東松山市文化財調査報告第14集東松山市の古建築調査報告
   岩殿観音と門前集落(東松山市教育委員会、1980年度)14頁

 第5章 門前集落(後半)
 次に岩殿門前集落の戸数と人口の消長、そして職業構成の変化を、先に挙げた原田節二氏の調査研究ノート「岩殿宿駅の研究」とその報告書「比企郡 岩殿調査」とによって見てみると次のようである。ただしその中に「望月」とあるのは、岩殿門前集落のすぐ近くにある部落で、岩殿部落とは血縁関係深く、いわば枝村であって、古くから岩殿とは一村として扱われているという。
 原田氏の調査によると、岩殿の戸数と人口は、新編武蔵風土記稿によると、その編集の中間年代を文政3(1820)年として、80戸(望月を含み、岩殿門前だけの戸数は不明)、大沢氏(東松山市市史編さん調査報告第5集)蔵の宗門人別帳によると弘化3(1840)年には30戸(望月を除いた岩殿門前だけの戸数らしい)、そして人口は男71人、女62人で合計133人である。また明治8年の戸籍によると38戸(望月を除いた岩殿門前だけの戸数で、内同居4戸となっており、望月を含めた戸数は72戸、人口は男169人、女171人で、合計340人)となっている。この数字で見る限り、岩殿部落は、門前集落だけをとってみても、あるいは望月部落を合わせても、江戸末期から明治にかけて、戸数、人口ともに停滞し、減少気味であって、門前集落の衰微を物語る。このような傾向はその後も続き、総門橋で限られたいわゆる「院内」は30余戸に保たれ、集落の輪郭と地割はほとんど変化しなかった。明治9年の地割図(正存院蔵)、明治中期の公図(東松山市役所税務課蔵)、および昭和46年の公図及び土地台帳(東松山市役所税務課蔵)を使って、その間の合筆、分筆、地目変更を調べた筆者らの調査では、その間、合、分筆はほとんど例外的にしか行われておらず、また地目変更も稀であって、明治9年に41区画あった宅地の中35区画が合、分筆なく昭和46年まで宅地利用されていることが分かった。しかし、戸数と人口、そして地割りに大きな変化がないとしても、岩殿集落の門前町としての衰微をより象徴的に示すのは集落各戸の職業構成の変化である。原田節二氏の調査研究ノートおよび報告書によると、多分江戸時代の末期だと思うが、江戸時代には宿屋17戸、小間物屋2戸、菓子屋、餅菓子屋、油屋、目薬屋、塗屋、運送屋、鍛冶屋、綿屋、粉屋、建具屋、大工が各1戸、不明もしくは農業が5戸で合計35戸であった。明治期には、それが僧1人、神官1人、他は全部農業となり、門前宿駅として盛んだった頃もまた半農半商だったとしても、ひどい零落だと原田氏は書いておられる。そして昭和29年現在では、農業29戸、半農(教員)、半農半商、警備員、公務員、団体職員、工員が各1戸、会社員が2戸、そして大工、疊工、無職が各1戸で、寺院を別にして40戸だったそうである。俸給生活者が増えたのは昭和の特徴だが、明治期はこの村も農業、とくに養蚕に大きく依存したのである。
■岩殿門前集落の戸数:弘化3年(1840)30戸、明治8年(1875)38戸、昭和29年(1954)40戸