桜井善雄さんの『水辺の環境学④ 新しい段階へ』 (2002年)の「第1章新しい視点を」の「川の環境民主主義(33~37頁)からです。

 ついひと昔前まで、ごく身近な不都合でもない限り、人びとは川の改修や管理について、積極的な意見をもつことも言うこともなく、すべて管理者すなわち御上まかせであった。しかし近年になって国海外の環境問題の激化を反映して、わが国でも、川の自然環境を守ろうという意識が急速に高まり、そのような時代の背景の中で、河川管理に住民の意見を反映させるという条項が、新しい河川法[1997年改正]に盛り込まれた。
 前の節[「脱ダム宣言」]で環境民主主義という言葉を使ったが、最近の関連した出来事[2000年吉野川第十堰の可動堰化の是非を問うた住民投票]をめぐって、このことをもう一度考えてみたいと思う。(33頁)

 したがって、この種の事業の可否に関する民主的な判断には、河川管理者と住民が、洪水による災害の可能性とその防御に関する情報と理論を共有し、その対応策をさまざまな選択肢の中から選ぶ過程が、どうしても必要である。このような過程は、新しい河川管理計画の検討に意識的に取り入れられるべきものであり、本来それは、河川管理者と住民の間に置かれた白紙から出発し検討されるものであるから、そこに討論はあっても、根本的な対立は原則としてありえないはずである。
 とはいえ、どんな水系でも、環境保全との折り合いを模索しながら総合的な治水・利水計画を立てるには、かなりの専門的な知識と基礎データが必要である。ここでは、住民がそれをすべて理解しなければならないと言っているのではない。河川管理者には、このことについて十分かみ砕いて説明する責任があるし、住民もまた客観的な立場にある専門家の協力をえて、積極的に理解につとめ、それにもとづいて地域の河川管理計画の策定に参加し、発言してゆくのでなければならない。説明が不十分な一方的な押しつけや思い込みの強い狭量な発言は、このような双方の努力を撹乱し妨げこそすれ、貢献するところは極めて少ない。最初から白か黒かの立場にこだわった議論ではなく、そこには民主的な討論を通じて合理的な折り合い点を見つけ出す、大乗的な議論がなければならない。
 民主主義は、国民すべての主権の保証と、社会の意思決定への平等な参加が保障される社会のあり方であり、当然一方では義務の自覚が求められる。環境民主主義もその埒外(らちがい)にはない。(34~36頁、強調は引用者)

 さらにもう一歩踏み込んで考えなければならない大切な問題がある。それは、河川管理という目的が明白な事業に対して、なぜ、場合によっては、見当違いな批判や反対が生まれるのか、ということである。
 わが国の公共事業や国際協力事業には、嘆(なげ)かわしいことに、いまだに手を変え品を変えた政治家と業界の癒着と汚職が跡を絶たない。そのことが、公共事業全般について、心ある国民に不信を抱かせる原因になっており、その不信が必要な河川事業に対しても人びとを反対運動に駆り立て、共通の課題であるべきはずの事業そのものについての、もっとも本質的な対話と議論を妨げているのではないだろうか。目の前の現象に惑わされずに物事の本質を見抜く、より広くより深い思考が、今私たちに求められているように思う。(37頁、強調は引用者)