植の終 わった水田のイネに産卵する。一匹の雌は約300粒の卵をイネの葉先に産み付ける。約1週間で幼虫が孵化(ふか)し、若いイネの葉鞘(ようしょう)に孔 (あな)をあけて中に食入する。そして葉鞘や茎の内壁を食べ、5回ほど脱皮し約40日で蛹となる。蛹期間は1週間余りで、8月下旬から9月上旬に第2回目 のガが現れ、ふたたびイネに産卵する。第2回目の幼虫も茎に食入して内壁を食い荒らす。株分けが終わり、穂の出る茎に被害を与えるので、米の収量に直接影 響を及ぼす。イネの刈り取りのころには、幼虫が成熟し、刈り取られた稲藁や切り株の中で越冬する。」(日本大百科全書ニッポニカ)

ニカメイガの世代の呼び方 日本応用動物昆虫学会では、第1世代(1化期 蛹-成虫-卵ー幼虫)、第2世代(2化期 蛹-成虫-卵-幼虫ー老熟幼虫で越冬)。宮下さんは「春世代」、「夏世代」と表現(5~6頁)。

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