4月30日、NHKGのブラタモリは「京都・嵐山~嵐山はナゼ美しい!?~」でした。おとなり嵐山町の武蔵嵐山(むさしあらしやま)、嵐山渓谷と重ねながら番組を視聴しました。武蔵嵐山は1928年に菅谷村のこの地を訪れた本多静六林学博士が京都の嵐山に似ているというので「武藏嵐山」と名付け、現在の町名「嵐山町」の由来となっています。嵐山町の都幾川沿いの桜は、都幾川・槻川、外秩父産地の大平山、塩山などを借景としていて美しく感じます。現在の武蔵嵐山を京都の嵐山に重ねると、槻川橋【千手堂橋】(渡月橋)、嵐山BBQ【嵐山渓谷バーベキュー場】(中ノ島)、槻川(桂川【大堰川(おおいがわ))、嵐山渓谷(保津峡)となるでしょうか。(武蔵嵐山にかかわる記事・写真は『GO! GO! 嵐山3』のカテゴリ-「武蔵嵐山」に80数点あります。)
番組は渡月橋からスタート。最初の案内人・京都大学准教授(造園学)の深町加津枝さん。「人が目でみて風景を美しいと感じる範囲は上下左右30度の範囲と限られている。その範囲の中に嵐山は美の要素が収まっている」。亀山地区の嵐山公園の展望台に移動して渓谷美をのぞむ。平安時代に京のみやこに暮らしたひとびとが大自然の美を感じられた場所。
一行は天龍寺の庭・曹源池(そうげんち)庭園へ移動。2人目の案内人は京都高低差崖会崖長の梅林秀行さん。天龍寺を作った夢窓疎石がつくった庭で「借景」が特徴(前景:池、中景:斜面、後景:山)。借景は断層崖。夢窓疎石は1346年、「天龍寺十境(じっきょう)」を選定。
大堰川に移動。平地と斜面が出会う「縁(へり)」を感じることができ、急な斜面で1本1本の木がよく見える。嵐山国有林(59㏊保)でサクラを植林。3人目の案内人は京都教育大学名誉教授(地質学)の井本伸廣さん。保津峡の至るところにある岩、チャートに嵐山が急な斜面になっているヒントがある。2億年前に赤道の辺りで出来たチャートはプレートの動きで大陸の近くまで運ばれ、泥や砂と混じり現在の地層となった。この辺りの山々が東西の断層に押されて出来た時にチャートが地表に出てきたのだ。
4人目の案内人は龍谷大学教授(考古学)の國下多美樹さん。6~7世紀頃につくられた秦氏の古墳(狐塚古墳)の石室に入る。秦一族は3世紀ごろ土木や養蚕など当時最先端の技術を持ってきた渡来人。5世紀後半、渡月橋の上流にある一の井堰(葛野大堰(かどのおおい))の原型を築き、桂川の右岸に水を引いて耕地を開拓した。秦氏は嵐山の美のパイオニアだった。
最初の案内人深町加津枝さんの論文を読んで見ました。奥啓一、香川隆英、田中伸彦編著『森林景観づくりガイド ツーリズム、森林セラピー、環境教育のために』(全国林業改良普及協会 2007年)収録の「嵐山から都市近郊林の景観保全を考える」(都市近郊林としての嵐山/嵐山の景観をつくってきた仕組み/嵐山らしい森林景観を探る/都市近郊林の魅力を発揮させるために-嵐山の教訓から-)です。図の出典はは近畿地方整備局淀川河川事務所の桂川嵐山地区河川整備検討委員会(第2回資料)「桂川嵐山地区の歴史的変遷について」(2012年12月)です。
都市近郊林としての嵐山
近代以前の景観
近代の保全制度の変遷
現在の景観:計画と現実
歴史的な嵐山らしさ
番組は渡月橋からスタート。最初の案内人・京都大学准教授(造園学)の深町加津枝さん。「人が目でみて風景を美しいと感じる範囲は上下左右30度の範囲と限られている。その範囲の中に嵐山は美の要素が収まっている」。亀山地区の嵐山公園の展望台に移動して渓谷美をのぞむ。平安時代に京のみやこに暮らしたひとびとが大自然の美を感じられた場所。
一行は天龍寺の庭・曹源池(そうげんち)庭園へ移動。2人目の案内人は京都高低差崖会崖長の梅林秀行さん。天龍寺を作った夢窓疎石がつくった庭で「借景」が特徴(前景:池、中景:斜面、後景:山)。借景は断層崖。夢窓疎石は1346年、「天龍寺十境(じっきょう)」を選定。
大堰川に移動。平地と斜面が出会う「縁(へり)」を感じることができ、急な斜面で1本1本の木がよく見える。嵐山国有林(59㏊保)でサクラを植林。3人目の案内人は京都教育大学名誉教授(地質学)の井本伸廣さん。保津峡の至るところにある岩、チャートに嵐山が急な斜面になっているヒントがある。2億年前に赤道の辺りで出来たチャートはプレートの動きで大陸の近くまで運ばれ、泥や砂と混じり現在の地層となった。この辺りの山々が東西の断層に押されて出来た時にチャートが地表に出てきたのだ。
4人目の案内人は龍谷大学教授(考古学)の國下多美樹さん。6~7世紀頃につくられた秦氏の古墳(狐塚古墳)の石室に入る。秦一族は3世紀ごろ土木や養蚕など当時最先端の技術を持ってきた渡来人。5世紀後半、渡月橋の上流にある一の井堰(葛野大堰(かどのおおい))の原型を築き、桂川の右岸に水を引いて耕地を開拓した。秦氏は嵐山の美のパイオニアだった。
最初の案内人深町加津枝さんの論文を読んで見ました。奥啓一、香川隆英、田中伸彦編著『森林景観づくりガイド ツーリズム、森林セラピー、環境教育のために』(全国林業改良普及協会 2007年)収録の「嵐山から都市近郊林の景観保全を考える」(都市近郊林としての嵐山/嵐山の景観をつくってきた仕組み/嵐山らしい森林景観を探る/都市近郊林の魅力を発揮させるために-嵐山の教訓から-)です。図の出典はは近畿地方整備局淀川河川事務所の桂川嵐山地区河川整備検討委員会(第2回資料)「桂川嵐山地区の歴史的変遷について」(2012年12月)です。
都市近郊林としての嵐山
京都市西郊に位置する嵐山は、日本を代表する都市近郊の景勝地である。それを特徴づけるのは、渡月橋、大堰川、そしてその周辺にある森林である。嵐山の森林を構成する樹木は、アカマツやヤマザクラ、イロハモミジなどであり、四季折々に美しい景観を織りなしてきた。その景観は各地の森林景観を主体とした名所の原型とも言える。
嵐山の景観が優れているポイントは、これまでも多く指摘されてきたとおり、(1)森林の一本一本の樹木が作り出すテクスチュァ(肌理)を見るための適度な距離感、(2)適度な見上げ感のある山の形状、(3)渓谷と堰が作り出す多様な水辺の形態や伝統的形態の橋など他の良好な景観構成要素との組み合わせ、(4)比較的急斜面の傾斜であることによる植生の見えやすさ、といった点に集約されている。しかし、これらの地理的、物理的な要因だけでなく、長期間にわたるさまざまな人の働きかけや社会の仕組みが、今日の嵐山の景観を作りあげてきたのであり、このことを抜きに都市近郊林としての嵐山の景観の将来を考えることはできない。(以下略)
近代以前の景観
平安時代以前までさかのぼれば、嵐山はおそらく周辺に住む農民たちの薪・柴や生活資材を提供する、まさしくどこにでもある里山だったと考えられる。平安時代に入り、京都が政治・文化の中心となり、貴族たちによる国風文化が形成されるにつれ、嵐山はその景観を楽しむべき場所としての新たな位置づけがなされる。そこでは船遊びが定期的に催され、和歌という形でその景観に対する評価が蓄積されていった。周辺には貴族たちの別荘も営まれるようになった。中世に入ると、亀山上皇が後の天龍寺となる場所に別荘を造営(1255年)し、また吉野から数百本のサクラを移植し、嵐山の一層の名所化が図られた。夢窓国師による天龍寺の作庭(1346年)では、嵐山を借景とし、吉野からサクラの移植を進めるとともに、禅宗思想を一帯に写し十境を定めた。禅の世界観を示す十境には周辺の重要な視点や視対象が選ばれ、それぞれ「曹源池」「萬松洞」といった名前が付けられた。現在に残る「渡月橋」の名前もこの時に付けられたものである。
江戸期に入り社会が安定すると、嵐山は一般の人々にも開かれた名所となっていく。京都の町人たちの花見の場として相当にぎわったことを、多くの絵図や資料からうかがい知ることができる。禅宗の信者のみならず参詣者や見物客、有力者らは、このような花見の場としての嵐山の景観を保つために、苗木を寄進した。一方、依然として、周辺の住民にとっては生活資源採取のための山林であることに変わりはなかった。天龍寺などの文書記録からは、嵐山では天龍寺管理のもと、建築資材の供給やマツタケの収穫が行われたことや、周辺住民が燃料や緑肥の採取を行っていたことが読み取れる。こうした利用形態が、嵐山のマツ林を持続的に形成する要因になっていたことは容易に推測できる。このように、近代以前においては、寺社の経営や住民の生活のための資源利用、宗教的な世界観を現世に写し出す行為、都市に暮らす人々の遊山といった、それぞれ異なる動機付けが渾然一体となって、嵐山の名所としての景観が形作られてきたのである。
近代の保全制度の変遷
明治に入り、天龍寺領であった嵐山は上地され国有林となった。近代国家としてさまざまな法制度が整備されていく中で、嵐山国有林にも多様な保全制度が指定されていくことになる。河川法に基づく河川保全区域にはじまり、別々の官庁ごとに異なる観点からの保全制度が、いくつも重複してかけられた。これらの制度は植生による土地被覆の保護を目的にしたものである。1915年に風致保護林として指定されて以降、昭和初期まで、原則禁伐という扱いが続き、その後も現在にいたるまでかなり厳しい施業制限が条件付けられている。近代以降に現れた公的制度による保全の枠組みは、保全対象とする林地の機能や目的が細分化され、個々には単純化された管理体系を持つものであった。そして、人間活動による干渉を排除する方向のみに制度指定が行われ、森林を文化的に作られてきた景観として保全するという立場で見ると機能しにくいものであった。
現在の景観:計画と現実
昭和初期になると、保全制度では対応しきれない嵐山の森林景観の変化についての問題が指摘され始めた。そして、消極的な保護策のためサクラやアカマツが消失してきたことへの対策として、景観保全のための特別な計画が策定された。そお嚆矢(こうし)は、1931年に大阪営林局(当時)により策定された「嵐山風致施業計画」であり、立地条件を考慮した画伐や風致樹植栽など、先駆的かつ積極的な「風致施業」を導入する計画がなされた。……この方針は戦争によりいったん途絶えたが、戦後になりおおよそ引き継がれた。しかし、1953年の台風被害により伐採が見合わせられ、孔隙地(こうげきち)での補植を中心とした施業方針が1983年まで続いてきた。1960年代になると観光資源として自然景観の重要性が認識されるようになり、嵐山国有林においても各種の調査が実施された。この時期以降、マツ枯れ被害や被圧されたサクラの枯損などで森林景観はさらに変化していった。1971年の施業計画では、老松の自然枯死を極力防止する、自然発生的な孔隙を利用してアカマツの生育に適した環境を造成するなど、マツ枯れ対策を前面に出した基本方針が示された。そして、景観上重要な被害跡地にはアカマツやサクラなどが、谷筋にはスギやヒノキが植栽されたが、大部分は自然の推移にまかされていた。
1980年の土砂流出防備保安林への指定に伴い、治山とセットで風致施策を行うという方向性がより明確となった。1982年には嵐山国有林の防災・風致対策が示され、往時の嵐山の姿を80年後に復元することを目標とした施業計画が策定された。そして毎年2月25日を「嵐山植林育樹の日」と定め、京都営林署と地元の嵐山保勝会とが共催する植樹祭が開始された。1989年には、植樹祭と組み合わせて0.05㏊の群状択伐によるサクラの植樹試験地が設置され、成育状況等の調査が始められた。以後、この方式による植樹と林相改良が定着し、現在まで継続している。(後略)
歴史的な嵐山らしさ
歴史的には、冒頭の平安時代の船遊びの例や、あるいは1931年の計画書にも「当初京洛の地を踏む外人にして保津川下りの奇勝を探らざるものなしといわれし程なり、まことに嵐山は大堰川を得てその山容を飾り、大堰川は嵐山を得てその水態を美化せるものと言い得べし」とあるように、嵐山の森林景観は渓谷域とセットでとらえられている。また、明治期から昭和初期にかけては嵐山を借景とした別荘の多くが嵐山対岸の亀山公園周辺から上流部にかけて分布していた。嵐山を眺めるための重要な視点は現在よりも広く分布し、またその視点場に対応して視対象となる山の側にも、「一目千本」と呼ばれるようなサクラを集中的に植栽した地点が存在していたのである。このように本来嵐山は、やや上流の渓谷域まで含んだ「嵐山峡」としてのとらえ方がなされていた。都市近郊林の魅力を発揮させるために-嵐山の教訓から-
ところが戦後以降、渡月橋周辺の観光開発が進むに従って、次第に単なる「嵐山」へとイメージが縮小してきている。国有林の施業の方針も「原則として下から眺める山として取り扱う」というものであり、風致施業箇所も渡月橋からの眺めを想定して配置・実施されている。そのため確かに「嵐山らしさ」は渡月橋周辺で突出しているのだが、上流の渓谷地周辺の景観にも良好な印象評価の地点が多くあり、むしろ好ましさの麺から言えば、渡月橋周辺の景観よりも高いものも多い。渡月橋のようなランドマークはないものの、周辺の社寺や旅館などのつくりや眺望視点との関係は良好なので、嵐山らしさのポイントである人工物との調和に関しても、十分印象づけることができる。
歴史的な森林景観を提供するという視点からも、この渓谷域を嵐山峡としてアピールし、周辺の眺望視点を意識した風致的な施業を実施していくことも必要であろう。
嵐山は、都市近郊の名所を形作る重要な森林景観として、それぞれの時代ごとの背景をその姿に反映してきた。特に近代以降、公的な枠組みによる森林景観の保全と創出に関しては、先駆的な役割を果たしてきたのだが、そこには常に限界もあったと言える。
すなわち、人為干渉の制限を目的とする、細分化、単純化された管理体系だけでは、時間とともに変化していく森林景観を、本来あるべき姿にとどめることを困難にしてしまう場面が多かったのである。このような近代的保全制度からすり抜けてしまう部分の存在に対して、今後どのような形で対処していくべきなのかは、現在も行われている地域との協働関係を進めながら、より広い議論の中で考えて行く必要があるだろう。
また、天橋立の事例とも共通するが、森林以外の周辺要素との適切な組み合わせとその洗練は、嵐山の森林景観を「嵐山らしく」魅せる上で欠かせない重要なポイントである。都市近郊の森林景観は、必ず森林以外の要素とどのように折り合いを付けるのかという問題を内包している。森林管理者だけにとどまらない幅広い協力関係が、ここでも求められるのである。
そして、現代の嵐山らしさの認識から失われてしまっているものの、優れた部分を再発見する余地があることについても述べてきた。嵐山が本来持っていた景観的魅力を引き出すためには、これまでとは別の視点を開拓することも必要であろう。都市近郊という変化が非常に激しい場所では、見ていた場所、見られていた場所も変化していく。視点と視対象の関係を、時間をさかのぼって考えることは、その都市近郊林が本来持っている景観の魅力を伝えていくための大事な作業プロセスと考える。