岩殿観音 『川越松山の記 川越松山巡覧図誌抄』(県立松山高等学校内古文書を読む会、1975年)より

川越松山の記について
 竹村立義の著。文化十五年(1818)稿本。「川越松山巡覧記」「川越松山巡覧図誌」とも称し現在までに多数の写本がつくられ、今日に伝わっているが、著者の自筆本は現在内閣文庫にある。
 内容は立義が同行二人と共に、江戸から膝折、野火止等を経て川越に至り、さらに吉見、松山、岩殿、平の慈光寺から越生へぬけ、ふたたび川越城下に入って、三富、所沢から小金井に至り江戸に帰る紀行文である。この間、五泊六日の旅行で、沿道の名所古跡、神社仏閣を主に探訪し、又土地の風俗、産物、植物などにも目をとめており、私たちの郷土研究への興味をそえる。
 立義は本書の各所で文献資料を多く引用して、彼が博学な読書人であったことを示しているが、反面それが紀行文としての進行に難渋さを残す欠点ともなっている。
 この抄本では、この引用註釈のヶ所はカットし、すっきりした体裁のものとした。

都幾川を渡り岩殿観音に至る(13頁~15頁)
 川を越えて坂あり。高坂村、これより多くの田畑を越えて右の方にいと広きはげ山あり。漸くにして比企の町に至る。小登りにして四町余り、門前の茶屋奇麗なり。石坂をのぼりて右の方にいと大きなる古碑あり。文字摩滅してよみがたし。石坂すべて二百階、本堂三間四方にていと壮麗なり。(1)堂の後は山を削りなせり。ことごとく岩なり。境内に茶屋商人など出て、吉見よりは繁華なり。後山に愛宕の社あり。登り急にしてあやふし。辛くして登り、なほ奥の方、高き所に登り見れば四方はるかに眺望していはん方なし。奥の方はなほ一段高き山なり。そこら徐にみあるきて石坂を下り、橘屋といへる酒肴うる家に入る。あるじは久しく江戸に住みし者なりと念ごろに会釈す。ほどなく膳を持ち出る。ひらには、あわび、蛸魚、長芋、孟宗竹等にて味ひよく、かかる僻地にてはいとも不思議なるほどなり。主に慈光寺の道を問ふに
「これより四里八町御座候。そのほかに当御山の内、十八町山越にて四里八町のほかなり。日も余程たけ候へばはやくあゆませたまわずば日暮るべし。これより二里八町にして人市と申す宿御座候。これに御泊りあらば心安かるべし。」といふ。
「ぜひ慈光寺に泊るにあらでは帰路の都合あしく、さらば馬を雇ひ乗るべし。」といへば「さも侍らば安かるべし。」と、あるじそこら走りめぐりて、馬三疋やとひ来れり。
 かくして、馬に打ちのり観音山にそふて左りの方より後に至り山に登る。はじめ奥の方に見えし山にのぼり行き、山より山をつたふ。もっともながめよろし。(2)山をくだれば奥田村、次に須江村、山上に東光寺と云ふ寺見ゆ。竹本村、人市村ここ六斎に市ありて、にがはしかりしが、近歳は坂戸の市繁華して、ここの市廃れ今はさびしき村なり。……

(1)巡礼詠歌-もふでくるうき世の人をもらさじと誓の綱をひきの岩殿
(2)比企岩殿の境内東西四百十三町、南北十八町ほどありて、そのうち九十九谷あり。めぐり皆山にて中に原あり。十八ヶ村の草刈場にて一ヶ年少々の銭を納む。
※坂東三十三観音10番正法寺(岩殿観音)御詠歌
  のちの世の みちをひきみの 観世音 このよをともに 助けたまへや